第三話
目の前がぐらりと揺らいだ気がした。
「そのままだと歩けないだろ。それならいっそのこと、全部めくるか?」
足を上げるたびにパカパカと口を開く、ローファーの靴底。私はそれを見て、靴紐が切れたスニーカーを思い出した。
「普段履いてないもん履くからだな。靴底の糊が弱ってたんだろ」
靴紐が切れたわけじゃないけど、でもあの光景と今の現状が重なって見えて、私は思わずその場にへたりとかがみこんでしまった。
「おいカヨ、どっか怪我したのか」
私はただ無言で頭をブンブンと振るった。こんな意味のわからない夢の話をケンにしたところで、信じてもらえるとも思えない。なにせ自分でもまだ怪しんでいるくらいだから。
「今日はなんか学校に行く気分じゃない」
「なんだ、めずらしいな。随分弱ってるじゃねーか。体調でも悪いのか?」
……体調、悪いのかな? ずっと頭の中がぐるぐるしてて、気分が悪い。かと言って吐きたいとかそういうんじゃない。
ケンは私の腕を掴んでぐっと、体を引き上げた。
「じゃあ、サボるか」
そんな風に簡単に、サボりの言葉を口にしながら。
「え?」
「だって、学校に行きたくねーんだろ? じゃあサボるしかねーじゃん」
いや、そうだけど。そうなんだけどさ。
「あっさり言ってくれてるけどさ、さっきまで遅刻を気にしてた人間のセリフとは思えないんだけど。ってかそもそもケンもサボる気なの?」
「だってカヨがサボるのに俺がサボれないとか、不公平だろ」
「その理屈、全然意味わかんないし」
なんで不公平とかの話になんのよ。そのセリフうちのお母さんの前でも言えるのか? いつもお母さんの前では良い顔しようとするから、いつしかお母さん的にはケンが私を学校に連れてってくれてると勘違いしている。
むしろその逆で、ケンはいつだってゲームやら動画を見ていたい人で、学校はサボれるものならサボりたいはず。けど、私はこう見えても、皆勤賞ものの出席日数を誇る生徒だ。
ただ、遅刻は常習だけど。
毎朝ケンがうちを訪ねてくるから、お母さんはいつしかそう思うようになったけれど、ケンは毎朝うちに朝食食べに来てるだけで、私を学校に連れて行こうなんてこれっぽっちも思っていない。
「だってカヨ、俺がサボろうとしたら、いつも俺をベッドから引きずり出そうとするだろ」
「それ、子供の頃の話でしょ」
今なら間違いなく放っておくけど。なんというか子供の頃の私は、正義感がとても強かった。サボろうとするケンを許さなかったし、それを見てケンママが褒めてくれるのがまた、何より嬉しかったんだと思う。
「カヨが学校サボるなら、俺は大手を振って休めるからな。そもそもお前がズル休みしたいなんて言うの初めてだろ」
貴重だ、とか言って一人でうんうん頷いている。こいつもこいつで訳がわかんない。
「んで、どーするよ。家に帰ったらカヨママいるだろ。俺ん家来てもいいけど」
「そしたら家で存分にゲーム出来るから、でしょ? はい却下」
そもそもケンまでサボる必要は無いし、一人になりたい気持ちもある。でもなんか一人でいるのは怖いっていう気持ちもあって、ケンの申し出は断らない事にした。
だって、いつまたあの男に会うか分からないから。
どこかに潜んでて、どこからまた現れるのか。夢の内容からいうと、次にあの人に会う時は良い事が起きない……。
「じゃあ、どこに行くんだよ」
「うーん、そうだな……」
特に思い当たる節はないけど、ベタにカラオケとか? けどケンはカラオケとか好きじゃないし、私も歌う気分じゃない。
「とりあえず靴、新しいの買いに行きたい」
足元に目を向けてそう言った。パカパカと口を開くローファー。試しにこのまま歩けるかチェックしてみたら、足を下ろす瞬間に靴底が折れて転びそうになってしまった。
「あぶね! だから言ったろ。その靴底全部剥がした方がいいって」
「そうは言っても、剥がすのなかなか難しい、ぎぎっ!」
靴を脱いで思いっきり靴底をめくろうとしたけど、結構硬い。こんなに頑丈にくっついてたのに、この半分だけこんな簡単にめくれるものなのかって疑問でしかないんだけど。
「貸してみろよ」
そう言いながらみかねたケンが私のローファーを奪い去った。ケンが勢いよくローファーと靴底を引き裂くとペロリと靴底は本体から離脱した。
「ほれ」
そう言って返された哀れな底のローファー。私はそれを履いてみると、片足だけ靴底がない分高さに若干の違和感はあるものの、これなら歩ける。そう思ってひとまずショッピングモールに向かうことにした。
「カヨ、モールで靴買うのはいいけど、まだどこも店開いてないぞ?」
「そうなんだよね。それまでどっかで時間潰したいんだけど、どこがいいかなぁ?」
ポケットからスマホを取り出して時間を確認したら、8時半になったところだ。もうすぐ授業が始まるんだなーなんて思いながら、私はことりちゃんを思った。
「ねぇ、ケン。今日の朝一の授業ってなんだったか覚えてる?」
「なんだよ、やっぱ学校に行きたいのかよ」
「じゃなくて、授業がなんだったか気になって……体力テストとか、じゃなかったよね……?」
恐々と私はケンの顔を覗き込んだ。するといつもの澄ました顔で、ケンは首をひねってる。
「あー、担任がそんな話いつかしてたな。それ今日だっけ?」
「こっちが質問してるのに、聞き返さないでよ」
「はー? 覚えてねーんだから仕方ないだろ。ってかカヨも覚えてねー癖して逆ギレしてんなよ」
ケンに聞いたのが間違いだった。私はことりちゃんにメッセージを送ることにした。夢の中でことりちゃんは体力テストで怪我をして、学校の帰りに車に轢かれた。
さっきまで夢と現実がとても似ていて頭がごっちゃになっていたけど、あの出来事と同じことが起きてるわけじゃない。さっき自転車にぶつかりそうになったのも私の不注意だし、今日はスニーカーじゃないし、靴紐だって切れてない。
ローファーの靴底が剥がれたことや、あの怪しいおじさんと遭遇したことは考えないようにして、私はひとまずことりちゃんに今日学校を休むと報告のメッセージを送った。
きっと学校に来なかったらことりちゃんが心配したメッセージが届くだろうし、そう思って。
「とりあえず、コンビニで時間潰すか? もしくはネカフェ行ってもいいけど、ネカフェだと下手したら補導員がいるかも知んねーし」
「確かに、でも駅から離れたところにあるネカフェだったら大丈夫じゃない?」
私達は普段サボったりしないくせに、友達の情報網から学校をサボってカラオケに行ったとしても補導員が来ない場所を知ってる。それを教えてくれた友達が以前言ってたネカフェが学校からそんなに遠くないところにある。きっとそこならいけるはず。
「店開くのって早くて10時とかでしょ? コンビニ2時間はきついし、かと言ってこの靴で歩き回りたくもないからネカフェ行ってみようよ」
そう言うと、ケンも頷いた。ネカフェだったらゲームもできるし、動画もみれる。ケンにとって最高の場所だ。
私もケンの家よりネカフェなら賛成だった。だってネカフェだったらマンガだってあるし、時間を有意義につぶせる。
「でさ、話戻るけど、お前あのおっさんと知り合いだったのかよ?」
「おっさんって、あの今朝会った人のことだよね……?」
ネカフェまで行く途中の道のりで、ケンがふと思い出したように話題はあのおじさんに戻った。
ちょうど私も、あの人のことを考えていただけに、一瞬声に出していたのだろうかとドキッとしてしまった。
『どうして逃げたんだ……?』
そう呟いた言葉は私に問いかけたと言うよりも、独り言のようだった。あの男性と距離が近かったせいで、聞こえたその言葉が今も私の耳の奥で反芻している。
「あんな人、知らないよ。知るわけないじゃん」
何度自分に問いかけても出ない答え。あの人が誰なのか、私だって知りたい。
そう思ってなんとなく自分の足元に目を向けた時だった。私はケンが言った言葉に耳を疑った。
「でも、あのおっさんはお前のこと、知ってるみたいだったぞ。お前が急に逆走し出した時、あいつも急に駆け出して、お前を後ろから追っかけてったからな」
……はっ? まじで……?
ケンの言葉を聞いて、私の体温は一気に下がった気がした。
いろんな考えが脳内をかけめぐってるけど、ケンのこの言葉は、私の脳裏にこびりついている不安な気持ちを助長させ、歩んでいた足を止めた。
「お前、本当にあいつと知り合いじゃないのか?」
ケンもどうやらあの男性を疑ってるみたいだ。ケンは訝しげに眉間にシワを寄せながら私に詰め寄った。
「わかんねーけど、あいつヤバいやつなのか?」
ケンに夢のこと話そうか? でも信じてもらえる? こんなよくわかんない話。私が逆の立場だったら信じられないと思う。
私がじっと口を真一文字に閉ざしているものだから、ケンはため息をこぼしながら私を置いて歩き出した。
「お前あの信号待ちしてる時、急にあからさまに顔色変わったからな。んで向かいにいたあのおっさんがカヨを追っかけるみたいにして駆けてったし……お前のその様子だと知り合いだってのは図星だろ。何があったのかは知んねーけど」
「ケン……もし夢で起きたことが本当になったとしたら、どう思う?」
「はっ?」
「きっとあんたは信じてくれないと思うけど……とりあえずもうすぐネカフェだし、そこで話そ」
私はケンを追い越して、どんどん先を歩いて行った。ケンに信じてもらえるとも思わないけど、ケンの言葉を聞いて、私は話してみようと思った。
『おっさんがカヨを追いかけるみたいにして……』
その言葉を聞いた時、私は身震いが止まらなくなった。
『なんで逃げたんだ……?』
あの人は私のことを知ってるんだ……。でもどこで会ったの? 私は夢の中で見た記憶しかないのに。
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