短編:〆切アルバム

@syyy

第1話

 菊池きくちはほとんど諦めかけていた。もう〆切まで1時間もない。今からではたとえ記者から連絡が返ってきても修正する時間はないだろう。

 菊池はイラストレーターとして働く傍、新聞に掲載されるコラムの挿絵を描く仕事を受けていた。これまで、菊池はプロとして必ず締め切りまでに納品してきていたし、読者の興味をそそる様手を抜かずに描かれた菊池の挿絵は、記者たちからの評判も良かった。

 今回は看護師へのインタビューコラムの挿絵の仕事だったが、その不穏な内容を菊池も気に入った為、自信作が仕上がっていた。しかし、最後にもう一度記事を読み返したところ、重大な見落とし−−というより、このコラムの重大な欠陥−−に気がついた。場合によっては挿絵の修正が必要となるため、急ぎ記者に確認の連絡を入れていた。

 菊池はいつでも修正作業を行える様準備して返事を待っていたが、返事がないまま締め切りの時刻を迎えようとしていた。菊池はもう他にできることもなく、ダメもとでもう一度そのコラムを読み直してみることにした。


************


コラム:"〆切アルバム"

 埴丘はにおかは、看護師として働き始めて5年近く経とうとしていたが、勤務先でこれほど頭にきたことはこれまで一度もなかった。怒りのあまり全身の筋肉が緊張し、毛が逆立っているのが感じ取れた。"怒髪天を突く"という慣用表現があるが、あながち大袈裟な表現でもない事を知った。


 勤務先の病院では、近年増えてきた心臓病の患者を主に担当していた。この病気は20年ほど前に発見された新しい病気で、原因や治療方法もまだほとんど何もわかっていなかった。わかっていることといえば、心臓の状態からかなり正確に余命が診断できることと、ほとんどの患者が17、18歳で発症し、5、6年で死にいたるということだけだった。最初は全国でも数例だった患者数もここ数年は大幅に増えていた。

 埴丘も看護師としてこの病気について一通り勉強したが、全く頭に入ってこなかった。

この病気は感染症ではなく、遺伝性の病気でもない、極めて複雑な機序で発症する。一通り読み込んだものの、一介の看護師にはおよそ理解できない内容だった。しかし、埴丘にとってこの病気の仕組みを理解できないことは大した問題ではなかった。というのも、この病気には未だロクな治療法がなく、病院にできることといえば死を間際にした若者のメンタルケア程度であり、それは埴丘の仕事ではなかった。病名も長ったらしく、口に馴染まなかった。無用な誤解や偏見の助長を危惧した為か、俗称を付けることも許されず、公式には必ず正式名称で呼称していた。一般的には単に"心臓病"と呼んでいた。


 "心臓病"の患者が増え病院は様変わりした。かつて老人ばかりが入院しており穏やかな死臭を放っていたこの巨大な建造物は、多くの高校生・大学生とその友人・縁者が死とどう向き合うかを学ぶ凄惨な学園と化した。以前よりも心理カウンセラーが多く出入りするようになった。デリカシーのない医師や患者たちは、若者が増えて病院が以前より華やかになったと喜んですらいたが、こうした手合いは埴丘が最も軽蔑する者たちであった。


 埴丘の主な仕事は、担当する"心臓病"の患者の様子を見に病室を回り、記録をつけることだった。何か問われれば特に意味もなく明るく応え、そうでなければ無言で、気休めの点滴を交換しバイタルの記録をとる。全員終われば次の病室へ移動する。病院の長い廊下は北側に窓、南側に病室が一列に並んでおり、全体的に内装が白っぽいことを除けば学校のようにも見えた。延々と続く病室の列に死を待つ若者たちが横たわっていると思うと、最初のころは目眩がしたものだったが、最近は慣れてしまい何も感じなくなり、ただ黙々と病室を順番に回る日々だった。

 その日いつもの巡回を半分ほど終えた頃、埴丘が担当している病室に一人の見舞い客が入っていく姿が見えた。その病室は入院費の高い個室で、中の患者は後1−2週間でその23年弱の人生を終える予定であった("心臓病"の余命診断はごくごく正確で殆ど覆ることはなかった)。患者は5年もその個室に入院しており、両親は貯金を切り崩しこの個室を維持しているようだった。部屋には奇妙な魔除けグッズや友人たちからの寄せ書き、本人の宝物が所狭しと並べられていた。この様子を見るに、もう5年も前から予告されていた別れの日について、両親は全く受け入れることができていないようだった。本人はとても明るい性格で、見舞いにくる両親を逆に元気付けてしまうようなタイプだったが、もうひと月ほど満足に目を覚ましていなかった。見舞い客が多い患者なので、いつもならこの病室の来客は気にもとめなかったが、その客に埴丘は見覚えがあった。


 それは岩野という、骨折で何度か入院している別の患者だった。前髪が長く痩せており、暗い印象の人物で、瞳からは気弱さが感じ取れたが、よく見れば整った顔立ちをしていた。年齢はよく覚えていないが、20歳前半だったはずだ。スポーツをするような活発なタイプには見えないにもかかわらず、怪我で何度か入院していたので印象に残っていた。埴丘は、岩野と"心臓病"患者との関係に少し興味を覚えた。まだ元気だった頃の患者の様子を思い出してみたが、岩野の様な人物とは生涯縁のなさそうな子だった。親戚とは思えないし、恋人、、、?考え始めると気になって仕方がない。本来は病室を回る順番を変えるべきではないが、岩野の入っていった病室はすぐそこだった。一つか二つ病室の順番を入れ替えるくらいなら問題ないだろうと考え、埴丘は岩野の入っていった病室に向かった。ドアの前までくると、中から声が聞こえてきた。


 「岩野さん、いつも来てくれてありがとう。この子も喜んでいると思います」

患者の母親と思しき女性が岩野に声をかけていた。

 「いえ、とんでもないです」

埴丘はドアの外に立ちスマートフォンでメールを確認するふりをしながら会話を聞いていたが、いつまでも沈黙が続くので、怪しまれる前に入室した。病室は薄暗く、患者本人と母親、岩野がいるだけだった。軽く挨拶をして、スマートフォンをナイトテーブルに置くと、埴丘はいつもの作業に入った。岩野は患者の手を握っていたので、どうも恋人同士のようだった。余命わずかで意識のない人気者と、暗く何を考えているのかわからない岩野の組み合わせはなんともいえず不吉で、埴丘は嫌悪感を感じた。埴丘は二人から目を逸らし、作業に集中することにした。すると、岩野も何か荷物をごそごそといじり始めた。音をなるべく立てないようゆっくり荷物を探る音が却って耳障りで、埴丘の神経を逆撫でした。早くも岩野なんぞに少しでも興味を持ったことを後悔し始めていた。

「すみません看護師さん、写真を撮って頂いても?」

突然岩野が口を開いた。

「はい?」

見ると、岩野の手には古風なポラロイドカメラが握られていた。埴丘が戸惑っていると、

「私たち二人を写真に収めて欲しいんです」と岩野が続けた。

もう目を覚さないこの子と、ここでツーショットを撮りたい? 出来上がる写真が頭に浮かんだが、死体と死神の不気味なツーショットとしか思えなかった。その悪趣味な発想に埴丘は再度嫌悪を感じたが、事情も分からないのに悪趣味と決めつけるわけにもいかない。どう応えて良いのか分からず埴丘が固まっていると、患者の母親が口を開いた。

「申し訳ありません。私が撮れればいいんですが、私が撮ろうとすると、手が震えてしまってうまく撮れなくて......ポラロイドカメラって難しいんですよね。でも是非撮ってあげたいんです。この子たちの写真、一枚もないそうなんです。岩野さんとうちの子は、病院で知り合ったので、写真を撮るような機会がずっとなくて。申し訳ないのですが、お願いしても良いでしょうか」

 埴丘は、勝手に出来上がる写真を思い浮かべ、勝手に嫌悪感を抱いていた事に、強い罪悪感を感じた。

「わかりました。お母様は映らなくても良いのですか?」

母親は黙って頷いた。埴丘はもうこの病室から1秒でも早く出たいと思い、岩野にカメラを渡すよう手で促した。

「二枚お願いします」

本当にこの岩野という人物は、埴丘の神経を逆撫でする。そもそも、スマートフォンで撮影すれば母親の震える手でも撮影できたのではないか。わざわざこのためにポラロイドカメラを病室に持ち込んでいるのは、おそらく今日もこの母親に写真を撮らせようと考えていたのだろう。上手く撮れるまで、何回でもこの薄汚いポラロイドカメラを持参するつもりなのだ。考えれば考えるほど苛立ちが募ったが、既に精神的に限界と思われるこの母親にこんな不吉な写真を撮らせるのは忍びない。岩野からポラロイドカメラを受け取った埴丘は、二人の方を向いてカメラを構えた。

「はい、チーズ」


 三枚の写真を撮り終えると、埴丘はその病室を離れた。

 一回余分にシャッターを切ったのは、何も親切心や失敗が原因ではない。一枚目を撮ったときに患者が目を覚ました為、改めて患者と岩野のツーショットを二枚撮影し直したのだ。カメラのシャッター音で目を覚ましたところを見ると、患者自身もよほど写真を撮りたかったのかもしれない。ひと月ぶりに我が子が目を覚ましたのを見た母親は、咽び泣くほど感謝していた。岩野も感極まったのか、目に涙を浮かべていた。その様子は埴丘の罪悪感と嫌悪に拍車をかけた。挨拶もそこそこに、埴丘は逃げるように病室を出た。岩野と母親が宝物のように喜んでいた写真は、埴丘の予想通り不吉で悪趣味な出来であった。患者は疲れたのか、写真を撮り終えるとまたすぐ眠ってしまい、もう2度と目を覚ます事はなかった。


 病室を出た後も、埴丘は拭いきれない嫌悪感と、嫌悪感を未だ感じていることに対する罪悪感とで仕事に身が入らなかった。こんなに嫌悪感を感じるのは、岩野が全く好みじゃない、むしろ埴丘の嫌いなタイプだからだろうか。だとしたら自分の狭量さに嫌気がさすが、それだけとは思えなかった。余計なことを延々と考えてしまう自分を戒めつつ2時間ほど作業を進め、なんとか仕事を終えた埴丘は、帰り支度を始めた。かなりギリギリだが、娘を保育園に迎えに行く時間には間に合いそうだ。そのとき、スマートフォンがないことに気がついた。

「しまった......」

例の病室のナイトテーブルにスマートフォンを置いてきてしまったようだった。


 病院で走ってはならない−−特に、看護師が走るなど、言語道断であった。しかし、このままでは娘の保育園に間に合わない。可能な限りの早歩きで、埴丘は問題の病室に向かった。

 埴丘が病室のドアを開けると、なんと岩野がまだそこにいた。母親は帰ってしまったようだ。埴丘がドアを開けた時、岩野はかなり驚いた様子で何か四角いものを咄嗟に隠した。

しかし、埴丘は見逃さなかった。それは、大量のポラロイドカメラの写真が貼られたアルバムだった。


 埴丘は、強い怒りが全身を駆け巡るのを感じた。埴丘は、看護師として働き始めて5年近く経とうとしていたが、勤務先でこれほど頭にきたことはこれまで一度もなかった。怒りのあまり全身の筋肉が緊張し、毛が逆立っているのが感じ取れた。"怒髪天を突く"という慣用表現があるが、あながち大袈裟な表現でもない事を知った。


「見せなさい!! 」


 埴丘は咄嗟にアルバムを岩野から奪い取った。岩野の細腕ではなす術もなかった。

アルバムを開くと、そこには何人もの“心臓病”の患者たちと、恋人面をした岩野のツーショットが並んでいた。患者の名前と命日、撮影日、最後の言葉−−大学に行けなかったこと、恋人を持てなかったこと、そんな中岩野と出会えてよかったこと、一緒にいてくれて嬉しかったこと−−そうした患者たちの必死の言葉が岩野の汚い字でメモされていた。どの写真も病人と死神の邂逅を思わせる不吉なものだったが、中には患者に意識があり、笑顔を見せている写真もあった。先ほど埴丘自身が撮影した写真もそのうちの一枚であった。

「か、かえしてよ」

気がつくと、岩野はアルバムを埴丘から奪い返し逃げるように病室を出ていった。埴丘はあまりの怒りで硬直してしまい、何もできなかった。


 そういうことだったのか。岩野は、“心臓病”で余命いくばくもない患者の中から好みの相手を見繕い、ときには優しい言葉をかけ、ときには自分の足を折って同じ病院に入院し、あの手この手で籠絡し、”恋人との最期の別れ”を何度も何度も満喫していたのだ。だから、スポーツをしているわけでもないのに、たびたび怪我をして入院していたのだ。

岩野に騙された患者たちの気持ちを考えると、埴丘は胸が痛んだ。これからというときに突然人生から見放され、弱り果て、周りから否応なしに置いていかれる若者たちにとって、たとえ岩野のような人間でも話を聞いてくれ、一緒に立ち止まってくれる者は救いに思えるのだろう。アルバムがいっぱいになる程の人数が弱みにつけ込まれ人生の最後の時を浪費したと思うと、埴丘は憤激のあまり頭がおかしくなりそうだった。


あいつは、2度とこの病院の敷居を跨がせない。


**********


「言っている意味がよくわからんね......」

院長は半笑いで頭をかいて埴丘を一瞥した。


 翌週、埴丘は院長室に呼び出されていた。岩野を病院から締め出そうと、同じ病棟の担当看護師らに呼びかけたことが問題になった為である。埴丘が一切自らの非を認めなかったのと、一部の看護師が埴丘に賛同し問題行動を起こした為にことが大きくなってしまい、ついに院長に呼び出される羽目になった。院長室には院長のほかに数人の重役がおり、彼らの手元には、埴丘の勤務態度に関する資料と今回の件に関する埴丘や他関係者の証言をまとめた資料が置いてあった。簡単に言えば、彼らは埴丘の処分を決めるために集まっていた。

 しかし、埴丘は自分が正しいことをしている、患者を守るために当然の行いをしていると信じて疑わなかった。院長であれば、迷惑行為を働く患者に対して何らかの強行措置をとってくれるだろうとも期待していたため、院長室への呼び出しはむしろ願ってもないチャンスであった。岩野の悪行を、どんなに患者たちの人権を踏み躙っているのかを、埴丘は力の限り訴えた。


 しかし、信じられないことに、院長の反応は芳しくなかった。どうして伝わらないのだろうか。

「ですから!岩野は患者たちの弱みに付け込んで、最後の時間を弄んでいるんです!」

埴丘は必死で訴えており、ほとんど叫び出していた。院長は埴丘の声の大きさに驚いていたが、表情からは困惑が読み取れた。

「ええと、それで君はどうしたいんだ?」

「ですから、岩野を二度と長期入院者の病棟に近づけないで欲しいんです!!」

「それはなぜ?」

「岩野は、患者たちの弱みにつけ込んで、騙してるんです、搾取してるんです」

「それで?」

「ですから、患者たちの最後の時間を、岩野の身勝手な欲望のために、搾取しているんです」

「搾取ねぇ......」院長は椅子にもたれかかりふんぞりかえった。

全く理解を示さない重役連中にも、同じことしか言えない自分にも嫌気がさしてきた。

「一つ聞きたいんだが、それで一体誰が困っているんだね」

埴丘は言葉を失った。こいつは一体何を言っているのか。

「あの、魔除けグッズを売っている連中は我々としても見過ごせない。患者の親の金を"搾取"しているし、広く言えば商売敵だ。医療人としても、ああいった、"患者の心の弱みにつけ込んだ" 商売は虫唾が走るよ」

院長がわざと埴丘の言葉を引用しているのを感じた。それは共感を示すためだったのだろうが、今の埴丘には痛烈な皮肉に感じられた。埴丘が黙っていると、他の重役たちも次々と口を開き始めた。

「まぁ確かに、一度に何人もの人間と恋仲のような関係になるのは褒められたことじゃないが、お互い結婚しているわけでもないし、我々にできることは何もないよ」

「そもそも、患者や見舞客を受け入れないというのは、本人の希望でもない限り難しい。世間がそんな病院を許すと思うかね」

「君の怒りは常軌を逸しているよ。病院への迷惑も考えてほしい」

「何か個人的な感情があるんじゃないのか?もっと自分の怒りの正体を突き詰めて考えるべきだろうと思うよ」

「大体、君のいうこの岩野というのは、一体誰を傷つけているんだ?」

「患者たちも、最後に誰か親戚以外の人間に大事にされて、一緒に泣いてくれて、精神的に助かったんじゃないのか?」

「同じような救いを君は提供できるのか?」

「君の話では、患者が一人岩野との写真撮りたさに意識を取り戻したそうじゃないか。短い時間とはいえ、奇跡的なことだ。私も何度かそういった、人の心の生み出す奇跡を見てきたが、そうした瞬間に立ち会えるのは医療人の冥利に尽きるというものだよ」

全く何もわかってない。埴丘はあの悪趣味なアルバムを岩野から再び奪い返さなかったことを後悔した。あれを見せれば、この老人たちにも岩野の行動の悪辣さが伝わるかもしれない。

「君は、患者の力になれない無力さを嘆いていたのではなかったか。この報告書には、過去に君がそういった訴えを上司に提出しているとある。君は、君と違って曲がりなりにも患者の力になっているように見える岩野に嫉妬したんじゃないのか?」

「もしくは、単に羨ましかったのかもしれませんね。性別が違うとはいえ、誰にでも感動的なドラマを求める気持ちはありますから。私はもう50年も生きているけど、そんなに感動的な写真は数えるほどしか持っていませんよ」

「それか、埴丘さんは岩野さんのことが気になるのかも知れませんよ。いくら病人といったって、それだけの人数と親しくなるからには、なかなか魅力的な人物なんじゃないかと思いますし......」

重役たちが次々とひどい理屈を並べているのを聞きながら、埴丘は自分が何をどう考えればいいのか、もう何もわからなくなってしまっていることに気がついた。

少なくとも、岩野は患者の救いになっているし、自分のこの怒りは常軌を逸している。

客観的にはそう見えるのか。もう何も考えたくなかった。怒りは苦しい。

謝罪をし、処分はなんであれ受け入れる旨を伝え、埴丘は院長室を後にした。


数年後


 埴丘は、お気に入りのポラロイドカメラを片手に、今日も病院へ向かった。今や、埴丘の「〆切アルバム」は三冊に及んでおり、読み返すたびに感動で胸がいっぱいになるのを感じた。埴丘は看護師という立場がある分、岩野とは比べ物にならない効率でアルバムのページ数を増やしていた。患者たちの人生に寄り添い、精神的な支えとなることに大きなやりがいを感じていた。もう昔の埴丘のように、気休めの点滴を無心で交換するような、機械的な仕事はしていなかった。本気で助かってほしいと、奇跡を信じて毎日点滴を交換していた。

 病院ではたびたび岩野を見かけたが、今では怒りを感じなかった。むしろ、男女で分担している仕事仲間にさえ思えたし、たびたびアルバムを見せあったり、情報交換をするなど、若干親しくなってさえいた。話してみると、そんなに嫌な人間ではなかった。

 何か大事なことを捨ててしまったような罪悪感はあるものの、埴丘の人生は今までになく充実しているのだった。


*************


 菊池は、もう何度読み直したかわからないコラムを再度読み終えた。やはり、このコラムにはしっかりとした挿絵をつけたいという思いが強まった。こうした、死を目前にした若者からの搾取は、金銭的なものから性的なものまで、日本中で問題になっていた。しかし一方で、それらが患者たちの精神的救いになっている事情もあり、問題は複雑であった。こうした現状を端的に表したこの看護師のインタビューは非常に有意義なものに思えた。


 だからこそ、菊池は絶対に間違った挿絵を描きたくなかったのだが、やはり、何度読み返してもわからないことがあった。それは、埴丘が女性なのか、男性なのかということだった。岩野とは性別が異なるようだが、そうすると女性か。しかし、岩野の性別についても言及がない。

 このコラムでは、意図的かわからないが、登場人物の性別への言及が最小限を通り越してほとんどなされていなかった。


 菊池のかいた挿絵は、暗い感じの男がアルバムに写真を貼る絵、涙する母親、激怒する女性看護師の3枚であった。最初に読んだ時に、埴丘は女性、岩野は男性だと決めつけてしまったためである。何度読んでも、埴丘の正義感は女性のそれに思えたし、岩野の行動は歪んだ性癖を抱えた男性のものに思えるが、果たしてそんな偏見に基づいてイラストを納品してしまっていいのか。そもそも、最後には埴丘も岩野と同じ行動を取っている。であれば、男女逆でも成り立つ話だということだ。読む人が読めば、決めつけに気が付きクレームが入りかねない。


 〆切はもう30分後に迫っていた。もう性別を入れ替えて書き直すような時間はどの道残されていなかった。菊池は意を決して、岩野と埴丘の性別を有耶無耶にする作業に入った。

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