第7話 紅子のスマホデビュー④

「ここ…………?」


「間違いありませんよ」


 東京を発って十二時間と三十分後、紅子とイルカは寂寥とした海を眺めていた。


「この場所が、青森県○○市△△町622番地です」


「なによ、これは」


 周囲に人の気配はまるでない。


 紅子の眼前には防波堤と薄汚れた海岸。背後には草木生い茂る空き地と、そびえ立つ荒れた山肌。それ以外には、紅子達がやって来た一本の県道があるだけだ。


 民家らしきものなど、影も形も見当たらない。


「ここに、あの野郎の家があるの?」


「あるわけないでしょうが、こんなところに」


「はあああ!? どういうことよ!」


「どうもこうも、あの住所が写った写真は罠だったってことですよ。窓付き封筒の宛先なんて、中の紙を入れ替えれば簡単に偽造できるんですから。…………おや?」


「なによ、イルカ」


「ああ。そういうことですか……」


「だからなによ。なに一人で納得してんのよ」


「あれを見てください」


 イルカは、防波堤に掲げられた看板を指差した。



【〇〇市✕✕✕海釣り公園】



「海釣り公園…………海釣り…………釣り!?」


「あの写真は釣りだった、ということですね。あははは」


「うぎいいいゃやあああああ!!! あの野郎おおおおおおおおぉぉーーーー!!!」


 絶叫が、津軽海峡の海原に響き渡った。


「くそ! くそ! あの嘘つき野郎め!」


 紅子は涙目になりながらスマホを取り出して2ちゅんねるを開く。


「なにする気ですか、お嬢様」


「あいつに文句言ってやるに決まってんでしょうが! 『よくも騙しやがったな』って!」


「やめてください。そんなこと書き込んだら『炎城寺は2ちゅんねるの書き込みに騙されて青森まで行った大馬鹿だ』って、あっという間にネット界隈全域に拡散されて、末代まで笑いものにされますよ」


「じゃあどうすればいいのよ?」


「何もしてはいけません。『わたしは青森なんかに来ていません。あんな写真に騙されるわけないでしょ? 今も東京にいます』ってポーズを貫いてください」


「騙されたのに文句言わずに泣き寝入りしろっての!? そんなの負け犬じゃない! 」


「ここで怒りのレスなんかしたら、それこそ大敗北ですよ。いいですか、ネットでは騙されたと認めなければ騙されてないし、負けたと認めなければ負けではありません。レスバトルは我慢比べなんです」


「わたし我慢するの苦手なんだけど」


「知ってますよ。ですが、ここが勝負どころなんです。精一杯『効いてないアピール』を頑張ってください」


「分かったわよ……」



234

『わたし炎城寺だけど、東京は今日もいい天気ですね。なんか東北の方では午後から大雨らしいけど東京にいるわたしには関係がないな。青森とかにいたら大変なんだろうけどわたしは東京の自宅にいるから全然平気』



「ほら。これでいいんでしょ、イルカ」


「実にわざとらしい東京在宅アピールですね…………。ま、いいでしょう。もうこんな場所に用はないので、さっさと帰りましょうか」


「せっかく来たんだし、観光でもしていかない?」


「駄目です。一刻も早く青森から脱出しましょう」


「は? なんで?」


「あまりこのあたりに長居してると、お嬢様のことを見た誰かが『青森県で格闘家の炎城寺紅子さんを見かけた』なんてSNSに投稿するかもしれません。そうなると結局、2ちゅんねるの書き込みに関連付けられて、お嬢様の醜聞は知れ渡ることになります」


「うわ、そりゃやばい! すぐ帰るわよ!」


 紅子とイルカはあたふたとポルシェに撤収し、もと来た道を走り出した。


 近くのインターから高速に乗り、青森県を脱出して岩手県のサービスエリアまで来たところで、ようやく一息ついた。


「ふむ……今のところSNSに炎城寺紅子の目撃談は上がってませんね」


 サービスエリアのフードコートでうどんを食べながら、イルカがスマホをチェックして報告する。


「あー疲れた……」


 紅子は珍しく疲労をにじませていた。十二時間以上かけて車を運転して本州の端までやって来て、何の成果もなく即座にUターンするはめになったのだから、当然と言えば当然である。


「それはこっちの台詞ですよ。お嬢様のネット活動に付き合ってると、いつも訳のわからない方向に話が暴走するんですから困ったものです」


 イルカはぼやきながら、今度は2ちゅんねるを開いてチェックする。「炎城寺紅子アンチスレ」にも、紅子が青森に行ったという書き込みは見当たらなかった。


「2ちゅんの方も大丈夫そうですね。誰もお嬢様が嘘の写真に釣られて青森までおびき出されて、からかわれて涙目顔真っ赤になったことには気付いてません」


 さすがのアンチスレ住人達も、紅子がまさかそこまで馬鹿だとは思わないのだろう。


「真実は闇に葬られたってことね! わたしの勝ちだわ!」


「全然勝ってませんから。最悪の事態は回避したってだけですから、せいぜい『逃げ切った』くらいが正しい表現かと」


「逃げ切ったってことは、撤退戦に勝ったってことなのよ」


 紅子は断言して、フードコートの椅子にふんぞり返った。








『はい、もしもし。炎城寺でございます』


「もしもし。炎城寺紅子はいるかしら?」


『失礼ですが、どちら様でしょうか』


空峰そらみね紫凰しおんですわ」


『……これは、紫凰様……。ご無沙汰しております』


「ええ、ごきげんよう。それで、紅子は?」


『申し訳ありません。留守にされております』


「どこへ行ったか知らないかしら」


『青森へ行くとおっしゃっていましたが』


「ぶっはああああああぁぁ」


『紫凰様!? どうされました!?』


「い……いえ……ぷぷっ……なんでもありませんわ……くくっ……失礼……ぶふっ……分かりましたわ、そういうことでしたら結構ですから……ふふっ……」


 空峰紫凰は電話を切った。


 その途端、こらえきれない笑いが爆発する。


「あーーーーっはっはっは! アホですわ! ドアホですわ紅子のやつ! マジで青森まで行ってやがりましたわーーーー!!! あひゃはははっはははっはは!!!」


 腹を抱えながら、紫凰は自室の床の上で笑い転げる。


 その傍らのローテーブルには、TOEICの成績通知書と窓付き封筒が置かれている。封筒の窓から見える住所『青森県○○市△△町622番地』は、もちろん紫凰が偽造したものだ。


「おい紫凰。うるさいぞ」


 ドアが開いて、一人の青年が入ってきた。空峰天馬てんま、紫凰の兄である。


「あ、お兄様。聞いてください、紅子のアホがまんまとわたくしの罠に引っかかって……うぷぷ……」


「紅子?」


「昨日、あいつのアンチスレを覗いていたら、まさかの本人降臨で……ぶふっ……『住所特定して凸してやるー』とか寝言ほざきやがりましたから、この封筒を写真にとってアップしてやったら……あは……本気で信じ込んで……あひひ……」


「お前……俺のTOEIC成績書を借りにきて何するのかと思ったら、そんなことに使ったのかよ……」


 935点の成績書は天馬のものである。同じテストを受けた紫凰の結果は35点だった。


 天馬と紫凰。二人は日本最大の財閥組織「五輪グループ」の筆頭幹部、空峰家の子息令嬢である。2ちゅんねるで煽り合っていた紅子と彼らは、親戚関係にあたる。


「まあいい。そんなことより紫凰」


 天馬が、手に持っていた封筒の束を紫凰に見せつけた。その数、六通。


「とうとう来たぞ。五輪本家からの招待状だ」


「……!」


 紫凰の顔色が変わった。


「これが俺ので……こっちがお前宛てだな」


 天馬は封筒の束から一通を取り上げ、妹に手渡す。


「残りの四通は何ですの?」


「他の連中の分だな。炎城寺紅子、海原かいばらそよぎ、土橋つちはし王我おうが天津風あまつかぜ美雷みらい……やはり俺達の世代全員が招かれている」


「なんでそいつらの招待状がうちに来るんですの?」


「俺達の手で直接届けて、パーティーに参加するよう説得しろってさ。まあ確かに、紅子や美雷なんて招待状を郵送したところで、ろくに読みもせずに放ったらかしにしそうだからな」


「でしたら、紅子の家にはわたくしが届けに行きますわ!」


「……喧嘩しに行くんじゃないんだぞ」


「いやですわお兄様。喧嘩なんてするはずがありません。……向こうが喧嘩売ってこなければ、ですけどね。ふふっ」


 紫凰は含み笑いをこぼしながら、炎城寺紅子宛ての招待状を受け取るのだった。

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