【一】楽宮の長、連花楽人 その一

 こうは大国である。その国土は広く、煌を開いた王家が北方の異民族だったこともあってか、異なる文化も民族も飲み込み、それらを煌の腹の中で一つに溶け合わせた。

 周囲の国々は煌を恐れ庇護を求め、あるいは先をゆく国として学び、あるいは利用しようと近づく。中には煌をいといながら関わり合う国もある。それはつまり、どの国も煌を無視して暮らすことが出来ないという事実を示していた。

 国土は広大、文化は多様。統治は容易ではない。

 それゆえ、その頂点に立つ皇帝を支える者も多く必要になる。

 まず、公的な場であるまつりごとを、官吏かんりたちが支える。彼らは各省にわかれ、中央だけでなく地方に至るまで、この国の政を執り行っている。

 そして、皇帝の私的な場である後宮は、宦官かんがんきさきたちが支えている。妃はその才色ばかり語られるが、皇帝と各地との結びつきを深めるため、地方や他国から後宮に入り、そうして子をなすことで、次代の皇族の血筋と、自らの生まれた国を守っている者も少なくない。

 その二つとは比べるべくもないほど小さな、しかしその二つのちょうど真ん中に、確かに存在する場がある。皇帝を支える官と妃、そのどちらにも似て、どちらとも異なる者たちがいる。

 皇帝はその立場から、時に公と私は入り混じる。功を挙げた臣下を労い、異国の使者とよしみを結び、過去にはいがみ合った民族と、皇帝の間に生まれた子の誕生を祝う。

 そうしたあらゆる宴席えんせきの場に、歌舞音曲かぶおんぎょくで仕える者たちがいる。

 その身分は低く、世襲や招聘、あるいは元の身分から落とされた者もいた。

 あらゆる大切な局面で必要とされながら、その存在が意識されることは、この国では少ない。

 男女の別なく、技芸をもって国に仕える彼らは、楽宮がくきゅうと呼ばれる。



 寒さが緩み、陽光の中に確かな暖かさを感じられるようになった頃、大酺たいほが開かれた。

 これは皇帝が臣下や民のために開く、大きな饗宴きょうえんだ。

 皇帝の誕生の祝いであったが、臣下への労いを込めて、この年は特別大きなうたげが開かれた。

 官吏たちは、確かに秋から冬にかけて、めざましい働きをしたのだ。

 当代の皇帝は、継承争いを勝ち抜き五年前に即位した。即位後、数年かけて争いあった身内の後始末を終えると、その手は次に貴族と官吏へ伸びた。隠されていた多くの叛意はんいが暴かれ、そして裁かれた。無論、結果が出たのが冬だったのであって、そちらも即位後から調べを進め続けていたのだろう。

 皇帝に盾突いた多くの罪人を捕らえて処分を下した臣下たちへの労いと、血腥ちなまぐさい噂を伴う継承争いを勝ち抜き長く続く名門の貴族でも厳しい処罰を下した皇帝に、民が感じている恐怖を薄めることを目的に、この大酺は特別賑やかに執り行われる。

 市街では、この日のために雇われた芸人たちが民のために芸を見せ、宮城内では文武の官や異国の使節のために楽宮たちがその芸を披露する。また宴の進行のため、裏に表に働いていた。

 今回の大酺は特別大きく、宮中の庭園で行う。宴会えんかいや儀礼用の大きな建物でさえ入りきらない人数の官が宴に出席するからだ。

 身分や所属で席は分かれ、皇帝のそばは王族と高官が占めている。中央で歌舞音曲を披露するのは、楽宮の中でも特に芸に優れた、内人ないじんと呼ばれる者たちだ。佩玉はいぎょくという、帯に提げる腰飾りを下賜かしされた、皇帝直属の楽宮である。

 佩玉を持つものは喜花坊にいる楽宮と違い、宮城の中にある慶春院けいしゅんいんで暮らし、身分は楽宮のままではあるが、官吏と同等にぐうされる。

 きっと内人たちは、今頃天幕の中でゆったりと準備をしているのだろう。

 彩琳たちのような、喜花坊の楽宮とは違って。

「ちょっと、どうしよう! 髪が崩れちゃった、誰か手を貸して!」

 喜花坊の楽宮たちに与えられたのは、庭園の中に幕で仕切ったわずかな区画だ。そこでは、着替えのために鮮やかな衣装がひるがえり、髪や腕を飾る金銀の宝飾品がしゃらしゃらと揺れ、女性たちの高い声がひっきりなしに響いていた。

 宴で踊る楽宮が、裏回りで働く楽宮に頼んでも、帰ってきたのはつれない答えだった。

「席の支度に配膳の手伝い、設えまでやるのよ! そっちの小間使いまでやってらんないわ」

 給仕きゅうじの楽宮たちも、みな揃いの服に着替えなければならない。自分の準備に忙しかった。

 内人たちが踊る回りで、引き立てるように喜花坊の楽宮たちも踊る。ここ以外にも、四方に小さな幕を仕切り、楽宮たちの準備の場所が作られていた。

「踊りも何もできないから下働きをしてるのに、よくそんなこと言えるわね! もう、彩琳はどこ⁉ 彩琳! 彩琳手伝って!」

 遠くにその諍いは聞こえていたが、彩琳の頭の中にまでは入ってきていなかった。集中している彩琳は、真剣な表情で、目だけはきらきらと輝かせていた。

 宴の場は広く、歌舞かぶがよく見えるのは位の高い貴族や王族の席で、彩琳たちが支度をする位の低い官吏の席は、中央から離れていた。その距離の遠さで生じる寂しさを埋めるように、所々に花が活けられている。彩琳はそれを直していた。

 踊りを見る時に邪魔にならないように、いや、踊りと共に見た時に、風景の一部に見えるように、ただ投げ入れられていた花の高さを調節し、背後の庭園に広がる木や花のように自然な形になるように手直しをしていく。

 それを終えたら、卓を同じ感覚できっちりと揃える。これは彩琳が几帳面であるとか、真面目であるということとは異なっている。

 彩琳はほんの少し息をつく。表情が緩んだ。

 ――うん、こうした方がきれい。

 ただ、それだけだった。

「彩琳ったら!」

 何度か瞬きをして、彩琳は呼び声に振り返る。

「どうしたの、おねえさん」

 先輩の楽宮が幕の端から顔を出して彩琳を呼ぶので、小走りで近づく。呼んだ当人は、彩琳がいた辺りを不思議そうに眺めていた。

「彩琳、アンタ何かした? さっきと違うような……」

「お姐さん、髪を整えればいい?」

 彼女の結い上げたまげを見て彩琳が言うと、「そうそう」と腕を引かれ幕の裏へと連れて行かれた。器用な方ではないが、崩れた髷を直すのは何度も手伝ってきたので彩琳も出来る。

 しかし、彩琳は中々髪に触れず、あちこちよそ見ばかりしていた。

「彩琳? ちょっとどこ見てるのよ。早くやってちょうだい」

 楽宮が口紅を塗りながら彩琳に声をかける。

「だって、他のみんなと同じ形になってないといけないでしょう?」

 そうしてしばらく見定めてから髪を直し、慎重な手つきで金のかんざしを髷の根元に挿した。

「ちょっとくらい違っててもわかんないわよ」

「今日やるのは群舞ぐんぶじゃない。ああいうのは全部そろってるからきれいなのよ」

 彩琳は釵の角度を確認し終えると、今度は別の楽宮に近寄って帯を勝手に直す。

「ちょっと、何?」

「帯がずれてたし、これじゃほどきにくいわ」

 踊る楽宮はみな、鮮やかな桃色のさんの上に、純白の衣装を重ねている。曲の途中で帯を解き、白から紅色へ衣装を変える演出があるからだ。これは同時に、かつ素早く衣装が変わらなくては意味がなくなる。

 帯を直された楽宮は、面倒そうな顔をしたが「ありがとうね」と彩琳の肩を叩いた。今度は他の楽宮に声を掛けられ、額に花鈿かでんを描くのを手伝い始める。

「歌舞も駄目だし不器用だけど、よく気が付くし、目の利く子なんだけどねぇ」

 彩琳に髪を直させていた楽宮が、その言葉に頷いた。

「せめて楽器が出来ればいいんだけど、ぜんっぜんうまくなんないのよねぇ、あの子」

 今度は聞こえていた彩琳は、ちょっと唇を尖らせながら、紅のついた筆で花鈿を描いた。

 それから彩琳は、宴が始まるまでずっと、忙しく過ごしていた。時折怒られたりすることもあったが、忙しい方がいい。心の深いところにある気持ちが、溢れてこなくて済む。

 宴が、始まろうとしていた。

 ――給仕の後、皇帝の食事に合わせて音楽が流れて、それが終わったら一度席を片付けてから、新しいごちそうとお酒を準備して、踊りが始まるのよね。

 これからの流れを頭の中で確認する。

 最初の音楽が終わり、新たに酒食の準備が始まる。彩琳は皿を運びながら、先程まで自分も立ち働いていた幕の向こうを窺った。もちろん、幕の向こうは見えない。自分が踊るわけでもないのに、ひどく緊張する。

 ――成功しますように。

 内人たちが中央の舞台に現れ、列をなしてぴたりと止まる。ただそれだけでも、整った美しさがあった。

 笛の音が、高く響く。

 音楽が始まるのと同時に、春風が吹くような柔らかく軽い足取りで、四方から喜花坊の楽宮たちが現れる。

 思わずこぼれたような歓声が上がった。

 彩琳の目が輝いて、舞台の真ん中を見つめる。先程のような、深く集中した表情だった。

 ――すごい。

 動きを揃えている、というより、まるで全員で一つのように、乱れのない動きだった。

 内人の踊りを見られる機会など、彩琳にはそうない。瞬きすら惜しんで、舞台を見つめた。

 きれいなものが好きだ。見ていると、心が一杯になる。

 きれいなもので心を一杯にすると、自分の中の汚い部分もきれいになりそうな気がする。

 舞踊の列が分かれ、王族や主賓しゅひんの座る席まで視界が開ける。

 彩琳の顔から、色が失せた。

 ――自分の汚い部分も、きれいになりそうな、気がするだけだった。

 覚えるまいと思っていた席次を、彩琳は無意識に刻み付けていた。

 高位の貴族の中に、笑みの張り付いたような顔の男が混じっている。

 中書侍郎じろう、蘇司山。王族たちもいる席の近くに座っているのは、蘇司山がこの大酺たいほの主賓と言っても過言ではないからだ。

 このほど中書省に異動したばかりで、それ以前にいたのは、御史台ぎょしだい――綱紀こうきただし、官吏の監察、弾劾だんがいを行う部署だ。蘇司山は国に盾突く数えきれないほどの罪人を上げ、今の地位に抜擢された。

 今は詔勅しょうちょくの立案と起草を司る中書省の次官だ。その職務ゆえに皇帝との距離が近く、その意を左右しうる立場である。

 次期中書令、この国の正宰相さいしょうの地位に、最も近いと言われている男だった。

 あんなに美しいと思った舞踊が、少しも目に入らない。冷え切った彩琳の体の中で、憎しみだけが燃えていた。



 宴が終わった後の庭園に、まだ彩琳はいた。日がかげり始めた庭園に、梅の香りの混じった、冷たい風が吹く。

 片づけを終え、着々と人が減っていく庭園に、彩琳は立ち尽くしていた。

 夕暮れの閉門までに、必ず戻らなくてはいけない。

 それなのに足が動かない。

 美しい庭園の中で、冬を耐え抜き綻んだ梅花だけがいやに鮮やかだ。

 宴の最中は外していた歩揺ほようを、彩琳は右手に握りしめていた。

 蘇司山の顔が頭から離れない。向こうは彩琳のことなど認識していなかっただろう。

 ――あれだけのことをしておきながら、わたしのことなんて、あいつは知りもしない。

 梅の花が、いやに鮮やかだった。青褪めた肌のような白、血のような赤。

 また冷たい風が吹いて、肩にかけた被帛ひはくが靡く。梅の甘い匂いさえ、今は不快だった。

家の娘か」

 背後から、はっきりとした声が聞こえた。

彩琳は振り返る。

少し離れたところに、青年が立っていた。服装からして、かなり身分が高い。高官か、王族か、年を考えれば王族だろう。

北方の人のような、強く鋭い目をしていた。背は人より少し高いくらいでしかないのに、実際の背丈よりも大きく見える。美しい青年だったが、人からもてはやされることは少なそうだ。人を容易に近づけない雰囲気こそが、青年を美しく見せている。

青年は彩琳に近づくと、瞳を見つめて、もう一度尋ねた。

「お前は、姫家の娘ではないのか」

「ご存知でしょう。楽宮に姓はありません。国のために尽くす身となったわたしたちに、家名は必要ありませんから」

 楽宮は自らの姓を持たない。元の姓はあっても、公の場で名乗ることも、姓を記すことも許されなかった。

 そして、国のために尽くす――つまり国の支配下にある楽宮は、坊から許可なく出入りすることが出来ない。宮城に暮らす内人でもそれは変わらない。これは楽宮の身分が低いこと以外に、もう一つの理由があった。

 青年は、会話をする気のない彩琳に、更に言葉をかける。

「私には関係がある。まずは答えろ、お前は姫家の娘だな」

「えぇ」

 彩琳はあっさりと頷いた。それを見て、青年は喉の奥で笑った。

「私は赫央蓮だ。名は知っているな?」

 皇帝の長子だ。なぜこの時間にこんな場所にと思ったが、彩琳は礼の姿勢を取ろうとした。

 央蓮は「よい」とそれを止め、彩琳にもう一歩近づいた。

「手を貸せ」

 彩琳は、その時初めて眉を寄せた。その様子を特に気にも留めず、央蓮は言葉を続ける。

「私は、この国が欲しい。皇帝となって、煌を手にしたい」

 初対面の相手にそんなことを語られ、どんな顔をしてよいかわからず、彩琳は一度俯いた。

「恐れながら、そのような大きなお望みに、楽宮のわたしではお役に立てないかと存じます」

「いや、お前は手伝う」

 断言され、彩琳は顔を上げた。怪訝さに満ちた表情が、王族に不敬と言われても仕方のない自覚はあった。だが、央蓮は特にそれを咎めはせず、彩琳の瞳を覗きこんだ。

「私のために働けば、代わりに復讐を果たしてやる」

 彩琳の体がびくりと跳ねて、指先が震えた。

「何を言っているかわかるな? お前が今思い浮かべた相手と、同じ者を私も憎んでいる」

 彩琳は口を開いて、何か言おうとした。否定したかった。でも、できない。ずっと、何も考えないようにしてきた。

 喜花坊に来てから、ただただ不器用なりに働き、毎日を過ごしてきた。でも、考えないようにと思っていた憎しみは、こんなにも簡単に、止められない奔流ほんりゅうとなってあふれ出す。

 なぜ、自分はこんな風に楽宮として働いているのだろう?

 蘇司山のために開かれたような大酺で、当たり前のように、懸命に働いたのだろう?

 楽宮には、世襲の者、招聘しょうへいされた者、元の身分から落とされた者がいる。

 落とされる理由の最たるものは、家族の罪。

 だから楽宮は、自由に外に出られない。彼らが国の管理下に置かれるのは、各地から招聘され、出自のさまざまな楽宮たちを国がしっかりと把握しておくためである一方、罪人の近しい親族を楽宮の身分にすることで、国の監視下に置くためでもあった。

「……やめて」

 彩琳の言葉は震えていた。央蓮の言葉に、見ないようにしていた自分の姿を、見せつけられた気がした。央蓮の目が、彩琳を見ていた。

「蘇司山を、追いやりたくはないか。お前の親の、かたきだろう」

 息を呑んだ。押し込めていた苦しみが、毒のように体中に広がる。

 彩琳の父は、罪人として死んだ。

 蘇司山が、叛意はんいありとして捕らえた貴族のうちの一人だ。

 青蘭せいらん州刺史しし姫瑾秀ききんしゅう。皇帝に対し呪殺じゅさつの意思ありとの嫌疑けんぎがかかり、獄官ごっかんの取り調べを受けた。そして長い勾留こうりゅうの末、冬至を過ぎた頃、獄死した。

「…………父上の書庫に、呪術に関する本があったの。五冊あったわ」

 彩琳は、静かに呟いた。書庫は二部屋、数え切れない本の中に、たった五冊だ。代々伝えられた大量の書籍のうちの五冊に、父が触れたことがあるかどうかすらわからない。

「忠節を説く本は、もっとたくさんあったのに、それは証拠にならなかった。馬鹿みたい」

 もう、目の前の青年の身分など気にしていなかった。当たり前のことを言って不敬だと思うなら、彩琳を牢に繋げばいい。父にしたように。

 父は体が弱かった。取り調べが拷問を伴うことくらい彩琳も知っている。命を削られるその日々はどれだけ辛かっただろう。そして、その最中に命を失ったことのつじつま合わせでもするように、自白はあった、証拠も見つかったと急に話が進み、彩琳は連座で姓を奪われ、楽宮になった。この国の名を借りて蘇司山が父にしたことは、少女にとってあまりに残酷だった。

 彩琳は、青年を見上げた。同じ言葉を、違う言い方でもう一度口にする。

「楽宮のわたしじゃ、手伝えないわ」

 しかし、彩琳の断りの言葉など聞かず、央蓮は話し始める。

「宴席は、貴族同士の関係、流れる噂、書面や宮中ではわからない情報の宝庫だ。私は同じ目的を持つ臣下が欲しい。悪いようにはしない」

 彩琳は、目の前の王子を睨み上げた。

 悪いようにはしない? もう、なっている。

 父は死に、同じく連座となった母は喜花坊とは別の場所に連れて行かれ生き別れた。場所さえ教えられていない。もう、会うことも出来ないだろう。

 そして、親の仇のために開かれた宴で、自分は働いている。

「蘇司山がしたことを評価しているのは、あなたたち王族でしょう? 手伝いたくない。臣下なんて、絶対に嫌」

 それまで揺らがなかった央蓮の瞳に、一瞬だけ興味が浮かぶ。

「国と思いを異にしているから、こうして声をかけている。国ではなく私のために働け。臣下が嫌ならそれでも構わん。対等に扱おう」

 それに、と、央蓮が呟いた。

「もう一つ、してやれることがある」

 その含みのある言葉に、彩琳が央蓮をじっと見る。その目は無意識に続きを求めていた。

「姫瑾秀の、汚名おめいそそぐ方法があるぞ」

 彩琳の目に、光が宿る。思わず央蓮の袖を掴んでいた。

「本当?」

「楽宮の長、蓮花楽人れんかがくじんだ」

 佩玉はいぎょくを持つ内人の中で、煌国の国花である蓮花をかたどった玉を持つのが蓮花楽人だ。

 蓮花楽人は、今回の大酺のような、国家の大事に位置づけられる宴の取り仕切りを行い、その職務上、高官や皇帝とさえ言葉を交わす立場である。喜花坊の楽宮たちには、大酺のような大掛かりな宴席の時に指示が下ってくるばかりで、彩琳はその姿を見たことさえない。

「あれは、男の人しかなれないでしょう?」

「前例がないだけだ。そんな決まりはない」

 最初からなれないものと思っていた彩琳は、目指そうと考えたことすらなかった。

 だが、もし央蓮の言ったことが可能なら、蓮花楽人という地位には、大きな意味がある。

 楽宮に限らず、官や妃でも、皇帝の側近くに仕える者は、それにふさわしい経歴に書き換えられる。家族に罪人がいるものは、その罪が雪がれるのだ。それは楽宮の彩琳が、すでに亡くなってしまった父の名誉を回復する、唯一の手段と言ってよかった。

「一王子に与えられる位ではない。私が皇帝になってからになる。ただ、その時に不審に思われないよう、今からお前を少しずつ引き立てていくことも出来る」

 ――蓮花楽人になれば、父上の名誉が回復できる。

 そして、央蓮に情報を渡し、彼を手伝うことは、蘇司山への復讐にもつながる。

「相手は蘇司山だ。お前の身に何も危険がないと嘘をつく気はない。私の考えを、蘇司山が知ったら、共に倒れることもあるだろう。その時は、仕方がないがそれで仕舞しまいだ」

 そう言った時、央蓮は笑った。

 彩琳はドキッとした。放たれた弓矢のようだと思った。ただ目的の場所に深く刺さって、届くことだけを目指すような。折れたらそれまでという簡潔な覚悟は、危なっかしくて、でも、ひどく目を惹いた。

「それでも、私は蘇司山を野放しにしておくつもりはない。欲しいものは余さず手に入れなければ気が済まない。蘇司山の汚れた手に、わずかたりとも握らせておきたくない」

 成功するとは限らない、危険は多く付きまとう。

「やるか」

 と、央蓮は問うた。

「やるわ」

 もう、彩琳にとって、失うものはなかった。いや、全て失って、きれいなものを眺めて自分の心をごまかしてきた彩琳に、この時初めて目的が生まれた。

 はっきりとした強い声に、央蓮は頷いた。

「姫家の娘、名は」

 右手に握った歩揺が冷たい風に揺れて、澄んだ音がした。父母の形見だ。

「姫、彩琳」

 央蓮はふっと笑った。

「良い名だな」

 そして、彩琳と央蓮は、情報を交換するために二人で過ごすのを怪しまれないよう、央蓮が彩琳に便宜べんぎを図る本当の理由を知られないよう、偽りの寵愛関係を結ぶことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る