第五章 欲は重なりいつか消える

第三十六話 炭酸飲料を投げてはいけません

 どうしてこうなってしまったのか。


「ぐっ……コイツ……」

「……うぅ」


 ソフィーは地に倒れ、すいは肩で息をしている。

 ソフィーもすいも、どちらも自身の強化……僕とのキス、そして輪魂りんこんをかけているにも関わらず、だ。


「みなさん、逃げてください! ぼくのことはいいですから!」


 すい、ソフィー、そして僕の前にそびえる巨大な影。その影の中で、まだ声変わりもしていない男の子の声が僕たちに訴える。

 声の主の名は笹原ささはら拳一けんいち詩織しおりの弟である。

 今や彼はほぼ全身を影の中に取り込まれ、顔だけが表に出ている状態になってしまっている。


「そんなこと言うな、拳一! 僕たちが必ず助ける!」


 とは叫ぶものの、僕自身には打つ手なんて全くない。みぽりんのところで呿入きょにゅうけん鍛練たんれんを連日んではいるが、まだまだ基礎体力向上段階の域を出ていないのだ。


「ふはははは!」


 影のかたわらで、小柄な男が笑う。


「どうやら、ワタクシの勝ちのようですネ。屁吸へすいじゅつとやらの対策で用意したオメガが、こうも効果てきめんとはネ。ふはははは!」

「くっそ……!」


 オメガ。

 それがこの巨体の影の名らしい。


 小柄な男の言葉通り、すいはこれまで何度も屁吸術を試みたが、オメガの前ではそれらは全てムダに終わったのだ。


「むんが、むんが」


 巨大な影――オメガがうなる。

 彼、と呼んでいいのだろうか。彼はこの戦いが始まってから、ひとつも自分の意思らしきものを示していない。行動もすべて、小柄な男の命令のままに動いている。

 ……いや、たったひとつだけ、命令されずとも続けている行動があった。


 オメガの左腕には、大量のポテトチップスの袋が抱え込まれている。それを始終しじゅう、ずーっと口に運び続けているのだ。


「むんが、むんがむんが」


 またひとつ、ポテトチップスの袋を空にした。すかさず次のポテトチップスの袋を開けるオメガ。

 心なしか、彼の巨体が膨らんだような気がする。


「クソデブがぁ……!」


 すいが叫びながら跳び出し、オメガの体にこぶしをめりこませる。


ボヨン


「ぬおぅ! あ!」


 だが、彼女の渾身こんしんの一撃はむなしくオメガの体に吸収され、その肉厚ボディが元に戻ろうとする反発ですいは体ごと吹き飛ばされる。


「ムダですヨ! ムダぁ! 絶えずエネルギーを吸収し続けるオメガの脂肪は、まさに『絶対に破れない鎧』! やわらかい、ということは壊れないということヨ!」

「うるせぇ! どチビがぁ!」


 すいが小男をニラむ。


「わお、チビにチビと言われてしまいましたネ。そんなコワい顔して、ワタクシを傷つけてみなさい。そうしたらすでに言った通り、この子はオメガの養分となるのですヨ! ふははははぁ!」

「いや、ホントに逃げていいですよ、みなさん! ぼくはなんだか気持ちよくなってきた気がしないでもないので!」


 顔だけの拳一が叫ぶ。

 クソ、こんな小さな子にも遠慮させなきゃいけないなんて、僕はなんて不甲斐ふがいないんだ!


「あぁ……ああ~……そこ……いい」


 いや、あんな恍惚こうこつの表情、小四男子がする顔じゃない! アイツは遠慮してるんだ! 僕たちに心配させまいと、演技しているんだ!


「やばい、気持ちよすぎてオシッコ漏れそう……」


 きっとあの震えは、排尿はいにょうの震えじゃなく、おびえているんだ!


「いい加減、こきやがれっ! こんのマン・オブ・ザ・デブがぁ!」


 すいは再度オメガに向かって跳び、連打を与える。が、やはり、スポンジのような体にダメージは吸収される。オメガにオナラをする様子は……ない。何度試してもそうなのだ。


「ふはっ。オメガはオナラの元になるガスを体内の特殊器官で吸収し、皮膚を通じて外部に排出しますヨッ! オナラなんて絶対に出ないのです! オメガ、小バエは叩き落としてあげなさいヨ!」

「むんぐ!」


 オメガは小男の声に応じるようにうなりを上げると、ポテトチップスのカスにまみれている右手を掲げ、すいに向かって平手打ちを放った。


「ぐはぅ!」


 すいの体ほどもある手のひらは難なく彼女を捉え、僕の方まで吹き飛ばしてきた。


「すいっ……! ダイジョブ?!」

「……てひゃぁ」


 すいの声が言葉になっていない。それでも彼女は、ゆっくりと立ち上がる。

 僕は、傍らで地面に伏しているソフィーに目を向けた。


「うぅ……クサい……。クサすぎる……」


 うなされている。

 周囲に漂うこの異臭、小男の言葉からすると、この臭いはオナラが……オメガのオナラが彼の皮膚から出ている臭いなのだろう……。

 ソフィーは開戦当初からこの場の異臭に異常に嫌悪感をあらわにしており、発奮はっぷんしてキスをしたのはいいものの、すぐに卒倒してしまったのだ。おそらく、強化キスにより大幅に向上した嗅覚きゅうかくに異臭が刺さったのだろう。

 せめて、ソフィーも充分に参戦してくれたら……。キスしただけじゃん。


「つ、強くん……」

「ソフィー! 気が付いたか! 大丈夫?!」


 ソフィーはまだ伏したまま、起き上がれない様子だ。


「も、もっかい……」

「もっかい?」

「……もっかいキス、しよ」

「しねーよ!」

「ガックシ」


 ダメだ。ソフィーは今回、ダメだわ。


「はぁ……オナラも出させらんない。拳も通らない……。はぁ……こんなん……どうやればいいのか、わからんね……」


 そうこうしているうちにオメガの体はまた一回り大きくなっており、今や拳一が表に出ているのは鼻と口だけ、なんとか呼吸だけできているような状態になってしまった……。

 これまで僕たちには何回も危機があった。それを僕たちは乗り越えてきたというのに、初めて負けるのがこんなデブとチビのオッサンなの? すごいイヤだ!


「すい……」


 僕はすいに近づく。


「ヨッシー……離れてて。はぁ……あんまり攻撃してこないとはいえ、アイツの掌打しょうだはかなり強い」

「それは、僕も眺めていてわかる。あんなの食らったら僕なんかひとたまりもないだろうな」

「じゃあ……」

「だからって、このまま指をくわえて見てるわけにもいかないだろ?」

「……ヨッシー」

「僕は小男を叩こうと思う。あの小柄な体格なら、僕でも充分相手に出来るはず。そのあいだ……小男が命令できなくなっている間にすいはなんとか拳一を引っ張り出してくれ」

「引っ張り出す……。できるかどうか目算もくさんは低いね……。でも……やるっきゃない、か」


 僕たち二人はオメガと小男に向かい、構えを作る。


「ふははは! ついに『ダイチ』の息子、ご登場ですか! オメガ、叩きのめしてあげなヨ!」

「むんがー!」


 一触いっしょく即発そくはつで僕たちが相対あいたいしたその時。


「待ちなさいッ!」


 周囲に聞き慣れた声が響いた。

 詩織だ。振り返ると、詩織が不敵な笑みを浮かべながらこちらに近づいてくる。


「詩織!」

「しおりん……」

「強、すいちゃん、ソフィーちゃんも……。ごめんね、ウチの弟のせいで」

「いいや、そんなことはいい。今は一刻も早く拳一を……じゃないとアイツ、変なトビラを……」


 僕の言葉をさえぎるように、詩織は手を上げた。


「ここはアタシに任せて」


 任せる? 詩織に?


「しおりん……。しおりんには……」

「ムリじゃないよ、すいちゃん」


 詩織の瞳に炎が灯る。僕が見慣れた、筋肉少女、挑戦に燃えているときの瞳だ。


「見てて」


 そういうと詩織は、オメガに向かって歩を進めていく。


「おやぁ。どちら様ですかネ。ま、誰が出てきたところで、どうにもなりませんヨ」

「果たしてそうかしらね」


 詩織は言うと同時に、オメガに向かって何かを放り投げた。条件反射でオメガがそれをつかみ取る。彼はそれを、つまむようにして持ち直した。


「あれは……コーラ?」


 コーラフ……いや、これ以上の言葉を続けてはいけない。別件だけど、僕には思い出してはいけないものがあるんだ。

 しかし……コーラなんか渡して、詩織は一体、何のつもりなんだ……?


「そんなにポテチばっかじゃのどかわくでしょ? 差し入れよ」

「むんが!」


 オメガはこらえきれない、とばかりにコーラのフタを親指だけで開けると、あふれ出す炭酸の泡をものともせずに一気に口の中に流し込んだ。


「これはこれは……。お気遣きづかいまでいただいちゃってすみませんネ。でも、これであなたたちの死は早まることになりますヨ」

「ふふ……」


 小男の挑発に不敵な笑いを返す詩織。

 詩織は……何を企んでるんだ……?

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