【二】形のない才 その一

 琴よりも軽い音が、その曲の続きを弾いた。

 どきりとしながら、彩琳は曲に戻る。でも音が外れ、拍がずれる。しかし

 ――どういうこと?

 まるで、そう弾いたのが正しかったかのように響いた。彩琳の音に少し遅れて、和する音が重ねられ、その音は拍子を刻むように、彩琳を導くように曲を続ける。

 それはあの琵琶の音だった。

 これほどの名手が、何故宮城ではなく喜花坊にいるのか、令霞のように人前で畏縮いしゅくするのでなければ――その答えは彩琳にはわからない。

「お願い! 続きを弾いていて!」

 彩琳は見えない琵琶の奏者にそう告げた。その言葉は届いたらしい。琵琶の音は曲を奏で続ける。いつもは自分が弾くのにいっぱいいっぱいで、できなかったことがある。

「令霞もそのまま踊って」

 この曲は、教坊で最初に習う曲だ。最も簡単だからだ。宴席で弾かれることもない。だが、簡潔だからこそ、人に伝わる率直そっちょくな響きを持っている。

 あと数節で、この曲は一番の盛り上がりに達する。令霞の腕がしなる。

「令霞、そのまま……止まって」

 悲しい旋律の中で、静かに令霞の時間が止まる。流れていく音に置き去られたように、そっと止まった踊り手の時間は、切々と動くよりもずっと、その悲しさを表していた。

 それ以上は何も言わなくても、次にどうするかは令霞と琵琶の奏者に伝わっていた。

 音が消えたわずかな一瞬の後、令霞と琵琶の旋律は、再び同時に動き出す。

 この瞬間の美しさを知る者が、自分しかいないことを、彩琳は悔やんだ。

 曲の最後の一音が弾かれ、その響きが静かに消えていく。

 彩琳と令霞は目を合わせて、息を一つついてから、高い声を上げた。

「よかったよね⁉」

 令霞の言葉に彩琳は何度も頷く。

「うん、すっごく良かった!」

 令霞は、本当に嬉しそうだ。踊るのが好きでたまらないのが、一緒にいてわかる。

 彩琳も令霞とこうしている間は、暗く重たい憎しみを忘れられる。この時間は音楽や踊りの美しさで一杯で、その時間は、満ちたりていて楽しい。

 高揚が落ち着くと、彩琳は上を向いて、姿の見えない相手に声をかけた。

「ありがとう! すごかったわ!」

返事はないだろうと思っていた。しかし、少し離れたところの木の枝が、ガサガサと揺れた。人の背丈よりも高い位置にある太い枝に片手をかけて、すとんと身軽そうに誰かが下りてくる。その片手には、琵琶とばちがあった。

琵琶の幽霊の正体は、美しい姫ではなく、淡い茶色の髪をした、背の高い若い男だった。

彩琳は令霞と顔を見合わせた。琵琶の奏者はこちらに近づいてくる。

その人は、瞳は髪と似た色をしていて、肌は白い。目元が深く、鼻が高いが、髪や瞳の色を除けば胡人にも煌人にも見える容姿をしていた。甘く、優しそうな顔立ちをしている。

二人の前に来て、彩琳を見つめた。央蓮や令霞と共にいて、整った顔には耐性がついたつもりでいたが、また系統の違う美形にじっと見られて彩琳はたじろぐ。

目の前の青年が、にこっと笑った。品のいい顔立ちに浮かんだ笑顔は朗らかで清潔で、そしてとても、人なつこい。

「名前を、教えてくれる?」

 高くも低くもない、素直に耳に馴染む声をしていた。声も、優しそうな響きを持っている。

「……彩琳」

 青年は令霞にも視線を向けた。令霞は知らない人に緊張したのか彩琳の袖をきゅっと掴む。

「令霞」

 消え入りそうな声で令霞が名乗る。令霞は誰から見てもとびぬけてきれいだ。彩琳は彼女を守るように一歩前に出た。

「あ、あなたの名前は?」

「泰波」

 彩琳はおずおずと青年を見上げた。

「あなたが、琵琶の幽霊?」

「生きてるけどね。まぁ、幽霊っていうのも、そんなに間違いじゃないかもしれない」

 泰波は高い背を屈めて、彩琳と目線を合わせる。

面白おもしろい才だね」

 彩琳を見て泰波は呟いた。彩琳と令霞をちらりと見る。

「あの、踊ってたのは令霞の方よ」

「うん、ちゃんと君の話だよ」

 才なんてない。毎日毎日、教坊きょうぼうの師から幾度となく言われているのだ。あのひどいきんが面白かったのだろうか。

 ――うまい人には逆に弾けないみたいな意味?

「俺やその子とは違うね、音でも動きでもない。形のない才だ」

 何を言われたかわからず、問い返そうとしたが、夕暮れが近いことを告げるの音が鳴って、泰波への挨拶もそこそこに、令霞と彩琳は各々の住まいへと急いだ。



 央蓮は、久しぶりに宮城に来ていた。皇帝の息子とはいえ、皇太子ではない。央蓮が今自分の手に持っているものは、名前だけで実務のない官位だけだ。

 もっとしっかりと形のあるものが、この手に欲しい。欲しくてたまらない最たるものは、この国だ。

 昔から、欲しいと思ったものは、余さず手に入れたい性分しょうぶんだった。自分でもこういった強い希求がどこから来るのかわからない。だが、そんな自分を嫌だとも思っていなかった。

 東宮とうぐうにある暁徳殿ぎょうとくでんに着き、宦官かんがんに案内されたのは、庭の池の側にあるあずまやだった。

 亭の椅子に座り、池を眺めていた人の姿を見て、央蓮の表情はわずかに緩んだが、本人にその自覚はない。

「本日はお時間をありがとうございます、殿下」

「殿下なんて他人行儀はやめてくれ。久しぶりだね、央蓮」

 央蓮を迎えたのは、煌国皇太子、赫義宵かくぎしょうだった。皇帝の同母の弟で、央蓮にとっては叔父にあたる。央蓮ともよく似た面立ちだが、義宵の顔はそれよりも鋭さがなく、表情も柔らかい。

「では、叔父上おじうえ。お体の加減はいかがですか」

 義宵は体が弱く、昔から長く伏せることが多かった。最近は体調を崩すことは減ったようだが、央蓮は昔から慕う叔父の体調をいつも気遣っている。

「暖かくなってきたから、調子がいいよ」

 皇太子ではあるものの、義宵には子がない。正確に言うと、妻子をすでに亡くしている。義宵の元へ娘を送り込もうとする貴族は多くいるが、それをことごとく退けていた。

「外で悪いね。屋内では、誰がひそんで聞き耳を立てているか、わかったものではないから」

「構いません」

 促されて椅子に腰かける。亭から見える池の水面は静かで、空の色と、傍に植えられた咲き初めの海棠かいどうの花が映りこんでいた。暖かく長閑な陽気だが、亭の屋根の下はひんやりとして涼しい。薄青い影の中で、義宵は声を潜めた。

「……蘇侍郎じろうが、王子の後見に立とうとしているらしい」

 王子の後見に立つ、つまり、自分の息のかかった王子を皇太子に立て、ゆくゆくは後ろからこの国を操りたいのだ。

しゅう家から来たきさきの王子でしょうか」

 央蓮の表情が引き締まる。義宵は首を横に振った。

「まだわからない。あの子はまだ幼すぎるけど、可能性はある」

「調べておきます」

 央蓮の言葉に「頼むよ」と頷き、深く息を吐いた。

「すまないね、央蓮。お前の母上の一族には申し訳ないと思っているが、蘇司山は陛下の信が厚い。私があまり動くことも出来ないんだ」

「もし叔父上が動かれて、陛下との間に不和があると噂が立っては乱れの元。そのお言葉だけで充分です」

 央蓮の母は、有力貴族、家の生まれである。しかし、母方の親類はここへきて幾人いくにんも、辺境に追いやられたり、官を退いた、中書侍郎になった蘇司山の手でだ。

外戚がいせきの強さを思えば、私は最も陛下から遠ざけておきたい人間なのでしょう」

「今でもこの専横ぶりだ。いつまでも野放しにはしておけない」

 義宵が皇太子に立ったとき、たみだけでなく、官吏の多くは驚いた。病弱で子も無く、優秀だとも思われていない。

御史台ぎょしだい時代にどんな手を使ったか、ずいぶんと色々な貴族の弱みを握ったらしい。それを裁くならまだしも、脅して便宜を図らせているようだ」

 ――叔父上は聡明だ。

 央蓮は、叔父が兄である父を支えて皇帝に押し上げたことも、そして自ら皇太子の位を望んだことも知っている。

 しかし、義宵は皇帝となることを望んで皇太子となったのではない。

「蘇侍郎が王子の後ろ盾になるつもりだとは。……継承争いなど、無駄に血が流れるばかりだ。そして一度血が流れれば、流し切るまで収まらない。だが、蘇侍郎のように、それに乗じて政敵を殺す名分に使うなど論外だ」

 遠い目をした義宵の顔を、央蓮は見つめる。おそらく皇帝はそのまま、義宵に後を継がせるだろう。

 ――陛下と叔父上は、おそらく私たちの代に対しては禅譲ぜんじょうを考えておられる。

 まだどうなるかわからない年若い王子を皇太子に据えるのではなく、子のない義宵を皇太子としたことで、義宵の次に誰が皇太子、そして皇帝になるかわかりにくい状況にある。

 そうして作った時間のうちに、次代を見定めるつもりなのだ。そして、義宵が皇帝となったら、選んでおいたものをすぐ皇太子に立て、暗殺や廃太子という事態になる前に速やかに禅譲する。

 先帝の代では、継承争いのために多くの血が流れた。その後始末にさえ、今も血が流れている。それを央蓮たちの代では最小限にしようとしている。

 心のうちの憤懣ふんまんや苦々しさをごまかすような笑みが義宵の顔に浮かんだ。

「しかし、蘇侍郎の働きによって多くの策謀さくぼうが表に引きずり出され、暗躍がしにくくなったことは事実だ。陛下はそこを評価している」

 央蓮は頷く。暗殺と思しき死は治世が変わり、目に見えて減った。皇太子の候補を手当たり次第殺せば露見する危険が高い。有力候補に狙いを定めようにも、それがわからない状況が出来ている。

 だから、外戚が蘇司山に圧力をかけられている央蓮に対して、義宵は手助けをしない。ここで央蓮の外戚を助け、次の皇太子が央蓮だという噂が立てば、央蓮の命を狙う者が現れる。

 ――宰相を目指す蘇司山にとって、母の身分が高い私は、外戚が力を振るってきた時にぎょしにくい。

 それゆえ、今から央蓮の後ろ盾を地方に飛ばし、央蓮が皇太子となる道を阻んでいる。おそらく、蘇司山自身は外戚の弱い王子の後見に立つつもりだろう。

 ――しかし、このくらいのことを自分で切り抜けられねば、皇太子にはふさわしくない。

 央蓮は自分を愚鈍ぐどんだとは決して思わない。だが、飛びぬけた何かがあると自惚れてもいない。だからこそ、蘇司山を追いやることで、自分がこの国を得るに足ると証明したかった。

 義宵が、何かを思い出したように表情を緩めた。

「央蓮はまだ、結婚はしないのかい?」

 王族で十九歳であれば、妃がいておかしくない年齢だ。央蓮は皮肉っぽい溜息をついた。

「皇帝陛下の即位前までは数え切れぬほどの話がありましたが、即位後『改めて占ったら相性が悪く、娘がこの国の憂いの元となるのは臣の恥』と、ほとんどいなくなりました」

 残った娘は、賢く強く妬心としんを抱かずという央蓮の基準に適わなかった。

 義宵は苦笑した。

「央蓮が皇太子になると思っていたんだろうね」

 おそらく多くの娘たちは改めて義宵の妃候補として送り込まれたのだろう。義宵は皇太子となってから、新しい妃を一人も迎えていないので、目論見もくろみはかなわなかったことになるが。

「今の私にとつがせるのは、博奕ばくちのようなものでしょう。ただの王族の妻にしたところで、自分たちの権力のかてとはならない」

 はっきりした央蓮の言葉に、義宵は困ったような顔をした。

「……王族の結婚は、どうしてもそういう側面が強いものだけど、君に熱心に通っている寵姫ちょうきがいると聞いたものだから」

 まずいな、と思った。義宵相手だったので、あまり繕うことなく会話をしてしまっていた。結婚のことを尋ねられた時、まずは彩琳のことを問われたという反応をすべきだった。

 照れているように見えればいいと思いながら、央蓮は笑顔を作る。

「あの娘は、まだそう長い付き合いではありませんし、そういうことになった時、身分を思えば苦労も多いでしょうから」

「どんな形でも、央蓮の側に誰かいてくれるのは安心だな、どんなお嬢さんなんだ?」

「子犬のような娘です」

 考える間も無く答えた央蓮に、義宵は声を出して笑った。その反応に首を傾げる。

「いや……、ふふっ、すまない。ずいぶん可愛らしいと思ったんだ」

 央蓮にしてみれば、子犬というのはキャンキャンとよく吠え、どこか頼りなく、頭が丸く、成犬よりも顔だちがぼんやりとしている印象だったが、義宵はその言葉を良いようにとったらしかった。

楽宮がくきゅうだったね、特技はあるの?」

 央蓮は首をゆったりと、大きく、横に振った。

「ありません。よい娘で、私は能もあると思うのですが、今の教坊きょうぼうでは評価されません」

 一度言葉を切って、義宵の表情を窺う。返ってきたのは穏やかな視線で、央蓮は胸のあたりに少し力を込めてから口を開いた。

「……そのことについて、少し無理を通してみようかと思っているのですが」

「結果の伴う無理なら、たまには悪くないさ。それが新しい道を開くこともあるからね」

 その言葉に央蓮はほっとした。すでに根回しは済ませてある。問題は、彩琳がやり遂げられるか否かだが、やってもらうしかない。

 しばし二人で話してから、次の予定があるという義宵の許を辞した。

 央蓮は叔父である義宵を深く信頼しているが、彩琳との本当の関係は言わずにおいた。

 ――これから、先触れを出して会いに行ってみるか。気になることもある。

 彩琳の家に赴くのは、文と違い証拠が残らず、ただ通っているだけと思われるからだが、部屋に行くのは嫌いではない。央蓮から見れば狭く小さい家だが居心地は悪くないし、彩琳は賢しさもなく素直なので、騙されているかと疑って気を張る必要も無い。

 義宵は、子犬と聞いて、どんな娘を思い浮かべたのだろう。いつか会ったら、驚くのではあるまいか。あるいは、央蓮の言った通りの娘だと思うのか。

 そんな日が来るわけはないのに、想像したらわずかに頬が緩んだ。

 暁徳殿を出たところで、背後から声をかけられた。

「これはこれは、央蓮王子」

 穏やかというより、そう思わせるための作り声にしか聞こえない。振り返ると、相手は張り付いたような笑みを深くして、央蓮に恭しく礼をする。

蘇侍郎じろう……」

 蘇司山は顔を上げて、わざとらしく暁徳殿を見上げた。

「皇太子殿下と御面会でしたか。央蓮様とお話だったのであれば、私などのために切り上げていただかずとも、いくらでもお待ち申し上げたものを」

 嫌な男だ。義宵が央蓮と会う時間を、自分のために切り上げたのだと伝えてくる。上下の確認、央蓮への挑発、会えば常にそうして相手との力関係や利害を量る。

「私が殿下に目通りを願ったのだ、殿下のご予定に合わせるのは当然のこと」

 本当は義宵からの呼び出しだが、親しいと思わせないよう、いつも面会は央蓮から取り付けたことにしていた。

 蘇司山は何度も頷いて柔らかい声を出す。この男への嫌悪から、首の後ろの毛が逆立った。

「殿下は、皇帝陛下をお助けする身としてご多忙でいらっしゃいます。弱いお体を押してお会いになるのは、甥御おいごであられる央蓮様をかわいがっていればこそ。どうぞ殿下のお心の支えとして、楽しませて差し上げて下さい。新しい出会いもあった御様子、話題には事欠かぬでしょう」

 閉じたように見える薄い目が、わずかに開かれた。感情も光もない。虫の目のようだ。

「蘇侍郎、殿下がお待ちなのではないか」

「ええ、ですが殿下はお優しい方ですので、央蓮様と会って話していたと正直に申し上げればお怒りにはなりません」

 無意識に握った拳の上に、血管が浮き出た。

 ――皇太子を待たせるほど、偉くなったつもりか。

「私が原因で蘇侍郎が殿下を待たせるなどあってはならぬこと。すぐに殿下の許へ参られよ」

 促せば礼をして暁徳殿の中へ入ろうとする。その背に、央蓮は声をかけた。

「それと、私が殿下の支えであればよいとは思うが、支えとするのも楽しませろと思うのも、殿下のお心一つ。それ以外の者が心の中を推し量るは、不敬ではないか」

 振り返ってにっこりと笑った蘇司山は、芝居がかった声を出した。

「これは大変な失礼をいたしました。この司山、そのお言葉胸に刻みまする。それでは」

 蘇司山が去った後も、央蓮はしばし暁徳殿を眺めていた。視線を断ち切るように背を向ける。

 彩琳のことは、たみの間で噂にもなっている。蘇司山の耳に入っているのは想定していた。ただ、央蓮が彩琳の出自を知っていることは、隠し通す必要がある。

 ――本当の寵姫だと思わせておかなくてはならない、彩琳は、私の奥の手になる。

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