第18話 宿命の対決・紅子VSイルカ⑦

「あ……、あ、危なかった……」



 自室に戻り、ドアを厳重に締めてから、イルカはベッドに倒れ込んだ。


 とんでもない疲労感だった。


「なんてこと……あの糞ブログ……『青子』がお嬢様って……。こんな偶然があるんですか……ほんとに……」


 つい先程まで、自分が散々荒らしていた『“宿命の対決”応援ブログ』が紅子のものだった。


 リアルで同じ屋根の下、隣の部屋にいる人間同士が、ネット上でそれと知らず煽り合っていたなど、皮肉にもほどがある。


「し、しかし……一応、なんとか誤魔化せましたよね、バレてはいないはずです、うん……」


 もしもバレたら。ここ数日間ブログに粘着し、荒らしまくっていた犯人がイルカだと、紅子が知れば……一体どうなるか。


“うぎいいいーーー! 殺す殺す殺すっ! こいつは絶対殺す! 住所突き止めて突撃してボコボコのギタギタにして殴り殺してやるわーーーー!!!”


 紅蓮の瞳を燃やし、世界最強の拳を振り回し、怒り狂う紅子の姿を、今まで何度見てきただろう。もしも紅子が真実を知れば、あの矛先が、殺意が、あろうことか自分に向かうのだ。


 そうなれば破滅だ。


 イルカは、ドアに鍵が閉まっていることを念入りに確かめ、ノートパソコンを開いた。


 すこし躊躇してから『“宿命の対決”応援ブログ』にアクセスしてみると、普通にページに入ることは出来た。


 と、いうことは青子もとい紅子は、イルカのIPすなわち炎城寺邸のIPアドレスを、アクセス禁止指定から解除したということだろう。そうしなければ紅子自身もアクセスできないのだから、当然といえば当然の判断だ。


 もちろん、そうすれば荒らしすなわちイルカの粘着を止めさせることは出来ないのだが……イルカには、もはやそんなことをする気力は欠片も残っていない。公園に地雷が埋まっていると知ったあとでも、遊び続けるバカがいるわけない。


 ブログにアップされた文章を改めて読んでみると、たしかに普段紅子がSNSや掲示板に書き込んでいる文体と同じだった。おまけにブログ主である『青子』のプロフィールには、東京都在住の十七歳とある。気付ける手がかりはあったわけだが……。


「いやいや……それでも、こんな偶然……気付けって方が無理ですって」


 とにかく、こうなった以上はレスバトルだの論破だの、そんなことにこだわっている場合ではない。このブログには金輪際近づかない。そう考えて、イルカは『“宿命の対決”応援ブログ』を閉じ、ブックマークも削除した。


 その後、イルカはおそらく数年ぶりに、パソコンもスマホもタブレットもいじらず、日付が変わる前に就寝した。ただただ、紅子の怒りがこのまま鎮まり、真実が有耶無耶になっていくことを願いながら。


 ――それこそが、イルカの犯した最大最悪のミスであった。



 

 次の日、炎城寺邸に紅子の怒声が響くことはなかった。


 相変わらず憮然とした表情ではあったものの、ここ数日の荒れ模様が嘘なくらい静かに、紅子は過ごしていた。静かすぎるほどだった。


「紅子様のご機嫌もようやく直ったようだな」


 炎城寺家の家令、黒須くろす重蔵じゅうぞうは安堵の息を吐いた。


「九条さんに怒られちゃって、おじょうさまも反省したんですね」


 根岸みい子は単純にそう考えた。


「それにしても、あれだけキレてた理由が、たかがブログを荒らされただけなのかよ」


 蜂谷はじめは呆れていた。


「どうでもいいですよ。お嬢様が大人しくなってくれさえすれば」


 新人メイドの美星みほし菜々香ななかは、うんざりしたように言った。


 ともあれ、彼ら四人は一様に考えていた。もう安心だ、と。


 だが、イルカとさつきだけは、これが嵐の前の静けさと呼ばれる類のものであることを、経験的に感じとっていた。



 

 その嵐は、翌朝にやって来た。


 珍しく早く目覚めたイルカが部屋を出ると、廊下で紅子と顔を合わせた。


「あ、お嬢様。おはよ……」


 挨拶をしようとして、紅子の様子が尋常ではないことに気付いた。


 体温が四十度を超えているのではないかと思えるほどに顔は赤く湯気を立て、全身から殺気を撒き散らし、その対流が煌めく金髪をなびかせているようにすら見える。元々紅い瞳が血走ってさらに紅く、地獄の業火を思わせる勢いで燃え盛っていた。


「お、おじょ、お嬢様……どうしたんですか……」


 ただ怒るだけなら紅子にとって日常茶飯事だが、これはいつもとはわけが違う。


「イルカ」


 奈落の底から響くような声で、紅子が言った。


「今すぐ、家の全員をリビングに集めて」


「え……」


 今はまだ朝の六時だ。


「あの……でも。まだ早朝ですし……寝てる人も……」


「全員叩き起こして。三分以内に来ない奴は殺す」


「は、はい!」


 イルカは命令遂行のため、即座に駆け出した。


「なんのために?」などと聞ける雰囲気ではとてもない。


 ただ、これからとんでもなくヤバい事が起こる、それだけは嫌というほどわかった。


 イルカが必死に走り回った甲斐あって、三分後には炎城寺邸の住人である七人全員がリビングに集っていた。


 紅子とさつき以外の五人はまだ寝間着姿だった。早朝に不意に叩き起こされ、ぶつぶつと不平を漏らしながら集合した彼らだったが、紅子の撒き散らす憎悪の殺気にあてられると、もはや何一つ言葉を発せなくなってしまった。


 紅子の怒りが、もはや完全に臨界点を超えていることは、誰の目にも明らかだったのだ。


「全員集まったわね」


 紅子は目の前の六人を見渡して、静かに言った。


「こんな朝早くに屋敷の全員を集めて、一体どうされたのですか」


 この状況で唯一、平静を保てるさつきが使用人一同を代表して尋ねた。


「わたしのブログの件よ」


 終わったと思っていた件は、終わっていなかった。


「……さつき。このなかで、わたしのブログについて知っているのは何人いるの」


「全員が知ってますよ。一昨日、わたしが伝えましたからね」


「なんて言って伝えたの」


「なんてって……紅子様が“宿命の対決”という漫画の、えっと布教? とかいうものをブログでやってること、それを荒らされてご機嫌が悪かったこと……まあ、一通り全部ですよ」


「そう……」


 紅子はそこで、言葉を切り沈黙した。


「紅子様?」


 一分以上経って、さすがに堪りかねたさつきが話の先を促した。


「……一昨日の夜さつきとイルカと話した後で、わたしは結局、荒らしのアクセス禁止処置を解除したわ。そうしないと自分もアクセスできないんだから、しょうがないもの」


「それで、また荒らされたのですか」


「違うわ」


 紅子は首を振った。


「一昨日の夜も、昨日も、荒らしは現れなかった」


「なら、なぜそんなに怒っているのですか?」


「わからないの!?」


 突如、紅子が叫んだ。


 その怒声に、はじめと菜々香は背を震わせる。みい子はすでに涙目になっていた。


「あれだけ連日、わたしのブログに粘着していた荒らしが、!?」


 イルカはようやく気付いた。紅子がなぜこれほどに怒っているのか。


(あ、あ、あ……。し、しま……)


 そして激しく後悔する。自分がとんでもないミスを犯したことを。


「一昨日の夜、わたしがブログをやっていることを、荒らされてキレていたことを、この家の住人が知った! そして、それと同時に荒らしが消えた! わかるわよね、これがどういうことか!!!」


 紅子の怒鳴り声を、もはやさつきも止めようとしなかった。


「それはつまり……紅子様のブログを荒らしていたのは、ここにいる誰かだと……!?」


「そうよ。そもそも、IPが同じだって事がわかった時に気付くべきだったのよ。荒らしはわたしと同じ場所……つまりこの家のネット回線を使っているってことにね……!」


 イルカがなんとしても有耶無耶にしたかった真実が、白日の下に引きずり出された。


(しまったあああーーー! ああ……わたしとしたことが……なんという不覚……!)


 紅子の怒りを恐れて、荒らし行為を止めてしまったことは取り返しのつかない悪手だった。紅子が恐ろしいなら、なおさら


「IPが同じな上に、このタイミングの一致……これが偶然のはずがないわよね」


 紅子は、リビングルームに集った使用人たちの顔を、一人ずつ睨みつけていく。


「九条さつき! 黒須重蔵! 蜂谷はじめ! 美星菜々香! 根岸みい子! そして千堂イルカ! ……わたしのブログを荒らした犯人は、この中にいる!!!」


 絶叫が、早朝の炎城寺邸に響き渡った。

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