第5話
終わりは唐突に訪れた。
「茨城に帰れ」
瑛美さんと私が暮らすマンションにやって来た岩角は、開口一番そう言った。コーヒーを淹れるためにキッチンに立っていた瑛美さんと、話があるから出てこいと自室から引っ張り出された私(岩角がやって来る時は自発的に自室に篭るようにしていた)は言葉もなく視線を合わせた。
「借金全部返ってきたの?」
瑛美さんが尋ね、そんなわけないだろ、と岩角は感情の起伏がまるでない平べったい声で言った。
「そもそも大した額じゃない。どうでもいいんだよ」
「どうでもいいもののために、この子は大学を辞めさせられて私の話し相手になったの? ひどい話だね」
両手にコーヒーカップを持ってリビングにやって来た瑛美さんは、そう言って微笑んだ。目が笑っていなかった。
あの夜。『太郎くん』の昔話を聞いたあの夜以降何度も、岩角はこのマンションを訪れた。瑛美さんに暴力を振るう日もあれば、自分の部屋から何時間も出て来ず、そのまま帰って行った日もあった。やくざたちのあいだで何かが起きているのだということは、私にだって分かった。
「瑛美」
「なあに」
「おまえも、もう要らない。この部屋はくれてやる。俺はもう来ない」
「あら……」
そう言われることを予想していた様子で瑛美さんは小首を傾げる。
「離婚するってこと? 書類は? サインしなくちゃ」
「茶化すな。玄國会はもう終わりだよ」
普段は私が座っている側の椅子に腰を下ろし、岩角は溜息を吐いた。
「やくざなんかが生き残れる世の中じゃあないんだ」
リビングにただひとつある扉を背に立ち尽くしたまま、やくざなんか、と私は内心つぶやいてみる。太郎くんの昔話。実の親に人生をぼろぼろにされた太郎くんは、流れ星みたいに現れたやくざに助けられてやっとまともに生きられるようになったんじゃなかったっけ。岩角遼は昔あった戸川組という組織の構成員で、今はもう戸川組は存在してなくて、玄國会の若頭を勤めていて、私の父に多額の金を貸して、それで……玄國会はもう終わり?
瑛美さんが置いたコーヒーカップに手を付けようともせず、岩角は俯いている。癖のない黒髪が真っ白い頬に青い影を落としていて、それがとても禍々しくて美しかった。
大学で、映画を撮りたかったんだよなぁ、と不意に思い出した。こんな綺麗な俳優さん、世界のどこかにいるだろうか。
「ほら」
と、岩角がスーツのふところから何かを取り出して見せる。
「明日の飛行機。これで帰れ」
「……」
「親父さんは相変わらず漁師やってるよ。良かったな」
「……はい」
良かった。父は殺されていなかった。仕事も続けられている。良かった。
良かったはずなのに。
飛行機の搭乗券を両手で恭しく受け取り、それから私は瑛美さんを見る。私はこれで、岩角の飼い犬ではなくなる。でも、瑛美さんは。要らないなんて言われて、瑛美さんはどうなるんだろう。
「響ちゃん、元気でね」
瑛美さんが言った。優しい声だった。
明日私がこの家を出て行って、そのあとどっちかが死ぬんだろうと思った。
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