第二話

「ほれ行くぞ、マジで遅刻する気かよ」


 学校指定のリュックを肩に下げて、ケンはお母さんにだけ笑って「行ってきます」と言った。

 私はまだイライラを抑えきれずにいたけれど、時計の時刻を見て、慌てて部屋に置いてあるリュックを掴んで玄関へと向かった。


「ちょ、待ってよ」

「なんだよ、先に行けって言ったのはお前だろ」

「ここまで待ってたんなら、あと少しくらい待つのが筋ってもんでしょーが」

「待ってねーよ。カヨママの朝ごはんを、食いに来ただけだっつーの」

「言っとくけど、あれあんたのじゃないからね! それに普段だって、本当は私のがメインで、ケンのはついでなんだからね」

「へいへい」


 ケンは振り返りもせず私との距離をどんどん突き放して行く。

 一緒に行く気があるのかないのかよく分からないけど、ケンはいつもこうだ。マイペースというか、なんというか。


「あれ? あの人……」


 横断歩道で信号待ちをしている時、向かいの歩道を歩いている男性。彼のかけている四角く縁取られた眼鏡が朝日を反射して私の目を差した。

 男性は見るからに野暮ったく、無精髭が生え、ヘアカットも最後にしたのはいつなのだろうか、と思わせるようなずさんな手入れで、長めの髪を一つ括りにしているおじさんだ。

 栄養が足りていなさそうな細身の体に、服のサイズが合っていないのか、着ている白いシャツが少しダボついている。服に“着られる”とはあの人のような事を指すのかもしれないななんて思いつつも、なんとも言えない不思議な気持ちが胸の中心で悶々としている。

 あんなおじさんに見覚えないはずなのに、どこか懐かしく感じるのはなんでだろう。


「知り合いか?」


 訝しがるように、私の顔を覗き込むケンを見て、ハッとして首を振った。


「ううん。なんか分かんないけど、どっかで見たような気がしただけ。でもあんなおじさん知るわけないから、多分テレビで見た誰かに似てたのかも」

「なんだよ、カヨの好みが変わったのかと思った」


 バカにするような笑みでそう言うケンに、私はカンマ入れず平手打ちを入れた。さすがに頬ではなく、いつの間にか広く大きくなったケンの背中にだけど。


「私の好みなんてどこで知ったのよ」

「お前いつもアイドルとか見ては騒いでるだろ」

「アイドルは騒ぐでしょ。だってアイドルだもん」

「はっ、バカみてーな回答だな。いてっ!」


 今度はさっきよりも強くケンの背中に平手打ちを加えた。


「いちいち殴んなよな、お前どんどん凶暴化してるぞ。そんなんだから彼氏もできねーんだよ」

「うるさいな! ケンこそ彼女いないじゃん」

「俺は作らねーだけだっつーの」

「強がっちゃって。あんたはオタクだからできないだけじゃん」


 ケンは暇さえあればいつもPCに向かってゲームしてるかインターネットで動画見てるかのどっちかだ。挙句、無駄とも言えるほど頭がいいのがまたオタク感を助長している。

 ケンのなにがムカつくって、頭がいいのに私と同じ高校にいるところだ。私は自分の入れる高校のレベルを上げるために勉強を頑張ったけど、ケンは違う。むしろケンにとってはうちの高校はレベルが低いと思う。

 けど、一番家から近いっていう理由だけで私と同じ高校を選んだところがまた癇に障る。


「生理前だからって、朝から俺に当たんなよ」

「はぁ!? なんで知ってんのよ、気持ち悪っ!」

「なんだよ当たってんのかよ、マジで単純だなお前。こんなのただのカンに決まってんだろ、いちいちお前の生理とか把握してっかよ」


 信号が青に変わったと同時にケンは私から距離を取った。私が殴ろうとしていることを察知して、とっさに逃げたに決まってるんだけど。

 私はケンの後を追うようにして横断歩道を渡り始めた。ちょうど通勤ラッシュの時間ということもあって、ここの道路は他と比べると混んでいる。

 まばらに歩く人々を避けながら横断歩道を渡りきろうとした時、私の足は何かに引っかかってもつれ、そのまま体制を整える暇もなく、どんどんコンクリートの地面が私に向かって詰めてくる。


「あっ……」


 ーー転ぶ!

 そんな言葉すら呟く隙もないくせに、この光景がスローモーションにも感じとれて不思議だった。

 顔面から転ぶくらいなら、手をついてそれを防ぎたいと思う一方で、そうすると、このゆっくりと流れる時の空間も通常通りの時を取り戻し、私はやっぱり転ぶことを防げないんだろうな、って頭のどこかで冷静に物事を考えている。

 ……と、そんな時だった。


「靴紐、次から変えておいた方がいい」


 そんな言葉が聞こえたと同時に、私の腕をぐいっと掴んで転びそうだった私を助けてくれたのは、横断歩道の向かい側にいたはずの、一見むさ苦しそうなおじさんだった。

 意外だったのは、失礼ながらにも、このおじさんの衣類から洗濯したての香りがした事。柔軟剤が私好みだ、なんてバカみたいな事を考えていたら、男性は私が立ち上がったことを確認してから手を離した。


「……あ、ありがとうございます」


 私が呆けた頭でお礼を言ってみせても、彼は私の方には見もせずそのまま歩き出した。


「何やってんだよ。信号変わるぞ」


 どうやらケンは、私の様子に気がついて歩道の真ん中まで戻ってきていた。


「いや、今転びそうになっちゃってさ、そしたら……あれ?」


 振り返って男性の姿を追って見たけど、もう彼の姿はどこにも見当たらなかった。


「とにかくあぶねーから、さっさと信号渡るぞ」


 信号機の色が点滅しているのを確認して、私はケンの意見に無言で賛成した。


「カヨ、お前靴紐切れてんじゃん」

「えっ」


 信号を渡りきったところで私は、自分の履いているスニーカーに視線を落とした。すると、ケンのいう通り、私の右側の靴紐がぷっつりと切れていた。


「げー、縁起わるっ!」


 靴紐がほどけてるならまだわかるけど、切れるとかって本当にあるんだ。この靴確かにちょっと古いけど……って、あれ? 私なんか知ってる気がするこの状況。

 なんでだろう、なんかすごく昔にもこんなことあった気がするけれど、いや靴紐が切れるとか過去にあったら間違いなく覚えてるはずだ。

 なんだっけ? なんて言うっけ、こういうなんかちょっと懐かしいような、元々知ってたようなこの状況の事。


「そんなんでよく転ばなかったな」

「いや、危うく転びそうだったんだって。けど、あの向かい側にいたおじさんが助けてくれたのよ」


 そうか、ケンは先を歩いてたから見てないんだ。私が実際に転びそうになったところも、あのおじさんに助けてもらったところも。


「おじさん?」

「ほらさっき話してたじゃん、ちょっと髪が長めで、後ろで一つに縛ってた細身の人」

「ああ、あのむさ苦しそうなおっさんか」

「そうそう」


 助けてもらっといて、ケンのこの言い方に共感するのは良くないかな、と思いつつ私は再び振り返って横断歩道を見つめた。

 信号は赤に変わり、車が横断を始めていた。もうとっくにいないというのに、さっきのおじさんの姿を思い返していた。

 やっぱり、どっかで見たことある気がするんだけどなぁ。


「おーい、マジで遅刻するから置いてくぞ」

「あっ、待ってってば」


 私は一度深く屈み込み、切れた靴紐の先を靴の中に入れ込んだ。これでとりあえずは歩けるけど靴紐買いに行かなきゃ、と思いながら、ケンの後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る