宝くじ

マイタケ

宝くじ

 もういよいよ頭が狂ってしまったらしい。冷静にそう思って少し笑った。壁にだらりともたれたまま地べたに座って、狭い部屋を見回す。敷きっぱなしの布団の上に、ミラーボールが転がっていた。だが近づいてよく見ると、それはミラーボールではなく、バイクのヘルメットだった。男は一人の部屋でしばらく笑いを噛み殺した。


 友人もいない、恋人もいない、家族もいない、仕事もない、そんな生活が男の精神を蝕んでしまった。数日前からピンポン玉が蜜柑に見えたり、鉛筆が注射器に見えたりした。なぜ部屋にピンポン玉があるのかすら男には分からなかった。


 記憶もおかしくなってしまって、以前のことがまったく思い出せない。無理に思い出そうとすると、ショッピングセンターでキャンプをした記憶とか、化け物になってピアノを弾いた記憶とか、あるはずもない出鱈目で支離滅裂な映像ばかり浮かんできて、笑いが止まらなくなった。


頭の中で変な声もしょっちゅう聞こえた。スーパーに行くと、買いたくもないのに頭の中の声が「ズッキーニを買え」と囁く。ズッキーニをかごに入れると今度は、「トマトを買え」などと言ってくる。そのせいで男は、晩飯に食いたくもないスープパスタを作って食べる羽目になった。金もないのにスープパスタなんて作って食ってる場合か、そう思うと笑いが止まらなくなり、そのあとで絶望的に寂しくなった。


 もう俺は近いうち破滅するのだ。男は自然にそう思うようになっていた。もう俺は終わりだ。精神科に行こうにも金がない。警察に行っても門前払い。助けてくれる人もいない。身分証明書も紛失した。バイトの面接でも言葉がつっかえてうまく喋れない。男はただ、残り僅かになっていく金の心配をしながら、他人事のような街を遠く眺めてはぶらぶらと辺りを歩き続けた。誰かが俺の悲しみに気づいて助けてくれるのではないか、と淡い期待をしながら歩き続けていた。


 家に帰ってくると、部屋の真ん中にボウリングのピンが並んでいた。無視して台所に行くと、洗い場の蛇口が硬直した青蛇になっている。棚を開けると、虹色に整列したコップがなぜかくねくねと炎のように揺らめいていて、手に掴めない。イライラしながら水道から直接水を飲み、そのままイラつきに任せて部屋のボウリングのピンを蹴飛ばそうとしたが、なぜか足元にバナナの皮があって物凄い音を立てて転ばされた。するとその直後、頭の中の声が「手足をピーンと伸ばせ」と意味の分からないことを言うので、男は一人の部屋でピーンと全身を硬直させた。男はその非現実的な状況に笑いが止まらなくなり、笑いながら泣いた。


 窓から西日が差し込んできて、部屋を橙色に染めだした。その西日は足から順にせり上がってきて男の体を照らしていった。男はピーンと硬直したまま動けずに、西日が部屋に差し込んでくる様子を見ていた。西日は、足元から、膝、腰、胸、と順に男の体を橙色に染めていった。


 そのとき男は不意に強烈な予感を感じた。昔、叔母に連れられて行った教会の日曜礼拝で、ステンドグラス越しにちょうどこんな風に神々しい光が差し込んできていたことを思い出していた。男の気分はたちまち高揚した。過去のことをこんなに正確に思い出すということ自体、最近では珍しかったのだ。この光はこの俺に今までと違う何かが起ころうとしている予兆なのではないか。この光が頭まで到達したとき、俺の身に何かが起こるのではないか。そしてそれは革命的で想像できないほど素晴らしいことなのではないか。そんな不可解な期待が男の胸の内を満たし、男の胸は早鐘を打ったようになった。


 光はもはや橙色から変化し、黄金色に煌めいて見えた。また頭が狂ったせいでそんなことを思っているのかもしれない。冷静に考えたら絶対そうなのだが、もしかして今まで頭が狂っていたのはすべてこの運命的な瞬間のためだったのではないか。そう期待に胸を躍らせないわけにはいかなかった。男の目から涙が溢れ出した。きっとこれまで俺が辛かったのはこの瞬間のためだったのだ。これからは悲しみや孤独とは無縁の世界がやってくるのだ。

 

 光は顎に到達し、口元、鼻、頬といよいよ眼前に迫ってきた。栄光にふさわしい黄金色の光、とうとうその光が男の視界を包み、頭全体が黄金色の光に包まれたとき、男の体は一瞬浮遊感に包まれ、それがストンと元の部屋の床に戻ったかと思うと、硬直していた四肢がにわかに無重力のように軽くなった。


 その直後、バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ、と、男の体内で数千もの細かい稲妻が走った。男はあまりに唐突な感覚に衝撃を受け、脳内が激しく点滅し、目が白目になったり黒目になったり、体中の血管がビリビリ震え、極度の爽快感で頬が自然に上昇し、メンソールの突風が全身を一瞬で吹き抜けたりした。


  気づくと男は油性ペンを右手に持っていて、部屋の壁に貼り付いてものすごいスピードで手を動かしていた。男は自分の右手がひとりでに動く様子を呆然と見つめた。まるでタイムラプス映像を見ているようだった。口をぽかんと開けている間に、もはや壁にはゴシック体で書かれた6桁の数字が浮かび上がっていた。


 その日の夜、男は宝くじ売り場に赴いた。宝くじ売り場はビル街にあった。人通りはほとんどなく、夜空に星が輝き黄色い月がかかっていた。だが西の空には濃い灰色の雲が不穏に蠢いて暗かった。


たくさん買う必要は無い。たった一枚買えばよかった。男は急いで壁に現れた6桁の数字を用紙にマークし、その番号の入ったくじを購入した。売り場の女からくじを受け取ると、それを慌てて上着の内ポケットにしまった。女が訝しげな眼でこちらを見ている気がする。男はにわかに怖くなって逃げるように宝くじ売り場をあとにした。


 ビル街は夜闇の藍色に染まったまま静まり返っていた。等間隔に設置された電灯が真っ白に光っていた。青い夜空に月は黄色く輝いて、その空を灰色の雲が侵食してきていた。


 男は段々不安に耐えきれなくなってきた。コンビニの店員が鋭い目つきで自分の動きを追っている。ホームレスが憎しみのこもった顔でこちらを睨みつけてくる。ゴミ捨て場の猫が光る眼で自分の上着を見つめている。ビルの窓から誰かが見ている気配がする。


 そのうち空は完全に雲に覆われ、激しい雨が降り出した。ビルの壁を滝のような水が洗い流し、路面は白い飛沫に覆われて光った。遠くで黄色い稲妻が炸裂し、男の瞼に赤と緑の残像を残した。正面から強風が吹きつけてきて、電灯がついたり消えたりした。男はますます不安になって上着の内ポケットを両手で押さえつつ、辺りをきょろきょろしながら帰路を急いだ。宝くじが濡れては大変だった。


すると二つの雑居ビルの間に、一瞬オレンジ色の光が見えた。思わず男の目はそちらに釘付けになった。その明かりはタバコの光で、そこには若い男たちがタバコを吸いながらたむろして雨宿りしていた。ビルの合間の藍色の暗がりの中で蛍のように暖かいタバコの光がついたり消えたりする。そんな男たちの足元には、ぐちゃぐちゃになったホームレスが転がっていて、若者たちに向かって何事かを呻いて懇願していた。


 そのとき若い男たちのうちの一人と目が合った。男は咄嗟に逃げなければ、と思ったが、頭の中の声が「逃げるな」と指示を出してくる。男は心の中で、なぜだ、と叫んだ。指示など無視して逃げようとしたが、体が硬直してその場から動けない。


「何見てんだよ」


 すると若者の一人が、こちらに絡んできた。男は上着の内ポケットを握りしめ、逃げなければ、逃げなければ、と念じたが、頭の中の声はそれと裏腹に「あいつを殴れ」などとめちゃくちゃな指示を出してくる。男は泣きそうになりながら拳を握り、ビルの合間へ歩み寄り、自分より数段背の高い若者の顔面めがけて拳をぶん回した。


 そのあとは惨憺たるものだった。男の拳は案の定空振りし、男はどこをどう殴られたか分からないほどタコ殴りにされた。殴られる度に目の前の景色がいろんな色に変わってグニャグニャになった。痛みもないまま鼻からトマトソースが噴出し、目の奥で照明弾が炸裂し、意識が平行世界を飛び回った。それでも若者たちはまだ殴ってくる。男はあまりに殴られるので面白くなって爆笑した。止めようと思っても笑いが止まらず、ますます殴られてますます爆笑した。


「金持ってないか探せ」


 若者の一人がそう言って、既にぐちゃぐちゃになった男の身ぐるみを漁り始めた。男はまずいと思って、上着の内ポケットを必死に押さえた。すると若者たちが思いの外きょとんとした顔で男を見つめてくるのでまた爆笑した。


「上着だけは、上着だけは勘弁してくれ……うっ、ははははははははは」


 上着を若者たちに引っ張られながら、男は懇願し、爆笑し、何度も顔面を蹴られた。若者たちは上着を真っ二つに引き裂いた挙句その内ポケットの中から宝くじを引っ張り出した。男は笑いながら必死にもがいてくじを取り返そうとしたが、二人がかりでがっちり体を押さえられていてろくに抵抗もできなかった。


「なんだこれ、金じゃねぇのかよ」


 宝くじを持った若者は一言そう呟くと、くじを何の躊躇もなく真っ二つに引き裂いた。その瞬間、男の鼓膜の奥で世界が崩壊する音がした。途端に体の力が一度に抜け、男は地べたに尻もちをついた。そのあと男は若者たちが雨の中を遠ざかっていくのを無表情で見つめていた。その左手には無残にも真っ二つになった宝くじが弱弱しく握られていた。


 翌朝、住民から通報を受けた警官が都内某所の雑居ビルに赴くと、ビルの合間の空間で血を流し衰弱死した男の死体があった。男の身元は不明だったが、その左手には、なぜか一週間前におこなわれたお笑い寄席のチケットが、真っ二つになった状態で握られていた。

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