第21話 大炎上⑤

「ふう……。ありがとうございます。もう、すっかり気分は良くなりました」


 矢島春奈は、病室のベッドから身を起こして言った。


「明日、警察の方々が二、三十分ほど話を聞きたいと仰っていますが、大丈夫でしょうか」


 看護師が聞いた。


「はい。大丈夫だと思います」


「分かりました。では、明日の十時からこの部屋で面会する、ということで伝えます。ただ、明日になってやはり体調が悪くなった、ということがあれば、無理せずおっしゃってください」


「はい」


「では今日は、ゆっくりお休みください。まだ無理は禁物ですから。面会謝絶の札も、まだかけておきます。……また、あんな迷惑な人が押しかけてこないように」


 看護師は、昼間のジャスティス仮面の無断侵入を思い出したように、憎々しげに顔をゆがませた。


「あの。子供たちは、どうしていますか?」


「保育園には連絡してあります。お子さんたちは、園長先生のお宅で特別に預かってもらっていますよ」


「そうですか……。あの先生には、よく迎えに来るのが遅いとお叱りいただいていますので……あまりご迷惑をおかけしたくないのですが……」


 春奈は両手を握りしめ、開いた。上体を前後に往復させてみる。体の動きに問題はなかった。目覚めた直後の頭痛も、今はもう消えている。


「あの、今からでも退院できますか?」


 思い切って打診してみたが、返事はつれないものだった。


「今から? なにを言っているんです。最低でもあと二日は入院して、安静にして検査も受けていただかないと駄目ですよ」


「二日、ですか……」


 今からの退院は断られても、さすがに明日には帰れるだろうと思っていた春奈にとって、また頭をぶつけたようなショックだった。


「今日すでに職場を無断欠勤してしまっているのに、あと二日も休みたくはないのですが……」


「駄目ですよ。貴女は二十時間近く意識不明だったのですから、厳重な検査が必要なんです。ここで無理をすれば、命に関わるかもしれないんですよ」


「……分かりました」


 そう言われてしまえば引き下がるしかない。


「せめて、職場と保育園に連絡をしたいのですが」


「でしたら、一階の受付ロビーにある公衆電話を使ってください。ただ、あまり長話はしないように。すぐ戻ってお休みください」


 そう言い残して、看護師は出て行った。


「はあ……」


 春奈は肩を落としてため息を付いた。


 結局、仕事を三日も休むことになってしまう。復帰後は上司や同僚から、散々嫌味を言われるのだろう。最悪、リストラ候補に加えられるかもしれない。


 それに、保育園の方もだ。子供二人を押し付けられる形になった園長も、春奈にいい印象を抱いてないだろう。こんなことではもう子供は預かれない、と言われてしまったら……。


「ううん。それよりも……」


 事故のことだ。


 春奈がぶつかったポルシェを運転していたのは、あの炎城寺紅子だという。もちろん知っている。世界一の格闘家と名高い少女だ。


 あの件について、明日警察が話を聞きに来る。


 もしも、あの事故が――――


「…………!」


 春奈は頭を振って、暗い考えを振り払った。


 とにかく、今はできることをするしかない。春奈はベッドから立ち上がり、病室を出た。


 一階ロビーに置かれた公衆電話から職場と保育園に電話をかけ、ひたすら謝罪を繰り返しながら、あと二日は退院できないことを伝えた。どうにか納得はしてもらえたが、相手は不満げな様子を隠そうともしなかった。今から退院後に顔を合わせることが憂鬱になる。


 ふと、入口のガラス越しに、ベンチに座っている少女の姿が見えた。


「えっ……?」


 テレビやネットで見覚えのある、金髪の少女。炎城寺紅子だった。


 なぜ、彼女がここに……いや、事故の当事者である紅子が、春奈の意識が戻ったことを知って会いに来るのは、おかしいことではないか。


 どうしよう。無視しようか、それとも……。


 そんなことを考えているうちに、紅子と目が合った。彼女も春奈に気付いている。


 仕方なく、春奈は入口を出て紅子のもとへ歩いて行った。




「こんにちは、矢島春奈さん」


 先に声をかけたのは紅子だった。


 金色の髪に紅い瞳。メディアで見る以上に、実物の炎城寺紅子は華やかだった。


「炎城寺紅子さん……ですよね」


「ええ」


「どうしてここに?」


「あんたと話がしたくてね。けど、病室の前に面会謝絶の札が出てたから、どうしようかなーって思ってたのよ」


 紅子は、あの仮面の男のように、立ち入り禁止の病室に無理矢理押し入って来る輩ではないようだ。メディアの報道では、とんでもなく傍若無人な人間だと聞いていたから、少し意外だった。


「あれは迷惑な人が押しかけて来ないように、一応かけてるだけなんです。私の体調は大丈夫ですよ」


「そう。よかったわね」


「はい」


 炎城寺紅子は年上に対しても偉そうにタメ口で話す、という噂は本当だったらしい。だが不思議と、春奈は不快に感じなかった。


「面白いわよね」


 しばらくの沈黙の後、紅子が唐突に言った。


「わたしたち二人、いまや時の人よ。日本中がわたしたちの交通事故に注目してるんだってさ」


「そうみたいですね。新聞で読みました」


「それじゃあ、知ってるわよね。世論は完全にわたしを悪者の犯人で、あんたをカワイソーな被害者だって、そういうふうに思ってるわ」


「はい……」


「けど、この世でわたしたち二人だけは、本当の真実を知っている。そうでしょ?」


 春奈の心臓がどきりと跳ねた。


「ねえ、春奈さん。あんた、本当に事故のこと覚えてないの?」


 絶対に聞かれたくない質問だった。


 だが、いつかは必ず答えなければならないことなのだ。


「…………私は……あのときのことは……。その、よく覚えてなくて……」


「それを、あんたの子供の前でも言えるの?」


 紅子は、一切の躊躇なく、手加減もなく、春奈の最大の弱点に踏み込んできた。


「嘘つくのは駄目だって、親は誰でも子供に言うわよね。わたしも昨日言われたばっかりだわ。まあ、そいつは親代わりの教育係みたい奴だけどさ。あんたはどうなの、春奈さん」


「…………」


 紅子の紅い瞳は、春菜を捉えて離さない。


 誤魔化すことはできない、そう悟らされた。


「……………………覚えています」


 泣きそうになりながら、春菜は言葉を絞り出す。


「本当は……覚えているんです……」


「…………」


「あの時、私は……急いでいました。保育園に預けた子供の引取時間が迫っていて……引取時間に三回遅れると、来月から預かりを拒否しますって、そういうルールなんです。だから……それで……私は、安全確認もせずに、赤信号を……飛び出して……」


 春菜は、目覚めた時からすべて覚えていた。事故の責任は、すべて自分にあることを。


 全身が小刻みに震えた。


「言っているのに……いつも子供たちに、うるさいほど言い付けているのに……『車に気をつけろ』って。なのに、母親の私が……」


 言葉に出すことで、どうしようもない後悔が春菜に襲いかかってきた。両手で顔を覆い、苦悶の表情を隣の少女から隠した。


「怖かったんです。激突した時、車のバンパーがへこんだ感触があったから。……ポルシェですよ……事故が私の責任だとしたら、ポルシェを傷つけた弁償って、いくらになるんですか……? そんなもの払えるわけがない……。だから、あの仮面の人に迫られたとき、とっさに、よく覚えてないって……」


「たいした名演技だったわよ。あの動画見てた奴は、わたし以外全員騙されたんじゃない? 『頭痛いー』とか真に迫ってたもん」


「頭痛がしたのは本当です……!」


 春菜は抗議する。


 だが、自分がその頭痛を利用しようとしたことも、紛れもない事実だった。


「卑怯ですよね……私……。自分が悪い癖に、事故の責任を炎城寺さんに押し付けようとしたんです……最低ですよね……」


「んー、まあ。あんたも小さい子供二人抱えて大変らしいし。そういうのも、無理はないのかもね」


 紅子は優しかった。


 だが春菜は、その同情の言葉を受け入れるわけにはいかなかった。


「違います。子供がいるから、とか子供のために、とか……あの子たちを言い訳に使いたくはありません。悪いのは私……嘘をついたのは、私自身なんですから……」


 春菜は隣の紅子に向き直り、精一杯頭を下げた。


「ごめんなさい……ごめんなさい、炎城寺さん……」


 紅子はしばらく黙っていたが、やがて意外なことを言いだした。


「わたしも、あんたに謝らなきゃいけないわ」


「え……」


「インタビューで、あんたのことバカとかどんくさいとか言ったこと。あれは悪かったわ。あんたは機転の利く頭もあるし、自分の間違いを開き直るほど鈍でもない。わたしが間違ってたわね」


 紅子が春奈に向かって頭を下げた。


 彼女がそうするのは極めて珍しいことだと春奈が知ったのは、ずっと後になってからだった。


「さ、お互い謝ったし、この話はこれでおしまいね」


 深刻なムードを振り払うように、紅子は声の調子を変えた。


「車の修理代のことは気にしなくていいわ。そんなことで弁償だの何だの喚き立てるほど、炎城寺紅子は小さい人間じゃないのよ」


「炎城寺さん……いいんですか?」


「わたしは、無責任な噂や想像じゃなくて、『本当の話』をあんたとしたかっただけ。あんたは包み隠さず真実を話してくれたんだから、気は済んだわ」


 紅子は笑った。とても可愛らしい、少女の笑顔だった。


 ネット世論やマスコミが報じている『狂犬』だの『異常者』だのといったイメージとは程遠い。噂なんて本当にいい加減なものだ。


「紅子様。お話は済みましたか」


 いつの間にか、傍にやって来ていた女性が声をかけた。


「さつき。なによ、付いて来なくていいって言ったのに」


「これ以上、紅子様から目をはなせば、何をしでかすか分かりませんからね。アメリカで武者修行して、少しは大人になって帰って来たかと思っていたのですが……まだまだ手のかかる子供のようですから」


 その会話から、この女性が紅子の言っていた教育係なのだと分かった。


「ほんとうるさい奴ね……。あ、春奈さん。こいつ、うちで雇ってるメイドよ」


「はあ……メイドさん、ですか」


 メイド喫茶のコスプレ以外に、本当にそんな職業が日本に実在しているとは思わなかった。


「九条さつきと申します。以後、お見知りおき下さいませ」


「あ、はい。矢島春奈です。こちらこそ」


 深々と頭を下げるさつきに、春奈もあわてて会釈する。


「紅子様が申し上げたとおり、警察が事故についてどのような見解を出そうと、我々は矢島様に対して一切賠償請求などを申し立てる気はありませんので、ご心配なく。……もちろん、紅子様が悪いとなった場合は、必ず十分な補償をさせていただきます」


「だから、わたしは悪くないっての。まだ信じないの、あんたは」


「今後、何かありましたら、こちらの電話番号へおかけください。うちのものが対応いたしますので」


 さつきが番号の書いたメモを手渡してきた。


「はい。分かりました」


 春奈もスマホの番号をさつきに伝えた。さつきはメモをする素振りも見せず、ただ頷いた。頭で確実に記憶できるという事なのだろう。すべての所作にそつがない女性だった。


「それでは、失礼いたします。お身体、ご自愛下さいませ」


「じゃあね」


 そう言って、紅子とさつきは去っていった。


 春奈は、二人の姿が見えなくなるまで、感謝の念と共に見送っていた。

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