ガラスの笑顔

 俺は華音の母親を藤沢駅のJR改札口まで見送った後、駅前でハーモニカを吹いていた。華音が歌う曲を作ること。それが目的で、一つ一つの音を確認しながら、旋律を組み立てようと試みる。だが、なかなかうまくいかずに、俺は大きく溜息をついていた。


 あの後華音の母親には、華音が小さな子供だった頃の話を一時間以上も聞かされた。本当に可愛かったのよって、そんな類の話を長々と。ただ俺に言わせるとそのお話は、まるで今の華音そのままで、小さい頃と何も変わってないじゃねぇかと思えないこともなかった。ひょっとすると華音は今でもまだ小さな子供のまま、一人で母親の帰りを待ち続けているんじゃないかって、そんな話にも聞こえてくる。華音の両親は昔から仕事が多忙で、家に帰ってくるのもおよそ深夜だって華音は言っていた。家族みんなで食事する時間を胸の中で想い続け、あいつはずっと一人で歌を歌いながら待っていたんじゃないかって。

 華音の母親の話は確かに一時間以上続いたけど、不思議とそんなに長くは感じなかった。気がつくと喫茶店の窓の外は真っ暗になっていて、時計の針も十八時を回っていたんだ。

 華音の母親は俺と話し終えると、誰とも会わずに埼玉の飯能まで帰ると言う。せめて華音と会っていかないんですかとも尋ねたが、『あの子が拒否している以上私は会えないわ』と返ってきた。ということは、本当に今日は俺だけに会いにわざわざ藤沢まで来たようだった。まるで俺に華音の全てを託すように、それはさすがに考えすぎなような気もするが、ただどこかそれを全否定する気にもなれなかった。


 俺は華音の曲を託された。書けるかわからない曲を、ただし誰の反対もなく。

 もう間もなく、十九時になろうとしている。三十分以上もここでハーモニカを吹き続けていたが、一向に華音が歌う曲は浮かび上がってこなかった。依頼された曲は、華音がCVのキャラクターソング。華音が演じるのは、ライトノベル『六頭分のケーキ食べられますか』に出てくる六海という少女だ。両親を亡くした六つ子姉妹の六女で、六人の中で一番の甘えん坊。交通事故で亡くなった両親のことを今でもずっと待ち続けているような、そんな少女だ。

 俺はようやくこのラノベを半分くらいまでを読み終えていた。既刊が十巻あって、やっと六巻目までたどり着いたところだ。今期はこの六巻目までをアニメ化すると華音が言っていたから、ノルマはおよそ達成したことになる。後はそれをキャラクターソングとして彩っていけば……という話なのだが、中々思うように捗らずにいる。音の一つ一つを繋ぎ合わせても、ぽろりぽろりとその場で崩れ落ちてしまう。まだ何かが足りないのだろうか。さっきから出てくるものは俺の白い溜息ばかりだった。ようやく春を迎えようとしているものの、夜にもなればまだ肌寒い日々が続いている。


 ただ一つだけ、救いのような話があった。華音がCVを務める六海は、どこか華音自身に共通しているものを多く感じていたんだ。誰よりも甘えん坊で、誰よりも無邪気で、明るく笑顔を振りまきながら、目の前をひたすら走り続けている。おいおい、そんなに走り回って転ぶなよって、思わずそう声をかけたくなるほどに。


 華音の笑顔はいつも美しくて、どこか儚い。

 俺はその壊れやすいガラスのグラスに、そっと手を触れようとする。ひんやりとしたそのグラスは俺をはっとさせるほどに強い刺激を隠し持っていて、触れた瞬間、慌てて手を離してしまいそうになる。その反動でぐらぐらと揺れ動くガラスのグラスは、それでもまだ光を放っていて、やがて勝手にその場で静まっていた。俺はまた、そのグラスに透き通る光を眺め続けるだけ。そのまま無意味な時間だけが流れていくことに、俺は気づかないでいた。


 俺は華音をどうしたいのだろう。

 守ってやりたいとか、幸せにしてやりたいとか。

 それは俺の懺悔からなのだろうか。俺が華音から歌を奪ったから?

 そんな俺に一体何ができるというだろう。またそのグラスを壊したりしないのか。


 ハーモニカの音色は、一向にその答えを教えてくれない。

 俺の迷いを、俺の吐息をただ音色に変えているだけだった。


「大河君……?」


 幻聴? いや、そんなはずはなかった。

 ふと顔を上げると俺の目の前に、俺の顔色を伺う心配そうな華音の顔があった。

 だからもうそんな泣きそうな顔はやめろって、何度も言ってるのにな。

 もっとも今華音を泣かせそうにしているのは、俺の顔色のせいかもしれないけど。

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