日曜8時の女

助手

第1話

お題:「寿司」「リモコン」「ブーメラン」


「あいよ、マグロと鯛のさび抜きね」

「ありがとう」

そういって女は俺の握った寿司を受け取る。

時刻は午後8時30分、閉店まであと30分。

客はカウンターに座っている女だけ。他には厨房上に取り付けたテレビからの音が店の中に聞こえるだけだ。

10人程度が座れるだけの小さな店、住宅街のそばにひっそりとあるが俺の「城」という訳だ。

板前になって20年、年ばかり食ったおっさんが一人で生きていくには十分な稼ぎを得ているが、時々昔を思い出すとそれは間違っていたのかと考えたりもする。


 あなたは身勝手な人ね。


そう言って、俺の5年ほど続いた結婚生活は幕を閉じた。

今では「授かり婚」なんていう良い言い訳があるらしいが、当時の若い自分の過ちだったと今でも思う。

子供は嫁さんに任せっきり、たまにしてやることといえば、ソファーで大きな屁をかましながらテレビを一緒に見てやる事だけ。

寿司一本で生きてきた自分には、女も子供も地球外の生命体のようで、何もしてやることが出来ず女は愛想を尽かして出て行った。

幸い結婚生活末期には皮肉にも仕事が調子に乗り始めて収入はあった。なので嫁さんに養育費を支払ってやることはできた。

嫁さんと子供が家から出て行ったのは今でも覚えているが、その時の自分に特段悲しみとかの感情はなかった、ただよく分からなかった。

かける言葉を持っていなかった。自分の身勝手に良く付き合ってくれた、とある意味清々しさ感じていた。

ただその後振り返った自分の家を見た時は、何かを失ってしまったような気分になった。

(つまらない昔話さ)

ぽっかり時間ができると変な事を思い出してしまうものだ、俺も板前としてはまだまだだな。

客に寿司を握り終えたので、俺は厨房の椅子に腰かけてリモコンをいじってテレビのチャンネルをカチャカチャと切り替える。

しかし今いるこの客、何故か毎週日曜日の8時過ぎに、必ず来る。毎日のように、この女は来る。

決まった時間、決まった席、決まった注文(玉子、赤だし、うに、アジ、いわし、イカ、最後にマグロと鯛で、注文する順番まで一緒で全てサビ抜き)。

なので密かに俺はこの女を「日曜8時の女」と呼んでいる。

年齢は20代半ばだと思う。薄い化粧をした整った顔、切れ長の目ではあるが目が半分近く閉じているせいかどこか胡乱な雰囲気もある。

座っているせいで顔からしたはよく見えないが、スーツを着ているところを見ると仕事帰りのようだ。

(仕事帰りに寿司を喰えるってのは、結構いい稼ぎをしてるんだろう)

内心ではそう思うが、板前以外の仕事をしたことがない自分に世間様の仕事なぞ分かるわけもない。

ただ、この日曜8時の女はそろそろ「常連」と言っていいほどになっている。

いくら気味悪いほど同じ日、同じ時間に来ようと常連さんへの愛想は欠かす訳にはいかない。

そこで俺は思いっきて声をかけてみることにした。

「おい、あんた。いつも来てくれるのはありがたいけど、何で月曜なんだい?」

「・・・・・・」

女はテレビを見たまま、綺麗な箸遣いでマグロを口に入れる。

「日曜のちょっとしたご褒美? それでいつもうちに寿司を食べに来てくれるのかい?」

「・・・・・・」

やはり女はテレビを見たまま、先ほど食べたマグロを口の中でもぐもぐしている。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

無視、だよなこれは・・・・・・。

自分の声量が低いわけではないし、女が耳が聞こえないわけでもあるまい。

突然声をかけたから不審がられるのは覚悟していたが、まさか無視されるとは思わなかった。

やや傷ついたが、まあそういう常連さんも珍しくない。

「・・・・・・、あと少しで閉店だからね」

最後にそう付け加えて、俺はテレビのリモコンを手に取った、その時、

「変えないで」

「へ?」

驚いて女の顔を見たが、女はテレビを見つめたままだ。確かにこの女の声だと思ったが、自分でもそれに自信がなくなってくる。

「あー、えっと、お客さん?」

「テレビ、変えないで」

今度は確かに月曜8時の女の声だと女の口が動いたことで分かった。

テレビの方に目をやると、円盤の何かを投げて犬に取ってこさせる、というような他愛もない動物番組が流れていた。

「あ、ああ、お客さんこの番組が見たいんだね」

こくり

そういって頷いている間も日曜8時の女の顔はテレビに釘付けだ。

・・・・・・、そんなに面白いもんかね・・・・・・?

俺は首をひねりテレビを見やる。

丁度犬が円盤を咥えて飼い主のもとに戻っているところだ、飼い主は円盤を持って帰った犬の頭をを嬉しそうな顔で撫でている。

「・・・・・・、ブーメランが、そんなに面白いかねぇ」

はっ、と自分が独り言を言っているのに気が付いたがその時にはもう手遅れだった。

月曜8時の女がこちらを見る。少し悪い事を言ってしまった。

「あ、いや、これはすいません」

「いえ、ふふっ、いいんです。変わらないですね」

「は、はぁ・・・・・・」

どうやら怒っていないようだが、女の笑顔と言ったことが引っ掛かる。

それに、この感覚・・・・・・、何故か初めてではない。


 お父さん、あれはね『・・・・・・』って言うんだよ


「あ、すいません。少し長居をしてしまいました」

何かを思い出しそうになる俺をよそに、女はそう言う。時間は8時45分、確かにいつもなら店じまいを大方済ませている時間だ。

「あ、ああ」

女は自分のバックから財布を取り出す。

「はい、いつもありがとうございます」

「毎度・・・・・・・」

お勘定を済ませて、女は席を立ちあがる。いつもなら何事もなく見送りすらしないが、今日は何故だか返してはいけない気がしていた。

だが今の自分にはかける言葉がない、さっき女が言ったことも言葉の綾かもしれない。

自分の中で焦りと口元まで出かかった言葉がぐるぐるしていると、

「さっきの質問」

女から声をかけてきた。

「私がなんでこの日にここに寿司を食べに来てるかって、いうの」

「あ、ああ・・・・・・」

「それは、まぁ、当てつけですかね、私を捨てた人への、日曜日は私が捨てられた日だったので。最初はそうでした。ただその人、なーんにも覚えてなくって、自分がしたこと」

「それは・・・・・・、ひどい奴だな」

相槌を打つと、何故か女に笑われてしまった。

「ふふっ、とにかくなにも覚えていないようだったので、いつか思い出すまで待ってみよう、と思ったんです。でも、やっぱり本当に何も覚えてないみたいで。なので今日でここに来るのはやめます。ありがとうございました、こんな変な客に付き合ってくれて」

「い、いやそんなとんでもない」

俺は女が自分に変な客という自覚はあったのかと思いつつ、せっかくできた常連がいなくなるのは寂しいものだと考えていた。

それに、自分の心でチリチリと燻る「何か」が、自分の焦燥感を駆り立てている。

「それじゃあ、ご馳走様でした。やっぱり美味しいですね。ここのお寿司」

女はそう言って、店の扉に手をかける。そして、扉を開けようとしたときに急に振り返って、

「あ、そういえば。さっき言ってた『ブーメラン』、あれ『フリスビー』ですよ」

それだけ言い残して、がらがらと扉が閉まった。

しーん、と静まり返った店の中で、何故か昔を思い出す。

嫁さんとの別れ際、何故かそのシーンが何度も何度も蘇る。

何だ、何だこの感覚は、また何か失おうとしているのか、俺は・・・・・・?

そう考えながらも、体は利口なもので店終いの動きに入っている。

女からもらった勘定をレジに入れる、テレビを消すためにリモコンを手に取って顔を上に向けると、さっきまで見ていた動物番組が終わるようだ。

「今日はフリスビーを使った犬の運動についてをご紹介しました! 次回も是非お楽しみください!」

笑顔の若い女トレーナーと犬が画面に映る。

・・・・・・フリスビー。


「お父さん、あれはね『フリスビー』って言うんだよ」

「おー、そうか。茉莉は物知りだな」


そこまで思い出して、自分は大慌てで厨房を飛び出す。カウンターの椅子に思い切り足をぶつけ、将棋倒しのように他の椅子も倒れる。

ただ、そんな事や自分の足の痛みなどお構いなしに、とにかく外に飛び出して左右を見る。

住宅街の夜は人通りも少なくなる。見晴らしのいい一本道が幸いして、先ほどの日曜8時の女はすぐに見つかった。

いや、もう「日曜8時の女」ではない。

女の背中を猛スピードで追いかける。どたどたどたどた、がに股で若さのかけらもないおっさん走り。

そんな大きすぎる足音で女はすぐに気付いたようだ。自分の声の有効範囲外で振り返り闇夜でも分かるほどに警戒していた。

「大丈夫ですか?」

女の目の前に辿り着いた。膝に手をついて肩で息をするおっさんに対してなんと優しく育ったんだと涙しそうになったが、今はそんな場合ではない。

「あのっ! 来週! 来週もうちに来てくれませんか?」

「えっ、いきなり何ですか?」

驚くのも無理はない、ただここで引き下がるわけにはいけない。

「いや、何でも! ただせっかく、うちの、常連さんになってくれるかも、はぁはぁっ、しれにゃい・・・・・・」

こんなところで老いを呪いそうだ。言葉が続かない。

俺が俯いたまま荒い息を整えていると、

「思い出しました?」

女が耳元で囁く。

「はぁはぁっ、親父の屁は、・・・・・・臭かっただろう」

何とかそう言うことが出来た。

「じゃあ、明日のこの時間に来ます」

茉莉は見下ろす格好でそう言った。

「何で・・・・・、明日なんだ?」

膝に手を着いて茉莉を見上げると、笑顔でこう続けた。

「フリスビーと同じだから! 1週間は月曜日で始まって日曜日で終わって、また月曜日に戻ってくるんです!」

「・・・・・・、とにかく家まで送るよ」

「あ、『その顔滑ったな』、って思ってるでしょ。せっかく温めてたのに!」

茉莉は俺の頭をポカポカ殴る。

「思ってない、思ってないよ。だからやめてくれ」

「今までの恨みがこの程度で済むと思わないでくださいね。 明日はたっぷり絞ってあげます」

「分かった分かった、お手柔らかにな」

夜の街に可愛い笑い声が響く。

今回俺は、何とか大切な物を失わずに済んだのだと、駅まで隣を歩いた「日曜8時の女」を見て思うのだった。


執筆時間1時間半

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