【一】楽宮の長、連花楽人 その二

 しかし、思っていた以上に蓮花楽人れんかがくじんの道は遠い。蓮花楽人は佩玉はいぎょくを持つ内人の中から選ばれるのだが、まず内人になるのが難しいのだ。

 内人になる道としては、教坊で師から推薦を受けるか、実際の宴席で評価を積み重ねることで取り立てられるか、そのいずれかが多い。

 師に認められれば、高位の貴族が出席する大きなうたげで働くことができ、そこで認められれば、更に宴の規模や重要度が上がる。そうなれば、宴で得られる情報の質や量も上がる。蘇司山を追いやりたい彩琳と央蓮にとって、絶対に進まなくてはならない道だ。

 そのために央蓮も彩琳を引き立てようとしてくれている。いるのだが、

 ――教坊での評価が低いと、大きな宴には出られない。央蓮は、不自然に思われない程度にわたしの仕事を増やすよう手を回してくれているけど、わたしにできるのは下働きだし……。

 多くの宴に出たとしても、列席する者たちは下働きなど気にも留めないので、彩琳の評価は上がらない。

 ――結局のところ、何かに秀でてないと、話が始まらないのよね。

 彩琳は、教坊の裏手の小さな庭で、座り込んでため息をついた。

 教坊は、官吏かんりの仕事場と、楽宮がくきゅうたちの修練所と、楽器や衣装などの保管庫とを廊で繋いだ、広い建物の集まりだ。いつも楽の音や歌声が聞こえている。

 傍らに置いたきんを眺める。

 踊りも駄目、歌も駄目、綱渡りなどの雑技はもってのほかだ。彩琳では芸を極めるより先に命がなくなる。最も努力で何とかなりそうなのが楽器だと思い、彩琳は琴の師について稽古を続けていたが、上達は人と比べて非常に遅い。弾けるのはまだ数曲、弾けるだけで、聴かせられるほどの腕ではない。

 膝の上には、稽古終わりに買った、竹の皮にくるまれた昼食がある。小麦粉の皮で野菜と肉を包んでカリッと焼いたへいだが、散々叱られた後では食べる気がしない。

 再びため息をつくと、「彩琳」と呼ぶ鈴のような声がした。

令霞れいか!」

 令霞と呼ばれた少女は、彩琳の隣に座り込む。令霞も教坊の中では落ちこぼれとして扱われていて、やはり色々と言われてきたのだろう、しょんぼりしている。

 彩琳は、餅を半分に割って、令霞に手渡した。

「いいの?」

「食欲がなくて」

 彩琳はそう頷いた。餅は割った所からふわっと湯気が立っていた。楽宮は坊の出入りが制限されているため、外から商人がやってくる。楽宮として引退した者が、坊内で仕事を持つことも珍しくない。彩琳の家で働く老女も、引退した楽宮だ。

 昼時になると、そうした人たちが営む屋台がいくつか出て、楽宮たちはそこで買ったり、自宅で炊事すいじをして昼食をとっていた。

 半分に割られた餅に、令霞がかぶりつく。表情が緩んで、ふうと息をついた。

 その表情を見て、彩琳も餅を口にした。彩琳が食べたのを見て、令霞が笑顔になる。

「おいしいねぇ」

 そう言って笑う令霞は、小麦色の肌に青い目をした美しい胡人こじんの少女だ。


 令霞は、あの大酺たいほより少し後に喜花坊にやってきた。

 初めて見たのは、教坊のきざはしに腰かけた後ろ姿だ。艶のある長い黒髪が、西日で不思議な色になっていたのをよく覚えている。

『何あの子、西域せいいきからわざわざ呼ばれて楽宮になったのに、全然駄目じゃない』

『すぐ佩玉もらって内人になるって噂だったけど、あれじゃ人前にも出られないでしょうね』

 口さがない言葉は、喜花坊の中では日常茶飯事だ。決して褒められたことではないが、それでも、誰もがこの坊の中に押し込められ、足枷あしかせを付けられたように暮らしている。坊の高い壁の向こうに行くのは仕事か、月に一度願い出て寺の参詣さんけいに行ければいい方だ。

 ここを出るには老いて引退するか、貴人に見初められ、煩雑な手続きと安くない金銭で出してもらうかだが、どちらが幸せなのかは、彩琳にはわからない。

 修練を終えたばかりの彩琳は、俯いて肩を震わせていた少女の側に歩いて行った。

 隣に立つと、少女は顔を上げた。

 彩琳は胸がドキッとした。

 それほど、美しいひとだった。

 焼き菓子のような甘い茶色の肌は滑らかで、大きな瞳は空のように澄みわたって青い。長い睫毛がつり気味の目元を縁取っていて、鼻筋はきれいに通って、形のいい唇は優しそうだ。

 ――天女てんにょ様みたい。

 隣に来たものの、あまりにきれいでしばらく言葉を失ってしまう。涙で潤んだ目が、不思議そうに彩琳を見つめていた。

 彩琳は彼女の隣に腰かける。

『わたし、彩琳』

 少女の形のいい唇が薄く開いて、しばらくしてから消え入りそうな声が返ってきた。

『……令霞』

 彩琳は煌の田舎の生まれで、肌や髪、目の色の違う人は王都に来て初めて会った。都では、異国人や、異国の先祖を持つ人たちが非常に多い。異国人の官吏でさえ珍しくはなかった。

『あの、わたし青蘭州から来たの。あなたは?』

 当たり障りのない話題を選んだつもりだったが、令霞の目元と頬が濃く染まる。しばらく困ったような顔をしてから、ぽそっと呟く。

『母様は胡人で、父様はもっと遠くの人。隊商の娘だったから、あちこちにいて……だから、どこから来たって、うまく言えない。ごめんね』

 胡人は特に西域の人を指す言葉だが、単に異国人という意味でも使われる。西域の人は赤い髪に青い瞳をしているという。彼らは普段使う言葉も異なっているが、煌国の言葉に合わせた姓名せいめいを持つことが多かった。

 しょんぼりとした令霞に、彩琳はとんでもないと首を横に振る。

『すごいのね。わたし、自分の故郷と、喜花坊に来るまで通ったところ以外、何にも知らないわ。どんなところに行ったの?』

 令霞の目が少し輝いた。人見知りなのだろう。恥ずかしそうに、くんの腿のあたりをきゅっと握ってから話し始めた。

『いろいろ。大きい岩が壁みたいに何重にもなってる所に、金色の砂が流れてる砂漠、荒れた土地の中で、そこだけ天国みたいに水が湧いて、きれいな花が咲いてる場所も』

『そんなところがあるの?』

 見たことも聞いたこともない風景に彩琳はわくわくして尋ねる。令霞はちょっと頷いて、その時、初めて笑った。

 ――かわいい。

 恥ずかしそうに、でも一生懸命ぽつぽつと話す令霞を見ていたら、会って少ししか経たないのに、彩琳は彼女を好きになっていた。

 後で聞いたら一つ年上だったけれど、彩琳は令霞を妹のように思う気持ちが抜けない。

 その日から、彩琳と令霞は、央蓮が訪ねてくる時の他は、ほとんど毎日一緒に過ごしている。


 二人とも、もぐもぐと餅を食べていた。令霞はおいしいおいしいと言って食べている。踊りが専門だから、修練の後はお腹が空くらしい。

 あちこちから楽の音や歌声が聞こえた。

 餅を食べ終えて人心地ひとごごちついた令霞は、草の上にころりと横になる。彩琳は琴を膝の上に乗せて、習ったことを思い出していた。

 どこかから、寂しげで、長雨を思わせるような琵琶の音が聞こえ始めた。

「……ねぇ、これ、琵琶の幽霊の音?」

 令霞が不安そうな目で彩琳を見上げた。喜花坊きかぼうに伝わる噂の一つだ。彩琳は琴のげんを指先で押さえたり外したりしながら首を傾げた。

「琵琶の幽霊って、前の皇帝の寵姫のこと?」

 令霞は「えぇっ!」と驚いて目を見開いた。

「じゃあやっぱり、本当にいるの? 幽霊が弾いてるの?」

「琵琶のうまい寵姫がいたのは本当みたいよ。うちで働いてるお婆さんが、そういう昔の噂話に詳しくて。お姐さんたちからも聞いたわ」

 飛び起きた令霞が彩琳の被帛ひはくつかまる。

「大丈夫よ、令霞。これは幽霊の音じゃないわ」

「じゃあ何で琵琶の幽霊なんて噂が立つの?」

 令霞は隊商の娘として、旅暮らしを続けてきたという。先代の頃の都の情勢にあまり詳しくないようだ。とはいえ彩琳にとっても幼い頃のことなので、全てここで聞いた知識だった。

先帝せんていの寵姫が、継承争いの頃、殺されたのか逃げたのか、いなくなったみたい。そのせいで幽霊の噂が立ったんだって聞いたわ」

 被帛を掴んでいた手を緩め、令霞は琵琶の音の出所を探すように視線を彷徨わせた。

「なんで、寵姫はいなくなったの?」

「先帝には子どもが沢山いたみたいで、王子も多かったらしいの。でも、一時期たくさん亡くなって……、病や事故って記録されてる人もいるけど、継承争いのせいだと思う」

 央蓮が言っていたように、王宮においてこうした死は珍しい話ではない。

 誰が裏で手を引いていたかまでたどり着けたかはともかく、毒殺や刺殺しさつなど、明確に殺されたとわかるものも、多くの記録が残っている。

 しかし、基本的には時間をかけ、非常に静かに、水面下で継承争いは行われた。少しずつ、王子やきさきが亡くなり、あるいは彼らの後ろ盾だった貴族が、急に病死したり、盗賊とうぞくに押し入られて亡くなった。そのほぼすべてが暗殺だろう。十年以上、散発的に貴族や王族の死を繰り返し、継承者の数は減っていった。

 名君と言われた皇帝だが、晩年は老いのためか表に出ず、崩御ほうぎょを前にしてようやく後継を定めた。

 今の皇帝は、その争いを生き抜いて地位に就いたのだ。

「……楽宮への寵が深かったから、子どもが出来たら他の王子より優遇されるかもしれないって思われたとか? でもこの噂、聞く人によって違うの。実は子どもがいたから殺されたとか、他に恋人がいてその人と逃げたとか、寵姫がいたのは本当だけど、いなくなった理由は不確かすぎるし、幽霊っていうのは本当にただの噂なのよ」

 きゅっと眉を寄せて、令霞は悲しそうな顔で彩琳を見つめる。

「彩琳、絶対央蓮様のお妃になっちゃだめだよ。危ないから!」

「ならないわ。向こうだって、妃にするつもりはないだろうし」

 実際に老女からこの話を聞いた時は、きっちり央蓮の懐に入り込んでおかねば、妃にもなれず子も楽宮となる。貴人の子を産んで持て余し、喜花坊から逃げた楽宮もいる。だから誠心誠意央蓮に仕え、分をわきまえつつ側室におさまれるよう努力しろと言われた。悪い人ではないのかもしれないが、彩琳とはそりが合わない。

 令霞にも、央蓮との本当の関係は伝えていない。それを言えば、自分の中にある醜い復讐心まで、この友達に知られてしまう。令霞に、そういう自分を知られたくなかった。

「それに、これは生きてる人の音よ。寂しいだけじゃなくて、すごくきれいだもの」

 喜花坊では時折、この琵琶の音が響く。かなりの名手だ。令霞も音色に耳を傾ける。

「でも、誰も姿を見たことないんだよ? こんな腕前だったら、評判になって、すぐ玉をもらって内人になってるでしょ?」

「引退した人か、師範しはんが隠れて弾いてるんじゃない? それか、まだ小さな子とか」

 楽宮同士で家族になる者もいて、その子もやはり楽宮となる。まだ宴席えんせきに出たことのない子どもではないかというと、令霞は首を捻る。不審には思いつつも、恐怖は薄れたようだ。

「ねえ令霞、そろそろ稽古しましょ」

「うん」

 令霞が身軽そうな動きで立ち上がった。

 空き時間に二人で稽古をするのは習慣になっていた。彩琳が弾くきんに合わせて令霞が踊る。

「令霞はどんなふうに踊りたい?」

「いつもの曲だったら、寂しい感じかなぁ。悲しいけど、人に悲しいって言わないの」

 その答えに彩琳は頷く。いつも、どんな風にしたいか聞いてから稽古をする。それに合わせて曲を弾き分ける手腕はないが、令霞がどんな思いで踊っているのかを知りたかった。

 琴は、そうと違って琴柱ことじがない。琴の胴に打たれた点を頼りに片手で弦を押さえて音階を変え、もう片方の指で弾く。

 山水や河に喩えられるその音は、少し重く、そして深い。

 ゆったりとした悲しげな旋律は、彩琳が一番ちゃんと弾ける、最も簡単な曲だった。二人で一緒に稽古する時はこの曲が多い。これ以上曲調が速くなると、両手の指をどこにどうしていいのか途中で混乱して、音がめちゃくちゃになってしまう。

 彩琳も令霞も、教坊の中では落ちこぼれだ。

 だが、令霞が落ちこぼれている理由は、彩琳とは全く違う。もしかすると琵琶の幽霊も、令霞と同じなのだろうか。

 曲の始まりに合わせて、令霞が踊り始めた。

 ――きれい。

 微かに背筋が震えた。

 地についた足から、高く上げた右手の細い指の先までが、ただそれだけで美しい。

 風にしなる一本の花のようだった。

 令霞は舞踊ぶようの名手として、招かれて喜花坊にやってきた。定住しない隊商の娘で、ずっと家族や仲間の前で踊ってきたのだろう。急に家族と引き離され、人前に出すのに足るかという厳しい目に晒され、自由に体が動かなくなってしまっている。元々、恥ずかしがりやで、人見知りで、控えめな性格だ。叱られ続けて教坊きょうぼうではすっかり萎縮していた。

 ずっと二人で稽古を繰り返すうちに、彩琳の前では、踊れるようになった。

 彩琳の奏でる拙い音に合わせて、令霞の四肢が動く。人の体が、こんなに優雅に、自由に動くものだと知らなかった。

 内人にも、これ程の踊り手はいないだろう。

「令霞、指先は反らさない方がいいわ」

「こう?」

「次の音で、視線を横に逸らしてみて」

 悲しく揺らぐ旋律に合わせて、そっと視線が逸れる。

「……きれい」

 彩琳の言葉に、令霞は滲むように笑った。彩琳はドキッとしてしまう。

 踊りやすいように、一定の拍を意識して曲を弾いていたが、令霞に目を奪われて、次どうするかわからなくなった。

 ――次の音は? あれ、弦は手前側に弾くんだっけ? それとも奥?

 覚束おぼつかないまま続きを弾こうとした。指が琴に打たれた点からずれる。音が外れ、不自然に揺れる。

 さらなる焦りに次の指が迷う。弦を弾くはずの指が動かない。

 次の瞬間、音は鳴らないはずだった。

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