第2話 行ってきます


 一時間に一本しかない高校行きのバスは、今日も午前6時30分に始発の便が発車する。


 高校まで片道2時間かかるため、これを逃すと遅刻する。


 母は再び拳で息子の部屋をドンドンドンドン叩いては、起きろ起きろと連呼する。


 するとベッドから降りているらしき、木のきしむ音がして、母は満足そうにキッチンへと小走りで戻った。


 キッチン側の脱衣所に置いてある洗濯機に前日の洗濯物を投入し、液体洗剤を適量入れる。

 風呂の残り湯を吸い上げるポンプの付いたホースを風呂に投げ込んでいると、


「おはよう、」


 いつものように、ひどい寝癖頭の息子が目を擦りながら声をかけてきた。


 「はいはい、おはよう」と、母はおざなりに返事をするとキッチンに戻り、暖かいお茶を持たせるべく、やかんを火にかける。


「あんまり熱くしないでね、」


 歯磨きをしている息子が、モゴモゴと注文をつけてくるが、はいはい、わかってるよ、と母はグツグツと沸きに沸いたお茶を保温式の水筒に注ぎ入れた。


 お弁当と水筒を、黒いトートバッグに詰め込んで、また母はスリッパをパタパタいわせて玄関に向かい、下駄箱の上にそれを置いた。


 そしてまたパタパタ戻ってくると、お弁当を作るのに出た洗い物をするため、水道の蛇口を捻る。


 勢いよく出る水は、外気の影響からか、しばらく冷たいままだった。

 暖かくなるまで待てない母がそれで洗い物を始めると、息子が「まだ水じゃん」とツッコミを入れて、しかし母の反応を待たずに部屋へと戻っていった。


 すでに時計は午前5時50分を回る。


「急がないと、間に合わないよ!」


 怒鳴る母の声を聞いて、息子は、よれよれの制服に、チャックの壊れたリュックを背負って、部屋からノロノロ現れた。


 母よりも、もう頭二つ分は大きな息子。

 こちらに背を向けて、母のそれよりはるかに大きくてボロボロの革靴をはく。


 先日、新しい革靴を買おうかと尋ねたら、


「いらない。もう履かないし。」


 と素っ気なく言われたが、やっぱり買えばよかったなと、母は思う。


 玄関で靴の先をトントン鳴らし、息子は玄関の靴箱の上に置いていた弁当入りの黒のトートバッグを手にして、


「行ってきます、」


 いつも通り、ぶっきらぼうにボソッと言った。


「行ってらっしゃい。忘れ物はない?気を付けてね。」


 母もいつも通り慌ただしく大声で言う。

 いつも通り、息子の返事はなかった。


 そして玄関が開いて、冷たい風が家の中へと吹き込んでくる。それに逆らうように、真っ暗な朝へ向けて息子は出ていった。


 今日は、息子の高校生活最後のお弁当の日。


 そして3月になれば、高校を卒業する。


 高校を卒業したら、県外の工業系の専門学校へいくことが決まっている。


「行ってらっしゃい」


 誰もいなくなった玄関で、閉まった扉に母はそっと声をかけた。


 

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