北の章
東京駅から、鉄路を乗り継ぎ1時間20分ほど。
駅舎を出てすぐ目に入るのは、でかいカンバンにずらりと並ぶ「広告募集」の文字ばかり。
しけた磯臭い町――それが西のどかの住む町だった。
くすぶる煙草を投げ捨てた北悟朗は、ロータリーから巡回バスに乗り込むと、シルバーシートにどかっと座った。寂しい車内刷りのなか、「結婚相談所」の文字が見える。悟朗は短い鼻息を漏らすと、ポケットから手書きのメモ紙を取り出した。
A田:200 S沢:270 K山:450+α Y崎:180
悟朗は胸ポケットの札束の感触をそっと確かめる。
そして走り書きの最後に「N:300」と書き足すと、無表情に畳んで戻した。
あらかた老人で埋まったバスが、建売の並ぶ区域に差し掛かる。悟朗は早めにブザーを押しこむと、のっそりシートから腰を上げた。いやだわ、若いのに、譲ればいいのに……そんな視線をまともに受けず、あくびを嚙みながら悟朗は降りた。
そこから先はすぐだった。ふっ、と肺から強い息を吐く。ぱん、と両頬を叩く。「天使みたい」と愛でられつづけた幼少期のような、優しい趣きに顔が変わる。豪邸。数歩先にメルヘン趣味のカーテンが、白塗りの瀟洒なファサードから覗いていた。
◆
「ねえ、やっぱりいいでしょう?」
ビアズリーのお盆に乗った生首のインク絵。ドラローシュの、目隠しをされて断頭を待つ女の油彩。のどかが愛してやまないその家の絵画たちは、いつも悟朗をげんなりさせた。熱っぽく解釈するのどかに愛想笑いを返しながら、「ビアズリー 贋作 売価」と検索するのが常だった。そんな彼は今日もなお、くつろぎづらい応接ソファにもたれかかっている。
「あの、これ、大好きって言ってたロシアンティー。ジャム、いっぱい入れたんだけど……」
勧められるまま、高脚のカップを手に取った。なみなみ注がれた紅茶の底には、ぼてっと固まる潰れたイチゴ。鼻先に甘ったるいにおいが漂い出し、悟朗はごほっとむせこんだ。
「ごめん、ジャム、足りなかったかな、もっと……」
キッチンに走り出そうとする巨漢の娘を急いで制し、悟朗は正確に微笑んだ。
「いいんだいいんだ! のどかのロシアンティーは世界一だ。それに『ごめん』なんてすぐに言ったら、リッチで美人なお医者さまが、台無しだよ」
「そんな、ごめ……あっ」
言わせる前に抱きよせた。
男の腕のなか、こんもりと肉厚な肩がフリル越しに震えていた。
ふくよかな耳に唇を寄せる。
「ほら、これ」
そう囁くと悟朗は身体を離し、ジャケットから出した封筒をのどかの前に静かに置いた。
なんなの? という表情を作ったのどかが、おずおずとその封筒を開く。
瞬間、わっという歓声が上がった。
「取り戻してきたよ。君がニセ霊能者に取られてしまった300万」
「……わたし、なんてお礼を言ったら」
「なに言ってるんだ。僕とのどかは結婚するんだろ? つまり、それは二人のお金じゃないか。お礼なんて、必要ない」
潤んだのどかが悟朗ににじり寄る。荒い鼻息に、下あごがぷるんと揺れる。
うっとりと瞼が閉じられて、生ぬるい唇が悟朗を吸った。
「……のどか、提案があるんだけど」
封筒を振り返るふりをしながら、シャツで唇をぬぐった悟朗は言葉を続けた。
「このお金で、結婚式場の予約をしない? ほら、のどかのすっごく気に入ってたトライフルホテルのダイニング。たしかに値は張るけど、このお金、もう戻ってこないと思ってたんだろ? 思い切って、僕たちの結婚式に使おうよ」
「シンガポールの? 覚えていてくれたのね」
「のどかにとって『トライフルは美の楽園』なんだろ? うっとりする君を見て、僕の……いや、二人の夢を叶えるのならここしかない、って」
「二人の夢……なんて嬉しいの! ええ、ええ、予約しましょう。お金ってそういうタイミングにこそ使うべきよ! でもたしか、それじゃまだお金、足りなくって……」
「心配ない。結婚式までに、残りのお金は僕が作る。のどか、君と結婚できるなんて、僕は世界一の幸せ者だ。僕だけのために、最高の花嫁姿を見せてくれ」
せつない表情を浮かべながら、のどかが頷いた。
悟朗はのどかの肩をここぞと掴んだ。
「愛してる。幸せになろう。善は急げだ。コーディネーターに予約をしに行ってくる」
男の指先がテーブルの封筒をさりげなくさらい、胸ポケットにすとんと落とした。
――その瞬間。
「そして、あなたはもう二度と帰ってこないのね」
とろけるような表情から一転。
裏切られた、という瞳で、のどかが呟いた。
え、と悟朗の挙動が止まる。
同じタイミングでドアがばしんと開かれ、外の空気が吹き込んできた。
「ほら西のどかさん、言った通りだったでしょ」
吹き込む外気の真ん中に、ニセ霊能力者・南ましろの声が響いた。
その後ろには助手のヤサ男・東も控えている。
悟朗は、ぽかんとした。
「ぽかん、じゃないのよ、結婚詐欺師! その手口で、女を泣かせるのも今日が最後よ」
「いやいやいや、おい、のどか、これ、なに? ドッキリ?」
救いを求めるように悟朗は言った。
のどかは唇を噛み、静かに首を横に振った。
「この人たち……刑事さんなの」
「刑事……!? 嘘だろ、俺はこいつから300万を奪い返したんだ。どうしてのどかを騙したこいつが、家に来る? ありえない」
ぜんぶ話すわね、と、のどかが悲しそうに言う。
「二ヵ月前にね、そこの南さんから『あなたは結婚詐欺師に騙されている』って、電話があったの。正直言ってわたし、信じられなかった。すごく怒った。悟朗さんは、わたしの最高のフィアンセなんだって。そしたら南さんが、『だったらこそ、試してはっきりさせましょう』って提案くださって。それで……」
「そういうこと。北悟朗、あなたを詐欺の現行犯で逮捕します」
「むちゃくちゃだよ。デカが霊能力者を名乗って捜査するとか、金を払うとかありえないだろ? なあ、のどか、こいつらこそ詐欺師だ。俺が取り戻した300万を、もう一度奪い取ろうとする悪党だ!」
はん、とましろが鼻で笑った。
「奪い取るぅ? 違うわね。あんたを逮捕してから、きっちり返してもらう。だってその300万は、わたしのポケットマネーなの。カネに汚い、あんたをおびき寄せる罠だったのよ!」
悟朗が気色ばんだ。
「のどかのカネじゃねえのかよ! 300万も自腹を切って、あぶねえ橋渡るデカなんて居るかっての」
理由があるのよ、とましろがぴしゃりと指を立てた。
「北悟朗! あんたは『桐山つらら』を憶えているか」
悟朗の目に一瞬、動揺が走ったのをのどかは見た。
それでも悠然と悟朗は言う。
「知らないな。俺の心にいる女性は、のどかだけだから」
「『桐山つらら』は二年前! あんたと結婚するって450万も貢いだあげく、『結婚式でお披露目する』と騙されて、借金重ねて無理して買った800万のダイアモンドのティアラと共に姿を消されて……借金まみれで自死を選んだ……わたしの幼馴染よ。わたしは、あんたを許さない。地獄の果てまで許さない」
悟朗がすうっと息を吸った。
「だーから知らないって言ってんだろ、そんな女。それよりおまえ、バレバレなんだよ。弱みがあるときこそ強硬に出るのは、典型的な詐欺師の手口。おまえは決してデカじゃない! 俺を騙そうなんて100年早いわ」
あんたこそ強硬ね、と口の中で呟いたましろは、黒い手帳を開いて突きつけた。
悟朗の顔が青くなった。
まさかという表情のままジャケットの中のスマホを開き、短縮ダイアルを押す。
「あー、俺だ。ちょっと調べて欲しいことがあるんだが、警視庁捜二に、南ましろって女刑事はいるか? あー、至急頼む。……わかってるよ、特急料金もノセて振り込むから。いつものところでいいか? ……じゃ、1分以内に送金するから。頼むよ」
通話を切ると同時に、悟朗の指がスマホの上を滑る。ピロンと音がして数十秒、端末がまた鳴動した。悟朗は耳にスマホをぎゅっと当てた。
「うん、分かった、礼を言う」
同時に、ちっと舌を鳴らす。
「マジもんのデカかよ」
「あんたに復讐するためなら、なんだってやらかすよ」
「かわいい顔してその言葉遣いか。しかし残念だったな、南刑事。ここでは結婚詐欺なんて、いっさい、行われていない」
のどかの顔が華やいだ。
「え、それって、悟朗さんは、本当にわたしと結婚してくれるってこと……」
悟朗がくしゃくしゃの笑みを浮かべる。
「そうさ。僕は君と結婚する、トライフルで式を挙げる。このお金はその予約金だろ? 詐欺なんて、どこにもない」
「嬉しい」
のどかさん待って、とましろが叫ぶ。
「この男に騙されたと訴えてきている女性は、何人もいるの。つららも、絶望しながらそう泣いた。騙されちゃいけない」
違います、とのどかがぎゅうぎゅう悟朗の袖を掴んだ。
「悟朗さんは絶対、絶対、詐欺師なんかじゃない。こんなわたしと結婚してくれるんです。……そうよね?」
悟朗が仏頂面になった。
「ああ、もちろんだよ」
のどかが小首をかしげてにっこりとした。
「じゃあ、ここに署名を」
硬い表情の悟朗の前に、てきぱきと婚姻届が差し出された。
「恥ずかしいけど、わたし、もう何年も婚姻届を持ち歩いているの。チャンスっていつ来るかわからないでしょう? それに……」
と、二人を向いて続ける。
「ちょうどいいわ。南さんと東さんに証人のサインをしてもらいましょう。刑事さんが証人だなんて、これ以上に安心なこと、ないからね」
悟朗は、羊のような顔色になっていた。
「まさか結婚のためにデカまで引っ張り出すとはな」
悟朗の言葉を聞き流し、どすどすと足音を立てながら、のどかは婚姻届を東に差し出した。
東はやれやれとため息をついた。
「仕方がないですね。実際に結婚するなら詐欺罪は立証できません。それに、市民の平和を守るのも私たち刑事の責務ですから、ここはサインをして引き上げましょう」
「そうかそうか、分かったよ。ただし!」
悟朗が肚をくくる顔をして、のどかに問うた。
「俺と結婚するってことは、医者としての給料も、財産も、なんならこの家も、すべてを俺に差し出すってことだ。いいのか、のどか?」
「いいの。わたしは結婚さえできるなら、お金なんかいらない」
「分かった。そこまで言うなら結婚しよう。刑事さんたちが保証人なら、高額な生命保険をかけて消される心配もないだろうし、俺は俺で愉しませてもらうよ、ケッコンを!」
悟朗は試すように微笑みながら、のどかの肩口に触れようとした。
と、その刹那。
一発の銃声が轟いた。
--東の章へつづく
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