周波数f
彼は誰
第1話
『迷子なんですかねぇ』
『迷子? ……浮遊しているのだよ』
毎度入れ替わる
『ではここがどこだかご存知ですか……』
そう言いながら渡した私の画は、しかし、受付の看護師が手に取ってカウンターの下へ消失させてしまった。薬の代金を受け取ったかのように。私はその
『それであの、さっきの画を、ご存知だったんですか』
『ええ』
廊下を歩いていると、足先から前方の景色が引き伸ばされる。そのためいつまでも廊下の向こうに辿り着かない気がする。ちょうど飴細工のように、廊下が折り畳まれて私はさっきの私へ戻っていくのかもしれない。壁に粗が見えはじめた。苔の色。私が今思いつく限り近い形容だから苔と言うのだ。私たちはまだ意見の相違をみたことが……けれど、いつか大きな決別をするのではないかと思う。またそんな感情が肩に降ってきて溶けた。それは私に言わせれば感情になる。しかし安心していた。廊下の向こうに辿り着かなくても良かった。廊下と見えているものは一方ではもう違うものだと分かっていて、そこへ私はそろそろ着地するはずだから。
公園の向かいに、いた。夜か。苔ではなくて、互いに互いの影を映しあう樹々の色だったらしい。私は公衆電話を探した。公衆電話が好きだ。
箱のような公園の傍を通り過ぎた。内幕、きっと誰かのおもちゃ箱でもあるのだ。長く開けられていないだろう。
公園を過ぎて一つ目の角を曲れば、ビル下の駐輪場のX字の支柱が見られるはずだった。昨日、もしくは一昨日は。しかし小文字の『y』になっていた。その先の居酒屋は車屋に変わっていた。古民家のポストの形が違う。
一変するとか転がるとかと言うより、靄の中で混ざり合体し分裂していると言う。私に今見えているものは見えていないものでもある。
この横断歩道は歩道橋でもあるので、白い線を渡らなければ足を踏み外してしまう。廃墟同然の商店街のあちこちから賑やかな匂いがもくもく排出されている。向こうから肩幅の広い人影がやってくる。ムツギか、アマノか、知らない人か。
『おや、奇遇ですね』
『久しぶりですね』
『一昨日あなたにお会いしましたよ』
『そうでしたか、そうかもしれません』
人はそうだと言わんばかりに笑むとさっさと歩き去っていった。
長い駅のホームをえっちらおっちら漕いでいると、電車が入ってくる。大勢の人がどっと私を追い込む。どこまでもついてくる。逃げるように改札の前まで行き――そこで私はぎくりとした。人々は潮のように引いていった。私は踵を返してホームに戻り、終電車に飛び乗った。改札を一度のみ通ったかどうかは、気にしなくても良い。あのとき何かを思い出したのでも、私の名前を呼ばれたのでもなく、何かが消えたのだと思った。あれはそういう感触だと、あとあとからそう思うということはつまりそれで合っている。私の指人形がどこにもなかった。あの人だかりの中の誰かが奪っていった。
乗客たちは上の空をみている。窓からの景色は何重にも重なっている。さらにそれを窓が合わせ鏡のようにして映している。ビルの窓、職員室の窓、勉強中の窓、テレビをつけている窓、火元と人の有無と忘れ物を確認している窓……。
私はまた、停止した。何か強いものが過ぎた。既視感と言うか、親近感と言うか、朱い電灯がなみなみ満ちたあるマンションの角だった。ああ自宅かと思い至ったので、余計に差異が目立って見えて、あれは自宅じゃないと叫んでいた。
もう戻れないから懐かしいだけのはずだった、そのマンションの角部屋の前に私は立っていた。
ドアノブを造作もなく操作した私は、ここが自宅だと理解していた。
『ただいま』
水槽が仄かに明るい。
『マオイ』
『おかえり』
『ごめん、フレークは買ってこなかった』
『別にいいよ』
同居人はあくびをして、再びパソコンの画面にせわしなく視線を行き来させた。
『さっきね、指人形がなくなった』
『……』
『どこにもないんだ』
『ねえあなたの否定形、へん。私やめてねって言ったかな?』
こわい、と同居人は身を縮めた。
『ごめん』
『ないなんてことがあるわけ……』
『ない?』
エアーポンプの音が膨張したり収縮したりする部屋。
魚の顔は別の意味で感情が読み取りにくい。
『その上着のポケットにあると思う。ほら』
『あった……』
安堵より、なぜか落胆と言う方が近い。
『それ、前も持ってた気がする』
『ずっと持ってるよ。握ったとき私にぴったり……』
『心地良さそう。水の中に浮かんでいるみたい』
同居人はメトロノームのように泳いでみせた。
一晩で髪が腰まで伸びても、熱帯魚になったとしても、今ここにいないかもしれなくても、マオイはマオイだ。私の同居人はマオイ。
私は耳を澄ませた。私たち以外の音が消えている。隣人の寝息も、飛行機のアナウンスも、雀の家族の足音も。空間が引き伸ばされて、あるいは霧に囲まれて、いる。この部屋が廃墟になりつつある合図だ。まねきねこの揺らぎが軋んでいく。エアーポンプが鈍くなっていく。またどこかの山中に着地するのだろうか。今度はどんな廃墟になっているのだろうか。
変色して穴だらけの壁に手をついて、私は部屋の外観を覗いた。
『誰を何を探しているの』
『廃墟の反対。廃墟の向こう。廃墟が捨てたもの……』
『ここには何でもあるわよ』
『上手く言えていない気がする。私の画を見た?』
『見た』
『描いても消えてしまう……靄を掴んでいるみたいで』
『何でもあるのに執着するなんてへん……』
『この廃墟に通じる道を逆に行けば、そこで会えると思うんだけど』
『ここは私たちの部屋でしょう。ううんどこか呼吸しにくい……』
『道がないから迷っているの』
『道がないなら迷うこともない、はず』
同居人は水面から宙へ浮揚する。背びれにかけての隆起が境界を押し広げ、水面は泥よりも細かい相で吹き飛んだ。
『分からない! 分からない! 分からない!』
『やめて!』
同居人は私の指人形に向かって言った。顔はよく見えないけれど、多分。
『紙の中の
周波数f 彼は誰 @kahatare
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