第8話 インスタ戦争①

「九二一、九二二、九二三……」


 土曜日の昼下がり、紅子は炎城寺邸の裏庭で汗を流していた。日課の筋トレである。


 半年前にアメリカの格闘技界を引退して以来、格闘家としての活動は半ば休止しているような状態の紅子だが、筋力維持のトレーニングは休まず続けているのだ。


 イルカは、その傍らで花壇の水撒きをしていた。


「九二五、九二六……」


 一日千回ノルマのうさぎ跳びが終わりに差しかかったころ、菜々香が屋敷の裏口から顔を出した。


「お嬢様。お客様がいらっしゃいました」


「んー客? 誰よ?」


「お嬢様のいとこだとおっしゃる、そら……」


「ああ。筋トレ終わったらすぐ行くから、五分くらい待ってって言っといて」


 来客の名も最後まで聞かずに、紅子は答えた。


「分かりました」


「そういえば、激旨屋のケーキが一個残っていたでしょ。あれ出してあげなさい」


「いいんですか? あれは、お嬢様ご自身がわざわざ行列に並んで買ったものじゃないですか。今夜のデザートにするって楽しみにしていたのに」


「いいの、いいの、頼んだわよ」


 来客に最上級のもてなしをするよう命じ、菜々香を屋敷に戻らせる。


 紅子は上機嫌で、残りの筋トレメニューを消化にかかった。


「九二七、九二八、と……ふふ、そよぎが遊びに来るのは久しぶりね」


 海原そよぎは、紅子の七歳年下のいとこである。


 紅子とは正反対の真面目な性格の優等生だが、二人は実に仲が良い。そんな可愛い妹分のためなら、ケーキのひとつくらい奢ってやるのは当然だ。


 だが、イルカが不思議そうに首をひねった。


「あのー。そよぎ様は今、スイスに留学中だったんじゃありませんか?」


「あ……そういえば…………」


 一ヶ月の海外留学に出かけるという彼女を見送ったのが、十日ほど前のことなのだ。まだ日本に戻って来ているはずがない。


「そもそも、菜々香は『いとこ』としか言ってなかったですよ。そよぎ様が来たのなら、そう言うでしょうに」


「ってことは……まさか……!」


 紅子はうさぎ跳びを切り上げ、汗だくのまま屋敷の中へ駆け出した。





「うーーーーん! 美味しいですわぁ! 激旨屋のケーキは東京一ですわね!」


 炎城寺邸のリビングルームで、空峰紫凰は上機嫌でケーキを頬張っていた。


「この店だけは、いくら札束で頬を叩こうが横入りを許さないから、わたくしでも簡単には手に入らない。ですが、そんな反骨心あふれる職人の仕事だからこそ、これほどの味が出せるんですわ! ねえ?」


「あ、はい……お気に召されたようで。どうも……」


 菜々香は気圧されながらペコリと頭を下げる。


 紫凰は菜々香と同年代だが、余人とは明らかに別格のオーラを漂わせていた。


 服装は上から下まで、ひと目で超高級品と分かるきらびやかなブランド物で固められ、だがそこに虚栄や嫌らしさというものはない。ファッションセンスが完璧なのだ。それに加えて、紫凰自身の容姿が常人離れして美しい。CGのように滑らかで白い肌、澄んだ蒼い瞳は、二次元のキャラクターかと見まごうほどだ。


「このケーキが、あのクソバカ紅子が汗水たらして買ってきたものだと思うと……ふふふ、さらに何億倍もうっまあーーーい! ですわーーー! おーっほっほっほ!!!」


 だがしかし、それらの圧倒的な外見的長所を台無しにするほどに、紫凰は喧しく口が悪かった。


「ちょっと、あなた。菜々香さんでしたかしら? ケーキを堪能するわたくしの姿を写真に収めてくれませんこと?」


 紫凰はシャネルのトートバッグからスマホを取り出して、菜々香に差し出した。


「はあ……」


「ティーカップを持ったわたくしと、テーブルの上のケーキが両方収まる構図でお願いしますわね。左斜め三十度くらいの位置から……そう、そのソファの前あたりから撮ってください」


 そうして収められた写真は、そのままオシャレ系女性誌の表紙を飾れそうな出来栄えだった。


「うんうん! いい感じで撮れましたわね! 映えですわー!」


 撮影された写真を確認して満足すると、紫凰は残るケーキを一気に頬張って完食した。


「もぐもぐ、ごちそうさま。あー美味しかった。では早速インスタグロムに上げましょうか。ああ、菜々香さん。わたくしのインスタアカウント、『shion』って名前ですのでよかったらフォローを…………」


「おいっ!!!」


 リビングルームのドアが吹き飛びそうな勢いで開き、紅子が顔を出した。


 ソファでふんぞり返っている紫凰の顔を見て、忌々しげに舌打ちする。


「ちっ……! まさか、あんただったなんて……」


「あら紅子。ごきげんよう」


「何がごきげんよ。あんたのせいで機嫌は最悪よ。わたしのケーキ返せよ」


 紅子は殺意の眼光で睨みつけながら紫凰に詰め寄る。


 常人なら震え上がるほどの殺気を、だがしかし紫凰は平然と受け流した。


「ちょっと、汗臭い体で近寄らないでくれる? 相変わらず下品な猿ねえ」


「あ゛? だれが猿よ、死にたいの? ってゆーかケーキ返せ」


「ざーんねんでした。もうわたくしのお腹の中ですわー」


「なら今すぐ吐け!」


 紅子は紫凰の腹にめがけて拳を放った。


 世界最強のパンチが炸裂――――することはなく、虚しく空を切った。


「まったく、ぎゃーぎゃーうるさいですわね紅子。せっかくこの空峰紫凰が、わざわざ訪ねてきてあげたというのに」


 菜々香は、驚愕に目を丸くする。全米チャンピオン炎城寺紅子の本気の一撃が、軽々とかわされたのだから。


「ちょっと菜々香! なんでこんなやつを家に上げたのよ!」


「そ、そんな事言われても……。お嬢様のいとこの方なんでしょう……?」


「わたしはね、この女が死ぬほど嫌いなの! こいつは見てくれだけよくても中身は最悪、暴力的で傲慢でワガママ、そのくせ承認欲求の塊で、信者に囲まれてチヤホヤされるのが生きがい、なんていう脳みそスカスカの馬鹿女なのよ! 吐き気がするわ!」


 それが紅子が紫凰を嫌う理由だった。すなわち同族嫌悪である。




 ひとしきり喚いた紅子は、紫凰の前のソファに乱暴に座り込んだ。


「…………で、なにしに来たのよ紫凰。 まさか激旨屋のケーキ食べたかっただけじゃないんでしょ」


「あなたに誕生日パーティの招待状を持ってきたんですわ」


 紫凰はバッグから一通の封筒を取り出し、紅子に投げつけた。


「はあ? なんでわたしがあんたのお誕生日会なんかに行かなきゃなんないのよ。葬式なら喜んで出てやるけどさ」


「わたくしの誕生日にエテ公なぞ呼ぶはずないでしょう。よく見なさい」


 紅子は受け取った封筒に目をやった。


 宛名は『炎城寺紅子』、差し出し人の名は『五輪ごりん六郎太ろくろうた』と書かれていた。


「六郎太……本家のお爺ちゃんか。そういえば、お爺ちゃんの誕生日は十月だっけ」


 五輪グループの中枢を担う「五輪一族」において、炎城寺家や空峰家はいわゆる分家であり、本家と呼ばれるのが五輪家だ。五輪六郎太はその本家当主、五輪グループの頂点に君臨する総帥である。


「十月の四日から、五輪本家の別荘でお爺様の誕生パーティーがあるのよ。あなたも参加なさい」


「めんどくさ……。お爺ちゃんのことは嫌いじゃないけどさ、パーティーとか堅苦しいのは性に合わないのよね」


「そう言うと思ってましたわ。けど、今回は五輪一族の若手だけを招いた、堅いこと抜きの集まりでしてよ」


「それって紫凰、あんたも来るんでしょ」


「もちろん」


「じゃーどっちにしろパスよ」


「……来ないなら殺すわよ、紅子」


 紫凰が、紅子と同質の殺気をまとい立ち上がった。


「あ……? 誰が、誰を? やってみろよ雑魚……!」


 紅子も即座に反応して立ち上がった。


 一触即発の空気を撒き散らしながら、二人はにらみ合う。


 菜々香は止めることもできず、ただオロオロするだけだ。


 そこに、庭仕事を終えたイルカがひょっこりと顔を出した。


「ああ、やっぱりお客はそよぎ様じゃなかったんですか。そういえば、お嬢様には他にもいとこがいると聞いたことありましたけど……あの人がそうですか」


「イルカも会ったことなかったの?」


「この家に来たのは初めてですからね。どうもお嬢様は、そよぎ様以外の親族と仲が悪いようでして。ろくに話も……」


 ブンッ――――! と、空を切る音が響いた。


「え……」 


 つい先ほどまで紅子の立っていた床に、銀色に光る刃がめり込んでいる。


 空中に、切断された紅子の金髪が数本、はらりと舞っていた。


「は…………な…………なにを……」


 紫凰の手には、どこに隠し持っていたのか、抜き身の日本刀が握られていた。


「あ、あれ……刀……ほ、本物!? 本気で切りつけたわよ、あの人!?」


 紅子がとっさに身をかわしていなければ、刃がめりこんでいたのは床ではなく紅子の頭蓋骨だ。


「紫凰っ……! あんた、やりやがったわね!」


 紅子は激怒して応戦する。


 だが、掴みかかろうとした紅子に対して、紫凰は再び横薙ぎの一撃を放つ。


「うわっ……!」


 紅子は慌てて飛び退いた。


「おーっほっほ! 今宵の『三月日宗近』は血に飢えていますわ! 死になさい紅子!」


 重さ一キロ以上はあるだろう日本刀を、紫凰は片手で軽々と振り回す。


「ほらほら、どうしたの紅子? 偉そうなこと言ってたわりに逃げてばかりね! おーーーっほっほっほ!」


「ぐ、ぐぐぐ……! 紫凰……あんた、調子に……どわっ!」


 並の人間なら、刀どころか銃を持っていても紅子の相手ではない。だが紫凰は、紅子同様に人智を超えた戦闘力の持ち主なのだ。


 嵐のような剣閃は、ソファを、テーブルを、絨毯を、ことごとく切り刻み、吹き飛ばしていく。


「ひ、いい……あ、あの人……おかしいわよ……!」


「ですねえ……まさかこの世に、お嬢様と同じレベルの人間がもう一人いたとは……」


「お、お嬢様! あの人、なんとかしてください!」


「そうですよ! この後の掃除はわたし達がするんですよー!」


 部屋の隅で身をすくませながらイルカと菜々香が叫ぶ。


 だがしかし、暴れまわる紫凰の前に、紅子は反撃のチャンスすらつかめず、ただ逃げ回るばかりであった。


「さあ、そろそろとどめを刺してあげるわよ、紅……」


 紫凰の動きが、突如、止まった。


「もうお止めください。紫凰様」


 紫凰の背後に、さつきが現れたのだ。


「あら九条さん、ごきげんよう。…………ところで、わたくしの背中に尖ったものが当たっているように感じるのですが?」


「目には目を、刃には刃を、ということです。これ以上はお戯れが過ぎますよ」


 さつきの手には柳包丁が握られ、その刃先はピタリと紫凰の背を捉えていた。


 炎城寺家のメイド長、九条さつきは筋金入りの武闘派なのである。


「その日本刀は、お父様の大切なコレクションでしょう。血で汚してしまっては、あなたが叱られますよ」


「はいはい、相変わらずおっかない人ですわね。ま、もう用は済んだし、猿と遊ぶのもこれくらいにしておきましょうか」


 紫凰は刀を下ろして鞘にしまい、床に放り出されていたトートバッグも拾い上げて、満足げに笑った。


「それではみなさん、さようなら。紅子、パーティーには来るんですわよ! それとケーキ美味しかったですわーーー! おーーーーっほっほっほ!!!」


 勝ち誇ったような笑い声とともに、紫凰は去っていった。

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