第20話 宿命の対決・紅子VSイルカ⑨

 六人全員の尋問が終了した。


 結果は、いまだ犯人不明。


 とはいえ、容疑者たちはひとまず解放され、いつも通りの生活を送ることが許された。いつも通りといっても、紅子は相変わらずリビングルームに陣取り、怒りの視線で通りかかる住人たちに無言のプレッシャーを与え続けていたのだが。


 その夜。


 十一時を過ぎて、全員がそろそろ寝る支度を整え始めた頃に、紅子は再び集合の命令を下した。


「今日一日、あんた達全員に話を聞いたけど、犯人だと確信できる奴はいなかったわ」


 紅子のその言葉で、イルカはとりあえず安堵する。


 しかし次の瞬間、紅子は大声で怒鳴った。


「ただし、潔白を証明できるものも一人もいなかった! 明日も引き続き捜査を行うわ! 繰り返すけど、絶対に犯人は見つけ出してギタギタのボコボコに殴るからね! 重蔵! みい子! あんた達も例外じゃない、年寄りだろうと子どもだろうと、わたしの拳に慈悲はないわ!」


 重蔵は震え、みい子はもう完全に泣き出してしまう。


 だが、それ以上に怯えているのはもちろん、犯人イルカだった。


「いいわね! 覚悟しておきなさい!!!」


 最後にそれだけ言い捨て、紅子はリビングルームを出て行った。



 

「あばばば……どうしてこんなことに……」


 自室に引き上げ、電気を消して布団にもぐり込んだ後も、イルカの震えは止まらなかった。


「だ、大丈夫ですよね。どれだけ調べたところで、証拠なんてないですもん……お嬢様が確認するより早く履歴を消した時点で、もうわたしの逃げ切り勝ちなんですよ。わたしが犯人だなんてわかりっこない……大丈夫……」


 そう自分に言い聞かせても、一向に不安は消えない。


 時刻は午前三時をまわっていた。いくら夜型のイルカといえど、いつもなら就寝している時間なのだが、今日は目がさえて眠れない。


 そのうち、トイレに行きたくなってきた。


 しぶしぶ部屋を出て、暗い廊下を歩きだす。


「はあ……ほんとになんでこんな事に……調子に乗りすぎました。あんなことは、程々にしておくべきでしたね……」


「なにが程々に、なの?」


「ぎょえええええええ!!!」


 不意に声をかけられて、イルカは悲鳴を上げる。


 暗く広い廊下の端、トイレの扉の傍に、紅子が座り込んでいた。


「お、おじょ、お嬢様っ!?」


「程々に……なんて言おうとしたの?」


「あ、い、いえ……夕食のあとお菓子を食べすぎたようで……程々にしておけばよかったなーと……」


 イルカはまた慌てて誤魔化す。


「そう。……トイレ?」


「はあ、そうですけど。お嬢様はこんな時間になぜ廊下に?」


「トイレを見張ってたのよ」


「はい?」


 紅子は意味不明なことを言い出す。


「わたしはさっき、寝る前に全員を集めて犯人は許さないって宣言した。そうすることで犯人にプレッシャーを掛けたかったのよ」


「プレッシャー……ですか?」


「そうよ。ああやって脅しておけば、犯人はきっと震え上がったはず。そうなると、今夜は怯えて眠れないでしょ。とすると、どうなるかしら?」


「どうなるって言われても……いえ、よくわかりませんけど」


「遅くまで眠らず起きている犯人は、深夜にトイレへ行く・・・・・・・・・確率が高くなる・・・・・・・。そう思って、ここでずっと見張ってたのよ。誰か来ないかってね」


「それで……誰か来たんですか」


「誰も来なかったわ。…………あんた以外はね」


 薄暗い闇の中、紅い瞳だけが不気味なほど輝いていた。



 

「うわああああああああああああああああああ!!!」


 逃げるように紅子と別れ、自室へ戻ったイルカは、フローリングの床の上を悶絶しながら転げまわった。


「やばいやばいやばい! お嬢様はもう完全にわたしを疑っている!」


 なぜこれほど、今の紅子は鋭いのか。


 怒りで覚醒してパワーアップならまだわかるが、知力がアップするなど聞いたこともない。


 まさか、まさか、こともあろうに紅子に、自分が知恵比べで後れを取るなど信じられない。


「うぐぐ……お嬢様のくせに……!」


 紅子は自分がいなければ何もできない、大馬鹿者ではなかったのか。これは一体なんなのか。


「…………」


 しかし、よく考えてみれば、そうではないことに気づく。


 紅子は二年前たった一人でアメリカへ渡り、全米チャンピオンになったのだ。それは決して「喧嘩が強いだけのバカ」に成し遂げられる偉業ではない。イルカがいなくても、自分で考える頭はちゃんと持っているのだ。


 ふと窓を見ると、外はもう明るみ始めていた。イルカは、なんともなしに窓際に立ち、カーテンを開けた。


 広い庭の芝生の上で、日課のうさぎ跳びをしている紅子の姿が目に入った。イルカの知る限り、紅子はこの筋トレを六歳の頃から一日たりとも欠かしたことがない。


 

『じゅういち、じゅうに、じゅうさん……』


『べにこー、またキントレやってるの?』


『そうよイルカ、わたしはねーせかいさいきょうになるんだからー。じゅうよん、じゅうご……』


『そんなのより、おうた歌ってあそぼうよ。“ポケットの中にはビスケットがひとつー、ぱちんと叩くとビスケットはふたつー”』


『じゅうろく、じゅうなな……』


 

 もう十年以上前、そんなやりとりをしていた記憶がある。


 あの頃から目標を持ち、努力を重ねていた紅子。ヘラヘラと遊び呆けていたイルカ。


 その本質は大人になっても変わらなかった。


 紅子がアメリカに渡り、頂点を目指して戦っている間、イルカはただ炎城寺邸に残り、自分を連れて行ってくれなかった紅子に不満を抱きながら、それまでと同じように惰性に生きていた。


 “宿命の対決”のアルとオームの関係は、紅子とイルカの関係そのままだ。だからイルカは嫌悪していたのだ。


 そして、その結果。


 いまや二人の間には、お嬢様とメイドという身分の差以上に、人間としての格の差が存在している。


 力が強いとか、頭がいいとか、そんなことは関係ない。


 炎城寺紅子に千堂イルカが勝てるはずがない――。


「…………なーんて、言うと思った?」


 誰も聞く者のいない部屋で、イルカはあえて口に出した。


「なにがチャンピオンよ、なにが格の差よ。そんなもんに『へへえー恐れ入りましたー』なんて、大人しく頭を下げてたまるかっての。わたしは、炎城寺紅子のアンチでもなければ信者でもないのよ……!」


 長いストレートの黒髪をかきあげ、くりくりと動く大きな瞳で、庭で跳ねる金髪の親友の姿を見据える。


「IPアドレスが同じで、消えたタイミングが一致して、履歴が削除されていて、夜中にトイレに行ったから、わたしが犯人だって? ええ、そのとおりよ。けどね、まさかその程度でわたしを追い詰めたと考えているなら、おめでたいにも程があるわよ! 紅子!」


 その口元には、いつものふてぶてしい薄ら笑いが復活していた。


「ここから形勢をひっくり返すなんて、わたしにとっては簡単なことなのよ。見てなさい、あと三時間後には、あなたの脳からわたしへの疑いを完全に晴らしてあげるわ!」


 そう一方的に宣言して、イルカはカーテンを閉める。


 結局一睡もしなかったことも意に介さず、手早くメイド服に着替えて、髪を整えヘアピンを刺す。いつもどおりの格好で、イルカは部屋を出た。


「さあ、ここからはわたしのターン……! 千堂イルカの反撃開始です!」

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