第6話
茨城空港には父と父の漁師仲間のおじさんたちと幼馴染の女子何人かが迎えに来ていた。瑛美さんとの生活のあいだに増えに増えた私物を両手に抱えて、連れ去られた時よりも俄然お高い服に身を包んで戻ってきた私を見て皆一瞬拍子抜けしていたが、何はともあれお互い無事で良かったと抱き合って喜んだ。
「借金、どうなったの」
尋ねる私に、全然分からん、と父は答えた。私が連れ去られた去年の一月から解放を言い渡されたつい先日までの一年間、父はとにかく金を払い続けたのだという。最終的に幾ら借りていたのかも、幾ら返したのかも分からないらしい。やくざに金を借りるというのはそんなに恐ろしいことなのか。そもそも父はやくざに金を借りた自覚がなかったようなのだが、こういう事態に陥る人間はだいたいがそうなのかもしれない。ああいう人たちは気が付くと生活の裏側に這入り込んでいる。
それが、つい先週の終わり、
「金はもういい、娘も返す」
と、岩角ではないやくざが現れて告げたのだという。
「これ、名刺。おめえ知ってるか」
「
めちゃくちゃ普通の名前だし、名刺自体も代紋とかも入ってない名前と電話番号と『玄國会』と紙の端っこに小さく刷ってあるだけの紙切れだ。
「知らない、だれ……」
東京の隅っこのマンションにいるあいだ、私は瑛美さんと岩角と岩角の部下らしいチンピラたちとしか顔を合わさなかった。名刺を持ってそうなタイプとは一度たりとも遭遇していない。
一年。一年も経ったのに私にはやくざのことが何も分からないし、父も同じ気持ちでいるようだった。ただ私が無事に生きて戻ってきたことを父は喜び、私も父が殺されずにこうやって再会できたことを心の底から嬉しく思った。
炬燵を挟んで我々父娘は向かい合い、岩角と玄國会に何が起きたのか、本当にもう金を返さなくていいのかを話し合い続けた。が、何も分からなかった。私も父も何も変わらなかったし、なんとなく無事だった。
「……あ、そうだ、コーヒー淹れるよ」
ふたりの間に横たわった妙な沈黙をどこかにやってしまいたくて、私は言った。羽田空港に向かうためにマンションを出る私に(解放された私を送るためにチンピラたちがクルマを出すことはなかった。私は電車で空港に向かう必要があった)瑛美さんがコーヒーを山ほど渡してきたのだ。お父さんと飲んで、と瑛美さんはにこにこしながら言った。お父さんにごめんなさいとよろしくね、と。
「あのやくざのとこで、変なことさせられなかったのか」
父が問う。再会して数時間、初めての硬い声だった。
私は大きく首を横に振った。
「毎日コーヒー飲んで、岩角の奥さんと喋ったり映画見たりしてた」
「ほんとか」
「ほんとだよ。……奥さん、すごくいい人だった」
瑛美さん。もう要らないって言われた瑛美さん。どうなってしまうんだろう。あの時私の心に過った予感の通り、岩角か、瑛美さん、どちらかが死んでしまったのだろうか。
台所でお湯を沸かす。瑛美さんのマンションのシステムキッチンとはぜんぜん違う、古びた昭和の台所。薬缶の蓋がカタカタと揺れる。ああ、沸かしすぎた。少し冷まさなくちゃ。達磨ストーブの前で父が煙草に火を点けている。一年も経ってしまったけど、大学の頃の友人たちに連絡をしても大丈夫だろうか。私にできることはなんだろう。瑛美さんと暮らしている時からずっとぐるぐるしていた感情が息を吹き返している。私は私の家に帰ってきた。私の人生を取り戻した。父を取り戻した。私は、
「あ!」
父がテレビを点け、そして大声を上げる。東京、四谷の玄國会の事務所に、関西の暴力団が殴り込んだという速報が流れている。
……瑛美さん!
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