第五十六話 月下でふたり

「すい?! なんでいるの!」

「湯・あ・が・り、たまごハダ~」


 温にかりながら、彼女はにじり寄ってくる。

 まだ湯から上がってないだろ! いや、上がらなくていいよ!


「や、ヤメろ! 来るなってば!」


 僕は湯舟ゆぶねで後ずさる。だがそれもまもなく後ろにつかえてしまった。もう逃げ場がない……。

 だけど、なんだろう? 背中にあたる感触が、露天風呂のふちにしてはゴツゴツしてなく、フワフワ、というかムニムニ、というか……。


「ニェプ。すいさん、これ以上強くんと私に近づかないで」


 ……。

 

「んぬぉ?!」


 後ろを振り返った僕は飛び上がった。言葉通り。

 僕の身体からだがつかえたのは風呂のいしふちなどではなく、金色の髪を湯に浮かべたソフィーだった。


「おぉ~。ヨッシーのビーダッシュジャンプだ!」

眼福がんぷく、眼福~」

「ソフィーまで! 待ってよ! それ以上ふたりとも、近づくな!」


 僕は、今度こそ湯舟の縁にしがみつくようにして、ふたりから距離を取った。


「ヨッシー。そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだよ? ひとはみな、生まれたときは裸なんだよ?」

「生まれてから何年経ってると思ってんだ!」

「ならば、ふたりで新しい命を生みましょうか?」

「訳わかんないよ!」


 湯煙でうまく隠れてるとはいえ、彼女たちがあまりにあけすけに身を動かすものだから……。直視できない! そうして僕が湯舟じゃなく、女湯との境になっている板壁のほうに顔を向けていると……。


ドゴンッ


「おわっ?!」


 壁の一枚の板を、拳が突き破ってきた。それが引っ込むと、できた大穴から詩織しおりの顔がのぞき込む。


「あぁ! やっぱり、すいちゃんにソフィーちゃん! 帰ってきなさい!」

「し、詩織! お前、なに壊してんのさ?」

「あとで直す!」


 そういう問題じゃない。


「しおりんもおいでよ~」

「い、行かない!」

「カマトトぶりやがって!」

「ソフィーちゃんも、もう! ……こっから見張ってるからね!」


 なんだ、コレ。なんなんだ、キミタチ……。


「せっかく、ゆっくりしたかったのに……」

 

 思わず、僕は落胆らくたんの声を漏らしていた。


「よ、ヨッシー……。そんなに落ち込まんといて~な……」

「あ~あ~。す~いさんがつ~よしくんを泣~かせた~!」


 調子をつけてすいをはやし立てるソフィーに、僕は「子どもか」と言ってやった。


「とにかく、すいもソフィーも、戻ってくれないかな? 女湯に……」

「えぇ~。湯冷めするからまだしばらくいる~」


 いやいやと首を振るすいとソフィー。動きをシンクロさせんな。


「じゃあ、もうちょっと離れて! そう、ハジ! じゃないと僕が出ていく!」

「ちぇ~」

「ニェプ、仕方ないわね……」


 すごすごと移動していくすいとソフィー。なんで僕が悪いみたいになってるんだ?


「詩織も壁に張り付いてないで、お湯に入りなよ?」

「いや……。強が変なことしないか見張ってる……」

「しないよ……」


 「はぁ」とため息をらして、僕は開けている外の景色に目を移した。とりあえず、すいもソフィーも視界に入らないように。

 木々が近く、さわさわと葉が鳴っている。黒々とした山の稜線りょうせんの向こうには、息を呑むような星空――。


「……ヨッシー」


 トーンの落ちたすいの声が聞こえる。


「怒ってる?」

「……そんなでもないよ」

「私たち、せっかく温泉に来たんだからハメが外れても仕方がないとおもうの」

「自分で言うなよ……」

「私たち、強くんとお風呂に入りたかったのよ」

「……だったら、こんなドッキリみたいにじゃなくて、事前に……」

 

 言われても、ノーかな……。


「でしょ? そうでしょ?」

「心を読むな」

「ヨッシー……。ワタシたち、ちゃんとお湯に入ってるから、こっち向いてよ?」


 おずおずと、僕は身体を向き直す。すいの言葉の通り、彼女とソフィーは神妙な顔をしておとなしく湯に身を浸からせている。詩織はほとんど「のぞき魔」みたいになってるけど。

 「みんなには」と言って、僕は顔を上げた。もやもやと立ち昇る湯気。視界の端で月がキレイに輝いている。


「みんなには感謝してる。僕のほとんどわがままみたいな父さんの調査に、ここまで付き合ってくれるんだもの。今回の『鳴らし山』でなにか大きな手掛かりが見つかるかもしれない。『ダイチ』が父さんだという確かな証拠が出るかもしれない。そうしたら、そうしたら……」


 僕は言葉を切ると、すい、ソフィー、詩織へと目を移していった。

 

「僕たちのこの関係もどうなるのかな、って思ってたんだよね……」

「なぁ~んだ、そんなこと」

「気にすることないわね」

「変わんないでしょ」


 三人が口々に言う。そして三人ともが、夜空に響く、控えめな笑い声を上げた。

 どうでもいいけど、板の穴から顔だけを出している詩織はなんなの? ホラー映画なの?


「ヨッシーに拒まれない限りはイヤでも付いてくからね、ワタシは!」

「右に同じ!」

「穴からも同じ!」

「まったく、心強いよ……」


 ホント、心強い。充分、骨身に染みています。「拒まれない限りイヤでもついていく」は日本語としてどうかと思うし、詩織はやっぱり確信犯だし、思うところは多々あるけどね……。


「ま、悩むのは置いといて、今は、美女に囲まれて温泉に入る『幸せ』を堪能してくれたまえよ、ヨッシーくん」

「あはは……」

「アタシが見てるから、ふたりに変なことしちゃダメよ?」

「詩織はぜったい湯冷めするって。お湯に入りなよ?」


 「ふう」と一息つくと、僕は湯をすくって顔に浴びせかけた。

 気持ちいいな……。


 調査がうまくいって、全てが判ったら――。そのとき問題になるのは、彼女たちというよりは僕の方だろう。


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 少しの空気の流れと、少しの光が、僕の目を覚ました。

 うすぼんやりとした視界は次第にはっきりとしていき、山肌と、夜空と、月の光が見えてくる。そして、それと同じような光をたたえた、金髪の少女。


「……ソフィー? 何してんの?」


 浴衣姿のソフィーが、広縁ひろえんの籐椅子に座って月を眺めていた。


「あら。起こしてしまいました? ごめんなさい」

「……寝ないの?」


 僕は布団に横になったまま訊ねた。正直に打ち明けると、こちらに顔を向けて月明かりを背にする彼女の姿に――見惚みとれた。


「さっき、お風呂で強くんが言ってたでしょ? 『調査が終わったら』って。私もちょっと考えちゃって……」


 物憂ものうげな面差おもざしを残して、彼女はふたたび月を見上げる。


「僕もそこに座っていい?」

「……ええ。いいわよ」


 僕は身体を起こして広縁に出ると、ソフィーの対面の籐椅子に腰を下ろした。彼女は、まだ夜空を見上げている。その姿勢のまま、彼女のつややかなくちびるが「大好き」とつぶやいた。


「え?」

「私、何度でも言えるけど、強くんが大好きよ」

「と……突然すぎるな……」

「ふふ。でもね。それと同じようにすいさんも詩織さんも大好きで、四人や、ほかにもいろんな人たちとバカやってる時間もすごく好き」


 ソフィーは僕の方を向いた。温泉であたたまったためか、月明かりに照らされた白いほほに赤みが差している。


「強くん、前に言ってくれたわよね? 『調査を終えることができたら私の求愛に対する答えをくれる』って」


 僕はおずおずと、「うん」と答えた。

 決して忘れてたわけじゃないですよ。本当ですよ。


「もちろん、私の求愛に強くんが応じてくれたらと思うと――とっても嬉しいの。想像するだけで私はすごく幸せな気持ちになれる。でも……」

「……でも?」

「その陰で哀しむがいるとしたらって考えると、私はその幸せを差し引くくらいに哀しくなるの。強くんに振られることを想像する以上にも哀しくなるの」


 僕は、言葉が継げなかった。


「ねえ、強くん……。つらいわね」


 彼女が笑みを浮かべながら、一筋だけ涙を流した。僕は今、彼女にどんな顔を向けているのだろう。


「強くん。すいさんにもそんな態度とってるの?」

「すいにもって……?」

「お得意の保留よ」

「保留というか、なんというか……」


 すいは僕に対して、相変わらず「好き」、「好き」と言動を包み隠さないものだから――。


「あらためて、ちゃんと答えるということは、してない」


 ソフィーは「ニェプ」、とひとつ、大きなため息をいた。


「呆れる。どっちにもよ」


 彼女はもうひとつ、ため息を吐いた。


「あまりに保留が過ぎるのも、あまりに鈍感が過ぎるのも、いさぎよく拒否する以上に罪作りだってことを自覚した方がいいわ」

「肝にめいじます……」

「そこで聞き耳たててるふたりも、覚えておいてね。今、強くんに告白しても『ノー』しか返ってこないかもよ?」

「ギクゥ!」


 声が出たすいの布団がボフボフと騒がしくなる。

 対照的に、詩織の布団は微動びどうだにしない。けれども、息を殺している様子――起きているのは判った。


 僕は、薄々判ってはいたけども、「そんなわけはない」と目を背けていたことに、向かい合った。


――詩織も、僕のことを……。


 「月が」と、ソフィーの鈴の音のような声が続ける。僕は夜空を見上げる彼女に目を戻した。


「月が綺麗よね、強くん」


 ソフィー。ホントに日本語、達者だね。


「今はまだ、その言葉に答えが出ないな……」

「……ちっ。既成事実を作ろうとしたのに……」


 月明かりの下、彼女はイタズラっぽい笑みを僕に寄越した。

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