探しものは青の彼方

紺野理香

探しものは青の彼方

 第一章 王の悩みと王子の悩み


 華やかな大聖堂カテドラルの鐘の音が、幸いを告げる小鳥のように飾り窓から飛び込んできた。その音に深く苦しい物思いを破られて、トリスタン国王カルロスは顔を上げた。

 気づけばだいぶ長い間、膝を折ったままうなだれていたようだ。膝頭と首筋がひどく痛む。五十代の半ばではあるが、大抵十歳は若く見積もられることが多い国王だ。ふた昔も前には、海軍将校として、こちらの船からあちらの船へと身軽に飛び移ったものだ。しかし、そんな黄金時代はとうの昔に過ぎ去って、今では体もすっかり硬くなってしまっている。

 海の方角に向かって開かれた明かり採りの窓からは、熱い風が、海鳥の声とともに潮の香りを運んでくる。小さな祈祷室の四方の壁は、植物をモチーフにした幾何学文様で埋められていた。ひざまずく国王の前には、白い絹の布のかかった祭壇が据えられている。

 その上に恭しく置かれた純金の十字架に向かって、カルロス王はもう一度手を組み合わせ、頭を垂れた。

「天にましますわれらが神よ、どうか、わたくしの大いなる過ちをお許しください」

 苦悩を気化させたようなため息をつくと、カルロス王はぎくしゃくとした動作で、薄い絨毯から立ち上がった。金の刺繍がされたマントを翻して、分厚い樫材の扉を押し開ける。

 扉を出たところの廊下には、自然の光が満ちていた。片側の壁には規則的にアーチ型の窓がくり抜かれており、中庭の豊かな緑が目を楽しませる。アーチ窓の周りには、ちょうど花火が咲いたような模様にタイルが貼られていた。石の柱には、かつてこの地を支配したことのある異民族の詩篇が彫刻されている。アーチ窓から差し込む夏の白い日差しが、先ほどの悩みの影を見事に隠しきって胸を張るカルロス王を、明るく照らし出した。

 しかし王は、ブーツを高らかに鳴らして廊下を歩き出す間もなく、すぐに扉を背にして立ち止まらざるを得なくなった。廊下の先に、若者が待ち構えていたからである。

「そなたは、王立人文科学院アカデミアのベルトランではないか。一体何の用か。祈祷室の周りには、余のほかは誰も立ち入ってはならぬと申しつけてあるはずだが」

 カルロスが厳しい声で問い質すと、波打つ豊かな黒髪を耳にかけた、理知的な雰囲気のその若者は、先ほどカルロスが十字架に対してそうしていたように、丁寧に膝を折った。白手袋をはめた片手を大理石の床に、もう片方の手を膝に乗せて話を切り出す。

「ご無礼をお許しください、カルロス陛下。手短に用件を申し上げます。陛下が日に一度、人払いをした祈祷室で神に告白している罪の内容を、私は存じ上げております」

 カルロス王の履いている固い革のブーツが、ギュッと音を立てた。壮年のトリスタン国王カルロスは、胸板の厚い偉丈夫だ。国王が、頰ひげを生やした顔を険しくしても、ベルトランは恐れる気配を微塵も見せなかった。

「ほかでもない、十三年前の冬、軍務大臣であった陛下が兵を率いて、義理の弟でもある前国王アマデオ陛下を塔から身投げさせ、ご自分が王位に就いた件です」

 ベルトランが一息に言い切ると、カルロスの顔はなお一層凶悪になった。

「そなたはわが息子エンリケに随行し、今日、イスカンダリヤへ発つはずではなかったか」

 黒髪の青年学者は、国王が暗黙のうちに出した「黙れ」の合図を無視した。

「陛下が戴冠された一年後、実の弟を陛下に殺されたお妃さまは、思い余って、アマデオさまと同じ塔から身を投げました」

 前国王の玉座を力ずくで奪い取ったことに続いて、最愛の妃の死の真相を暴露されると、カルロスは、低くうめき声を漏らした。ベルトランは、苦痛に耐えかねたように顔をゆがめている国王に、緩くウェーブのかかった前髪の下から痛いほどまっすぐな視線を向けた。

「陛下はご即位以来、ずっとこのことを秘密にしておられましたね。公文書にも、アマデオさまとお妃のフアナさまが塔から海に転落したことは、事故として記載させておられます。しかし私は、一年前に真相を知ってから、数少ない証言をかき集めて、当時のことをなるべく事実に近い形で書き著しました」

「いったい誰に指図されて、そのように勝手なことを!」

 晴天の落雷かと思うほどの怒声にも、ベルトランは落ち着き払っていた。

「誰に命じられたわけでもなく、私自身が決めて行ったことです。陛下のご許可をいただければ、さらに調査を進めた上で、成果を王国全土に公表したく存じます」

「ばかげたことを申すな」

「恐れながらカルロス陛下。秘密にし続けるからこそ、罪が深まっていくように思われるのです。エンリケ王子も、事の真相を知って以来、苦しんでおられます」

 息子である王子の名を出されると、国王の彫りの深い顔に苦悩の影が濃くなった。

「王子が年々、生き写しと言っていいほどアマデオさまに似てきていらっしゃることを、恐れておいでなのですか、陛下」

 カルロスは答えなかった。その手は、胸元に下げた銀のロザリオをもてあそんでいる。

 再び大聖堂カテドラルの鐘が鳴る。何かの予兆を知らせるように。国王は長い沈黙の末に、きつく食い締めていた歯をわずかに緩めた。

「……わかった。十三年前の件をありのままに記述する許可を、そなたに与えよう」

「ありがとうございます」

 ベルトランは、白手袋をはめた両手を床について、深々と頭を下げた。国王は、枯れた葉を落とす晩秋の大木のように肩で息をついた。

「礼を言うぞ、ベルトラン。ずっと背負っていた重荷を下ろしたような気分だ。しかし、余には、このような解放感を味わう資格があるのだろうか。あるいは、これから先もこの重い秘密を抱え続けていくことこそが、余の犯した大罪に対する罰ではなかろうか」

 ベルトランは頭を上げて、穏やかな面持ちで国王を見上げた。

「陛下は、天主教に深く帰依なさり、慈悲をもってこのトリスタンを治めておいでです。すでに罪を償っていると、私は考えます」

「……殺すつもりはなかったのだ」

 国王の唐突な告白に、ベルトランは反応し損ねた。

「前王アマデオのことだ。彼はまだ、二十歳になったばかりだった。それほど若い我が義弟おとうとを、殺そうとまでは余も考えてはいなかった。しかし、勢いとは恐ろしいものだ。国王を捕縛してわが前に引っ立ててきた者には、望むままに褒美をやると約束したばかりに、殺気だった兵士たちに追い詰められて、義弟おとうとは塔のバルコニーから自ら身を投げてしまった」

 人の寄り付かない王宮の奥の廊下に、寄せては返す波の音が響く。カルロスは、古い剣の傷の刻まれた両手を握りしめた。

「わが身の罪は消えぬ。しかしやがて余の命が尽きるとき、神がふさわしい罰を下さるだろう。それまでは、このトリスタンを、非才ながらに力を尽くして守ると誓おう」

 長年両足首に引きずっていた鉄の塊を取り除いたような解放感に、カルロスの胸はひさしぶりに、本当にひさしぶりに晴ればれとした。祈祷室で聞いた大聖堂カテドラルの鐘の音は、やはり幸いの知らせだったのだと思った。


 白い体に薄茶色の服をまとったような毛色の猫が、宮殿の中庭の石畳にごろんと寝転がっている。身なりのいい少年にたぷたぷしたお腹を撫でられて、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。ふさふさと白い毛に包まれた首回りは、いささか肉付きが良すぎるようだ。少年が、「ナジュム、ナジュム」と声をかけると、猫は「くるしゅうない」とでも答えるように、薄目だけ開けて高い声で「にー」と鳴いた。

 王宮の数ある中庭のうちでも、ここはとりわけ美しい庭だ。優美なアーチの連なる回廊に囲まれた長方形の庭の中心には、獅子の彫像が支える噴水が、青空に向けてきらきらと水を吹き上げている。色付きガラスのランプシェードのようなアイリスの群れの下に、水路が流れているので、真夏の太陽の下でもここはほかよりも涼しいのだ。あずまやの代わりに据えられている一両の錆びた路面電車トラムが、真っ赤なノウゼンカズラの蔓に埋もれている。青いオレンジを実らせる緑の梢を見上げれば、宮殿の屋根の向こうに、万年筆のような、バルコニーをめぐらした尖塔がそびえていた。

「ペセシェト先生はいいよなあ。こんなにかわいい猫を飼ってるなんて」

 刺繍の襟のついた赤い繻子のブラウスに絹のズボンを履いた少年は、黄金色の髪をかき上げると、猫の主人に、晴れた日の海の色の瞳を向けた。

 少年と猫のそばに、膨らんだ黒革の鞄を提げて立っていた若い女性は、微笑んだ。

「エンリケ王子も陛下にお願いして、ご自分の猫を飼ったらよろしいではありませんか」

「そうだな。来年の十三歳の誕生日に、父さんに訊いてみようかな」

「きっとそうなさいませ」

 ペセシェトは、黒くまっすぐな髪を肩で切りそろえている。金色の腕輪と耳飾りが浅黒い肌によく似合った。風が吹くと、ここトリスタンにはないエキゾチックな香水の匂いが鼻をかすめる。もとは異国の人なので、言葉が少し古風で堅いのだ。

 エンリケは、愛おしそうにナジュムのお腹をなでながら、しゃがみ込んだままで言った。

「おれも小さい頃、猫や犬や鳥を飼っていたんだ。ねえやと一緒に世話をした。おれによく懐いてくれて、すごくかわいかった。だけど今はもう、みんな死んじゃったんだ」

 ペセシェトが何か言葉を口に乗せる前に、エンリケは笑顔でナジュムの主人を見上げた。

「ナジュムっていうのは、先生の故郷の言葉で、星って意味なんだっけ?」

「はい。ナジュムの青い目が、夜空に輝く若い星に似ておりましたので。わたしの故郷、イスカンダリヤは、猫をとても大事にする街。路地裏にもカフェにも家々の窓辺にも、そこかしこに猫がのんびり寝そべっております。王子も必ずやお気に召すことでしょう」

「でも、病院での検査が……」

「ずっと入院なさるわけではありません。街歩きの時間も十二分にございますよ」

「本当? やったぜ!」

 顔を輝かせて喜ぶエンリケに、ペセシェトは目を細めた。

「イスカンダリヤの病院で検査を受けると言っても、心配なさらないでください。わたしの友人が、どうしても王子にお会いしたいと言って聞かないので、その無理を聞いてやるだけなのです。友人は優れた医師にして、生命科学を探求する科学者でもあります。わたしとともにイスカンダリヤの学院マドラサで医学を学んでいた頃から、いにしえのクローン技術にひとかたならぬ関心を寄せていたのです」

「それなら一度、本物のクローン人間に会ってみたいと思うのも、当然だよな」

 ごくごく普通の子供のように見えるエンリケは、実はクローン人間なのだ。カルロス王の妃だった母が、科学者としての研究成果のすべてを注ぎ込んで、死んだ弟王アマデオの細胞から造った人工生命。それが、トリスタン王国の王子エンリケの正体だった。だから、エンリケと父王であるカルロスとは、一滴の血のつながりもないのだ。

 現在は、西暦二五一四年。二百年前の〈電網戦争〉は、科学文明を支えていたインターネットを完全に破壊し、地上世界をも荒廃させてしまった。四百年前から記録保存とコミュニケーションのすべてを電子空間に頼りきっていた人類は、直近の過去三百年分の歴史と、未来の何百年分になるかわからない科学の進歩の可能性とを一度に失ってしまったのだ。

 電網戦争以前の世界では、クローン技術で人間を造り出すことは禁制だった。科学技術が大幅に衰退した今、クローン人間といえば、この世界にただ一人、エンリケしか存在しない。

 城壁のすぐ下の崖に打ち寄せる波音にかぶさるように、荘厳な大聖堂カテドラルの鐘の音が耳を打った。ペセシェトは、ふと心づいて王子を促した。

「エンリケ王子、日差しをあまり長い間浴びられてはお身体に障りましょう。それと、そろそろ国王陛下にご出立のご挨拶をなさいませ。出航はまもなくです」

 エンリケの表情に一瞬、隠しようもないうとましげな色がにじんだ。それは、彼のかかりつけ医に対するものではなく、避けられない父王との面会に向けられたものだった。

「わかってるよ。じゃあナジュム、またあとでな」

 エンリケは、下を向いてナジュムの顎の下をわしゃわしゃすると、シルクのズボンの膝を伸ばして、国王の執務室へと向かった。

 

 父王への挨拶を済ませると、半刻前のしょんぼりした表情はどこへやら、エンリケは、水中で手を離した浮き輪のように元気いっぱいになって王宮の門を飛び出した。王子に並走する猫のナジュムが、昼寝シエスタの眠気から目を覚まして、意外な敏捷さを発揮している。

「じいさん! 熱中症に気をつけろよ!」

 溌剌と投げかけられた注意喚起に、王宮の門を守っている老衛兵が、ふさふさした灰色の眉を上げる。老衛兵が、ぎしぎしと固い首を九○度回したときには、声の主の少年と猫は、坂道の下にたちまち遠ざかってしまっていた。

 トリスタン王国の都トリストラムは、坂と階段の多い街だ。エンリケの暮らす宮殿は、海岸から盛り上がった小さな丘の上にある。

 何本もの電線が、白い壁の家々に囲まれた狭い路地の空を横切る。子供用のかわいらしいTシャツが熱風にはためく窓の下で、ぶちの犬が昼寝していた。裏路地に面したレストランの厨房の窓からは、オリーヴオイルとイワシの塩焼きの、食欲を誘う匂いが漂ってくる。

 薄青いタイルの剥げかけた数段の階段を駆け下りると、反対方向から登ってきたお兄さんが慌てて道を明け渡した。お兄さんが粋に着こなしているのは、西暦二○○○年代のクラシックな白い麻のスーツだ。きっと、代々家で大切に受け継がれてきたものなのだろう。

「危ないな! ありゃ、王子さまか?」

「ごめんよ!」

 ナジュムも「にゃ!」と捨てぜりふを投げて、実体を持たないホログラムのように軽やかな足運びで、お兄さんの足元をすり抜ける。笑いながら、転がるように坂道を駆ける少年と猫を、街の人々がみな振り返って見送った。

 待ちに待った航海への期待が、はちきれんばかりに追い風を受けとめる帆のように、過度に膨らみすぎて苦しいのだ。ともすればその膨らみは、港へと急ぐ足を邪魔しそうになるので、ときどき胸を押さえつけなければならないほどだった。

 イスカンダリヤへの旅が楽しみだったのは、実は、父王から離れたいからでもあった。父王に出発の挨拶をしたついさっきのことを、もやもやした気持ちとともに思い出す。

「いってきます」を告げると、父王カルロスは「道中気をつけるように。船長の言うことをきちんと守るように」と注意を促した。黄金の彫刻で装飾された国王の執務室には、フアナ妃の肖像画がかけられていた。

 父王からのはなむけに対して、エンリケは、心からの言葉で応えることができなかった。血のつながらない、おまけにクローン人間である息子のことを父王がどう思っているのか、エンリケにはどうしてもわからないでいるのだ。

 父王が、エンリケの叔父である前国王アマデオに何をしたのか、王子は知っている。その結果として、母が自ら命を絶ったことも。日に日にアマデオに似ていく自分を見て、父王が十二年前のいまわしい記憶を思い出さないわけがない。

 それに加えて、フアナが何を思って、弟の細胞からエンリケを創り出したのかも不明なのだ。弟を殺されて、当然母は夫である国王を恨んでいただろう。その母が、弟の遺伝子を受け継いだエンリケをこの世に残して、断崖に面した塔の上から身を投げた心情を思うと、エンリケはいつも寒気がした。もしかすると母は、アマデオそっくりに成長したエンリケが、父に対して、叔父と母親の復讐を果たしてくれることを望んでいたのではないだろうか。

 エンリケには、時々見る悪夢がある。ある日、身のうちにどす黒く湧き上がる理由のわからない衝動に駆られて、腰の彗星剣を引き抜き、一刀のもとに父王を切り捨てるという夢だ。いつかそうするようにと、母フアナが呪いを込めてエンリケを造ったのだ。そんなことはありえないと自分に言い聞かせても、もしかすると父王も、エンリケと同じ恐れを抱いているのではないかと考えずにはいられないのだった。

 イスカンダリヤは、母フアナが、父と結婚する前、まだ王女だった頃に留学していた街だ。王宮では父王をはばかってか、みな母妃の話をあまり語ってくれない。これから赴くイスカンダリヤで、母を知る人に出会うことができたなら、母がどんな人だったのか詳しく聞いてみようと、エンリケは心に決めている。母フアナが、何を思って何のために自分を生んだのかという謎に、王子は納得のいく答えを見つけ出したいと思っていた。

 腰に吊った彗星剣を握ると、神秘的な波動が瑞々しい力を与えてくれるような気がする。この刀身のまっすぐな愛剣は、売ってくれた友達の少女商人ジョルジュによると、彗星のかけらを鍛えたものだそうだ。その真偽のほどはわからないが、非常に軽いのに丈夫で、体力と筋力に自信のないエンリケにはぴったりだった。

 得意な剣を振るうことで、悪夢も悩み事も、すぱっと断ち切って解決することができたら、と思わずにはいられない。しかし、実際に問題を解決するために必要なのは、苦手な父と話し合う根気強さと我慢強さであることはわかっていた。

 大聖堂カテドラルの鐘楼に続いて、王立人文科学院アカデミアの時計塔が、時を告げる鐘を鳴らした。その澄んだ軽快な音に肩をたたかれて、エンリケとナジュムは、まぶしくてまっすぐ見られないほどきらきらと光る銀色の海へと、競い合って走った。

 港の酒場では、白や黄色に咲いたパラソルの下で、赤ら顔の船乗りたちが、昼間からジンジーニャを酌み交わしていた。ジンジーニャは、度数の高い黒サクランボのリキュールだ。葉巻を吸いながら新聞を読んだり、仲間どうしでトランプに打ち興じたり、果ては勢いよく椅子を蹴って殴り合いを始める血気盛んな男たちまでいる始末で、笑い声と囃子声の多い喧騒が尽きることはない。

 酒場の近くには、多くの野良猫たちがたむろしている。船乗りたちの食事のおこぼれにあずかろうとしているのだ。ナジュムはエンリケのそばを離れて、港のへりのところで丹念に前足をなめている猫のもとへ、興味深げにとことこと歩み寄っていった。だが、茶色のまだら模様のその猫から威嚇されると、体をびくっと震わせて、矢のように駆け戻ってきた。

 深い青色の海に突き出た桟橋に、何十艘、何百艘も白い漁船が停泊している。エンリケたちの乗る大きい船は、そこから少し離れた突堤に錨を下ろしている。

目の前に、三本のマストを天に突き出した巨大な帆船が現れた。その大きいことと言ったら、そう近くまで行かないうちに、空の太陽がマストの先にかかるほどだ。マストの先に、黄色の聖杯を染めぬいた旗がはためいている。大陸に名高いトリスタン海軍の軍船だった。

 エンリケは、船の上に見知った顔をいくつか見つけた。王子が呼びかける前に、向こうでも走ってくる少年と猫に気づいて、大きく手を振った。

 船のへりから姿を見せた人々の中に、独特なセンスのだぶだぶなシャツを着た少年がいた。茶色の癖っ毛の下の顔を、誰よりも輝かせて手を振るその少年は、やっと船の下までたどり着いた王子に向かって声を張り上げた。

「エンリケ! 待ってたんだよ! はやく登っておいでよ!」

 エンリケも、片手でひさしを作って船を見上げ、一つ年上の友達の名を笑顔で呼んだ。

「テオフィロ! 待たせたな!」

 エンリケは、船の胴体に垂れ下がっている縄梯子に足をかけたが、するすると手際よく登っていくというわけにはいかなかった。猫を片腕で抱えなければならなかったからだ。

 頭のてっぺんが、船のへりと同じ高さになるところまで登ってから腕を伸ばすと、ナジュムは、ここまで運び上げてくれた恩も忘れ、エンリケの肩を勢いよく蹴って船の中に飛び込んだ。ご丁寧に、立派な縞模様の浮かんだふさふさのしっぽで、エンリケの顔を叩いていく。

「おい、ナジュム!」

「ははっ。さあエンリケ、ぼくの腕につかまって」

 エンリケは、身を乗り出してこちらに腕を差し伸べているテオフィロを見上げた。逆光になったテオフィロの顔の後ろから、太陽の輝く矢がエンリケの目を裏側まで射抜いた。

 頭の内側に鋭い痛みを覚えると同時に、縄梯子をつかんでいた両手から力が抜けて、エンリケは虚空に背中から倒れ込んだ。

 万力のような握力を二の腕に感じたかと思うと、エンリケの上体は、すぐに安定した力で船の上に引っ張り上げられた。「エンリケ!」と不安そうに呼ぶテオフィロの声にかぶせて、

「ったく、王子さまはほんとに体力がねえなあ。大丈夫だ、テオフィロ。はしゃぎすぎて死んだ人間はいない」

とあきれているらしい男の人の声が聞こえた。同じ声が周囲に命じる。

「おい、誰か王子に水を一杯持ってきてやれ」

 気持ち悪い緑の残映が、閉じたまぶたの裏の暗闇に揺れている。脈を打つたびに、ずきずきと頭蓋に痛みが走る。エンリケがやっとのことで薄目を開けると、親友の心配そうなオリーヴ色の瞳に出会った。エンリケは努力して笑ってみせた。

「オスバルドの言う通りだ。少し、はしゃぎすぎたみたいだ」

 心配症の友達は、やっと笑ってくれた。エンリケは、テオフィロのオリーヴ色の瞳の中に、疲れきったように顔を青ざめさせている自分自身を発見したくなかった。

 エンリケは、頭の痛みをこらえてゆっくりと上体を起こした。トリスタン海軍の士官の制服を着た赤毛の大男が、片手に腰を当てて王子を見下ろしている。口には気障に煙草をくわえていた。エンリケは、なるべく頭に響かないようにお礼を言った。

「引っ張り上げてくれてありがとう、オスバルド」

「ついでにお姫さまだっこで船室まで運んでやろうか?」

「それは遠慮しとくよ」

 赤毛のオスバルドは、にやっと笑った。唐突にエンリケの顔の前に、ぐっとお椀が突きつけられた。中には水が揺れている。

「げ、いんちき占い師」

「その言い草はなんですか。せっかく水を持ってきてあげたのに」

 エンリケをにらみつけたのは、長い黒髪を三つ編みに垂らしたスカート姿の女の子だった。首元や腕に、まじないのビーズの輪をたくさんかけている。

「なんでこの船に乗ってんだよ。お前までイスカンダリヤに行くのかよ」

「そうですね。王子さまの前途に、まがまがしい黒雲がかかっているのが見えたので」

 エンリケは水を吹き出して咳き込んだ。占い師のエリカが大仰に身を引く。

「王子さま⁉︎」

「お前、予言を当てるために、この水になんか入れたりしてないよな?」

「そこまでするわけないでしょう! 失礼な!」

 出港前の準備をしている船員たちが、どっと笑った。船に積まれた貨物のにおいをかいでいたナジュムが、ナア、と鳴いてとことこと船縁に走り寄った。

 港の岸から、飼い主のペセシェトが手を振っていた。クリーム色のつば広の帽子を上げてエンリケを見つけると、笑顔になった。

「エンリケ王子、わたしがお供するはずでしたのに。すっかりナジュムに気に入られたようですね。ところで、顔色が少しお悪いようですが?」

 ペセシェトの診察から解放される頃には、エンリケの具合はすっかりよくなっていた。

「アドラがいないみたいだけど、どうかしたのか?」

 エンリケはいぶかしげに辺りを見回した。アドラシオンは、巨大帆船を操り、荒くれ者の水兵たちを束ねる女性船長である。これまでと同じならオスバルドは、アドラシオンの下で副船長をしているはずだった。

 テオフィロとエリカが、オスバルドに視線を向ける。オスバルドは王子の黄金色の頭をこつん、とこづいて、わざとらしくしかめつらしい声を出した。

「アドラではなく船長と呼びなさい」

「全然似てないぞ」

 オスバルドは、心外だなというふうに肩をすくめて、癖のある赤毛に指を突っ込んだ。

「今はこの俺さまが、ヴィヴィアン号の船長さ」

「ええっ?」

「アドラシオン元船長は、提督(アドミラル)にご出世なさる。今頃、宮殿の広間に、不機嫌の権化みたいな顔して仁王立ちしてるはずさ」

 オスバルドは心底おかしそうに笑い声を立てた。



  第二章 亡き国王の騎士


 部下である赤毛の船乗りの予言は、はずれていた。ヴィヴィアン号の元船長は、王宮の大広間の高い天井の下、アンティークのオークの椅子にむっつりと座っていたのだ。

 油絵具で描かれた愛らしい天使たちの飛ぶ天井からは、金の鎖でシャンデリアが吊り下げられ、幾千もの水晶が燦然と輝いている。壁際には置き物の甲冑ではなく、長い銀の槍を手にした近衛兵たちが、凛として背筋を伸ばしていた。

 陸軍では「将軍」と言う地位を、海軍では提督と呼ぶ。現在トリスタン海軍には三人の提督が存在する。三十代前半であるアドラシオンが昇進すれば、四人の中で最年少であるばかりか、トリスタン海軍の栄光ある歴史の中でも類を見ない若き提督となるはずだった。

 トリスタン王国は現在、どこの国とも戦争をしていない。トリスタン海軍の主な仕事は、近海に出没する海賊から商船や巡礼者たちを乗せた船を守ることだ。アドラシオンは、海賊との海戦においてこれまで大きな功績を挙げてきた。加えて、ちょうど一年前には、唯一絶対の真理を信仰する、過激な科学者の集団である〈ミネルヴァの梟〉を捕縛している。ミネルヴァの梟は、文明が終焉するときに真理が明らかになると信じて大規模なテロを企てたり、エンリケ王子を狙ったりしていた、危険きわまりない組織だったのだ。

 晴れがましい昇任式であるにもかかわらず、アドラシオンの顔に誇らしさはにじんでいなかった。今頃ヴィヴィアン号は、エンリケ王子を乗せて出航準備をしていることだろう。今回の航海でも指揮するつもりだった、愛着のある船に乗り込めないことが、アドラシオンの不満の原因の一つだった。

 もう一つの原因は、オークの椅子が並べられた舶来の長い絨毯の先に立っている。金の刺繍のマントを身につけた堂々たる体躯の国王を視界に入れると、コップ一杯のアブラムシを飲み下したように、アドラシオンの胸はむかむかした。

 室内楽団が、古典音楽を優雅に奏でる。大広間の黄金の壁にかけられた肖像画は、歴代の王や女王のものだ。その中には、前国王アマデオを描いた絵もあった。

 額縁の中の金髪のその人は、羅針盤を手にして、すっと遠くを見やる澄みきった青い眼差しをしている。それは画家によって作られた表情ではなくて、アドラシオンと語り合うときに、アマデオがいく度となく見せた顔だった。

「ねえ、アドラ」と、アマデオはアドラシオンに呼びかけたものだった。両親が急逝して、アマデオは十四歳で玉座につくことになった。

「僕は精一杯努力して、よい王になろうと思う。そのときは、アドラ、僕の、僕の——」

 アマデオは薄い胸に手を当て、その先の言葉をいいあぐねて頬を赤くし、それから一瞬前まで言おうとしていたこととは、おそらく違うセリフを続けた。

「海軍大臣になってほしい。そして僕と一緒に、ずっとこの国を守ってほしいんだ」

 アドラシオンは、その頃は自分より背の低かったアマデオと熱い握手をかわした。

 大広間に飾られている肖像画は、アマデオの二十歳の誕生日に描かれたものだ。その数日後に、義理の兄にして軍務大臣のカルロスがクーデターを起こし、アマデオの時間は、二十歳で永遠に止まってしまった。

 アドラシオンは、ついに提督アドミラルとなる。まだ海軍大臣は遠いが、きっといつかはその席を手にすることになるだろう。けれど、その座を目指した熱い気持ちは、十三年前、かけがえのない友人の体とともに、凍てついた冬の海の底に沈んでしまった。華奢な体に余る理想とこの国ごと守りたかったその人は、もはやこの世のどこにもいない。

 国王のそばに控えた侍従長が、よく通る声でアドラシオンの名を呼んだ。オークの椅子から立ち上がったアドラシオンは、儀礼用の華麗な海軍の正装を身につけている。金ボタンが二列縫い付けられた深い青色の上着は、太腿までの丈がある。頭にはつばの反り返った帽子をかぶり、上着と同じく深い青のズボンと黒いブーツを履いている。飾り気のないリボンで毛先を結んだダークブラウンの髪が、肩の金モールと胸にきらめくたくさんの勲章のメダルを払った。

 アドラシオンはきびきびと絨毯の上を歩むと、長いマントを広げて、国王カルロスの前に片膝をついた。カルロスが、傍らの侍従長から恭しく手渡されたサーベルを、アドラシオンの両肩に一度ずつ交互に当てる。

 首を垂れると、必然的に腰に佩いたサーベルが目に入った。支給されている儀礼用のサーベルではなく、実戦においてよく使い慣れたものだ。正装の上着の裏ポケットには、ずしりと重い短銃もしまってある。

 国王に最も近い位置にいる今ならば、容易に復讐を果たすことができる、とアドラシオンは醒めた頭で考えた。国王もサーベルを手にしているが、そんなものは手首ごと切り落としてやればいい。一気に立ち上がって、カルロスの心臓を一突きに貫くのだ。周囲の者が誰も反応できないうちに、その場を駆け去ることは、俊敏な元船長にとってあまりに容易だった。王宮の儀仗兵などは、アドラシオンの敵にもならない。

「汝、国王の騎士アドラシオンを、海軍提督に——」

 ひざまずいたままのアドラシオンの右手が、ゆっくりとサーベルに向かって這った。

 そのとき急に、カルロスの声が途切れた。甘美な復讐の夢想を断ち切られ、アドラシオンは手の動きを止めた。

 顔を上げると、カルロスに海軍士官が何事かささやいている。

「ヴィヴィアン号が海賊の襲撃を受けて、現在応戦中とのことでございます」

 動揺を隠しきれぬ声が落ちてきて、アドラシオンはさっと顔を上げた。

「陛下、エンリケ王子も危のうございます。早急に援軍を派遣なさいませ」

 アドラシオンの鋭い声に、国王のそばにいた士官がたじろいだ。

「しかし、三人の提督の指揮する軍は、現在王都を離れ、海辺の要塞を守っております。現在宮殿にいるわずかな兵は、みな儀式のために儀礼用の正装と帯剣をしておりまして、戦支度を整えるには時間がかかります」

「致し方ない。とにかく近衛兵に命じて、可及的すみやかに着替えさせよ」

 国王が指示を出した。

 大きな鳥が飛び立つように、国王の足元からアドラシオンが立ち上がったのは、そのときだった。そのまま身を翻したアドラシオンに、大広間に参列していた兵士たちがどよめき、耳に心地よい楽団の演奏が止まった。

 背後から、国王の朗々とした声がアドラシオンを呼び止めた。

「近衛兵の準備ができるまで待て!」

 アドラシオンは、激しい表情で振り返った。

「先ほどあなたは、私を『国王の騎士』と呼んだが、私はもとより前国王アマデオの騎士です。これからだって、ずっとそうです」

 それだけ言い捨てると、あと一歩で提督になるはずだった海軍将校は、ブーツを鳴らしてカルロス王に背を向けた。

 これから先、と名づけられた日々をずっと一緒に生きていきたかったひとは、アドラシオンの未来から永久にいなくなってしまった。だとしても、大好きだったそのひととともにあった過去は、誰にも奪うことはできないはずだ。

 大広間を出て、優美なアーチの連続する廊下を走り抜けるとき、肩が重いのは、胸元を飾る数々の勲章のせいだと気づいた。アマデオの願いどおり、トリスタンを守って戦ってきたこの十三年間に、カルロス国王から賜った勲章だ。アドラシオンは走りながら、星や十字架の形をした金銀の勲章を、一つ、また一つとはずしては捨てていった。

 けれど唯一、国王の騎士であることを証明する小さな金のメダルだけは、残しておいた。亡き友人から授けられたそのメダルは、アドラシオンが誇りに思う、たった一つの身分を証し立てるものだった。

 宮殿の建物を飛び出したアドラシオンは、出動する近衛兵のために、広場に準備されつつあった馬に飛び乗った。柱に結わえつけられていた手綱をサーベルで断ち切る。馬の世話をする役人が制止する暇もなかった。

 坂道と階段を駆け下っていく途中で一人も踏み殺さなかったことは、奇跡に近かった。この日、港の酒場で暇をつぶしていた船乗りたちは、息せききってトリスタン海軍の軍船に走っていく人物を、短い時間に二人も目撃することになった。

 マントを翻した華麗な正装の海軍将校が、港の石畳を蹄の音も高らかに駆け抜けると、ジンジーニャをラッパ飲みしていた船乗りたちは総立ちになり、売れ残った魚のおこぼれにあずかっていた猫たちは、散り散りになって逃げ惑った。

 空の低い位置に移動した太陽の黄色い光を受けて、三本のマストを天に突き出したヴィヴィアン号が、アドラシオンの前方に姿を現した。しかし、ヴィヴィアン号の周囲に、海賊船らしきほかの船の姿はない。船上も静かなものだ。アドラシオンは、大いに怪しみながらも馬を飛び降り、サーベルを抜き放って船の上に躍り込んだ。

「オスバルド、私だ! エンリケ王子は無事か?」

 白刃をさらし、殺気立って乗り込んできた元船長を出迎えたのは、クラッカーを打ち鳴らしたように弾ける笑い声だった。

 固まるアドラシオンの周りを、エンリケ、テオフィロ、エリカ、ベルトラン、ペセシェトをはじめとするヴィヴィアン号の船員たちが取り囲んだ。

 オスバルドが、元船長にわざとらしい丁寧な一礼をする。

「これはこれはレディ・アドミラルではありませんか。このようなむさくるしいところにようこそいらっしゃいました。して、海賊の襲撃でもあったので?」

「……これは、どういうことだ」

 エンリケが、笑いながら暴露した。

「ごめんよ。みんなでアドラをだましたんだ」

「ちゃんと説明してください」

「海賊の襲撃っていうのは、嘘なんだ。さっき王宮から、アドラが駆け込んでくるからそれまで出航を待ってくれっていう使いが来たんだよ」

「いったい誰がそのような命令を?」

「国王陛下ですよ」

 学者のベルトランの答えに、アドラシオンは目を見開いた。

「カルロス国王が?」

「陛下は、アドラシオン船長を提督にすると決めてしまってから、後悔したのです。船長本人は昇進に乗り気ではなく、ヴィヴィアン号の船長を続けたいと望んでいることを知ったので。だから、このように派手な芝居を打つことになさったのです」

 だんだんアドラシオンにも事情が飲み込めてきて、機嫌と声の温度が急降下した。

「しかし、それなら昇進の決定を取り消しにすればいいだけではないか」

「正式にそれを伝えれば、アドラのことだから、自分の代わりに船長に昇進したオスバルドに気を使って、取り消しを受け入れなかったんじゃないかな」

 まんまと国王の策にはめられたとわかって、アドラシオンの眉間にしわが寄った。先ほどからにやにや笑いの消えない赤毛の船乗りに、指を突きつける。

「言っておきますが、エンリケ王子。私はこいつなんかのために船長の座を諦めたりはしませんよ。国王は見事に見誤りましたね。昇進の取り消しが下れば、私は喜んでこいつからキャプテンハットを奪い取っていたでしょうに」

 それが、悔しまぎれの負け惜しみだとわかっているから、部下の船乗りたちは、お互いに肩をたたきあって笑い崩れた。

「それと王子、私のことはアドラではなく——」

提督アドミラルと呼べ、ですかい?」

 オスバルドが横槍を入れたので、アドラシオンはむっとした顔をした。

「私はまだ、正式には提督に任命されていない。アドラではなく船長と呼びなさい」

エンリケが明るい声を上げて笑うことに、アドラシオンは複雑な感情を覚えた。

 年を追うごとに、エンリケ王子は声も顔もアマデオに似ていく。しかし、アマデオは、こんなふうに大声で笑うことなど滅多になかった。彼はどちらかと言えばテオフィロのように、ふふふ、と優しく笑う子供だったのだ。

 いつかペセシェトに聞いたことがあった。持っている遺伝子がまったく同一でも、育った環境が大きく影響するため、外見や性格がアマデオと同じになることはないのだと。アマデオとエンリケ王子は、いくらクローンでも、双子以上に似通うことはないのだ。

 どれだけ似ていても、エンリケはアマデオではない。そのことを誰よりも自分に言い聞かせるために、アドラシオンは王子に、親友のつけたあだ名で呼ばせないようにしていた。

 船長は、むすっとした顔つきのまま、船首から船尾まで響き渡る大声で命令を下した。

「出航の準備だ! メインエンジンをかけろ!」

 この帆船は、帆で受ける風のほかにエンジンの力を借りて航海するのだ。続いて、副船長に降格したオスバルドが、三本のマストに畳まれた二十枚の帆の紐を解くように号令した。二十人ほどの船員たちが、一斉にマストにかけられた網梯子を登っていく。マストの一番上は、王宮の尖塔のてっぺんと同じほどの高さだ。王都の果てまで見渡せるという。目もくらむような高さをものともしない船員たちは、帆の下に渡されているたった一本の綱を足がかりに、帆を畳んでいるロープをほどいていく。

「そうれ! そうれ!」

 掛け声とともに、船員たちが一列に並んで丈夫な綱を引き、帆を引き下ろした。三本のマストすべてに白い帆が張られると、船は海上に降りた神々しく輝く白鳥のように見えた。あるいは、絹の豪奢なドレスを身にまとった優雅な貴婦人のように。

「ヴィヴィアン号はいい女だろう? ま、俺さまのディアナには及ばないけどな」

 オスバルドが、ふふん、と得意げに言う。ディアナとは、この船乗りの昔に亡くなった美しい恋人だった。

 出港からややあって、儀礼用の正装から通常の軍服に着替えたアドラシオンは、船のへさきから進行方向の海を見つめた。トリストラム湾の出口辺りには、三角帆の小さな異国の商船が白い航跡を描いている。ダークブラウンの髪が強い海風になぶられた。

 甲板に規則正しい靴音を響かせて、ベルトランが現れた。

「船長、どうか怒らないでください。実は、国王陛下に今回の提案をしたのは私なのです」

「学士殿が?」

 簡素な白いシャツをまとい、豊かな黒髪を持つ若き学者は、好青年風の笑みを浮かべた。

「国王陛下は、アマデオ前国王を殺してしまったことを深く悔いておいでです」

「……後になって悔いさえすれば、どんなことでもしていいのか」

「そういうわけではありません。しかし国王はクーデター後、アマデオさま派の臣下を粛清したりはなさいませんでした。その逆に、クーデターを支えた自分の配下の者と同様に取り立てたのです。あなたを提督アドミラルの地位につけようとしたのもそうした采配の一つです」

 アドラシオンが何か答えようとすると、ベルトランとは反対側に、赤毛の副船長が立った。アドラシオンは、女性としては背の高い部類に入るが、大男であるオスバルドと並ぶと小柄に見える。その大男は、首を振りながら忠臣づらをした。

「このいんちき好青年にだまされちゃあいけませんぜ。あんたは国王への復讐の機会をうかがっているくらいが、覇気があって、部下としちゃ付いていきがいがあるんですから」

 ベルトランは、先ほどまでの胡散くさい好青年スマイルを消し、口悪く応じた。

「貴様は謀反でも唆すつもりか、このいんちき赤毛が」

「言うに事欠いて、人の頭髪に偽物の疑惑をかけんでくれるか、学士さま」

 オスバルドとベルトランは、互いに剣呑な視線を交わした。「やめないか二人とも」と、アドラシオンがうんざりして口を出す。

「それに私は、国王への復讐を企ててなどいない」

 アドラシオンの言葉に、オスバルドは意味ありげに視線を動かしてみせた。

「ほうう、じゃあなんで、昇任式や叙勲式で国王に近づく機会のあるたんびに、儀礼用じゃなくて、実戦用のサーベルを持ってくんですかねえ」

「今日のような非常事態にも、即座に対応するためだ。今回は不本意にもいっぱい食わされたがな。復讐を考えることは今でもあるが、夢想するのと実行するのとは随分な差だ」

 オスバルドは、くくくと忍び笑いをした。

「それにしても、あんたはもう少しのところで、トリスタン海軍における百年ぶりのレディ・アドミラルになり損ねましたな。いやはや、俺さまの出世のためにも残念至極」

「国王暗殺をそそのかすようなやつに、船長の大任を任せてはおけない」

 アドラシオンは腕を組んで、目元にあるかなしかの笑みをのせた。

「なに、カルロス国王との仲は、この航海が終われば、エンリケ王子に取り持ってもらうさ」

 アドラシオン、オスバルド、ベルトランの六対の視線は、甲板でテオフィロ、エリカとともに猫と戯れるエンリケのもとに向かった。アドラシオンは、愉快そうに続けた。

「しかしそれも、エンリケ王子が、私より先に国王と和解してからのことだがな。ほら見ろ、水平線に夕日が沈んでいく」

 エンリケ、テオフィロ、エリカの三人も見事な夕日に目を奪われていた。オーケストラの演奏がつかないのが不思議なくらいの絶景だ。トリストラム湾をつくる左右の二つの岬も、後方の丘に築かれた王都も、今は茜色の支配下にある。家々の白い壁や、丘の上の崩れかけた砦の城壁や、宮殿を包む樹々の緑に、海の方角から投影された光は、トリストラム名産の、皮の色が濃くて甘いオレンジを思い出させた。

 二人の友達より少し高い目線で海上の夕焼けを見渡しながら、テオフィロは、「ジョルジュにも見せてあげたいな」と思った。相棒の巨大な鳥に乗って、大陸中を文字通り飛び回っているあの少女商人はきっと、これよりいくらでも美しい夕日を見たことがあるのだろうけれど。今はどこの空でどんな景色を見ているのだろう。その思いが胸に兆すと、テオフィロは、最近とんとトリストラムに姿を見せない友達に会いたくてたまらなくなった。

 ひと月ほど前の昼下がり、エンリケに会いに王宮へ向かっていたテオフィロは、大聖堂カテドラルの前の石畳の広場で、王宮に住む占い師のエリカにばったり会った。二人は、広場の隅の木陰の長椅子に腰掛けた。広場には長方形の大きな池があって、水面に大聖堂のゴシック建築を映している。ちょうど昼寝シエスタの時間で、夏の日差しを白く反射する広場には、ほとんど人影がない。もう少したって涼しくなれば、酒場の冷たい林檎酒シドラやポートワインを求めて、トリストラム市民が外に繰り出してくるだろう。

「これ、そこで買ったんだよ」

 テオフィロが、ポケットから油紙に包んだエッグタルトを取り出すと、エリカは「ありがとう」と嬉しそうに受け取った。油紙を広げた途端、ふわっとシナモンの甘い匂いが漂う。

「最近、工房では何を作ってるんですか?」

 エッグタルトを頬張りながら、エリカがきいてきた。テオフィロは、王宮の外の大きな工房で働いているのだ。テオフィロの工房は、室内に置く調度品から船のエンジンまで幅広く手掛けている。

「今度、王立図書館を建てるだろう? その図書館に置く本棚と閲覧机を山ほど発注されてるんだ。その仕事と並行して、ジョルジュから頼まれてるオルゴールも作りためてあるんだけど、全然取りに来ないんだよ」

 共通の友達であるジョルジュの名前を出すと、なぜかエリカの顔が曇ったような気がした。考えてみると、もう三ヶ月も会っていないので、一人で旅をしているジョルジュのことが心配なのかな、と細工師の卵の少年は思った。その気持ちはテオフィロも同じだ。

「いつも一ヶ月に一度は顔を見せるのにね。エンリケから付けを取り立てるためだけどさ」

 テオフィロのあきれたような口調に、エリカがくすくすと笑った。テオフィロの親友であるエンリケは随分な浪費家で、ジョルジュから高価な商品を色々と買っているのだった。いまだ十三歳の子供ながら、やり手の商人であるジョルジュからは、いいカモと見なされているかもしれない。

「それだけじゃなくて、ジョルジュは、テオフィロのオルゴールや寄木細工を買い付けに来てるんでしょ?」

 エリカに指摘されると、謙虚なテオフィロは、照れて頬を赤くした。ジョルジュは、手先が器用でセンスのいいテオフィロの作品に惚れ込んで、外国で売っているのだった。

「ジョルジュは今頃どこで商売をしてるんだろう。トリスタンの上質なオリーヴオイルも金銀細工も、ジョルジュに仕入れられるのをいまや遅しと待ってるのにね」

 テオフィロは、独特な形をした自作のペンダントをいじりながら言葉をつないだ。

「実はね、待っていても来ないなら、ぼくのほうから会いにいこうかと思ってるんだ」

「ジョルジュのいる場所がわかるんですか?」

 エリカのびっくりした声に、テオフィロは、恥ずかしそうにうつむいた。

「わかんないよ。でも、トリスタンの周りの大きな街にはよく商売に来るって、教えてくれたことがある。そこで直接は会えなくても、ジョルジュがどこにいるかの情報は手に入るんじゃないかな。大きな鳥と一緒の女の子の商人なんて、滅多にいるものじゃないんだから」

「でも、一人で行くつもりなんですか?」

「うん。新しい図書館の本棚を作る仕事が一段落ついたら」

 テオフィロは、まだ見ぬ街でジョルジュと会ったときに、あの派手な服装をした少女が浮かべるだろう驚きの表情を想像して、楽しい笑みを浮かべた。

「これまでずっと、ジョルジュには会いに来てもらうばっかだった。でも、ぼくのほうから会いにいったら、いつもジョルジュがトリスタンに来てくれたとき、ぼくが嬉しいと思っているくらいに、ジョルジュも嬉しいと思ってくれないかな。そうだといいな」

 エリカは、食べかけのエッグタルトを膝の油紙の上に下ろした。

「一ヶ月後、ヴィヴィアン号がイスカンダリヤに向けて出航するらしいですよ。王子さまも行くそうです。一緒に乗せていってもらったらいいんじゃないですか? イスカンダリヤは大きな港町だから、ジョルジュの居場所の手がかりも見つかるかもしれませんよ」

 テオフィロは、エリカの提案を吟味した。

「うーん、邪魔にならないようだったら、ぼくもその船に乗せてもらおうかな」

 エリカは、力を込めて大きくうなずいた。

「それがいいですよ。一人旅は危ないけど、ヴィヴィアン号ならアドラシオン船長やオスバルドさんに守ってもらえますから」

 回想にふけっていたテオフィロの頬を、夕日の最後の光が優しくなでた。夕日が沈んでいく海の向こうの異国(とつくに)に、探しびとはいるのだろうか。



第三章 記憶する雲


 時は再び一ヶ月前に巻き戻る。エンリケやエリカの暮らす宮殿の隣では、王立図書館の建設工事が行われていた。

 その場所はもともと、異教の人々がこの地を支配していた頃に後宮ハレムとして使われていた。しかし、トリスタン国王は代々後宮を持たなかったので、数十の泡のような丸屋根を持つ建物群は、長くほったらかしにされていたのだ。

このたび、西方の知恵の都と名高いルーニアンに学んで、大規模な王立図書館を新設するにあたり、旧後宮は全面的に補修され、新たな建物も増築される。異教の世界からもたらされたドーム屋根とモザイクタイルの壁、そしてトリスタンのゴシック建築とステンドグラスの窓が融合した新しい王立図書館は、さぞかし壮麗な建築物になるだろう。

 建設省の役人のトマシュは、王立図書館新設の工事責任者に任命されたことを、心から誇りに思っていた。カルロス国王の治世においては、おそらく最大の建設事業だ。

 泉のように湧き上がる、まだ見ぬ図書館の設計図に胸をときめかせながらトマシュが旧後宮ハレムを歩き回っていると、改修工事の現場で働いている大工たちが、廊下の一角に集まって騒いでいるところに出くわした。トマシュは、責任感でぱんぱんに膨れているのだと、しばしば妻にからかわれる太ったお腹を揺らしながら、現場に急行した。

 騒ぎの原因は、夜の廊下を照らすランプを長年置いたために、黒くすすけている壁にあった。壁を塗り固めた漆喰の一部が剥がれて、頭をさし入れることができるほどの穴が開いている。暗い穴の向こうには、それなりの広さを持った空間が存在するようだった。

「隠し部屋か……?」

 何といっても旧後宮だ。万が一都が敵に包囲されたときのための隠し通路や、財宝を収めた秘密の部屋が、歴史の混乱の中で忘れ去られ、取り残されていたとしてもおかしくない。

 トマシュは大工たちに、漆喰の壁を取り壊すよう頼んだ。

 漆喰の壁の内側は、十人入ればいっぱいになってしまうほどの大きさの部屋だった。中からは、甘いような埃っぽいような匂いがする。何かがぎっしりと詰め込まれているようだ。

 トマシュは、手にしたランプを無造作に、入口近くの何かが積まれた山に置こうとして、慌てて腕を上げた。

 封印された部屋の内部に隠されていたものは、非常に燃えやすいお宝だったのだ。


 赤毛の船乗りことオスバルドは、電脳考古学サイバースペース・アーキオロジーという学問分野に対して、うさんくさい印象を抱いていた。名前を聞いただけでは、どんなことを研究しているのか皆目見当がつかないし、名前そのものもどうもすかしている。だからオスバルドは、この学問を専門にしている黒髪の友人のこともうさんくさく思っていた。というのは逆で、その友人が気に入らないからこそ、彼の専攻する電脳考古学の印象も最悪だったのだ。

 その友人の名は、ベルトランといった。

 王立人文科学院アカデミアは、大学や高校、博物館のある文教地区の森に囲まれた一画に、ひっそりと立っている。一階から四階には学者たちの研究室や会議室が入り、地下には貴重な学術書を集めた広大な書庫が眠っていた。その、広い中庭を囲む口の字型の建物に、電脳考古学者ベルトランの研究室はある。階段を最上階まで登りつめた四階だ。老体の研究者が多いため、若手は上の階に追いやられているのだった。

 オスバルドは、広く緩やかな階段を身も軽く駆け上がると、廊下の一番奥のドアをノックもせずにいきなり開けた。

 奥で書き物をしていた部屋の主人が、礼儀知らずの闖入者に非好意的な視線を向けた。

「静かな研究環境を守るのに協力してくれないか。ドカドカとやかましく階段を登ったりして。ここは船の甲板じゃないんだ」

 オスバルドは学者の言葉を無視し、横柄な態度でソファに身を預けた。ただし、腰を下ろす前には、ソファの上から、積み上げられた重い本をどかさなくてはならなかった。しかも、本を下ろしたソファの表面には、不注意にも繰り返しコーヒーでもこぼしたのか、茶色のしみができている。天井まで届く高さの本棚からあふれた本が、床のそこかしこに小山を築いていた。そのせいで、小さいとは言えないはずの部屋が、手狭に見える。

 実は、本棚に並ぶ立派な箱入りの書籍のいくつかは、ちょうど冬虫夏草のように、内側を年代物の葡萄酒の瓶に乗っ取られている。そのことを知る数少ない人間であるオスバルドは、「学士さまの腹の中が真っ黒なのは、葡萄酒の飲み過ぎのせいだ」とよくからかった。

 部屋の窓にはカーテンの代わりに、仏像の絵がかけられていた。壁や扉は、梵字や漢字、その他読めない文字の記されたおふだで埋め尽くされている。天井から下がっている緑青の浮いた大小の古い鐘は、魔除けの風鐸だ。電脳考古学者の書斎というよりは、怪しい魔道士の研究室みたいだな、とオスバルドはいつも同じ感想を抱く。

 赤毛の船乗りは煙草をくわえると、ポケットから取り出した安物のライターで火をつけた。ベルトランが椅子から立ち上がり、がたがたとわざとらしく音を立てて窓を開ける。

「この建物は全館禁煙だぞ。本やらノートやら、燃えやすいものがたくさんあるんだ。火事にでもなったらどうしてくれる」

 オスバルドは、十年来の悪友の言うことには耳も貸さず、実にうまそうに煙草の煙を吐き出すと、非常に不謹慎なことを口にした。

「もしもこの建物が火事になるか爆破されるかしたら、罪のないじいさんばあさんが大勢死んじまうわけだ」

 その言葉を聞いて、広い机の片端に浅く腰掛けた部屋の主人は眉を吊り上げた。

「それは、トリスタン王国、いや、世界の人文科学研究にとって重大な損失だぞ」

「その重大な損失を望んでる連中がいる。てめえも知ってるだろうが」

 ベルトランは、流し読みしていた本をパタン、と閉じてつぶやいた。

「ミネルヴァの梟か」

 オスバルドはうなずいた。

「ああ。狂信的な科学者どもが作った、あの過激なテロリスト集団さ。一年前、トリスタン海軍が主なメンバーを捕縛して壊滅させたが、残党がまだ残ってやがる。やつらは、捕縛に協力したトリスタンの学者どものことも憎んでるからな。テロを仕掛けられねえように、せいぜい気をつけるこった」

「我々を守るのは貴様らの仕事だろう。私たちは平生と変わりなく、地道に研究を続けていくだけだ」

 が、そう言い切ってから、何かを思い出したらしいベルトランは声を出さずに笑った。

「だがやはり、万が一非命に倒れたらということを考えると、自分の記憶をバックアップして保存しておくことができたらと思わずにはいられないな」

「脳みその外側に、記憶のコピーを作って取っておくってことか?」

「ああ。大空白時代には、そんな夢のような技術が実用化されていたらしい。これを見ろ」

 ベルトランは、筆記用具やら巻物の束やらがごちゃごちゃと置かれた広い机の上に、ページが変色してしまっている古ぼけたノートを慎重に広げた。

「きったねえノートだな」

「ところがこれが、我々を宝の山へと導く魔法の地図なのさ。数日前に、旧後宮ハレムの壁の裏側から、電網戦争まっただなかに記された大量の文書群が見つかったんだ」

 ベルトランは目を輝かせて語ったが、残念ながらその興奮は赤毛の船乗りには伝染しなかった。オスバルドは柄悪く、両腕をソファの背もたれの上にかけてふんぞり返る。

「学士さまよ、かびくさい本の山に埋もれてるとそのうち、肺に新種のキノコでも生えてくるんじゃねえか? アトイチページダケ、とかな」

「たわけたことを言うな。無学な貴様でもさすがに知っての通り、二百年前に電網戦争が終わったとき、その時点から遡ること三百年分の記録はすべて消し飛んでしまっていた。その当時、記録の作成と保存は、ほぼ完全に電子空間上に移行していたから、それが消え去ったということは、三百年分の過去がまるまる空白になってしまったのと等しい。この三百年間を、歴史学では〈大空白時代〉と呼んでいる」

「だけどよ、その時代のことが丸ごとわからなくなるなんてありえないだろ? 何かしら手がかりは残ってるはずだ」

 ベルトランはうなずいた。

「ああ。大空白時代末期、すなわち電網戦争の時代に生きていた人々の証言や手記がある。それに、考古学の分野では、この時代の遺物の発掘と研究が続けられている。しかし、大空白時代の全貌を知るには、あまりにも少なすぎる資料だ。旧後宮で見つかった文書群は、この分野の研究を大きく発展させるだろう。大空白時代などという不名誉な名前を変えてやることもできるかもしれないな」

「学士さまにとっては大問題かもしらんが、正直俺さまにとっちゃどうでもいいね。数百年前の歴史が明らかになっていようとなっていまいと、それが今の生活にどんな関係があるっていうんだ?」

 オスバルドは、いけすかない学者の友人を挑発する目的もあって、わざとこんなことを言ったのだが、ベルトランのほうは、明らかにこの手の反問に慣れていた。にこり、とオスバルドが怖気をふるうような、好青年風のさわやかな笑みを浮かべる。

「現代世界のこの状況は、電網戦争に原因を求めることができる。だから、どうして電網戦争が起こってしまったのか、詳しく研究してみなければならないんだ。それに、歴史を知ることで、今の時代を相対的に見ることができる。例えば、命や国家や科学の進歩など、現代では絶対の価値があるとみなされているものがある。しかし、それらがこれまでもずっとそうだったわけじゃない」

 ベルトランは、はっきりした口調でもう一度繰り返した。

「現代では至極当たり前だと思っていることが、過去の大部分ではそうではない。現代というのはかなり特殊な時代なのさ」

「へいへい。ところで、そろそろその埃っぽいノートに話を戻しちゃくれませんかね」

 ベルトランは、白手袋をはめた手でそっとノートのページを繰った。

「このノートを含む文書群は、電網戦争によってインターネット世界が破壊されるなか、紙に記録を残す必要性を感じて作られたもののようだ。もちろん地上でも戦争は行われていたから、戦火を避けるために、文書群は頑丈な建物の壁に隠されたんだろう。さっきも言ったように、大空白時代に人類史上最高の発展を遂げた科学技術は、人間の脳の記憶をそのままコピーして、体の外部に保存することを可能にした。この手記を残したのは、そのための手術を受けて記憶を保存していた人間の一人だ」

 ベルトランの語るところによると、手記を記したのは四十代くらいの男性だという。教師としての仕事の必要上、記憶を外部にバックアップするための手術を受けた。

「手記の主の男性は、記憶を保存する仕組みのことを〈クラウド〉と呼んでいる」

「雲?」

「人間の脳を、記憶を作成する一個の機械と考えろ。脳で作られた記憶は、インターネットを通じて記憶の貯蔵庫に運ばれ、そこで保存される。ある記憶を思い出したいときは、またインターネットを介して、貯蔵庫から脳に記憶が送られる。この仕組みをクラウドと呼んだのだ」

「インターネットっつうのは、電話線みたいなもんか」

 オスバルドたちの生きる現代の世界では、電話を設置するためにはそれなりの費用がかかるため、個人で所有している人はさほど多くない。ベルトランはうなずいた。

「そうだな。私が王立人文科学院アカデミアの電話機から、宮殿の電話機の前に待機しているお前に電話をかけたとしたら、お前は私の声を聞くことができるだろう。それは、二つの電話機が電話線によってつながれているからだ。それと同様に、コンピュータAとコンピュータBをコードでつなぐと、AのデータをBに送ることができる。世界中のあらゆるコンピュータをケーブルでつないだものが、インターネットだ」

「二百年以上前には、世界中にケーブルが張りめぐらされてたってことか」

「通信自体は、地中や海中に埋められたケーブルと、無線の電波通信を組み合わせて行われたようだな。ケーブルは遠距離の通信のために、電波通信は近距離をつなぐために、それぞれ使われた。コンピュータAの画像や音声、動画などのデータは、電波によって基地局という場所に送られる。基地局に送られたデータは、光や電気の信号の形で、ケーブルでつながった交換局を通して、通信したい先の基地局へと再び転送される。その基地局から、電波の形で発信されたデータをコンピュータBが受け取るというわけだ」

「何だかまどろっこしいな」

「しかし、ケーブルの中を走るのは光の信号だから、まさしく光の速ささ」

「じゃあ、電網戦争では、具体的にはそのケーブルがぶっ壊されたのか?」

「ああ。しかしケーブルのほかにも、地上から数万キロの高さの宇宙に、無数の通信衛星が打ち上げられていて、これもインターネット通信に使われていた。電網戦争中の最大の作戦では、一万機もの通信衛星が撃墜された。破壊された衛星は、数万の隕石と化して地上に降り注ぎ、いくつもの都市が一夜にして滅んだんだ。〈流星雨のミーティアシャワー・ナイト〉と呼ばれる惨劇だ」

 オスバルドは、何かを恐れるような目つきでベルトランを見た。

「ちょっと待てよ。ということはだ、電網戦争でインターネットは破壊されたんだから、その手記を書いたやつがクラウドに保存しておいた記憶は、戻ってこなくなったのか?」

 ベルトランはうなずいた。

「だが、自分の脳にも記憶は残っているから、記憶喪失になるということはない。手術を受ける前の、我々と同じ状況に戻っただけだな。しかし、この手記の著者はあるとき、思い出した記憶が自らのものでないことに気づいたんだ」

「どういうことだ?」

クラウドはただ破壊されたのではなく、何かしらの不具合が生じたのだろうな。手記の著者が過去を思い出そうとすると、雲から別人の記憶が送られてくるようになったのさ。過去の思い出を思い浮かべるたび、その過去は別人のものに置き換わっていったんだ」

 海賊に囲まれても不敵な笑みを絶やさない、オスバルドのような豪胆な男でも、これにはぞっとした。ベルトランの言ったことはつまり、亡くなった恋人のディアナと過ごした日々をオスバルドが思い出そうとすれば、代わりに赤の他人の恋人の記憶がよみがえってくるということだ。

「手記の著者は、自分が自分ではなくなっていくようだと、恐怖を込めて書いている」

「自分が自分でなくなる?」

 オスバルドは、ベルトランの言葉に反応した。

「今、自分として認識しているこの『自分』は、過去の記憶に支えられたものだ。お前が、ヴィヴィアン号の副船長として働き、ディアナの恋人であった自分を忘れてしまったとする。代わりに、王立人文科学院アカデミアに首席で入学した、若き天才学者だったという過去の記憶を持つようになったら、それは果たしてお前と言えるのか?」

「さりげなく自慢してんじゃねえぞ」

「ほう、貴様は私のことを天才学者だと思ってくれていたのか」

 ベルトランは、わざとらしく両腕を肩の高さで広げてみせた。オスバルドは、ちっと舌打ちする。

「それで? この手記が、その天才学者さまの研究のどんな役に立つんだよ」

「この手記が創作小説でないとすれば、電網戦争が終結したのちにも、故障してはいるが、クラウドのシステムや記憶の貯蔵庫はまだ残っていたことになる。そして今でもまだどこかに残っているかもしれない。確か一ヶ月後に、ヴィヴィアン号がイスカンダリヤに行くだろう?」

「まさかクラウドを探しにいくのか?」

「私は電脳考古学者だからな」

「うさんくせえ肩書きだよな、それ」

 オスバルドには、クラウドを具体的に想像することはできない。ただ漠然と、水平線の上に浮かぶもこもことした大きな白雲を目指して、帆船を走らせていくイメージを思い浮かべた。

 「過去の記憶を忘れたとき、自分が自分でなくなってしまう」と告げたベルトランの言葉を思い返す。だとすれば、過去の歴史を失った人類は、人類ではなくなってしまうのだろうか。いつのまにか思考の方向が、ベルトランに影響されていることに嫌気がさして、オスバルドはその考えを追い払った。一つ気になることがあって、黒髪の学者に尋ねる。

「その手記を書いたやつは、そのあとどうなったんだ」

 ベルトランは、顔を曇らせて首を振った。どうやら手記の主は、幸せとは言えない最期を迎えたようだった。


 女医のペセシェトは大きく息を吸い込むと、熱い潮風と痛いほどの懐かしさで胸をいっぱいに満たした。大地に突き立った神の槍のように美しい白亜の大灯台が、帆船ヴィヴィアン号の向かう港の方角を示している。港まで続く深みを帯びたエメラルド色の海面の下には、古代の街の遺跡が沈んでいると言われていた。

 イスカンダリヤは、ペセシェトにとって、学生時代の八年間を過ごした青春の街だ。学院マドラサを卒業したあと、大陸ファーシアに渡り、内陸部の紛争地帯でしばらく医者をしていたが、戦地から身を引いて、いつからか大陸の西の果てトリスタン王国の大病院で働くようになった。医学の都として名高いイスカンダリヤで修めた医術に加え、戦場で磨いた医者としての腕を買われて、やがてエンリケ王子のかかりつけ医を務めるまでになったのだった。

 入港準備に慌ただしい甲板では、忙しそうに動き回る船員たちを尻目に、ペセシェトの猫ナジュムが、両目を糸のように細めて寝そべっている。二週間の航海中、ナジュムは風通しの良い涼しいところを本能的に見つけ出しては、数箇所に及ぶその場所を、王宮の太った警備兵のように巡回していた。

 煮干しを片手に駆け寄ったテオフィロが、体を伏せたナジュムの頭に手を乗せた。細工師の卵の少年は、航海の間にすっかりこの薄茶色の猫のファンになっていた。仰向けになって伸びをするナジュムの無防備なお腹を、わさわさとかき撫でてやっている。大あくびをしたナジュムが、別の涼しい場所に向かって移動を開始すると、サンダルを履いた足の甲を踏まれたテオフィロは、「ああっ、肉球に踏まれた!」と喜んだ。

 港に着いた船から降りる前に、ペセシェトはエンリケに、

「わたしの友人チェストミールとは、港近くのレストランで会うことになっています」

と告げた。

 トリスタンからの客人一行はまず、イスカンダリヤの市庁舎へ向かった。市長から歓迎の挨拶を受けたあと、エンリケたちは、海の見えるシーフードレストランへと案内された。

 大きな店構えのレストランは、イスカンダリヤ市民と外国からの観光客でにぎわっている。エンリケたちは二階のテーブル席で、背の高いハンサムな青年に出迎えられた。

 ペセシェトは濃いすみれ色の瞳に笑みを含んで、学生時代の友人を王子たちに紹介した。

「こちら、イスカンダリヤ市立病院のチェストミール医師です。若手でありながらすでにクローン研究の第一人者として信用を得ているのですよ」

 チェストミールは照れたような笑みを浮かべて、友人の賛辞に慌てて手を振った。

「第一人者だなんてとんでもない。エンリケ王子、トリスタンからのお客人の皆さん、イスカンダリヤへようこそ。まずは、名物の新鮮な海鮮料理をどうぞ味わってください」

 チェストミールの言葉の途中から、口の中に唾の湧くようなおいしそうな匂いが漂ってきた。テーブルクロスが見えないほどに並べられた大皿の数々を目に収めて、子供たちは歓声を上げた。

 殻付きの手長海老の素揚げ、イカのフライ、炒めた玉ねぎとスパイスを炊き込んだ香りのいいご飯。揚げた白身魚にトマトソースをかけたものに、とろりとしたモロヘイヤのスープ、そして数種の香草をまぶしてレモンの輪切りをのせた焼き魚。お腹の空いていたエンリケ一行は、異国の味付けの料理をせっせと口に詰め込んだ。その上、よく冷えたイスカンダリヤビールにありついたオスバルドは、口の周りに泡をつけて上機嫌だった。

 大きく開いた窓からは、晴れ渡ったイスカンダリヤ湾と、この街の象徴である白い大灯台が見える。室内のぬるい空気をかき回す羽根ファンの下で、お腹を満たして人心地ついた人々は、それぞれナプキンで口元を拭った。

「ところでチェストミール先生、あなたのクローン研究はどこまで進んでいるのですか?」

 ベルトランに尋ねられると、チェストミールは指をくわえて高い音を出した。するとすぐに、下からベランダにするすると登ってくる小動物があった。

「おいで、ヤークート。紹介しましょう。この子猿は僕の生み出したクローンなのです」

「もうすでに自分の手でクローン動物を作り出していたの?」

 ペセシェトが驚きの声を上げる。クローン猿のヤークートを肩にのせたチェストミールは、誇らしそうに頬を薔薇色に染めた。

「ヤークートを生み出した方法はこうです。もとの猿の体細胞の核を、それとは別の猿の核を取り除いた卵子に合体させます。核を移植した卵子を、また別の猿の、輸卵管という子宮の一歩手前のゆりかごのような場所で、ある段階まで育てます。最後に、ほかの猿の子宮に卵子を移して出産させるのです。細胞の核には、遺伝情報が入っていますが、本来、すでに体の一部として機能している体細胞は、それ以上、ほかの働きを担う細胞へ変化することはできません。しかしこの技術を使えば、受精卵でも卵子でもない、手足や内臓といった体細胞からクローンを作り出すことができるのです」

 突然の専門的な話に目を白黒させたエンリケは、ある部分に引っかかって手を挙げた。

「ちょっと待ってくれ、じゃあおれは、培養器みたいなものから生まれたんじゃないのか?」

 チェストミールは、慎重にうなずいた。

「現在の技術では、母親の子宮の働きを完全に再現できる培養器や人工子宮を作ることは不可能だろうね。きみを出産した人がいたはずだ」

 考え込んだエンリケの脳裏に、浮かび上がってきた人がいた。

「もしかして、ねえやが……?」

 フアナよりも少し年長で、優しい笑顔をしていたねえやは、エンリケを自分の子供のように思っていると、事あるごとに言ってくれた。きっとねえやが、フアナの代わりにエンリケを産んでくれた、もう一人の母親だったのだ。小さい頃にエンリケとねえやは、フアナがエンリケの前に生み出したクローン動物たちの世話をしていた。最後のクローン猫を看取ると、ねえやもある冬の日に、風邪をこじらせて死んでしまったのだった。

「クローン技術は、家畜の生産や希少な動物の保存、そして病気の治療に大いに役立つ。エンリケ王子、僕の研究に協力してくれるね?」

 エンリケは、しっかりとうなずいた。



第四章 それぞれの探しもの


 港のレストランでおいしい海鮮料理をお腹いっぱい食べたあと、エンリケは、市立病院でチェストミールの問診を受けることになった。病院は、イスカンダリヤの街の高台にある。広い屋上植物園を持つ黄色みがかった石造りの建物は、港の大灯台と並ぶ、この街の象徴だ。高台の下に広がる学院マドラサのキャンパスからは、昼休みに野球やバドミントンに興じる学生たちの歓声が、気まぐれな海鳴りのように遠く伝わってくる。ペセシェトは、青春を過ごした学院を見下ろして、懐かしそうな表情をしていた。

 病院内の明るい廊下には、車椅子や松葉杖を使う患者、白衣を着た医者、どこかの部屋に向かって急ぐ看護師たちなどが行き交っていた。空気は、医薬品と消毒用アルコールの匂いだ。エンリケと同行者のペセシェトは、天窓のあるチェストミールの研究室に案内された。病院にペットは連れて入れないので、猫のナジュムはヴィヴィアン号の船員に、一足先にホテルへ連れていってもらっている。

 天井の高い研究室は、ほのかに紅茶と薬草の匂いがした。ドアのある壁を除く三面の壁が、高い書架に占拠されている。学者の部屋って、どこでも似たようなものなんだな、とエンリケはベルトランの研究室を思い浮かべて心につぶやいた。ベルトランの部屋と違うところは、本棚や窓辺、床のあちこちに、低木の鉢植えや白百合、多肉植物のポットが置かれていることだ。長く窓を開け閉(た)てしていないのか、外壁を這う緑の蔓が、細く開いた窓の隙間から室内に侵入し、ラッパ型の赤紫の花を咲かせている。窓は滅多に磨かないらしい。埃っぽい窓から差し込む午後の光は、室内の本と植物を柔らかな白さで照らしていた。

 チェストミールは、クッションから綿の飛び出した肘掛け椅子をエンリケとペセシェトに勧め、コンロにやかんをかけた。紅茶の茶葉を直接入れたグラスにお湯を注ぎ、二人のもとに持ってきてくれる。そこまではいたって普通だったのだが、テーブルを挟んで向かいに腰を下ろしたチェストミールの次の行動に、エンリケはぎょっとすることになった。

 若いイスカンダリヤの医者は、テーブルの上に置いてあったミントの鉢から葉をちぎり取ると、何食わぬ顔で紅茶のグラスに放り込みはじめたのだ。戸惑って隣に視線を移すと、ペセシェトも友人と競うように、ミントの葉をちぎっては紅茶に浸していく。

「え? え?」

 困惑しきって顔を左右交互に向けているエンリケに、ペセシェトは、並びの美しい白い歯を見せて笑いかけた。

「これがイスカンダリヤ流の飲み方なのですよ」

「砂糖もたっぷりと入れてね」

 チェストミールもくすくす笑って、砂糖壺をエンリケのほうに押し出した。二人はすでにスプーン三、四杯は入れている様子だ。

 エンリケも甘いものは大好きなので、思い切りよくスプーン三杯分の砂糖を、ミントの葉の沈むグラスに入れた。そうして出来上がった熱いミントティーをすすってみると、ミントのすーっとする強い匂いが鼻腔に流れ込むと同時に、甘さに舌がびっくりした。

「悪くないけど、慣れるまでには時間がかかりそうだ……」

 顔をしかめて正直な感想を漏らしたエンリケに、甘党の猛者二人は声を上げて笑った。

「ところでエンリケ王子、これからいくつか質問に答えてくれるかい?」

 チェストミールは、ミントティーをくいっと飲み干すと、世間話のように質問を始めた。

 いわく、覚えている限りで一番最初の記憶は何? 君の遺伝情報の元の持ち主であるアマデオ前国王のことをどう思っている? じゃあ、君を生み出したフアナ妃のことはどう? 神様は信じる? 

 どの質問に対しても、考えと言葉をまとめる時間がたくさん必要だった。そのうち、患者として医者の問診を受けているというよりも、学校の先生から試験をされているような気分になったほどだ。

 時々黙り込んで会話に空白を開けるのは、質問に考え込むエンリケのほうだけではなかった。チェストミールも、エンリケの答えを聞いて次の質問を繰り出すまでの間に、何か思案しているのか、ぼんやりと視線をさまよわせたまま口をつぐんだ。そういうとき、若いイスカンダリヤの医者の手は、無意識にブリキのジョウロをつかんで、周りの観葉植物の鉢に水をやった。

「チェストミール、そのかわいそうなサボテンを溺死させる気?」

 ペセシェトのからかうような声に、チェストミールははっと手を止めた。テーブルの上のサボテンが、鉢のふちぎりぎりまでの水に浸っている。チェストミールは、慌てて流しに水を捨てて、あっぷあっぷしている哀れなサボテンを救出してやった。

「考えてるときに、植物に水をやるのが癖なの?」

 エンリケがきくと、チェストミールは恥ずかしそうに頭をかいた。

「そうなんだ。特に論文を書いてる最中なんかは、今みたいについついやり過ぎてしまってね。鉢植えたちには気の毒なことをしているよ」

 あらためて室内を見渡すと、水の与えすぎによってか、黒っぽく腐ってしまっている鉢植えがいくつか見受けられた。

「それだけじゃないでしょう、チェストミール。飛びつきたくなるようなおいしいお菓子が目の前にあるから、一気に味わう前に自分を焦らしているんだわ」

「その通りだよ、ペセシェト」

 チェストミールは、穏やかで知的な顔ににっこりと笑みを浮かべた。

「飛びつきたくなるようなおいしいお菓子って、おれのことか?」

 エンリケは、自分の顔を指差した。二人の医者が、また同時に笑う。

 チェストミールは、テーブルの上の菓子皿を引き寄せて、シロップを染み込ませた丸い揚げドーナツを口に放り込むと、壁掛け時計を確認した。

「ところでエンリケ王子、あなたに会いたいという人がいるんだ」

 ちょうどそのときノックの音がして、「失礼します」という言葉とともに、研究室に女性の看護師が入ってきた。

 チェストミールが、来訪者をエンリケとペセシェトに紹介した。

「彼女はサフィーヤといって、この病院で看護師をしている人だよ。サフィーヤ、こちらが僕の古い友人であるペセシェト医師と、そしてエンリケ王子だ」

 サフィーヤは、コーヒーのように深い茶色の髪をした小太りの女性だった。年齢は三十代の半ばくらいに見える。フットワークの軽い、よく気がつく人という印象だった。看護師はエンリケ王子を熱心に見つめて、しばし動かなかった。

「はじめまして、エンリケ王子。お会いできて嬉しいですわ。私は、イスカンダリヤに留学していたあなたのお母さまとお友達だったのです」

 サフィーヤは、髪と同じコーヒー色の瞳をわずかに潤ませた。

「あなたは本当によくフアナに似ているのね。輝くような黄金色の髪も、聡明で活発な青い目も、そのままですわ」

 ペセシェトから王子のそばの席を勧められて座ると、サフィーヤは思い出話を始めた。

「フアナがこの街の学院マドラサに留学していたのは、十九歳から二十歳までの一年半くらいの間でした。田舎から出てきて看護を勉強していた私は、フアナと寮で同室になったのです。あのひとは王女だったのに、私と気さくに付き合ってくれました。フアナがトリスタンに帰って、その当時軍務大臣だった国王陛下と結婚したのは、私が学院を卒業してこの病院で働きはじめた頃だったかしら。弟のアマデオさまが亡くなられてちょうど一年後に、今度はフアナが事故で亡くなったと聞いたときは、とても悲しかった」

 エンリケは、母の友人に質問した。

「留学してた頃の母さんは、どんな人だった?」

「毎日図書館で勉強している頑張り屋さんでもあったし、おしゃべりやにぎやかな場が好きな明るい人でもあったわ。でも実は泣き虫で、たまに調子に乗ってお酒を飲みすぎては、部屋のベッドで泣きじゃくっていることもありました。でも普段は、しゃべっているときにきらきらする青い目がとてもきれいだった」

「母さんとサフィーヤさんは普段、どんな話をしたの?」

 サフィーヤは学生時代を思い出したらしく、ふふふ、と若やいだ笑みを漏らした。

「フアナはよく、トリスタン海軍のハンサムな提督のことを話していました。随分年上の人だったけれど、フアナはその提督に夢中でしたわ」

「母さんはその人が好きだったの?」

 エンリケは大声を上げた。サフィーヤは目を細めてうなずいた。

「ええ、ええ。フアナは、今のエンリケ王子くらいの歳の頃に、二十八歳の青年将校に出会って恋に落ちたんです。フアナはその立派な青年のことがずっと好きで、留学から帰ってすぐにその人と結婚したのですよ」

「ええっ? じゃあ」

「そう、それが今の国王陛下です」

 種明かしをされて、エンリケは気恥ずかしくなった。ペセシェトとチェストミールが笑っている。二人はとっくに、フアナが恋をしていた青年将校の正体に気づいていたのだろう。

 遠い日の思い出をたどって浮かべられていた懐かしそうな笑みが、サフィーヤの口元から夕焼けのようにゆっくりと消えていった。夕暮れ時の鐘の最後の余韻が消えていくときのように、看護師は声を落とした。

「……ずっと、フアナはどうして亡くなったのだろうと考えていました。フアナは、弟のアマデオさまのことも、国王陛下のことと同じくらいよく話題にしていました。そのアマデオさまが亡くなられるとすぐに、カルロスさまがトリスタン国王になった。フアナは、事故死だと聞いたけれど、アマデオさまが落ちたのと同じ塔から、一年後の同じ日に転落した。この事実が指し示す真相はこうです。フアナは自ら命を絶ったのでしょう」

 ペセシェトとチェストミールが身じろいで、王子の表情を見つめた。エンリケの表情が示すところは、無言の肯定だった。エンリケは、サフィーヤに恐る恐る尋ねた。

「母さんは、父さんのことを恨んでいたのかな?」

 サフィーヤは静かな声で答えた。

「お恨みしていたでしょうね。自分を深く傷つけたカルロス陛下に激怒していたでしょう」

 質問の答えを聞いたエンリケの心は、鉛を飲んだようにずしりと重くなった。それでは、やはり母は、父王に王子を遺そうという愛情からではなく、弟を殺された復讐と憎しみの気持ちからエンリケを造ったのだろうか。

「エンリケ王子、けれど誤解なさらないでくださいね。フアナは、カルロス陛下のことが、ほんとうにほんとうに好きだったのです」

 サフィーヤが、一語一語を区切るように言った。エンリケが顔を上げると、母の親友は、真実悲しそうな、空の最も深いところに沈む星のように澄んだ目をしていた。

「恐れながら、国王陛下は、フアナの貴い気持ちを裏切ってはいけなかったのです。フアナには、陛下がアマデオさまを死に追いやったことを、許すことはできなかったのですから。けれど同時に、陛下を心から嫌いになることもまた不可能だったのです。カルロス陛下は残酷なことをなさいました。フアナは最後まで、陛下を愛していたでしょう」

「父さんは、自分が王になるために、アマデオ叔父さんを殺すような人間だったのに? 母さんのことを、ひどく傷つけたのに?」

「人を好きになるタイミングと嫌いになるタイミングを、思いのままに操ることができたら、どれだけよいでしょう。そうであればフアナはあるいは、死を選ぶほど苦しまずに済んだのかもしれません。しかし、そんなボタンを、私たちは造物主から与えられていません」

 それまで黙って二人のやり取りを聞いていたペセシェトが、静かに口を挟んだ。

「私はこう考えるのですが、人は、道徳的で正義感にあふれていて親切で優しい人を、いつも愛する対象に選ぶわけではないのではないでしょうか。犯してはならない罪に走る人間を、苦しいと思いながら好きでいてしまうことがあるものなのでしょう。けれどその愛は、過ちや罪ではないと思うのです」

 エンリケは、唇を噛んで少し考えた。ペセシェトの言ったことは、未来の自分はきっと、正義感があって、誰にでも優しい人を好きになるだろうと思っているエンリケには、十分には納得できないことだった。心がいらだつような反発すら覚える。

 フアナは、ペセシェトの言ったようなことを自覚していたのだろうか。弟を殺すという、自分に対して許しがたい仕打ちをしたカルロスを、フアナは苦しみながらも愛していて、最後にはその苦しみに耐えきれずに死んでしまったのだろうか。

 エンリケは、震える声で問いかけた。

「サフィーヤさん、どうして母さんは、おれを造ったんだろう?」

 母の親友は、言葉を探すように間を置いてから、かすかに微笑んだ。

「……それはきっと、世の夫婦が子供を望む気持ちと、そう変わらなかったのではないでしょうか。フアナと国王陛下の間には、なかなか子供が授かりませんでした。だからこそフアナは、クローンの研究を熱心に進めていたのです」

 その日の夜、エンリケはホテルの部屋でテオフィロに、サフィーヤと話したことを聞かせた。テオフィロは、エンリケが両親と自分自身の関係についてずっと思い悩んでいたことを知っていたので、友達の話を真剣な顔つきで聞いていた。

 絨毯が重ねて敷かれたホテルの部屋は、ステンドグラスで作られた果物のようなランプで照らされている。二人の少年は、隣り合ったふかふかのベッドの上に向かい合って座っていた。話し終えたエンリケは、ほっと息をついた。

「母さんのことは、今までほとんど知らなかったけど、好きになれそうな人でよかったよ。それに、母さんが父さんのことを好きだったって聞いて、安心した。やっぱり、母さんが父さんを憎んでいたら嫌だしな。テオフィロ、帰ったらおれは、父さんに母さんのことを聞いてみようと思うんだ。父さんが、母さんのことをどう思っているのか知りたい。父さんとおれは、二人で母さんのことをよく話し合ったほうがいいんだと思うんだ」

 テオフィロはエンリケの言葉を聞いて、心から安堵したように表情を緩めた。エンリケと父王は、言い争うことのない代わりに、心を開いて話し合うということもなかったのだ。

「テオフィロも、今日のことを話してくれよ。エリカと一緒にジョルジュの行方を探してたんだろ?」

「うん。さんざん人に話を聞いて回っても、結局情報は手に入れられなかったんだけどね。だけど、屋台で買ったサトウキビジュースがおいしかったなあ」

「テオフィロはいつものんきだよな」

 その同じ頃、エンリケとテオフィロの隣の部屋でも、占い師の少女エリカが、造花づくりの内職に勤しみながら、昼間のことを思い返していた。


 王子とペセシェトが市立病院に向かったあと、電脳考古学者のベルトランと、目的地にたどり着いてとりあえず暇になったアドラシオン、オスバルドの三人は、学院マドラサ図書館マクタバ、博物館を視察するために出かけていった。

 残るテオフィロとエリカは、街に出てジョルジュを探すことにした。しかし、商人の張り上げる呼び声や盛んな値引き交渉の会話に満ちた市場スークで、二時間ほど聞き回ってみても、大きな鳥を連れた少女商人の消息はつかめなかった。

 テオフィロとエリカは、屋台でジュースとドライフルーツを買い、噴水の広場に降りる石の階段に座った。しぼりたてのサトウキビジュースで喉を潤し、甘酸っぱい干しアンズをかじると、暑いなかを歩き回った疲れが癒されていった。南方にあるイスカンダリヤはさすがに、トリスタンよりも気温が高い。

 エリカはため息をついた。

「結局、ジョルジュのことを知っている人には出会えませんでしたね」

「でも、これだけ聞いて何も情報がないってことは、ジョルジュはイスカンダリヤには来てないってことじゃないかな。あんなに大きな鳥を連れてるんだもの、来てれば噂にならないはずがないよ。それがわかっただけでも収穫だ」

 テオフィロの前向きな言葉を聞くと、エリカの表情も明るくなった。

「そうですね。当人のきんきらきんの格好も、目立たないわけないですもんね」

 羽飾りのついたシルクハットに大粒のエメラルドのブローチ、金モールで縁取られた絹の服という、派手好きな友達の服の趣味を思い出して、二人は顔を見合わせて笑った。

「あーあ、早くジョルジュに会いたいなあ」

 テオフィロが、笑いの名残を留めた声でつぶやいた。そんな少年を横目で見て、エリカは残った干しアンズをもそもそと口に押し込んだ。

 エリカは、自分のせいでジョルジュがトリスタンに来なくなってしまったのではないかと恐れていた。なぜならジョルジュが最後に王宮を訪ねたときに、彼女をひどく傷つけてしまったからだ。

「神様なんていませんよ」

 中庭に面した回廊のベンチに、二人並んで座っているときだった。天主教の神様がこの世界のすべてを創ったのだと楽しそうに話していたジョルジュは、エリカの言葉の内容よりも、その冷たく突き放した言い方のほうに、大きくショックを受けたようだった。

 ジョルジュは笑顔を引っ込めて、代わりに困ったような表情を浮かべた。

「神様はいるよ?」

「じゃあ何か証拠はあるんですか?」

 エリカは、さっきにも増してとげとげしい口調で言った。自分のとんがった声を聞くとますます、手のつけられない雨雲のようにいらいらした気持ちが膨らんでいくのがわかった。

 ジョルジュは少し笑顔を取り戻した。

「証拠ならあるよ。聖書には神様の言葉がたくさん書いてあるもん」

「聖書なんて作り話じゃないですか。証拠にはならないですよ」

「聖書に書いてあることは本当だよ。それに、ママもパパも教会の神父さんも、神様はいるって言ってるよ」

 ジョルジュは、なぜエリカがそんなに怒っているのかわからないようで、困った顔をしていた。その表情が、エリカのさらなるいらだちを誘った。

「宇宙はビッグバンによって生まれたんですよ。それに人間は、猿から進化してきたんです。神様が創ったわけじゃないじゃないですか」

「それは証拠があるの?」

「ありますよ。学校で習ったし、教科書にも書いてあります」

「じゃあ、聖書と同じでしょ?」

「全然同じじゃないです。宇宙のはじまりとか生命の起源は、科学者が研究してることなんですから」

「神父さんだって、神様のことをたくさん勉強してるよ」

 エリカは、顔を険しくした。その一方で、心の中ではもう一人の冷静なエリカが、ジョルジュの言葉を否定するのに、自分はどうしてこんなに躍起になっているのだろうと戸惑ってもいた。

「そんなに言うなら、ジョルジュは神様を見たことがあるんですか?」

 ジョルジュは眉を下げた。エリカは、やった! と意地の悪い気持ちで快哉を叫んだ。

「ないけど……聖書には、神様に会った人の話や神様の言葉を聞いた人の話が載ってるよ」

 エリカは、ジョルジュの反論をはねつけ、冷たく断言した。

「ジョルジュの信じていることは、全部嘘です。神様なんていません」

 ジョルジュは怒ったような、そして今にも泣き出しそうな顔をした。エリカの顔にじっと視線を注いだまま、鞄から一冊の薄い冊子を取り出して手渡そうとする。

「聖書の教えが、絵と一緒にわかりやすく書いてあるリーフレットだよ。これあげるから、読んでみて」

「いりませんよ」

 エリカが後ろで手を組んで首を振ると、ジョルジュは、冊子を二人が座っていたベンチの端っこに置いた。

「ここに置いてくから、ね? じゃあ、もう行くよ」

 エリカは口を引き結んで、じゃあね、とも、またね、とも返事をせずに、ジョルジュの背中を見送った。そのとき以来、ジョルジュは王宮を訪ねてこなくなったのだ。

 エリカは、歯に貼りつくようなねっとりと甘いアンズを噛み締めた。今でも、自分が間違っているとは思わない。だって、神様がいないというのは本当じゃないか。聖書に書いてあることはすべて正しいなんて言う、ジョルジュのほうが絶対に間違っているのだ。しかし、ジョルジュの泣き出しそうな顔を思い出すと、心の中がひどくもやもやした。

 隣のテオフィロが急に笑い出したので、エリカはぎょっとした。少年は大笑いしながら、熱いてのひらでエリカの肩を叩いた。

「そうだ、どうして今まで思いつかなかったんだろう? エリカ、きみにジョルジュの居場所を占ってもらえばいいんじゃないか!」

 エリカは口ごもった。

「でも……、わたしの占いは当たるとは限りませんから」

「やってみるだけやってみようよ。ヒントだけでも手に入るかもしれない」

 テオフィロの言葉に背中を押されて、エリカは肩掛け鞄の中からしぶしぶカルタを取り出した。影絵のような不思議なイラストの描かれた数十枚のカードは、優秀な占い師だった母親から受け継いだものだった。

「それでは、知りたいことは『ジョルジュの居場所』でよろしいですね?」

 エリカは、口調を改めて確認した。占う目的を言葉ではっきりさせておくことが重要なのだ。テオフィロは、真剣な顔になって「うん」とうなずいた。

 慎重にカルタをシャッフルして、一枚目、七枚目、十三枚目を裏返しのまま、エリカとテオフィロの間に並べる。

 占いは、何千年と積み上げられた経験と知を活用した技術なのだ。占い師は、大工や庭師といった職人と同じだ。大工が設計図を引き、材木を寸法通りに切り出して家を建てるように、占い師は決められた手順でカードを並べ読み解くことで、正確な占い結果を手に入れることができるのだ。神様のお告げだの託宣だのとは訳が違う、とエリカは思っている。

 ただし、エリカはまだまだ占い師の卵なので、そのカード占いの技術は未熟だった。

 エリカは、まず中央のカードを表に返した。現れたのは、白亜の石柱に支えられた建物だ。

「これは神殿ですね。聖地、教会、墓地、礼拝所。神聖な場所に関わるカードです」

「ジョルジュがそのうちのどこかにいるってこと?」

「まだわかりません」

 魔除けの赤いガーネットの指輪をはめたエリカの手が、身軽な燕のようにひらりと翻り、右側のカードをめくる。

「四つの聖杯だけど……、逆位置ですね」

 菩提樹の枝の上に黄金の杯が四つ描かれたカードは、エリカの側から見て逆さまだった。

「価値の反転を意味する図柄です」

「ジョルジュにとって価値あるものって言ったら、まずお金だね」

 テオフィロは即答してから、笑みをこぼした。

「とはいえ、お金の価値が失われるようなことが、ジョルジュに限ってあるとも思えないけどなあ」

 なんといっても、毎晩、羊ではなく金貨を数えながら眠るような少女なのだ。

「これも、お金持ちも貧乏人も等しく救われる宗教を指しているのかも」

 そう言いながら、エリカは内心どきどきしていた。ジョルジュにとって価値のあるものとは、もしかして天主教の神のことではないだろうか。逆さまの聖杯は、エリカが神を否定してジョルジュを傷つけたことを示しているのかもしれない。自分の心の迷いや動揺が、カード占いに影響を及ぼしてしまっているのでは、とエリカは最後のカードに手を伸ばすのをためらった。

「じゃあ、三枚目のカードはどうかな」

 何も知らないテオフィロが穏やかに催促したので、エリカは最後に左手のカードをめくってみせた。図柄は今度も逆向きだった。白い服を着た太った女性が天秤を抱えている。

「〈正義〉の逆位置。意味は、不正、偽り、裏切り……、ジョルジュはそういったもののそばにいるみたいです」

 テオフィロが不安そうに胸元のペンダントをぎゅっと握った。

 二人の座る石の階段をさっきまで燦々と照らしていた海辺の太陽は、いつのまにか、大きな雲の向こうに姿を隠してしまっていた。



  第五章 聖アナスタシアの奇跡


 イスカンダリヤから北に海を渡り、二つの狭い海峡を通り抜けたところに、巨大な内海に面した港町ピルゴスがある。この町は、聖人が数々の奇跡を起こした聖地であり、天主教の有数の巡礼地の一つだった。町の中心にそびえる聖アナスタシア大聖堂には、その名の由来となった聖女アナスタシアの遺骸が眠っている。その遺骸は、時々聖なる光を放つという。

 内海の水面に影がさし、飛行機と見まがうほどに巨大な黒い鳥が、まだ明けやらぬ灰色の空から舞い降りてきた。巨鳥は、港町の向かいの小さな島に立つ修道院をかすめると、白い波が打ち寄せる砂浜に着陸した。朝早く砂浜で犬の散歩をしていた老人が、その場面を目撃して仰天する。老人がとっさに思い出したのは、アラビアンナイトに登場する怪鳥ロックだ。雛鳥に餌として象を与えるという、巨大な化け鳥の話が頭をよぎり、老人は足元で怯える老犬を抱きかかえ、この十年出したことのない全力を奮って、町の方角へ駆け出した。

 その巨鳥の脚元を、十三歳くらいの少女がうろうろしている。羽根つきシルクハットから砂色の髪を飛び出させ、胸に卵大のエメラルドのブローチを留めたその少女は、どうやら巨鳥の餌として運ばれてきたわけではないようだった。

 巨鳥の両脚には、木箱が十数個ほどもくくりつけられている。そのすべてに「ジョルジュ商会」と、かわいい丸文字で手書きされたステッカーが貼られていた。少女商人ジョルジュは、ひんやりと朝露で濡れた相棒の体を大きなタオルで拭いてやった。

「さあ、ピルゴスの町に着いたよ。でもお前がここにいると大騒ぎになっちゃうだろうから、町外れの森に隠れていてくれるかな。いつも悪いね」

 気のいい巨鳥は、いいさいいさ、とでも答えるふうに喉の奥で鳴くと、砂浜を蹴って再び空に舞い上がった。砂浜に残された巨大な足跡が発見されて、「内海に古代の恐竜の生き残りが棲んでいる」と騒動になるのは、もう数時間がたってからである。

 離陸の際の強風にあおられて、ジョルジュのシルクハットが砂浜を転がった。

「あ、待って待って」

 ジョルジュが伸ばした手の先で、シルクハットは大きな男の人の手にさらわれた。いきなり現れて帽子をつかまえてくれた男の人を、ジョルジュは露草色の目を驚かせて見つめた。

 その男は、若々しい褐色の顔に黒い口髭を蓄えていた。オスバルドやベルトランより年上で、アドラシオンと同じくらいに見えるから、三十歳半ばくらいかな、と知り合いの大人と比べながら見当をつける。白く長い衣にライトブラウンのジャケットを着て、腰の太い装飾ベルトには、アルファベットのJの形の鞘に入った短剣を差していた。

「ありがとう、おじさん」

 ジョルジュが帽子を受け取ると、男の人は機嫌を悪くしたように口髭をひねった。

だ。サハル・ビン・ハサンでもいいぞ。大体のやつは、俺のことを三日月のサハルサハル・ヒラールと呼ぶがな」

 「三日月の」という二つ名は、腰の立派な短剣に由来するのだろう。ジョルジュは、「どうもありがとう、サハル・ヒラール」と、お礼を言い直した。

 サハル・ビン・ハサンは満足げにうなずいて、お金がかかっていると一目でわかるジョルジュの身なりに、好奇を含んだ視線を飛ばした。

「あの馬鹿でかい鳥の運んでる積荷の文字が見えたが、お嬢ちゃん、商人なんだろう。こんな小さいのに大したもんだ。実は、俺も同業者なんだ。ところで、朝飯はまだか?」

「あなたがおごってくれるの?」

「いや、お嬢ちゃんにおごってもらおうと思ってな。俺は今一文無しで、おまけに腹が減って仕方ないんだ」

 ずっと年下の初対面の少女に朝食をたかろうとする三十路男を、ジョルジュはあきれた目で見上げた。

「ご馳走してあげてもいいけど、あとで二割増しにして返してね」

「随分としっかりしたお嬢ちゃんだな。まあいい。俺は隊商主で、こう見えて大富豪なんだ。そのうち、夢に見たこともないようなうまい朝飯を食わせてやるから、楽しみにしてろよ」

「それはありがたいけど、あなたの隊商キャラバンはどこにいるの?」

 ジョルジュは周囲を見渡した。朝のがらんとした砂浜には、ラクダの隊列を組んだ商人たちなど影も形もない。朝方の冷気を含んだ強い海風が、二人の間に音を立てて吹きすさんだ。口髭の隊商主は、両手を肩の高さで広げて悪びれずに笑う。

「昨日の夜、ほかの隊商主との賭けに負けてな。俺の隊商キャラバンはまるごと取られちまった」

「まるごと⁉︎」

「商品も、ラクダも、隊員も、何もかもだ。やつめ、強突く張りにもほどがあるぞ。ターバンに飾ったルビーまでむしっていきやがった。それでまあ、動き回ると腹が減るからな。砂浜に寝転んで優雅に夜明けの海を見てたのさ。海はいい。頭をからっぽにしてくれる」

「そして結局、胃の中までからっぽになったってわけね。でも、全財産を持ってかれちゃったんなら、わたしへの借りはどうやって返すつもりなの?」

 一文無しの大富豪は、心配するなというふうににやにやと笑った。

「俺の副隊長は、有能なやつだ。そのうちどうにか始末をつけて、俺のもとに戻ってくるさ」

「逃げ出してくるってこと?」

「いいや」

 サハル・ビン・ハサンは、否定はしたがそれ以上は話そうとしなかった。ジョルジュは、厄介な拾い物をしてしまったな、と思ったが、同時に商人根性がうずくのを感じた。拾い物を厄介な品物のままにするか、そこから利益を引き出すかはジョルジュ次第なのだ。

「こんなところで立ち話もなんだから、町の軽食屋さんにでも入ろうか」

「そうこなくっちゃな」

 口髭を引っ張って笑うサハル・ビン・ハサンを見て、抜け目のなさそうなこの同業者は、自分の商人根性まで計算に入れていたのではないか、とジョルジュは思った。


 喫茶店を備えた宿屋で食事を摂りながら、ジョルジュは、ピルゴスの町に来た目的を出会ったばかりの同行者に話した。食事のメニューは、羊のチーズとほうれん草のパイ、ヨーグルトソースをかけた細長いハンバーグ、きゅうりとくるみを刻んだ冷たいヨーグルトスープ、そしてたっぷりのチーズとトマトのサラダだ。

「ふうんそうか、お嬢ちゃんは友達に『神様なんていない』と言われて……、その逆のことを証明するために、聖アナスタシア大聖堂へ巡礼に来たってわけか」

 サハル・ビン・ハサンは、セリフの前半と後半の間に、口いっぱいに詰めこんだパイをコーヒーで流し込んだ。ジョルジュは、どう言ったら伝わるだろうか、と頭を悩ませながら説明を補足する。

「エリカに言われたことに腹が立ったってわけじゃないよ。いや、そのときは相当むかっときたけど。でも、確かにわたしは神様の奇跡を直接見たり、声を聞いたりしたわけじゃないなってだんだん思い始めたんだ。それでわたしは、半年もかけて大陸各地の聖地巡礼を始めたってわけ。聖地ピルゴスの門外不出の宝、聖アナスタシアの遺骸は、光を放つ奇跡を起こすんだよね。それに、病気も治してくれるって。それをこの目で見て、神様の力が本当にあるんだって確かめたいんだ」

「なるほどね。だが、聖アナスタシアの遺骸は、今ピルゴスの町にはないぞ」

「ええっ? じゃあどこにあるの?」

 その答えを得るには、サハル・ビン・ハサンが、抱えたヨーグルトスープの大鉢を残らず飲み干すまで待たなくてはならなかった。

 黒い髭を白くして、口髭の隊商主は答えた。

「カスティアシオンの聖ウルスラ教会さ」

 カスティアシオンは、ピルゴスから五十キロほど内陸にある町だ。ピルゴスまでの巡礼路から外れた、静かな田舎町のはずだった。ジョルジュは首をひねる。

「どうしてそんなところに?」

「カスティアシオンの町長にどうしてもと拝み倒されて、聖アナスタシア大聖堂が、三日間という限定付きで、聖遺骸を聖ウルスラ教会に貸し出したらしい。聖遺骸がカスティアシオンに着いた初日の夜に、奇跡が起こった。聖アナスタシアの遺骸が暗闇の中で発光したのさ。三晩続いて遺骸は聖なる光を放ったが、約束の期限通りに聖アナスタシア大聖堂に戻されると、奇跡はぴたりと止まってしまった。そこで再び聖ウルスラ教会に運ぶと、遺骸はまた光り輝いたんだ。カスティアシオンの人々は、聖遺骸は聖ウルスラ教会に安置されるべきだと主張し、ピルゴス側もそれを飲まざるを得なかったというわけさ」

「サハル・ヒラール、それ、いつのこと?」

「もう三年も前の話だぞ」

 ジョルジュは慌てて、小さなリュックの中から聖地巡礼のガイドブックを取り出した。奥付を見ると、その本の発行年は五年前だった。少女商人は、がっくりと肩を落とした。

「古本じゃなくて、新品を買うんだった……」

「まさに、安物買いの銭失いだな」

 ジョルジュとその同行者は、朝食を食べ終えるとカスティアシオンに向かうことにした。

 喫茶店を出て振り返ると、もとはきれいに塗装されていただろう店の看板や外装は、塗り直されないままに色あせていた。思えば店の中も、半分ほどの席は、テーブルに椅子が上げられた状態だった。三年前までは、巡礼者でにぎわう聖地だったピルゴスの町全体に、いまや時流に取り残されたような、うら寂しい雰囲気が漂っていた。

 ジョルジュとサハル・ビン・ハサンは、ピルゴスの郊外の森で巨鳥に乗った。巨鳥の左右の脚に、丈夫なロープで体を縛りつける。大胆な隊商主は、目もくらむような高さと浮遊感に最初こそ青ざめていたが、一時間足らずのフライトを楽しんだようだった。

「また乗せてくれよな」

 サハル・ビン・ハサンがウィンクすると、ジョルジュは陽気に切り返した。

「二回目以降はお金を取ることにするよ」

「まったく、お嬢ちゃんは立派な商売人だよ」

 カスティアシオンは、ピルゴスの町から活気を吸い取ったように栄えていた。実際、それは真実なのだろう。巡礼の道は、ピルゴスを逸れてカスティアシオンを終着点とするようになり、大陸中から押し寄せる巡礼者は、一路、聖ウルスラ教会を目指すようになった。小さく素朴な町の教会だった聖ウルスラ教会は、もとの五倍の大きさの壮麗な大聖堂に建て替えられた。巡礼者の行き交う道の両側には、真新しいホテルとレストランが、よく磨かれた窓ガラスを光らせている。道という道、町角という町角に赤白の花があふれ、カラフルな旗の翻る光景は、まるでお祭りのようだ。

 聖アナスタシアの遺骸は、聖ウルスラ教会の宝物殿の奥で、黄金と宝石によって飾られた眠りに就いているのだという。ジョルジュと口髭の隊商主は、きれいな青い屋根が目印のパン屋で、バニッツァと呼ばれるパイ生地のパンを買い、宝物殿へと続く長蛇の列の最後尾に並んだ。上機嫌のパン屋のおじさんは、ボザという甘い麦の発酵飲料をおまけしてくれた。

「サハル・ヒラールはどこの出身なの?」

「ここからずうっと南の半島さ。俺の故郷には、ぎらつく太陽と黄金の砂の海しかない。ところでお嬢ちゃんは、どうしてたった一人で商売の旅なんかしているんだ?」

「一人じゃないよ。わたしの翼が一緒だから。わたしの家族は、今は東の山脈にいるんだ。ずっと昔は、父さんの運転するふるーい大型トラックに乗って商売をしていたんだけど、父さんが地雷で右足を失くしちゃってからは、母さんが父さんとまだ小さい弟の面倒を見てる。家族が暮らすためのお金は、今はわたしが稼いでいるんだ」

「ほう」

 淡々と自らの境遇を語る少女商人を、サハル・ビン・ハサンは感嘆を込めた視線で見やった。自分で自分を憐れむことをしないジョルジュに対して、自身もけして何不自由ない幼少期を過ごしたわけではない隊商主は、好感を抱いたのだ。

「ま、父さんは義足になじみすぎて、家族が迷惑するくらい元気に散歩しまくってるらしいし、母さんと弟は、家庭菜園での野菜作りに凝ってるみたいだから、何の心配もいらないんだけどね」

 ジョルジュは、露草色の瞳を輝かせて笑ってみせた。

「ところで、きみの翼とやらには、一体どこで出会ったんだ? あんなに巨大な鳥は、そんじょそこらを飛び回っているものでもあるまい?」

「あの鳥は、わたしたち家族が住みついた山地の谷にいたんだよ。父さんは、電網戦争中の核兵器使用による、放射能汚染が原因で生まれた奇形じゃないかって言ってた。よく知らないけれど、放射能を浴びると、遺伝子に突然変異が生じることがあるんでしょう? でもわたしは一年前、クローン技術によって作られた人に出会って、わたしの翼も、人間によって作り出された鳥なんじゃないかって思いはじめたんだ」

「お嬢ちゃんは、クローン人間に会ったことがあるのか⁉︎ どんなやつだった?」

「年はわたしの一個下で、十二歳の男の子だよ。冒険心が旺盛っていうか、かなり無謀なところがあって、体が人より弱い分心配になる。でも、普通の人とほとんど変わらないよ」

 列に並んでいる二人のもとに、教会に仕えているらしい若い娘の尼さんが近づいてきた。彼女は、「敬虔なる神のしもべに、光の恩寵のあらんことを」と、にっこり感じのよい笑みを向けると、手にした香水瓶から、よい香りのするバラ水を髪に振りかけてくれた。

「俺は喜んで、うるわしいあなたのしもべになりますよ!」

とサハル・ビン・ハサンが、尼さんの背中に向かって調子よく手を振る。一方でジョルジュは、上質なバラ水を何ダースか仕入れてみようと、商人としての計算を働かせていた。

二人は丸屋根が階段状に連なる教会の、一番下のアーチの入り口をくぐった。最上層のドームまで吹き抜けの天井から陽光が差し込んで、もともと黄色みがかった壁の石材に反射し、祈りのための空間を神聖な黄金色に染めている。銀の鎖で吊られた振り香炉が振りまくかぐわしい香の煙の向こうに、天使像や聖母像の立つ巨大な黄金の祭壇がそびえていた。

 巡礼者たちの流れに従って、アーチ形の天井を持つ回廊を進んでいくと、重々しい存在感を放つ分厚い木の扉に突き当たった。緑の祭服をまとった聖職者が恭しく扉を開き、ジョルジュとサハル・ビン・ハサンは、ほかの巡礼者たちに押されるようにして、扉の中に入った。

 宝物殿であるその部屋も、祈りのための大広間と同様に天井が高いようだったが、定かにはわからなかった。墨を溶かしたような暗闇が支配していたからだ。左右の壁に沿って置かれた燭台の列の長さが、部屋の奥行きが深いことを示している。

 手に銀の燭台を掲げた老聖職者の登場によって、巡礼者たちの無秩序なざわめきが興奮の度合いを高めた。老聖職者は、宝物殿の中央の壇のような場所に登る。ジョルジュは、聖職者の燭台の灯りの下に、何かほの白いものが見えた気がして、背伸びをした。

「あのおじいさんのそばにあるのが、聖アナスタシアの遺骸かな?」

「そうだろうな」

 老聖職者は、燭台を足元に置き、折り畳まれた帯状の紙を広げて、それをたぐりながら祈りの言葉を唱えはじめた。砂時計の砂が三回落ちるほどの時間をかけて朗唱を終えると、聖職者は燭台の火を消した。同時に、左右の壁の灯りも吹き消された。

 おお、とも、ああ、ともつかない興奮した声のうねりが揺れて、密室に膨れ上がった。前後左右の熱狂した大人の体に押し潰されそうになりながら、ジョルジュはサハル・ビン・ハサンの腕をぴたぴたと叩いた。

「サハル・ヒラール! 何が見えるの?」

 隊商主は、小さい子にそうするように、ジョルジュをすぐさまたくましい腕に抱え上げてくれた。見えるか? あれが、と問いかけられて、ジョルジュは返す言葉もなく息をのんだ。

 老聖職者の腰の高さの空間から、金塊が湧き出したのかと見えた。あるいは金貨の泉が。天上に咲く黄金の百合のような聖なる金色の光が、ぼうっと闇を照らしている。光は、遺骸の収められた宝石の棺をまばゆくきらめかせた。

「聖アナスタシアの奇跡だ……!」

「どうか、そのお力でわが身の病気をお治しあれ!」

 両手を固く組み合わせてその場にひざまずく人がいる。万感の思いを込めた深いため息、感極まったすすり泣きさえ聞こえた。ジョルジュも心臓に近い場所に、感動の透明な結晶が大きく育つのを感じた。無意識に手が、胸元に下げた純銀の小さなロザリオを握りしめる。

「すごい、すごいね、今、奇跡を目の当たりにしてるんだ……!」

 ジョルジュは、熱のこもったささやき声で言った。巡礼者たちは、聖なる光に向かって金貨や銀貨を惜しみなく放り投げた。こめかみに直撃しかけた銅貨を、寸前のところで払いのけたサハル・ビン・ハサンは、腕に抱えていたジョルジュを急いで下におろして、コインのシャワーからかばってやった。

 やがて〈聖アナスタシアの光〉は薄まっていった。老聖職者が足元の燭台に再び火をつけ、左右の壁の蝋燭も徐々に灯される。続いて、窓にかけられていた暗幕が取り除かれて、宝物殿は現世うつしよの白っぽい光に照らされた。

 教会の人間によって順路が整理され、ジョルジュたちは聖アナスタシアの遺骸に近づくことができた。先に遺骸のそばに寄った巡礼者たちが、こぞってハンカチやスカーフを取り出しては遺骸にかぶせかけるので、ジョルジュもそれに倣った。聖アナスタシアは、純金と宝石の棺のなかに、黒く干からびた体を真白の衣に包んで横たわっている。巡礼者たちは、遺体へかぶせた布に、聖女の神聖な力が移ると信じているのだ。聖アナスタシアの衣服の足の辺りに重ねたハンカチを、ジョルジュは丁寧に胸ポケットにしまい込んだ。

 聖ウルスラ教会を出たあと、ジョルジュはしばらく奇跡の感動に浸ってぼうっとなっていた。その隙に、サハル・ビン・ハサンは上等なホテルにさっさと入ろうとしていた。

「さあて、今夜はここに泊まろうぜ。値段交渉は俺に任せてくれ」

「そのお金は誰が出すわけ?」

「心配するな、俺の隊商さえ帰ってくれば、耳を十ダースばかりそろえて返してやるよ」

 いまのところ隊商を持たない隊商主と、彼の財布になってやっている少女商人の二人組は、夕食にしては少々早い食事を取るために、ホテルの一階の食堂に入った。特産のバラが生けられた多くのテーブルは、ピルゴスで入った喫茶店とは打って変わって、裕福そうな巡礼者たちでにぎわっている。お腹を空かした二人の前に、仔牛肉のトマト煮込み、くり抜いたナスに肉と野菜を詰めたチーズ焼き、羊の胃袋のこってりとしたスープ、それにパプリカをバターと炊き込んだピラフが、香草の匂いとともに運ばれてきた。

乾杯ナズドラべ!」

 葡萄から造られたラキヤという黄金色の蒸留酒を、サハル・ビン・ハサンが小さな厚手の陶器のコップで一杯ひっかけているうちに、ジョルジュは帳面を取り出して、鉛筆で何か書き留めている。それに視線を留めたサハル・ビン・ハサンは問いかけた。

「何書いてるんだ? 日記か?」

「あなたがこれまでわたしに使わせたお金の額だよ」

 隊商主は腕を伸ばすと、鉛筆を奪って「ラキヤ 十レヴァ」と記された最後の行を塗り潰した。「ちょっと!」とジョルジュが抗議すると、隊商主は片目をつぶった。

「ここの宿泊代金を交渉してやったろ」

 商人としては、サハル・ビン・ハサンのほうが一枚上手であるらしい。年の功というやつだな、と負けず嫌いのジョルジュは決めつけた。

 デザートの代わりに、白チーズのサラダをつまみにしてラキヤの杯を口に運んでいたサハル・ビン・ハサンが、何気ない口振りで言った。

「聖女の棺の中には、ライトは入ってなかったよな。布きれをかぶせるときに巡礼者の手が触れるだろうから、その手のもんを遺体の服の中に隠しておくのも無理だろうしな」

 ジョルジュは、ヨーグルトのパイを切り分けていたフォークを止めた。

「聖アナスタシアの奇跡を疑ってるの?」

「そんな、背徳者を見るような目で見ないでくれよ。お嬢ちゃんも、神を信じない友達の鼻を明かすつもりなら、その子に突っ込まれる前に、奇跡が間違いなく本物だと証明したほうがいいじゃねえか」

「別に、エリカの鼻を明かしたいとか考えてるわけじゃないんだってば」

 そう言い返しつつ、サハル・ヒラールの言うことももっともだ、とジョルジュは思った。隊商主は、若々しい褐色の顔に生やした口髭をひねりながら、酔眼を天井に向けた。

「夜光塗料を塗るという手もあるが……」

「それだったら、遺骸が暗闇の中にあるだけで光を放つはずじゃない? それに、夜光塗料の光は、緑色でしょ ところでねえ、サハル・ヒラール、飲み過ぎなんじゃない?」

 時すでに遅し。ジョルジュが注意を促したときには、度数の強い地酒をしこたま飲んだ隊商主は、酒気に顔を真っ赤に染めて、がっくりと顎の先を胸に落としていた。


「ありがとう」

 ジョルジュは、食堂で酔い潰れてしまった隊商主を、上の階の部屋まで運んできてくれたベルマンに、多めのチップを渡して帰した。窓に遮光カーテンが引かれているため、室内は真っ暗だ。ベッドサイドの読書灯をつけて早速、今のチップの金額を帳面に書き入れる。

 二つ並んだベッドの片方に座って、胸ポケットから、聖女の遺骸に押し当てたハンカチを取り出して広げてみた。サハル・ビン・ハサンが眠り込む前につぶやいていたことを思い出して、読書灯を消す。聖アナスタシアの体に夜光塗料が塗られていたなら、遺骸にハンカチを押しつけたときに、塗料が移っているかもしれない。しかし、ハンカチは暗い六等星ほどの光も放たなかった。

 ふと思いついて自分の荷物の中を探ると、特殊な光を発するペンライトを取り出した。少女商人はそのペンライトを、宝石の真贋を鑑定するときに使っているのだ。

 思いつきで当てたペンライトの光に、ハンカチの一部がわずかに反応するのを見て、ジョルジュは顔色を変えた。怖いような気持ちで調べると、ハンカチの表面に付着していた繊維が、特殊なペンライトに光っているのがわかった。

 サハル・ビン・ハサンは、天井に向け大口を開けて高いびきをかいている。ジョルジュは唇を噛んで考え込むと、「ちょっと散歩に行ってきます」と走り書きした帳面を、読書灯の下にページを開いたまま残し、ハンカチを胸ポケットに戻して部屋を出た。


 夏の日はまだ落ちてはおらず、外は十分明るいと言えたが、聖ウルスラ教会はすでに門扉を閉ざしていた。門の向こうの教会は、薄緑色の丸屋根をのせた白い石壁を、傾いた日の色にのほほんと染めている。少し短気なところのあるジョルジュは、「ああー」と濁点のついたうめき声を上げながら、門の金属柵に両手をかけてがたがたと揺らした。

「どうしたんだい、お嬢さん」

 背後からかけられた声に振り返ると、どこかで見覚えのある壮年の紳士がジョルジュをけげんそうに見ていた。優秀な商売人は、一度会った人の顔を忘れない。恰幅のいい壮年の紳士が、泊まっているホテルのフロントに立っていた支配人だということに、ジョルジュはすぐに気がついた。帰宅途中か、あるいは仕事の間の休憩に散歩をしていたのだろう。

 ジョルジュは意を決して、善良そうな顔つきをしたホテルの支配人に、事情を打ち明けることにした。教会の人間はとても信用できないが、さすがにホテルの支配人までは不正に関係していないだろう。案の定支配人は、ジョルジュの言い出した話に心から驚いて、ハンカチの上の繊維がペンライトの光に発光するのを見せられると、深刻な顔つきになった。

 教会による不正、という思考の上澄みに浮かび上がってきた語句に、ジョルジュは寒気を覚えた。年間数万人の巡礼者たちが、それを目当てにカスティアシオンを訪れる聖アナスタシアの奇跡は、でっちあげられたものだというのだろうか。これから確かめようとしていることが、もし疑いようのない真実だと確定したとき、巡礼とカスティアシオンにどんな大きな衝撃が与えられることか。

「こっちへおいで、お嬢さん。うちのホテルのお客さんが、昼間教会に参拝したときに大事なものを落としてしまったと、宿衛に話を通したところだ」

 呼び鈴で宿衛の人を呼び出して、身振り手振りで何か話していたホテルの支配人が、ハンカチで額の汗を拭いながら戻ってきた。

「それにしてもえらいことだ。何にせよ、聖アナスタシアの衣服を実際に調べてみないことには始まらん」

 二人は、宿衛に通用口を開けてもらい、教会の敷地に入った。昼間の混雑が嘘のように、周囲にひと気はない。ジョルジュは支配人に尋ねた。

「静かですね。教会の人たちはどこにいるんですか?」

「夕方から早朝の間は、近くにある修道院で過ごすんだ。ここには少人数の宿衛のほか、誰もおらんよ」

 それを聞いて、ジョルジュはほっと息をついた。

 キイ、ときしむ音を立てて宝物殿の扉は開いた。天井付近の窓の暗幕は引かれておらず、宝物殿の内部は薄暗いながらも十分に見渡すことができる。ジョルジュは、昼間と同じ位置に黄金と宝石の棺を見いだした。

 部屋の中心に小走りに駆け寄って、ジョルジュはペンライトを胸の上で握りしめた。いつのまにか手が冷たくなっている。少女商人は、ペンライトのボタンをカチリ、と押して、その弱々しい暗色の光線の剣を聖女の遺骸に当てた。

 聖アナスタシアは、罰当たりな信徒の前に聖なる光の奇跡を示した。

 ジョルジュは、高ぶろうとする声を必死に抑えながら、後ろにいる支配人に語りかけた。

「このペンライトは、ブラックライトなんです。つまり特殊な光を放って、その光線に反応する物質を光らせるんです。その特殊な光とは、紫外線。聞いたことがあるでしょう? 人を日焼けさせる光です。同じく太陽光に含まれる、目に見える光よりも波長が短いので、人の目には見えないんです。わたしは普段このライトを、宝石を模造品と見分けるために使っています。本物のルビーなら、ブラックライトを当てれば蛍光色に光ります。このペンライトは、かろうじて人の目に見える波長の光を同時に出しているけれど、もっと波長を限った光で聖アナスタシアを照らしたなら、遺骸は暗闇で光っているように見えるでしょう」

「ということは……、聖アナスタシアの体には、紫外線に反応して光る蛍光塗料が塗られているということかね?」

「いいえ……いいえ、それは多分違います。おそらく聖アナスタシアの服が、紫外線を当てられると光を放つ特別な絹糸で織られているんです。前にわたしは、暗闇の中で美しい緑に光るウエディング・ドレスを、お金持ちのご令嬢のために売ったことがあります。その素敵なうえにお買い得なドレスは、暗い海で光るクラゲの遺伝子を組み込んだ蚕の糸から作られていました。だから、支配人」

 推理を話しながら振り返ったジョルジュは、そこで予想もしなかった光景に出会った。

「支配人? それと……誰ですか?」

 うろたえるジョルジュの前に立つ支配人は、重い純銀の燭台を片手にぶら下げていた。横手の壁から取ったのだろう。そして、宝物殿の扉とジョルジュの間には、いつのまにか五人ほどの男が立ちはだかって、みな棍棒や包丁といった凶器を構えていたのだった。ジョルジュは、凶悪な顔つきをした男たちの中に、昼間、ボザをおまけしてくれたパン屋の主人すら見つけ出した。

 支配人が、驚きと恐怖で声もない少女商人に向かって一歩踏み出した。

「遺骸を包む衣を作ったのは、クラゲの遺伝子を組み込まれた蚕ではないんだ。ある種のサンゴの遺伝子を導入した蚕は、黄金の糸を吐くようになるのだ。教会の外で、きみの話を聞いたときはびっくりしたよ。まさか、こんな年端もいかない子供に真相を見破られるとはね。しかし、我々にとっては不幸中の幸いだった。比較的たやすく処分できるだろうしな」

 処分、というおぞましい言葉に、ジョルジュの背筋が凍った。

「わかりました。さっき宿衛の人に声をかけたときに、ほかの人を呼び集めるよう頼んだんですね。でも、どうしてあなたたちが? まやかしの奇跡で巡礼の人たちをだましていたのは、教会だけじゃなかったの?」

 無言で包囲を狭める男たちには、ジョルジュの問いに答えるつもりはなさそうだった。殺気立った空気に気圧されて、ジョルジュはじりじりと後ろに下がった。


 ひりつくような喉の渇きを覚えて、目下、二回り以上も年下の少女に、食と住にかかるお金を用立ててもらっている隊商主は、接着剤でくっつけたようなまぶたをこじ開けた。最後の記憶に残る光景が、食堂のぐるぐる回る天井なので、現在の自分がどこに寝ているのか混乱する。しかし、過去幾度に渡るか数えられないほどの酔い潰れた経験から、年に似合わずしっかりしたあの少女商人が、上の階の部屋に運び込んでくれたのだろうと見当をつけた。

 まだ酔ったまま片手を振り回すと、ベッドサイドの小卓に置かれたガラスの水差しに当たったので、これ幸いとグラスにも注がずに、直接口をつけて飲み干した。限界まで水を吸って膨らんだスポンジのようにまとまらない頭が、多少なりとも輪郭を取り戻したような錯覚を覚えて、サハル・ビン・ハサンは、枕元の読書灯をつけた。

 おかしいぞ、と不審の念を抱いたのは、急な光源の出現によってチカチカする目に、隣のベッドで健やかに眠っているはずの少女商人の姿が映らなかったからだ。代わりに目に入ったのは、読書灯の光の輪の中に開かれた、少女の持っていたノート。

「あのがめつい娘、事細かに書き留めやがって……」

 食事と宿泊にかかった費用のメモを見て、一文無しの大富豪は顔を引きつらせた。のちのちたっぷりの利子を上乗せして請求されるに違いない。鉛筆書きであることをいいことに、こっそりいくつか消しておこうか、と不届きなことを考える。

 しかし最後の行に「ちょっと散歩に行ってきます」という走り書きを見つけて、隊商主は眉を上げた。置き時計を確認すると、少女が一人で外を出歩くにはそろそろ心配な時刻だ。

「まったく、手間がかかる」

 サハル・ビン・ハサンは舌打ちすると、ベッドサイドに置かれていた三日月刀をベルトに挟んで、少女を探しに出た。夕日は山の向こうにほとんど落ちて、空は赤く染まっている。

 少女商人の「散歩」の行き先には心当たりがあった。行動力の塊のようなあの少女なら、サハル・ビン・ハサンがたきつけたとおりに、聖ウルスラ教会へ聖アナスタシアの光の奇跡を検証しに行くに違いない。

 生き馬の目を抜く商人の世界を渡り歩いてきた隊商主は、そもそも聖アナスタシアの奇跡をさほど信用していなかった。奇跡が現実世界に存在すること、それじたいを強く否定するつもりはない。しかし、この百年ほどピルゴスの町では、ピカともゴロとも光らなかった遺骸が、縁もゆかりもないカスティアシオンに移された途端、奇跡の大盤振る舞いを始めるなんて、これを怪しいと言わずして何とするのか。

「千年もの間ずっと、遺骸を守り続けてきたピルゴスにとっては、いい面の皮じゃないか」

 教会に着いた隊商主は、呼び鈴を鳴らして宿衛に意外なことを切り出した。

「実は、昼間こちらの教会に伺ったときに、今夜出発する寝台列車の切符を落としちまいましてね。どうか宝物殿を探させていただけませんかね」

 へこへこと頭を下げる口髭の隊商主を、修道服姿の五十がらみの宿衛は、迷惑と同情がないまぜになった表情で見た。

「それは気の毒だが、部外者はいま宝物殿に立ち入ることはできない。大変重要な儀式が執り行われているからな」

 サハル・ビン・ハサンは、ここぞとばかりに演技力を発揮し、涙目になって宿衛にすがりついた。

「頼んますよ! お袋の容体がいつ悪いほうに転がるかわかんねえんだ。ハンカチに分けていただいた聖アナスタシアさまのありがてえお力を、早くお袋に届けてやりてえんです」

「ええい、放してくれ。わかったわかった。だが、いまは本当に大事な儀式の真っ最中だから、また一時間後に来てくれないか」

「ありがてえ! あんたは俺とお袋の恩人だよ!」

 宿衛からうとましそうに追い払われて、「大事な切符を落としたうっかりもの」は、門をさっさと離れた。心にもない謝辞と涙を惜しげもなく振りまいたおかげで、今現在宝物殿では、部外者に見られると大変まずい事態が進行しつつあることを知ることができた。

「さあて俺の取るべき道はどれかな」と、サハル・ビン・ハサンは、真っ赤な空を見上げて打算をめぐらせる。少女商人は、今まさに口封じの危機に陥っているらしい。彼は、しらばっくれてこの場を立ち去るだけで、あの生意気な少女からの借金をきれいさっぱり帳消しにすることができるのだ。計算高い隊商主の両眼からは、陽気な光がかき消えていた。


 丸屋根に開いた窓から差し込んでくる夕日の光が、薄暗い宝物殿を血と炎の色に毒々しく染めあげる。

 ジョルジュは、また少しかかとを後ろにずらした。息を荒くした支配人たちが、にじり寄るように輪を狭めてくる。「ここには少数の宿衛のほか、誰もいない」という先ほどの支配人の言葉が、今度は絶望感とともに思い起こされた。もう半歩後退したとき、かがめ気味の腰が棺にぶつかって、ジョルジュは悲鳴を上げそうになった。

 体をひねったジョルジュは、聖アナスタシアの真っ暗な眼窩と視線がぶつかって身震いした。今の今までかけられていた魔法が解けてしまったのだ。昼間はあれほど神々しく見えた聖女の遺骸が、今はひたすら恐ろしくおぞましい。棺の中にあるのは、ただの干からびた屍だった。その確信を補強するように、奇跡を騙る不徳の者どもが、真実を知る少女を今しも手にかけようとしているというのに、聖女は何の奇跡もお示しにならないではないか。

 ジョルジュは、聖アナスタシアの遺骸を人質にするという対抗手段を思いついた。だがその冒瀆的な計画の実行をためらううちに、支配人が、銀の燭台を掲げて殴りかかってきた。

「サハル・ヒラール!」

 濃くなる闇を切り裂くように、口髭の隊商主の名を叫んだのは、間に合うはずもない助けを呼んだからではなく、眼前にその男の背中が出現したからだった。

「俺を呼んだか?」

 宵闇に光る銀の三日月が、支配人の喉元に突きつけられた。その持ち主である口髭の隊商主は、不敵と不逞を同居させた笑みをひらめかせ、ジョルジュを囲む男たちを睥睨した。

「女の子一人を始末するのに五人も頭数をそろえたのは、責任を分散させるつもりだったんだろうが、この三日月のハサンサハル・ヒラールを引き立てる結果にしかならなかったな。っツ」

 セリフの最後に頭を押さえて顔をしかめたのは、不敵にして無敵を気取るこの男といえども、飲み過ぎによる頭痛を完全に駆逐することはできなかったからだ。サハル・ビン・ハサンは、宝物館の外壁を登って、窓の外側から中の様子をうかがっていたのだが、いよいよ少女商人が危ないと知って、ジョルジュと襲撃者の間に飛び降りたのだった。

「結果とは、それを完遂させてから使う言葉だ!」

と怒鳴り、雄叫びを上げて斬りかかってきた男の手から、サハル・ビン・ハサンはやすやすと肉切り包丁を跳ね飛ばした。飲み過ぎによるハンデを感じさせることなく、三日月刀の切っ先を肩に乗せてうそぶく。

「お嬢ちゃんを見殺しにして借金をチャラにするよりも、恩を売って借財を帳消しにしてもらったほうが、後味がいいもんな」

「何のこと?」

「なに、こっちの話さ。ところでお嬢ちゃんは、詰めが甘かったようだぜ。こいつらがグルになって、聖アナスタシアの奇跡を作り出していることまでは気づかなかったんだからな」

「そう、それだよ。どうしてホテルの支配人や、パン屋のおじさんが教会に協力して、奇跡を捏造する必要があるの?」

 サハル・ビン・ハサンは、野犬であればグルルル、とうなり声を上げているところだろう襲撃者たちを、嘲笑するような笑みとともに見回した。

「まだわからないか? 聖アナスタシアがこのカスティアシオンで奇跡を起こしたことによって、利益をせしめたのは一体誰なのか」

「それは、聖ウルスラ教会の聖職者たちでしょう?」

「そのほかにもいたのさ。思い出してもみろ。巡礼者に見放され寂れ果てたピルゴスの町を。その反対に隆盛を誇っている今のカスティアシオンをよう」

 ジョルジュは、はっと目を開いて幾度かまばたきをした。

「カスティアシオンの商人たちには、偽の奇跡を起こす十分な動機がある……」

「そうだ。こいつらはピルゴスの町を傾けて、その傾いた杯から芳醇な酒をそっくり盗み取ったのさ」

 はっきりと侮蔑が込められたサハル・ビン・ハサンの言葉に、ホテルの支配人が逆上した。

「そもそも聖アナスタシアの遺骸を掠め取ったのは、ピルゴスの町の奴らだ! 千年間にも渡って不当な利益を貪っていたのは、あのハイエナどものほうなのだ!」

「あんたの論拠をお聞かせ願おうか」

「千年前、この地方を訪れた聖アナスタシアは、ピルゴスで病人を治したあと、このカスティアシオンに向けて出発するはずだった。だが、貴重な聖人をほかの町に取られたくなかったピルゴスの連中は、口八丁で出発の日を伸ばした挙句、どうしてもカスティアシオンに向かうと言って聞かない聖アナスタシアを殴り殺したのだ!」

 ジョルジュは、一千年前の聖女殺害の告発に、悲鳴のような声を上げた。

「聖人を殺すなんて!」

「聖人は、生きていようと死んでいようと大して差はないのだ。彼らには、死後も奇跡を起こすことができるのだから。永久に町に留まってくれるなら、死んでいるほうが価値があるだろう。我々は、罰当たりなピルゴスの者どもから聖女をお救い申し上げたのだ」

 自己正当化の言をぬけぬけと吐く支配人を、サハル・ビン・ハサンはせせら笑った。

「そして今度は聖女さまに、カスティアシオンの繁栄のために一働きしてもらおうってわけか。あんたらもピルゴスの連中も、同じ穴の冒瀆者だろうが」

「うるさい! 黙れ!」

 三日月のハサンサハル・ヒラールは、その異名に恥じぬ働きをすることになった。自分たちの陰謀が二人のよそ者の口から流出することを恐れて、カスティアシオンの商売人たちが、決死の覚悟で一斉に襲いかかってきたのだ。

 三日月刀の切っ先で銀の光芒を描き、上機嫌でベルトの鞘に収めた命の恩人に、ジョルジュは声をかけた。

「ありがとう、サハル・ヒラール。あなたがまさかこんなに強いなんて知らなかったよ」

「おいおい、俺の実力はこんなもんじゃないぞ。次は一個師団を用意してくれ」

「どんな人にでも得意分野はあるものなんだね」

「……」

 サハル・ビン・ハサンは物言いたげな表情で、一人うなずいている少女商人を見やった。

 町の警備兵によって、カスティアシオンの商売人たちが引き立てられていったあと、ジョルジュは若干しっくりしないものを感じていた。宝物殿の外で、少女商人はサハル・ビン・ハサンに疑問を打ち明けた。

「黄金の糸を吐き出すサンゴの遺伝子を組み込んだ蚕なんて、聞いたこともないよ。少なくとも、まだ一般の市場に流通している品物じゃないと思う。カスティアシオンの商人たちは、一体どうやってそんな布を手に入れたんだろう」

「あいつらに入れ知恵をした奴がいるって言いたいのか?」

 隊商主は自慢の口髭をひねって少し考え込んだようだったが、すぐに結論を出した。

「だとしても、それは俺たちの心配してやることじゃないさ。どのみち、商人たちを尋問する警備兵が、すべての真相を白日のもとにしてくれるだろうよ」

 サハル・ビン・ハサンはさりげなく、しかし直接的に問いかけた。

「傷ついているのか? やつらが、聖アナスタシアの奇跡と巡礼者たちの純粋な信仰心を、金もうけの道具にしたことに」

 ジョルジュの手が、胸元の小さな純銀のロザリオを探った。信仰の証の十字架は、群青の夜空に散らばる星の光を映して、弱く果敢ないながらも美しい光を放った。

「聖アナスタシアの体が黄金の光を放つのを見たとき、感激したんだ。まるで心の中に、あたたかに輝く生きた宝石が生まれたみたいだった。そして、その貴重な宝石を守っていけることに、心から喜びを感じたんだよ。聖アナスタシアの奇跡は作り物だったけれど、きっと世界のどこかに、本物の神の奇跡が存在するはずだと思う。あのときの喜びは、そのために生まれたときから用意されたものに違いないもの!」

 サハル・ビン・ハサンは口髭を引っ張って、ふてぶてしい笑みを浮かべた。

「思わぬ活劇で、すっかり酔いが覚めちまったな。まだまだ夜は長い。ホテルの食堂に戻って、ラキヤをお供に第二幕といこうか」

 ジョルジュはあきれた目を向ける。

「まだ飲むの? いい加減懲りなよ」

「酒手は、出資者の財布の紐が緩んでいるうちに引き出さんとな。命の恩人には優しくするもんだぜ」

「これから飲む分は、助けてもらったのとは別勘定にしておくからね」

「あーあ、またどこぞの聖人聖女が、うさんくさい奇跡でも起こしてくれんもんかね」

 ホテルへ戻る二人のゆく手に、銀の円盤のような月がかかっている。

以上が、カスティアシオンで起こった「聖アナスタシアの光の聖衣事件」の顛末である。



  第六章 青とその周辺


 ベルトラン、オスバルド、アドラシオンの三人は、イスカンダリヤの図書館マクタバで、考古学雑誌のバックナンバーを片っ端からめくっていた。大きな閲覧机には、同じような雑誌がいくつも小山を成している。黒っぽい閲覧机の表面には、銀色の美しい星図が描かれていた。周りの机にも、動物や植物、鉱物といった、博物誌から抜き出してきた図が印刷されている。

クラウドを探すって、切った張ったの大活劇はないのか?」

 閲覧机にブーツをのっけて、有り余る血気をすべて頭髪に昇らせたような赤毛の船乗りは嘆いた。

「あるわけないだろう。クラウドらしきものを発掘したという報告や研究論文を、地道に探すしか手立てはない。二百年前なら、トリストラムにいながらにして、インターネット上に公開された論文をいくらでも読むことができたのだが、現代では、直接現地の図書館に出向いて資料を探すほかないんだ」

ベルトランが、雑誌を綴じ込んだファイルをめくる手を止めずに返答する。この学者は、もうまるまる三日間は図書館にこもりきりのはずだが、本のページからにじみ出す精気のようなものを吸収して、だんだんと生き生きしてきているような印象さえ受ける。

 オスバルドは、高い天井を仰いで目元をもんだ。雑誌は、イスカンダリヤの言葉か、西方の一大学術都市であるルーニアンの言葉で書かれている。オスバルドは船乗りなので、どちらの言葉の会話も得意だったが、どうも紙に書かれた文章を読むのは苦手だった。

「けっ、こんな虫食い雑誌を読むなんざ、粋な船乗りの仕事じゃねえや。船長、俺たちは船に戻って、白兵戦の演習でもしましょうぜ」

「それはもう午前中にしただろう。それに、我々は学士殿の護衛も務めていることを忘れるな。テロ組織ミネルヴァの梟が、どこで学士殿を狙っていないとも限らん」

 アドラシオンは冷たく言い放った。しかし一転、雑誌の記述に何かを見つけたようで、一オクターブ高い声を上げる。

「学士殿、これを見てくれ」

 ベルトランとオスバルドは黒髪と赤毛の頭を寄せて、船長の長い指が差す記事を見た。

「『カスティアシオン科学技術開発機構の研究施設建設中に発見されたA-ⅱ遺跡の発掘報告。……発掘された考古遺物は、機構の考古学部門に保存中である。』二年前の記事っすね。これがどうしたんです?」

 オスバルドが苦労してゆっくりと読み上げた横で、ベルトランは一足先に、船長が目を引かれた点に到達した。

「科学技術開発機構の代表は、テミストクレス……。これは確か、一年前に捕らえたミネルヴァの梟の首領の名ではありませんか?」

 アドラシオンは、深刻にうなずいた。

「つまり、このカスティアシオン科学技術開発機構という、舌を噛みそうな長い名前の組織は、ミネルヴァの梟の表の顔の一つということだろうな」

 テミストクレスの名を探して、紙上をうろうろとさまよっていたオスバルドの目が、いぶかしげに細められた。

「研究センター長チェストミール氏……。おいおい、同名の別人だろうな」

 思わぬ知り合いと同じ名に出会って、ベルトランとアドラシオンは顔を見合わせた。そこへ、大きな鞄を持ったペセシェトが、今にも駆け出しそうな早足でやってきた。鞄からぴょん、と猫のナジュムが飛び出したので、ペセシェトはあたふたと抱き上げる。

 ベルトランは、怪訝そうに眉をひそめて尋ねた。

「ペセシェト先生、どうしたんです? いつもこの時間は、エンリケ王子と一緒に、チェストミール先生のところにいるはずではありませんか?」

 三人の視線にさらされて、日頃冷静な女医は、彼女らしくもなく不安に苛まれた様子で、飼い猫を抱きしめた。

「実は、エンリケ王子がいなくなってしまったのです」

 ペセシェトは、乾ききった喉に無理やり唾を飲み込ませるように声を詰まらせた。

「チェストミールも一緒に、です」


 燦然と輝く星雲のような大都市の上空を通り過ぎると、二人乗りのプロペラ機の下は、真っ黒な津波に飲みこまれてしまったように見えた。知らないうちに、地上の世界は大洪水に見舞われて、生きているのは自分と、こちらに背中しか見せない操縦士だけなのではないかという発作のような恐れに駆られる。時々、漂流する白い浮標ブイのように、後方へと灯火が流れていくのが視界に入ると、まだ人外境には達していないのだと王子は安堵するのだった。

 夏とはいえ夜の空の上は寒い。平行する二枚の翼に挟まれた座席で、着せかけられた毛布にくるまるエンリケに、操舵輪を握っている操縦士が、振り向いて話しかけた。

「エンリケ王子、カスティアシオンには明朝到着する予定だよ。それまでゆっくりお休み」

「チェストミール先生。先生は、おれを殺すつもりなんだろ?」

 わずかな星明かりは、誘拐犯の顔を覆う夜闇のベールを払うには弱々しすぎた。運転席に座っているチェストミールは、イスカンダリヤ市立病院の、あの居心地の良い研究室にいるときと同じ声色で尋ね返した。

「どうしてそう思うんだい?」

「だって、今まで通りの研究を続けるだけなら、イスカンダリヤにいるままでいいじゃないか。みんなと引き離して、おれを秘密の研究所に連れていくのは、みんなに知られたらまずい研究をこれからするからなんだろ? 危険な実験だか、解剖だか知らないけどさ!」

 エンリケは、勇気と胆力を総動員して、語尾が震えないように気を配った。手が、わななくように腰の辺りをさまようのをこらえる。愛用の彗星剣は、チェストミールの研究室に置いてきてしまったままなのだ。

 昼間、いつもの通り市立病院を訪れると、ペセシェトが学院マドラサ時代の友人とばったり出くわしたので、エンリケだけが一足先にチェストミールの研究室へ向かった。すると部屋の主は、上手にウィンクして、「いつもの検査のご褒美として、今日は特別な場所に招待しよう」と、王子を誘い出したのだった。屋上植物園の外から飛び立った小型プロペラ機は、そのままイスカンダリヤ上空を遠く離れて、夜になっても陸地に降りようとしない。ペセシェトと旧友との再会も、若き医学者によって仕組まれたものだったのだろう。

 チェストミールは、わずかに苦笑を含んだ口調で答えた。

「まさか。殺したりはしないよ。きみはこの世界にたった一人のクローン人間だ」

「じゃあ、なんでおれを誘拐したんだ!」

「それはきみを独占するためだよ、エンリケ王子。これを見たまえ」

 そう言うと、医学者は操縦席から何かを放って寄越した。毛布で包んだ膝の上から拾い上げると、それはてのひら大のメダルとジッポライターのようだった。

「ジッポーを点けてメダルを照らしてごらん」

 チェストミールの促すままに、カチッとジッポーに火を灯してみると、メダルの表面に、光芒を放つ星を背にして翼を広げるフクロウが描かれているのがわかった。裏返すと、そこには大空白時代以前の言葉で文章が刻まれていた。

「ミネルヴァ……飛ぶ……?」

「die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug、『ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ』」

 エンリケがつかえながら読むのを待たず、チェストミールは滑らかに読み上げてみせた。

 王子は愕然とメダルを握り締めて、手の中のジッポーの火を激しく揺らした。

「まさか先生が、ミネルヴァの梟?」

「ああ、そうだよ」

 イスカンダリヤ一の名医と謳われる若者は、楽しげにさえ聞こえる声で肯定してみせた。トリスタン海軍によって一年前に壊滅したミネルヴァの梟。その残党が、いまだ密かに活動しているらしいということを、エンリケはアドラシオンやオスバルドから聞いていた。

「先生が、狂信的なテロリストだなんて信じられない!」

「狂信的? ああ、真理を絶対神として奉じていることを言っているんだね。僕は、ミネルヴァの梟のほかのメンバーとは主義の多くを異としていてね。真理を信仰してはいるが、その真理の顕現のために、世界を滅亡させようとしているわけではないんだ。僕はただ、人類の科学史に金のインクで刻まれるだろう僕の研究を、愚かな人々のために邪魔されたくないだけだ。そのために、関連分野の研究成果を秘密裏に独占しておきたいだけなんだよ」

「どういうことだよ?」

「大空白時代以前の世界において、少なくない国々はクローン人間を生み出すことを禁じていた。現代でも、いや天主教が影響力を広げる現代ではなおさら、クローン人間を造ると言えば、反対する輩が多いだろう。人間が神をも超越しようとする冒瀆行為だと言ってね! 時間をかけてじっくり議論すれば、理解のない人々の誤解も解けて、クローンは社会に受け入れられるかもしれない。大空白時代以前においてはそうだった。だが、それまでには一体何年かかる? 愚かな人々は必ずや、クローン研究者に、研究の一時停止モラトリアムを命じるだろう! そんなくだらないことで、研究の自由を妨げられるなんて我慢できないよ」

「それは自分勝手なんじゃないか?」

「僕は、同朋である科学者・哲学者たちに自由な研究活動を保証するために、新生ミネルヴァの梟を作った。研究の自由を守るためなら、どんなことだってするだろう」

 エンリケは、毛布にくるまっているというのにぞくっと肩を震わせた。チェストミールの声からはすでに、市立病院の研究室で耳にした謙虚さや穏やかさは消え、熱病に浮かされたような暗い情熱と陶酔に支配されていた。

「さっきも言ったように、僕はきみを殺したりはしない。きみには、ミネルヴァの梟のシンボルになってもらうつもりだからね」

「シンボルって?」

「エンリケ王子、きみこそは、秘密研究の果樹の枝に育った最も甘い果実じゃないか。きみの母親は、クローン人間の創出に成功したことを公表しなかった。発表することによって、国内の敬虔な天主教信徒たちから非難され、研究が滞ることを恐れたに違いないよ。きみの母親と僕らミネルヴァの梟がやろうとしていることは、何ら変わらないんだよ」

 エンリケは、反論のために開いた口を一度閉じたが、小型飛行機のプロペラ音に負けないように声を張り上げた。

「母さんがしたことも、先生がしようとしていることも、どちらも間違ってると思う。研究したことは、誰かが独占しちゃいけないんだ。ましてや、研究の自由を守るためなら何でもするだなんて。じゃあ、研究を邪魔するやつが現れたら、先生はその人を脅して殺すつもりなのか? それなら、過激なテロ組織だったミネルヴァの梟と同じじゃんか!」

「同時代の人々は、僕らを悪として非難するだろう。だが、新生ミネルヴァの梟が果たす人類の科学技術史への貢献を、未来の人々はきっと評価してくれるはずだ」

 それを最後に、チェストミールはエンリケの話しかける言葉に応えることをやめた。被誘拐者と誘拐犯を乗せた小型飛行機は、巨大隕石の落ちた真っ黒なクレーターのように見える内海の上空に差しかかろうとしていた。


 人々は、エンリケを連れて失踪したことから、チェストミールがミネルヴァの梟のメンバーであることを確信した。トリスタン王国の一行は急遽、北の内海沿岸の町カスティアシオンに向かうことに決めた。そこには、チェストミールがセンター長を務める研究所があるからだ。

 カスティアシオンまでは、二つの海峡を越えて北の内海を進むルートで、五日間ほどかかる。ヴィヴィアン号の甲板上を走ったところで、旅程が縮まるわけでもない。一行はエンリケの身を案じながらも、船上でおとなしく過ごすほかなかった。

 電脳考古学者のベルトランは、自分の手元の書物は子や孫を産むと主張している。この若い学者は所用で旅行に出かけるとき、同年代の平均体力以下である自分が自力で持ち運べるだけの書籍しか持っていかないことに決めていた。しかし不思議なもので、トリストラムに帰ってくるときには、同行者数人に分けて運んでもらわなければならないほど、書物が増えているのだ。そのわけは、目的地や移動中に立ち寄った本屋で、気になった本を見境なく買い込んでしまうからだ。オスバルドは、学者のこの悪癖を病気扱いして、ペセシェトに診察を依頼したことすらある。もちろん悪い冗談だが。

 ベルトランはもちろん、イスカンダリヤでも新古書店を巡回し、ヴィヴィアン号の船室に、赤毛の船乗りが揶揄するところの「巣作り」の材料を大量に運び込んでいた。

 エリカは、内職の道具を抱えて、船室の「巣」の中に幸福そうに埋もれているベルトランを訪ねた。占い師としてまだまだ未熟なことを自覚しているエリカは、わずかでも自分の手でお金を稼ごうと、空いた時間には種々の内職に勤しんでいるのだ。丁寧で仕上がりがきれいなエリカの仕事は好評だった。依頼主に喜ばれることが嬉しくないわけではもちろんないのだが、「こんなことに手先の器用さを発揮しても、占いが全然上達しないんじゃ意味ないなあ……」という思いが浮かんできて、エリカは悲しかった。

 ベルトランの船室にやってきたのは、髪の色が自分と同じこの学者と一緒にいると、なぜか落ち着くからだ。幼い頃に離れ離れになった父や兄に、どこか面ざしの似たベルトランのそばで時間を過ごすのが、エリカは好きだった。

 ほとんどすべての船室には、両側の壁に沿って二段ベッドが配置され、ベッドに挟まれた奥の壁際に机が一つ置かれている。その椅子で『安全な航海のための由緒正しいおまじない100』という題名の本を熟読していたベルトランは、エリカをこころよく招き入れた。二段ベッドの下段を占領している本の山を、好きにどかして座るよう指示する。そのまま読書に戻らずに本を閉じてしまったのは、占い師の少女が、内職として壁掛けカレンダーにすばやく紐を取りつけながら、深刻な顔をしているのに気づいたからだった。

「エリカ、まあ、コーヒーでも入れるから一旦休憩しないか?」

 ベルトランは、香りのいいブラックコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて、カフェオレにしたものをエリカに手渡した。

「エンリケ王子のことが心配なのかい? まったく、あのでかい赤毛が私の意見を馬鹿にして、不吉な金曜日に出航したりするからこんな事態になったんだ」

 ベルトランがいらだたしげに文句を言ったのには、こういう前日譚がある。オスバルドから出航日を聞いたこの電脳考古学者は、強硬に異議を唱えたのだ。

「貴様は船乗りのくせに知らないのか? 大空白時代以前から、金曜日に出航することは不吉だと言われているんだぞ。一九世紀、その迷信を打破しようとしたイギリス海軍は、金曜日に建造を始め、金曜日に完成を祝って進水式を行った〈金曜日フライデー〉号という船を、フライデーという名前の船長のもと、金曜日に処女航海に送り出した。しかしその後、〈金曜日フライデー〉号の姿を見た者はいないという……」

 オスバルドは悪友を適当にいなして、その言に聞く耳を持たなかった。将来を期待されるこの若手学者には、どういうわけか船乗りよりも迷信深いところがあるのだ。

 エリカは、その話を聞いてくすくすと笑ったが、その笑い声は、普段よりもずっと短く終わった。占い師の少女はため息をつくと、カフェオレのカップを両手で包んだ。

「王子さまのことは心配じゃないわけじゃないけど、あの王子さまのことだから、簡単にどうにかなったりはしない気がするんですよね。もう一人、この船にいない人がいるでしょ?」

 ベルトランは、エリカやエンリケ、テオフィロの共通の友達に思い当たった。

「ジョルジュだね。最近、トリスタンに姿を見せないと聞いているよ」

「わたしとテオフィロは、ジョルジュを探すためにこの船に乗ったんです」

 そしてエリカは、「神さまなんていない」という自分の言葉のせいで、ジョルジュが怒って王宮に来なくなってしまったのではないかという心配を話した。

 ぽつりぽつりと事情を話すうちに、すっかり冷めてしまったカップをエリカから受け取って、ベルトランはカフェオレを入れなおした。長い足を組んで椅子に座り、表面が見えないほど書物と書き付けの積み上がった傍らの机から、文鎮として使っているガラスの三角柱を持ち上げる。

 机の上方の円窓から差し込む陽光に透かすと、開きっぱなしのノートのページに虹が現れた。ベッドに座ってうつむいていたエリカも、思わず目を吸い寄せられる。

 ベルトランは、手の中でプリズムの角度を変えながら、エリカに問いかけた。

「エリカ、この虹は何種類の色で構成されているように見える?」

「え? 七色でしょう?」

「じゃあ、この虹の中から、エリカが一番鮮やかだと思う青色を指差してくれるかい」

 エリカは、これはどんな心理テストなのだろうと思いながら、色彩のグラデーションの中から青色の部分を注意深く指差した。その色は、胸のうちに鮮やかな痛みとともに残る、あの日エリカをとても悲しそうに見た、ジョルジュの瞳の露草色によく似ていた。

「そうか、それがきみの鮮やかな青なんだね。いや、そんなに警戒しなくてもいいよ。何か揚げ足を取ろうってわけじゃないんだ。ただ、虹を七色と数えることは当たり前ではないことは知っているかな? 世界には、八色、六色、五色、三色、あるいは明と暗の二色だと捉えている民族さえ存在する」

「二色?」

 エリカは、信じられずに聞き返した。その人々には、虹が一体どんなふうに見えているのか、想像もできない。

「このように、太陽光をプリズムに通したときに現れる、赤から紫までの色の帯のことを、スペクトルという。虹が七色だと答える人の間でも、七つの色の切り分け方は随分と違うことがある。そうした違いは、育った文化によって大きく左右されるんだ」

 ベルトランの手の中でプリズムが転がり、ノートの上の虹がずれたので、鮮やかな青を指していたエリカの指の先は、紫に近い、名も知らぬ色に染まった。

「現代を生きている私たちが鮮やかで美しいと感じている青色の、その隣の曖昧な色こそが、過去の人々にとっては無比の貴重な青色だったかもしれない。色の切り分け方は、歴史を通じて変遷しているはずだが、生まれた時代の制約から、私たちの青色こそが真の絶対的な青だと信じているんだ……」

 ベルトランは単に色のことだけを言っているわけではないことを、エリカは何となく感じ取った。占い師の少女は、明晰な若い学者から、「まだピンと来ない?」とあきれられるのではないかと恐れながら、追加の補足説明を求めた。

「だけどベルトラン、それが、ジョルジュのこととどう関係してくるんですか?」

 ベルトランは、少女の心を傷つけるような非情なことは口にせず、言葉をまとめるようにプリズムに目を落とした。

「私は常々思っているのだけれど、エリカのように神を信じていない人が、『神』や『信仰』といった言葉を口にするときの心の動きと、ジョルジュみたいに熱心な天主教徒が同じ言葉を発したときの心の揺れ具合は、全然違うんじゃないかな。エリカにとって、まぶしいほど鮮やかな青色は別にあって、『神』はその周辺の曖昧で捉えにくい色かもしれない。だけどジョルジュにとっては、その『神』こそが、何よりも貴重な、輝く青色なんじゃないかな」

 ベルトランの口調にも声色にも、エリカを責めたり反省を促したりするような色はなかった。けれど、エリカはややあってから、うん、と首を小さく縦に振った。それから立て続けに、うん、うん、とうなずいて、おさげにした黒髪を顔の周りで揺らした。


 カスティアシオン科学技術開発機構は、聖アナスタシアへの巡礼地であることによって、今まさに空前の繁栄を謳歌しているこの町のはずれに建っている。外観は石造りの堅固な建造物で、中世のギルドの会館といった趣だが、その実、IDチェックを通過した者しか立ち入ることの許されない内部には、最新鋭の機器や貴重書の集められた研究室が存在した。

 チェストミールは虜囚には寛容で、エンリケが研究所内を自由に歩き回ることを許した。研究所に連れてこられて五日、エンリケは毎日、脱出の機会をうかがって建物の中を探索している。唯一の出入口には警備員がおり、窓という窓は開かない仕様になっていた。研究所内には食堂が設けられていて、食事はそこで取ることができる。ほかの研究員たちは、エンリケと生活リズムが違うのか、所内で会うことはほとんどない。

 チェストミールの話では、研究所は哲学、考古学、史学、言語学、医学、数学、工学、その他多数の部門に分かれているということだ。テロの標的や計画の一端でもつかめればいいと考えたが、当然そういった計画書が、王子の目に触れるところにあるはずもなかった。

 王子はその日、最上階である五階の奥に、密閉性の高い重そうな扉を見つけた。いかにも重要なものがしまってありそうな雰囲気を感じ取って、エンリケは肩で扉を押し開いた。

「もう一つドアがある……?」

 エンリケの目の前には、もう一枚まったく同じような扉が立ちはだかっていた。扉の内側は暗い小部屋だったのだ。二枚目の扉をそろそろと開くと、ガラス戸棚の密集した広い部屋が広がっていた。窓がなく、扉が開くと同時に点灯した照明も最小限に絞られているため、室内は薄暗い。廊下に比べて、随分とひんやりした空気が流れている。壁には、湿度計と気温計が下がっていた。その部屋は、ガラス戸棚の中に保管している考古遺物を、光や温度変化による劣化から守るために、気温湿度を一定に保った収蔵庫だったのだ。

 細い通路の両側のガラス戸棚には、土器のかけらや大空白時代以前に使われていた硬貨、それから用途のわからない黒い板のようなものが眠っている。不意に、ブウウウン、と動物のうなり声のような音が聞こえたので、エンリケはびくっと肩を震わせた。

 音のする方へ近づいていくと、ガラスケースの中に、緑やオレンジの点のような光をチカチカと灯したり消したりする黒い箱型の機械が据えられていた。エンリケをびっくりさせた動物のうなり声じみた音は、この箱型の機械の作動音だったのだ。その機械の前にしゃがみ込んだエンリケは、遺物のデータを書き込んだタグを読み取った。

「サーバーコンピュータ、二五一一年、A–ⅱ遺跡出土……。コンピュータって何だっけ?」

 エンリケの脳裏に、電脳考古学者のベルトランの貴公子然とした品のいい顔が浮かんできた。確か以前、彼が教えてくれたのだ。

「電網戦争の前の時代には、生活に欠かせないものだったって言ってた気がするな」

 記憶がよみがえりそうになったとき、階下か建物の外から急にわあっという喊声が上がって、エンリケの意識は、横っ面に張り手をかまされたように、そちらへ向けられた。

「もしかして、アドラシオンたちがもう助けに来てくれたのか?」

 エンリケの胸が期待で膨らんだ。しかし、研究所に押し寄せていたのは、まったく見知らぬ人々だった。

 階段を駆け下りて、二階の廊下の窓からガラス越しに建物の外を見下ろすと、研究所の外には、二、三十人からなる群衆が詰めかけていた。みな怒りに燃えた鬼気迫る顔つきで、玄関を守ろうとする少数の警備員たちと揉み合っている。

「よくも俺たちカスティアシオンの市民を、汚い詐欺師にしてくれたな!」

「この研究所を建設するのに使った私たちの喜捨を返して!」

「とにかくこの研究所の責任者を出せ!」

 状況が飲み込めず困惑するエンリケの目は、研究所の玄関を破ろうと殺到する群衆から少し離れたところに、不安そうな面持ちで立っている大人と子供の二人組に留まった。大人のほうは、口髭と腰ベルトの短剣が特徴的な男性だ。その隣の子供は、見間違えるはずもない。羽付きシルクハットにエメラルドのブローチという派手な出で立ちをしたあの少女は。

「ジョルジュ!」

 ちょうど、少女のほうも研究所の玄関に注いでいた目線を上げたところだった。エンリケは、露草色の瞳を大きく見開いたジョルジュの口が、自分の名前の形に開閉するのを見た。

 そのとき、とうとう玄関扉は破られて、殺気だった群衆が研究所内になだれこんできた。窓の下でジョルジュが燕のようにすばやく玄関に駆け寄るのを目にして、エンリケも一階に走って向かった。

 研究所の責任者を引きずり出そうと、カスティアシオン市民が建物内に流れ込んでくる。その濁流に突き飛ばされそうになりながら、エンリケは何とか玄関ホールでジョルジュと再会することができた。

「ジョルジュ、どうしてここに?」

「エンリケこそ、なんでこんなところにいるの?」

 二人は一瞬、お互いに先手を譲り合ったが、結局ジョルジュが先に事情を説明した。

「カスティアシオンの町には、聖アナスタシアの奇跡を目当てにやってきたんだ。だけど、死んだ聖女が光を放つというのは、奇跡でも何でもなかったの。遺骸に着せかけられていた服が、紫外線を当てると光る特殊な絹糸で織られていたんだ。その服を作ったのが、このカスティアシオン科学技術開発機構で、そもそも偽の奇跡を起こそうっていう悪だくみそのものが、この研究所の発案だったっていうんだよ」

「だけど、この研究所はどうしてそんなことしたんだ? その光る絹糸っていうのを売り込むためか?」

 ジョルジュは、羽付きシルクハットをのせた砂色の頭を横に振った。

「カスティアシオンの商人たちと教会に、この研究所建設と維持のお金を出させるのが目的だったらしいよ。最初は、聖アナスタシアのもともとの聖地であるピルゴスに資金の提供を頼んだんだけど、すげなく断られたもんだから、研究所側にはその腹いせもあったみたい。『病気治しの奇跡で有名な聖アナスタシアと、最先端の医療を研究している科学技術開発機構で、カスティアシオンを大陸一の医療の都にしましょう』っていう研究所の誘いに、この町の商人たちが乗っかったんだって」

「チェストミール先生とミネルヴァの梟が、そんな悪だくみをしていたのか」

「チェストミール先生って誰? 待って、ミネルヴァの梟ってまさか」

「そうなんだ。この研究所は、ミネルヴァの梟のものなんだよ。チェストミール先生は研究所の所長で、クローン人間の研究をしてる。おれはその人にイスカンダリヤから誘拐されてきたんだ」

 ジョルジュは目を見張った。

「誘拐? テオフィロやエリカはどこにいるの?」

「テオフィロとみんなは、おれがチェストミール先生に連れ去られたことに気づいて、今もイスカンダリヤから船を飛ばしてここに駆けつけてくれてる……と思う」

 だったらいいな、と言いそうになった口をエンリケはつぐんだ。それまで傍らで口髭を撫でていた褐色の肌の男の人が発言した。

「話は聞かせてもらったが、とにかく坊やは、この研究所から脱出したほうがいいんじゃないか」

「ええと、あなたは?」

「この人はサハル・ヒラール。エンリケと同じで、わたしに多額の借金がある人だよ」

 ジョルジュが陽気に紹介すると、隊商主と王子は同時に苦い顔をした。サハル・ビン・ハサンが訂正する。

「俺は、砂漠一いかした隊商を持ってる大富豪にして、お嬢ちゃんの命の恩人さ」

 さあ一緒に逃げよう、とジョルジュに手を引かれたエンリケは、足の甲に杭を打たれたかのように立ち止まった。ジョルジュが心配そうに尋ねる。

「どうした? 足でもつった?」

「いや違う。このままじゃ逃げられない。チェストミール先生を捕まえないと。先生は、これまでのミネルヴァの梟と同じように、世界中でテロを起こすかもしれないんだ」

 ジョルジュはため息をつくかと思えば、両頬ににっこりとえくぼを作ってこう言った。

「エンリケなら、そう言うと思ったよ。それならその先生って人を探しに行こう」

 毒を食らわば皿まで、の心境で少年少女のあとを追いかけるサハル・ビン・ハサンは、「類は友を呼ぶ、とはこのことだな」と心につぶやいて、やれやれと首を振った。

 三人は、実際にはチェストミールを探し回る必要はなかった。与えられた寝室に戻ると、エンリケを連れ出そうとして訪れたミネルヴァの梟の首領に出会うことができたからだ。

「おやおや、どこに行ったのかと思えば……。エンリケ王子、僕らはこの研究所を即刻離れなければならなくなってしまったんだ。一緒に来てもらうよ」

「チェストミール先生、おれは行かないよ。アドラシオンたちが来るまで、ここで先生を足止めするんだ」

 王子の言葉を聞いて、ミネルヴァの梟の若き首領は、白皙の頬に淡い苦笑を浮かべた。すると、チェストミールとエンリケたちを前後から挟むようにして、廊下の左右から屈強な警備員たちが現れた。

「彼らは、長年内陸部の紛争地帯にいた歴戦の傭兵たちだ。いかに王子のご友人が勇敢でも、孤立無援の状態では太刀打ちできないだろうよ」

 傭兵たちが、軍用ナイフを提げて距離を詰めてくる。「王子の勇敢なご友人」は、星屑の散るような鞘走りの音を立てながら、三日月刀を抜き放った。口髭の下の若々しい口元を不敵な笑みの形に作って、少年少女を寝室の扉のほうに押しやる。

「坊やにお嬢ちゃん、寝室に駆け込んだら窓を叩き割って飛び降りるんだ」

 エンリケが、サハル・ビン・ハサンのたくましい腕の下から黄金色の頭をひょい、と上げて反論した。

「寝室に窓なんてないぞ。あればとっくに逃げ出してるに決まってんじゃん」

「……窓のない部屋を子供にあてがうなんて、児童虐待案件じゃないのか?」

 三人は、ジリ、と扉に背中を近づけた。サハル・ビン・ハサンが、「どいつが俺の三日月刀の四二六人目の犠牲者になりたい⁉︎」と声を張り上げたそのとき、紙袋を耳元で破裂させたような乾いた音が鳴った。傭兵の一人が軍用ナイフを取り落として、腕を押さえる。

「射撃の命中数、連続五○○人達成の快挙ですな」

「お前が十以上の数を数えられるとは知らなかった」

「失敬な。ちなみに俺さまの剣にかかった敵の数は、これで六○一人目ですぜ」

 倒れる傭兵の体の向こうに現れた二人組を目にして、エンリケは喜びに声を輝かせた。

「アドラ! オスバルド!」

「エンリケ王子、私のことは船長と呼びなさい」

 アドラシオンが、毛先をリボンで結んだダークブラウンの髪を後ろに跳ね上げて、短銃を連射すると、そのたびに傭兵側に苦痛の叫び声が上がった。

 ジョルジュが、首から下げた銀の十字架を握りしめて目を閉じた。

「神よ、助けてくださってありがとうございます」

「おいおい、美女はともかく、何なんだあの赤毛は。俺の見せ場を奪わんでほしいな」

 口髭の隊商主は、泣いて喜ぶどころか不機嫌そうにつぶやくと、三日月刀を一閃させて、襲いかかってきた傭兵の胸を浅く切り裂いた。

「忘れていた! あのとき俺の隊商を襲撃した盗賊どもを数えれば、これで四九七人目!」

 船長と副船長を追ってきたトリスタン海軍の制服と傭兵たちが入り乱れる。混戦状態の廊下をすり抜けて、癖のある茶色の髪の少年が、エンリケのもとへ走ってきた。アドラシオンが鋭い声でとがめる。

「危ないから来ちゃいけないと言っただろう!」

「ひゃあ、ごめんなさい!」

 しかし、素直な返事に反して、テオフィロは親友のもとに駆けつけると、無事に再会を果たせたことを喜んだ。そして、エンリケの隣にいるのが、自分がずっと心配して探していた少女商人だと知ると、彼女の両手を握りしめて破顔した。

「ジョルジュ! 元気そうでよかった!」

「心配してくれて、ありがとう……」

 両手を少年のそれに包まれたまま、ジョルジュは頬を赤くした。

「エンリケ、これを使って」

 ジョルジュの手を名残惜しそうに離したテオフィロがエンリケに差し出したのは、彗星剣だった。エンリケは愛剣を受け取ると、すぐに片手で親友を引き寄せて、ちょうど振り下ろされた傭兵の軍用ナイフに空を切らせた。「やあっ」という気合ととともに、剣術のお手本通りに彗星剣を突き出し、傭兵の右肩に傷を負わせる。

 一方、隊商主と赤毛の船乗りは、いつのまにか背中合わせになり戦果を競い合っていた。

「おっと、いつぞやの悪徳商人どもを勘定してなかったな、五九九人目!」

「……六○四人」

「ガキの頃にぶちのめした、いけすかないガキ大将も含めれば、六○五人だ!」

「おい口髭、お前なあ! 勝つためならどんなことでもしていいのか? じゃあ、俺さまもあのときの海賊を忘れてたから、これで六一三人目だ!」

 一部で漫才が演じられるなか、旗色の悪くなったチェストミールが、乱戦に背を向けて姿をくらまそうとしていた。だが、それを見逃すアドラシオンではない。銃も構えられないほど至近距離での格闘を迫ってきた相手に、銃底で側頭部をガツン、と殴り付けることで決着をつけると、チェストミールの背中に狙いを定めて、その場で停止するよう命令した。

 青年医師が足をかけていた階段の下から瞬間移動のように、角刈りの大男と、陶器製のバレリーナと見紛うほど線の細い美女が現れた。角刈りの大男が体の横にだらりと下げた左腕は、義手のようだった。早撃ちの名人である船長も反応できないほどの神速で、大男が右手の銃に火を噴かせる。弾丸が、アドラシオンの右腕をえぐり、その腕の先の短銃の照準をぶれさせた。

「船長!」

 オスバルドが、ふらついた上司を支えて、その体と角刈りの大男の銃口とを結ぶ死の直線を、身をもって遮った。しかし、角刈りの大男は二人からすでに興味を失ったようで、階段を降りるチェストミールとバレリーナの後を追っていった。

 アドラシオン船長率いるトリスタン海軍兵たちよりも一歩遅れて研究所内に足を踏み入れたペセシェトは、階段の踊り場に差し掛かったとき、角刈りの大男とバレリーナを従えて、上階から降りてきた旧友に鉢合わせた。

「チェストミール! 過激なテロリストなんて、あなたに似合いの役柄じゃないわよ!」

 十年来の友人による必死の説得に、ミネルヴァの梟の首領は、一瞬だけ顔つきを強張らせたが、すぐに余裕のある表情を取り戻して、穏やかな声で言い返した。

「ペセシェト、僕は何もテロを目的としているわけじゃない。人類全体にとって価値ある僕らの研究を、何の妨げもなく完成させたいだけだ」

「でも、それに邪魔となる人は殺すのでしょう?」

「僕の研究が短い時間で実を結べばそれだけ、病気や怪我で死ぬべき不幸な人たちは助かるんだよ。きみが戦場で助けられなかった人々だって、あるいは」

 女医の濃いすみれ色の瞳を縁取るまつげが震えた。しかしその奥の目は、決然たる意志の松明を掲げていた。

「医者であるあなたが、自らの手で人をあやめると、恥ずかしげもなく口にするのね」

「……きみは最後には、僕を理解してくれない気がしていたよ。残念だ」

 陶器のバレリーナのように美しく生気に乏しい娘が、若き首領の肩に白衣を着せかけた。

 踊り場の窓から黄昏の光が差し込み、チェストミールの白皙を琥珀色に染める。そのときペセシェトは気づいた。昔からよく知っている友人の、ハンサムとは称されてもけしてそれ以上ではなかったはずの容貌に、絶世の美青年という賛辞を贈ってもよいほどの秀麗さが加わっていることに。旧友は今、望みをかなえるために、自分の生を力のかぎりに生きているのだ、とペセシェトは直感した。けれど、穏やかで患者から信頼されて、抜けている面もあるけれど、誰より優しいチェストミールこそが、女医にとって本当にかけがえのない、得がたい友人だったのに。

 黄昏の光の注ぐところ、肩にかけた白衣をマントのように翻して、ミネルヴァの梟の首領は、濃いすみれ色の瞳を沈ませるペセシェトの脇を通り過ぎた。

 


  終章 父王の思い


 窓から春の光が差し込むその部屋の空気は、温かく親しい気持ちで心の中を満たした。室内の柔らかな肘掛け椅子に、黄金色の髪を背中に垂らした若いドレスの女性が腰掛けている。膝に広げた分厚い医学書に白い手が置かれ、青い瞳はひらめきと知的な刺激を求めてきらきらしていた。肘掛け椅子の背もたれに手をかけて傍らに立つ線の細い青年は、若い女性とそっくりな金髪碧眼を持ち、その上品な容貌には、女性の与えるどちらかといえばシャープな印象よりも、温和な色をたたえている。二人の若い男女は、気を許し合った親しいまなざしを交わし合っていた。

 金の額縁で囲まれた平和な情景から、エンリケは執務机の向こうに座る父王に目を引き戻した。父王の私室ではなくて、わざと執務室を訪ねたのは、父と自分の間に大きな机を挟むことができるからだ。エンリケにとって父はまだ、ソファの隣に腰掛けるのには遠慮と気構えのいる相手だった。

 ぎこちない会話の糸口として、エンリケは肖像画について触れることにした。

「母さんと叔父さんの絵を飾ったんだな」

 エンリケがイスカンダリヤへの航海に旅立った日、出発の挨拶のためにこの部屋を訪れたときには、ここにはフアナのみの肖像画がかけられていたはずだ。

 執務机の上に手を組んでいたカルロス王は、不意に椅子を立ってエンリケのそばにやってきた。エンリケの心臓が跳ねる。もとトリスタン海軍の提督だった国王と並ぶと、その立派な体格と、自分の貧弱な体つきとのあまりの違いに圧倒されてしまうのだ。

「ああ、母さんは義弟おとうととともにいるとき、とても幸福そうだったからな」

 エンリケは、横目で父王の横顔を盗み見た。今なら、尋ねにくいことを訊くことができる気がした。

「父さんは……、母さんが、好きだった?」

 口にした瞬間、火を噴くように頬が熱くなった。やっぱりこんなこと訊くんじゃなかった、と冷や汗をかいて後悔するエンリケの隣で、父王は口を開いた。

「……愛していたよ。今でも、愛している。この四海のうちに、あれほど愛らしく、思慮深く、余の目にまぶしく映る女性はいない。だが、余がフアナにした仕打ちは、愛している者のそれではなかったな。余は、母さんに甘えていたのだ。愚かにも、母さんなら余の過ちを許してくれると考えていた……」

 エンリケは、深く息を吸い込んで質問した。

「父さんは、どうしてクーデターを起こしたの?」

「年若い義弟おとうとに、国王の重責は不釣り合いだと思っていたのだ。義弟は努力していたが、当時の余には、彼が王に向いていないように見えた。だが、余が説得しても、彼は国王を辞めるとは言わず、いつも無理を重ねていた。だから、力づくでも彼を王位から下ろして、余が王に成り代わろうとしたのだ。義弟には普通の若者として生きていってもらい、余が国王、賢いフアナが王妃となることが、何より国のために、そして義弟のためにもなると思った。だが、余の兵に追い詰められた彼は冷たい冬の海に飛び降り、甘い計画は狂ってしまった」

 父王は、この世で一番苦いコーヒーを飲み下すように一瞬押し黙った。

「義弟が死んでからの一年間、母さんは研究室に引きこもってしまった。それでもいつかは許してくれるだろうと、余は日々、国王としての仕事をこなしていた。愚かな余は、母さんが自ら命を絶つまで、自分の犯した過ちに気づかなかったのだ。母さんが、義弟といるとき幸せであることはわかっていた。そしてそれと同じくらい、余とともに過ごすときも幸せでいることを知っていたのだ。余は、余が、フアナの幸福を二つとも奪ったのだ」

 エンリケは、言葉もなく父王の苦痛に満ちた表情を見上げた。カルロス王は、肖像画の中のフアナの微笑みに手を伸ばそうとはしなかった。きっと、これまでの十二年間に散々手を伸ばしてきて、もう確かめないでも、望むものには、永遠に触れられないことがわかってしまっているのだろう。

 父王は、思ってもみないことを告げた。

「エンリケ、余は、お前が二十歳になったら王位を譲ろうと考えている」

「えっ?」

「余が王位を奪ったとき、アマデオ国王はちょうど二十歳だったのだ……」

 エンリケは激しく動揺した。しかし、決意を固め、血の気を失って冷たい両手を握りしめたままこう答えた。

「……父さん、おれは叔父さんじゃないよ」

 父王が深いため息をつくのを聞いて、エンリケはとても罪深いことを言った気持ちに襲われた。父は、アマデオのクローンである息子に王位を譲ることで、過去の罪を贖いたかったのだ。王子には、その気持ちがわかっていた。しかしエンリケは、ほかの誰でもない自分自身として生きていってよいはずだった。

 罪悪感を覚えて父王の顔を直視できないエンリケの肩に、大きな温かい腕が回されるのを感じた。カルロス王は、低くつぶやくように何度も息子に言った。

「……そうだな。エンリケ、すまない。よしないことを言った。許してくれ……」

 エンリケに謝るカルロス王は、常に威風辺りを払う、堂々と背筋を伸ばした国王とは別人に思えるほど、弱々しく見えた。エンリケは、生まれて初めて自分から父王に寄り添った。


 オスバルドが王立人文科学院アカデミアを訪れると、トリスタン随一の学問の府は、まるごと引越しでもしようとしているのかと怪しむほど、研究者総出でてんやわんやしていた。吹き抜けの玄関ホールに足を踏み入れた赤毛の大男をすぐに見つけて、ベルトランが、くいくい、と横柄に手招きした。その足元には、毛布にくるまれた木箱が山積みになっている。

「赤毛のでかぶつ、いいところに来た。早速だが、この荷物を運んでくれ」

「学士さまよ、これは一体なんの騒ぎなんだ」

「カスティアシオンの研究所に残されていた貴重な考古遺物や書籍を、王立人文科学院うちに収めることになったんだ。しかし、最新の機器類や本当に重要な書類などは、すでにミネルヴァの梟によってどこかに移されたあとらしい。……それにしてもこの箱は重いな」

 ベルトランが、「ふんっ、ふんっ」とうなるばかりで動かせない箱を、オスバルドは軽々と持ち上げた。

「お前、筋トレしたほうがいいんじゃねえか? ミネルヴァの梟は、カスティアシオンの研究所から立ち退かなきゃならなくなることを、事前に予測してたってことか」

「そうでなければ、エンリケ王子を誘拐して、わざわざ我々の注目を集めたりなどはすまい。ミネルヴァの梟が陰で協力していた偽奇跡にしても、遠からず真相はばれたはずだ」

「ってことはだ、チェストミールの率いる新生ミネルヴァの梟は、どこぞの秘密の研究所でまた悪だくみをめぐらしてるってわけか」

 二人は階段で四階まで上り、廊下の最奥のベルトランの部屋に、運んできた荷物を下ろした。早速荷をほどき出したベルトランの声は明るかった。

「そう悪いことばかりでもないさ。ミネルヴァの梟が置いていった考古遺物の中に、サーバーコンピュータがあってな、これはクラウドのシステムを支えていた機械の一つだ。これを解析すれば、大空白時代の歴史に一歩近づくことができるかもしれない」

 すると、オスバルドが我が意を得たりとばかりに、にやっと笑った。

「つまり、研究所の廊下での戦いは、クラウドを守るためのものでもあったってことだな」

「まあ、そうとも言えなくはないな」

「やっぱり、お宝を手に入れる冒険には、切った張ったの大活劇がなくっちゃな」


 少女商人ジョルジュは、相棒である巨大な鳥とともにトリスタンの宮殿に滞在していた。いささか大きすぎる彼女の翼は、ジョルジュの滞在中、王宮で一番大きな中庭を与えられているのだが、それすらも彼には手狭なようで、一日の大半をトリストラム郊外の森で過ごしていた。しかし、時々戻ってきては、ちゃっかり豪勢な食事の接待を受けるのだった。

 先ほどまで降っていた雨が止んだので、ジョルジュは、巨鳥が不在の中庭の木陰に座って、街の屋台で買ってきたしぼりたての甘いオレンジジュースを飲んだ。サハル・ビン・ハサンと別れたときのことを思い返して、ふふっ、と一人で笑う。

 カスティアシオンでの一件が落着すると、口髭の隊商主は、ピルゴスの町に戻って自分の隊商キャラバンを待つと言い出した。本当に隊商が帰ってくるのだろうか、と半信半疑ながら、ジョルジュは渋々サハル・ビン・ハサンをピルゴスまで送った。聖アナスタシアの遺骸は、ピルゴスに返還されることになるだろう。そうすれば、ピルゴスは再び以前の活気を取り戻すことになる。奇跡を偽っていたカスティアシオンは、これからどうなるのだろう。

 出会ったばかりの二人が入った喫茶店で食事を取りながら、ジョルジュがそんな懸念を口にすると、口髭の隊商主は勢いよくパンをちぎって、屑をテーブル中にまき散らした。

「繁栄なんか、夜空をうろつく惑星みたいに気まぐれなもんさ。次はどの街、どの国の空に輝くかわからん。俺たち自由な旅の商人は、星が見捨てた街なぞにはさっさとおさらばして、次の街に旅立てばいい」

 サハル・ビン・ハサンは、これまでジョルジュが出会った誰よりも優美に、「自由」という言葉を口にした。

 遠くから、シャン、シャン、と規則正しい鈴の音が聞こえてきた。

「思ったより遅かったな」

 戸惑うジョルジュの目の前で、サハル・ビン・ハサンは悠々とコーヒーを飲み干すと、喫茶店の扉を開けて外に出た。

 ピルゴスの町に向かって、ラクダの列が華やかに鈴を鳴らして行進してきていた。そのあまりの規模の大きさに、沿道に家を構える人々が皆、家を飛び出して見物している。

 サハル・ビン・ハサンが、手を振って陽気に叫んだ。

「おおい、俺はここだぞう!」

あっけに取られるジョルジュの前で、ターバンを巻いた若い男の人が、またがっていたラクダから飛び降りて、盛大に嘆いてみせた。

「隊長、俺たちを賭け金の代わりにするのは、これで最後にしていただけませんか」

「わかった、わかってるって、ネシャート副隊長。両親よりも兄弟よりも大事なお前たちだ。もうこんなことはしないと約束する」

「おんなじことをもう十回も聞きましたよ!」

 笑って口髭をなでているサハル・ビン・ハサンには、どうやら前科が何度もあるらしい。ため息をつく苦労性の副隊長に対して、ジョルジュは話しかけた。

「だけどどうやって賭けの相手のもとから戻ってきたの?」

 見知らぬ少女に、副隊長は目をぱちくりさせたが、質問には答えてくれた。

「商売で稼いで、賭け金の倍の金を賭けの相手に渡してきたんだよ、お嬢さん」

隊商キャラバンが有能なのは、隊商主である俺の薫陶の賜物だな!」

 上機嫌のサハル・ビン・ハサンが騒ぐ。隊商の大きな幌馬車から、宝石のように様々な髪色を輝かせる踊り子たちがこぼれ出て、口髭の隊商主の体に金銀の輪をはめた腕を回した。

「隊長、もうわたくしたちを手放すようなことは、なさらないでくださいましね」

 美女たちから媚を含んだ声で、甘く責め立てられたサハル・ビン・ハサンが、でれでれと頬を緩ませていられたのも長くはなかった。例の借財ノートを見せられて目を三角にした有能な副隊長ネシャートから、散々怒られたのだ。

「何もやつに見せることなかろうに……」

と、ネシャートの上司はぶつぶつ文句を垂れた。

 誠実な性格のネシャートは、「商人の一番の財産は信用ですから」と言って、帳面に書かれていた借金の倍額をジョルジュに返してくれたうえ、豪勢で充実した朝食をご馳走してくれた。町の郊外に張ったサーカス団のようなテントで、ジョルジュは、隊商の商人たちやその子供たち、一緒に旅をしている踊り子や楽師たちに囲まれて、香辛料のきいた焼肉や野菜を挟んだ、平たくて丸いパンをお腹いっぱい食べた。ジョルジュは、旅をしながら一人で食事をすることがほとんどだ。だから大所帯の一人として迎え入れられて、温かくておいしいご飯を食べていると、心がパン種のようにふかふかと膨らむような幸せを感じた。

 サハル・ビン・ハサンの隊商は、次なる商売のため、にぎやかにピルゴスの町を出発していった。隊商の人々は、姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれた。

 楽しい追憶に思い出し笑いをしていたジョルジュのそばに、おずおずと近づいてくる黒髪の少女がいた。

 エリカは、ベンチに腰掛けるジョルジュの傍らに立って、両手で何かを差し出した。

「あのね、ジョルジュ、テオフィロに頼んで作ってもらったの……」

 エリカのてのひらの上に乗っていたのは、レザーで作られた十字架だった。

紐のついたその十字架を首に掛けて、ジョルジュは露草色の瞳で笑った。

「嬉しいな、ありがとう! どこに行くにも身につけていくことにするよ」

 エリカも、ほっとして笑みを浮かべた。

「おーい、エリカ、ジョルジュ!」

 癖のある茶色の髪をしたのっぽの少年が、猫のナジュムと一緒に回廊を歩いてきた。テオフィロは二人に、肩からかけるレザーのポシェットをプレゼントした。

「ジョルジュの十字架のついでに作ってみたんだ」

「わあ、かわいいですね。これは猫の形ですか?」

 エリカが頬をほころばせて尋ねると、テオフィロはなぜか深刻な顔をした。

「そうなんだ。なぜか最近、何を作っても猫のデザインになってしまうんだ……」

 テオフィロの足首に柔らかい体をこすりつけて、ナジュムが「にゃああ」と鳴いたので、二人の少女は声を合わせて笑いこけた。


 外からノックの音がした。カルロス王が入室を許可すると、軍服姿のアドラシオンが執務室の入口で敬礼した。カスティアシオンの研究所での負傷のため、右腕を包帯で吊っているので、左腕での敬礼だ。アドラシオンは、執務室の壁にかかったアマデオとフアナの肖像画を見て目を大きくしたが、一瞬で表情に平静の仮面をかぶせて、自分を呼び出した国王に用件を尋ねた。

 カルロス王とアドラシオンが顔を合わせるのは、あの昇任式以来になる。二人のやり取りをそばで見守るエンリケは、はらはらした。しかし、カルロス王は船長の傷の具合を尋ね、アドラシオンのほうも当たり障りのない返事を返しただけだった。

 国王は、執務机の引き出しを開きながら切り出した。

「ところで、あのときの昇任式の件だが、船長にこれを返しておこう」

 青いビロードの敷かれたお盆の上にきらめいていたのは、星や剣や十字架をかたどった一ダースを下らない数の勲章だった。

「船長は、これらを王宮の廊下に捨てていってしまっただろう? 拾わせておいたのだ」

「…………ありがとうございます」

 ゆっくり十数えるほどの間を置いて、ようやくアドラシオンは、勲章の乗ったお盆を、ブリキ人形のようにぎこちなく受け取った。

 父王が、悪気のない鷹揚な笑みを浮かべている一方で、船長は、苦虫をまとめて噛み潰したような顔をしている。二人の対照的な表情を目の前にしたエンリケは、アドラは国王のそういうところが嫌いなのだと、父親に告げなければならないな、と本気で決意した。しかし差し当たりまずは、はからずも遭遇してしまった場面の滑稽さに、思いきり笑い声を上げることが、何よりも優先されていいはずだった。

                                    〈了〉

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探しものは青の彼方 紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi

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