第17話 大炎上①
「それじゃ。気を付けて行ってくるのよ、そよぎ」
紅子はカレラ911の運転席から、窓越しにそよぎに声をかけた。
「うん。お姉ちゃん、送ってくれてありがとう」
そよぎは大きなボストンバッグを手に、にこりと笑った。
「いいってことよ。今朝ちょうど免許が取れて、初ドライブに行くところだったからね」
「あ……今日が運転初めてだったんだ……」
そよぎは若干うつろな目になり、唇を引きつらせた。
今、そよぎが立っているのは、東京羽田空港の旅客ターミナル入り口前である。
彼女は今日から一か月間、交換留学生としてスイスへ出かけるのだ。
「しっかし、小学生にも海外留学なんてもんがあるのね。そよぎ、あんたはまだ子供なんだから、スラムとか行ったら駄目よ」
「スイスにスラムってあるのかなあ」
そよぎは苦笑して首をかしげる。
「むこうでは学校の寮に入るんだって?」
「うん。寮だと、食事作るのも、お部屋の掃除も洗濯も、みんな交替で自分たちでやるんだ」
「ふうん。大変そうね」
紅子もそよぎも、大資産家の令嬢である。普段、身の回りのことは全て使用人が整えてくれるので、家事のたぐいを自分でやることは滅多にない。とはいえ、優等生のそよぎなら、やろうと思えばなんでも器用にこなすのだろう。
「それより、わたしはお姉ちゃんの方が心配だよ。またネットで喧嘩したり、暴れたりしないでね」
「そんなことしないわよ」
「今日も出かける直前まで、掲示板に『殺す』とか『死ね』とか書き込んでたよね?」
「……分かったわよ。自重するわ」
「それと、交通事故にも気を付けてね」
「トラックと正面衝突したって、わたしには傷ひとつ付けられないわよ」
「人を轢かないでね、って意味だよ。お姉ちゃんは免許取り立てなんだから、安全運転しないとだめだよ。特に、お姉ちゃんのポルシェは左ハンドルで運転が難しいんだから……」
「はいはい、分かったって。……そよぎ、そろそろ集合時間じゃないの?」
紅子は、そよぎの注意を打ち切るように、時計へ目をやった。実際、長話をしているうちに結構な時間が経っている。
「あ、そうだね。それじゃあ、行ってきます」
そよぎは手を振って、空港ビルの中へと進んでいった。
「行ってらっしゃーい」
そよぎの姿はすぐ見えなくなった。
これで彼女とは、一か月間お別れというわけだ。
「さ、帰るか」
紅子は運転席の窓を閉め、ポルシェ911カレラを発進させた。
紅子は二週間前に誕生日を迎え、十八歳になっていた。
一般的な女性としては、一つ歳を重ねる誕生日がそろそろ憂鬱になり始める年頃だが、紅子に残り少ない十代を惜しんでため息をつく、などという感傷は存在しない。
紅子にとって、そんなことより遥かに大事なのは、車の免許が取れるようになったことだ。
二週間の教習所通いの末、実技試験は余裕の一発合格、学科試験は幸運にもヤマカンが連続的中し、晴れて免許証を手に入れた。
夏前に購入して、車庫に保管していたポルシェを引っ張り出し、いざ初めてのドライブへ――と意気込んでいたところに、そよぎが今日から海外留学へ出かけると聞いたので、送迎を買って出たのだった。
そよぎを空港まで送り届けたあと、紅子は高速道路に乗り、自宅への帰路についた。
機械音痴の紅子だが、車の運転に関しては別なのか、その走りは極めてスムーズかつ軽快である。
「やっぱいいわねポルシェって。超速いし、ギュイーン、ドガーンってかんじ。やばいわー、これ」
小学生並みの感想を口走りながら、ドライブを満喫する。
首都高を道半ばまで来たあたりで、下道を走ってみたくなった。
あえて自宅近くのインターではなく、三つ手前で降りる。
下道に降りてしばらくは広い国道が続いたが、やがて道は狭くなり、周囲の見通しも悪くなりはじめた。
前方の交差点の信号が赤を表示し、紅子は車を停止した。
なにげなく辺りを見回してみる。
左手に駅前の繁華街、右手には古い住宅街があり、歩道はなく、注意書きの立て看板が多く目につく。『とびだしきんし』『こどもにちゅうい』『事故多発』とあった。
「ふーん。このへんは通学路なのね」
今はもう夕方の六時過ぎで、下校中の小学生の姿は見られないが、あと一、二時間早ければ、はしゃぎまわる子供達で溢れかえっていたのだろう。この見通しの悪い交差点がそうなると、たしかに事故は起こりやすそうだ。
先程そよぎに「気をつけて、安全運転で」と言われた言葉を思い出す。
「はいはい、注意しますよ」
信号が青に変わった。
「はい左見てー、右見てー、もっかい左見てー。はいオッケーね」
あえて大げさに安全確認し、紅子はポルシェを発進させた。
ドンッ――――!
鈍い音と、衝撃が響いた。
「えっ……」
交差点の真ん中に、女性が倒れていた。
「はあ!?」
紅子の車が動き出すと同時に、左の道から女性が飛び出してきて衝突したのだ。
「え、あれ……。跳ねちゃった……?」
慌てて車を降り、倒れた女性に駆け寄る。
「ちょっと、あんた大丈夫!? ねえ!」
だが、女性からの応答はない。ピクリとも動かない。こめかみから血が流れ出ていた。
車のスピードは二十キロも出ていなかったから、死んではいないと思うが、失神していることは間違いない。
救急車を呼ばなければ。そう思ったが、あいにく紅子はスマホを持っていない。
誰か代わりに……と思って周囲を見回すと、近くのコンビニの駐車場から、こちらを見ているマスクをかけた男がいた。スマホを手にしている。
「ねえ、そこのあんた! 救急車呼んでよ!」
だが、男は手に持ったスマホで119番をかけることをせず、紅子にカメラのレンズを向けて突っ立ったままだった。動画を撮っているのだ。
「はあ!? なにやってんのよあんた!」
こんなところを無断で撮影する神経も相当なものだが、緊急事態に救急車を呼びもせず、野次馬根性を優先させる行動に、紅子は憤った。
「おい! ビデオなんか撮ってんじゃないわよ! んなことしてる暇あったら救急車呼んでよ!」
だが、紅子の叫びも、倒れた女性の姿も、男はまるで頓着せずカメラを向け続ける。
「いい加減にしろよ、お前! ぶっ飛ばして――――」
堪りかねた紅子が男へ向かって駆け出すと、男は即座に身を翻し、コンビニの脇の路地裏へ逃げ出した。
最後まで、救急車を呼ぶ素振りは欠片も見せなかった。
「ちっ……なんて奴よ……!」
そのまま追いかけてぶん殴ってやりたかったが、倒れた女性を放置しておくわけにもいかない。
紅子は怒りを押し殺してコンビニへ駆け込み、店員に頼んで119番へ連絡した。
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