第5話 決意
朦朧とする意識の中、俺の頭の中に、ある光景が映し出された。
そこには、大事そうに赤子を抱き抱える男女の姿があった。
二人とも目元に影のようなものが差しており、顔を見ることは出来なかったが、口元の緩さからとても和やかな様子であることが伺えた。
そんな両親の愛情を一身に受ける赤ん坊は、スヤスヤとおだやかな寝息をたてている。
そんな熟睡する赤ん坊の首筋には、特徴的なネックレスが下げられていた。
全体が金色に煌めいており、形は夜空に輝く星の型をしていた。
そのネックレスが突然キラリと煌めいた途端、俺の意識は浮かび上がるように太陽の元へと引きずり出された。
◆◇◆◇◆
「……う、ん」
瞼の隙間から入り込む光が、俺の脳を休眠状態から叩き起こした。
瞳を開け、体を起こす。
するとそこは、大部屋に所狭しと並べられたベッドの内の一つだった。
他のベッドには、包帯を巻いた怪我人らしき人達が、大勢寝転んでいた。
「ここ、は…」
俺はまだ覚醒しきっていない脳を精一杯働かせ、今がどのような状況か整理を始めた。
(ええと、確かアスト達と遊んでて、それで結局アストに負けて、それから女の子に……!?)
銀髪の少女の事を思い出した途端、頭のなかに電流が走り、全ての惨状が物凄い早さでフラッシュバックした。
「…俺、生きてる?」
俺は自らの体をまさぐるが、ところどころ包帯が巻いてあること以外は特段変わったところは見受けられなかった。
(あれほどの大怪我が、こんな簡単に完治するか?)
疑問が次々生まれてくるが、それに答えるための情報は、俺の頭の中には無いに等しかった。
(まずは、誰かに話を聞きたいな…)
「お、起きたのかネウ!」
俺が、情報を収集するためにベッドをあとにしようとすると、タイミング良く二人の男性に声をかけられた。
「ジル兄にアル兄!無事だったのか。」
「おうよ、そう簡単にくたばるたまじゃねぇよ。俺達も、それにお前もな。」
「……………コクコク。」
2人は、長年連れ添ってきた家族の一員だ。
声をかけてきた方の名前はジル、俺より五歳年上の22歳だ。髪型は薄い緑色で、それらを横から刈り上げている。
後ろでコクコクと頷いている男はアル、年は25歳くらいで、ドがつくほどの不器用でシャイだ。髪型は、頭全部をスキンヘッドに剃っている。
俺は2人を見つけると、思わず服を掴んで声を荒らげてしまう。
「あれからどうなった?みんな無事なの?あのバケモノたちはどこに行ったんだよ!」
「お、落ち着け、順を追って話すから。」
ジルとアルは俺が寝ていたベッドの隅に腰掛けると、静かに事の顛末を語り始めた。
まず、攻撃された防衛軍の基地だが、あの攻撃でそれほど人的被害が出たわけ訳ではないらしく、少しすると軍人たちが救助を始めたらしい。
なんでも、防衛軍特製の防衛装置のおかげで大事には至らなかったとか。
そしてこの場所は、救助された時に怪我していた人たちを処置するための診療所らしい。
入ってきたバケモノたちだが、街で暴れるだけ暴れると、突然一斉に街を去っていったらしい。
今は、バケモノたちが去ってから一時間程が経過したようだ。
なんで街に奴らが入ってきたのかも聞いてみたが、「俺が知るわけが無い」とすげなく言われるだけだった。
当然だろう、俺だってついさっきまでは、あんなバケモノたちが突然襲ってくるなんて思ってもみなかったのだから。
「みんなは無事なのか?」
「ああ、お前以外は大した怪我もしていないよ。」
念の為、家族の事も聞いてみたが、無事なようでなりよりだ。
あとは、あの銀髪の少女の事だ。
「あ、じゃあ俺ちょっと行くとこあるから。」
「おい、ちょっと待て!」
俺は少女の無事を確認しようと、ベッドを降りるが、アルはそんな俺の手を掴むと、突然真面目な表情で俺を見つめてきた。
「ど、どうしたんだよ…。」
俺は、ジルの気迫に気圧され、タジタジの様子で問いかけた。
「言っておくことがあるんだ、落ち着いて聞けよ。」
「う、うん。」
ジルはそう言って念を押してくる。
その様子に変な予感を感じた俺は、恐る恐る頷いた。
その様子に満足したのか、アルは一呼吸置いたあと、それを告げた。
「アストの坊ちゃんが、魔術を発現させた。だから、俺たちとは離れ離れになる。」
「……え?」
ジルが告げた事実。
それは、俺を再び混乱へと突き落とすのには十分だった。
◆◇◆◇◆
時は、数時間前まで遡る───
「父さん!母さん!」
一人の少年が、不安が渦巻く避難所で叫ぶ。
その視線の先には、心配そうな表情をした一家がいた。
「アスト、無事だったのね!」
その少年の姿に、可愛らしい顔をした一人の女性が、不安そうだった顔を歓喜に染めた。
「母さん、父さん、みんな無事だった?」
「それはこっちセリフだぜ、坊ちゃん。坊ちゃんたちが行方不明だってんで、俺たち気が気でなかったんだぜ?」
「ちょっ、止めてよジルさん。」
ジルはそういって、アストの頭を多少強引に撫でる。
だが、アストはそれをあまり嫌がった様子はなく、二人なりのスキンシップであることが見て取れた。
「ところで、ネウはどうした?いっしょじゃないのか?」
そこに、街商人である父親のデイルが問いかける。
すると、アストの顔は一気に曇りを見せた。
「そ、それが、街で女の子にあったんだけど、その子が両親のいるところに一人で走っていっちゃって、ネウはそれを追いかけていっちゃったんだ…。」
アストは、そう気まずそうに答えた。
勝手に判断した事を叱られると思ったから故だった。
「…それじゃあ、ネウは魔獣たちが溢れる街の中を、走り回ってるとでもいうのか…!?」
だが、大人たちはアストを叱るのではなく、顔を青ざめて目を見開いた。
その行動を、アストはよく理解することが出来なかった。
なにしろアストは、勉学では同年代のなかで天才の域にあっても、心は未だ十歳。
物事を深くまで考えるということが、あまり得意ではなかった。
魔獣という存在を、本や噂でしか聞いたことないというのも、原因の1つであっただろう。
「…それは何処だ。」
突然、筋骨隆々の巨漢が、アストの肩を掴み問いかけた。
「え、が、ガルさん?」
「あいつは今どこにいるんだ!」
男の名はガル。無精髭を蓄え、鋭い目付きをしている、デイル一家の縁の下の力持ちと呼べる存在だ。
そんな彼は、アストの肩を揺すりながら、ネルの居場所を問う。
「え、えっと、たぶん商業地区にいるはずですけど…。」
アストがタジタジになりながらそう答えると、ガルと呼ばれた男性は、「そうか」と短く答え、そのまま彼らに背を向けてどこかへ向かい始めた。
「待てガル、どこに行くつもりだ!」
父親が問いかける、それに対しガルは振り返ることなく答えた。
「決まっています、あいつを助けに行きます。」
それだけ答えたガルは、そのまま背を向けどこかへ立ち去ろうとする。
「!?」
だが、突然避難所を大きな衝撃と爆音が襲った。
「な、何が起こった!?」
揺れはすぐに収まったが、その衝撃が起こした事象に、避難所にいる全ての人間たちは驚愕し、混乱し、慟哭した。
「…魔獣たちが、入ってきた!!」
誰かがそう叫ぶ。その通り、彼らの視線の先には、唸る狼のようなバケモノたちが、壁を破壊し避難所へ侵入していた。
「うわぁぁ!!」
「くるなぁ…来るなぁ!!!」
バケモノたちは、その飽くなき空腹を少しでも満たそうと、男女年齢関係なく襲いかかり、貪ろうと牙を剥く。
「い、いやぁぁ!!」
子供を抱えた女性がバケモノに襲われる直前、連続する破裂音と同時にバケモノの体に無数の風穴が空いた。
「動ける者は武器を持て!!自分たちの命くらい、自分で守りやがれ!!」
それは、ガルが持つ大型の自動小銃による攻撃だった。
年代物ではあるが、この世界で広く普及しているそれの殺傷力は敵の命を奪うのには十分である。
ガルに続き、ジルやアル、その他の男たちが次々と銃や武器を持ち、バケモノの元へと向かっていく。
(くそ、このままじゃあネルを探しに行けねぇ。いや、それどころか旦那や姐さんたちも危険に晒しちまう…。)
ガルは唇を噛んだ。
この地獄となった街で、たった10歳の少年が一人で生き残る確率が、どれほど低いか分かっている故の悔しみだった。
だが、その悔やみが、致命的なミスを生む。
「ひぃ!」
「…な!しまった!」
そこに集まった戦力は所詮寄せ集め、戦う術を知っていても、戦う覚悟すら持たないものがほとんどだった。
そんな男のひとりが、魔獣の一体を自分らの家族がいる方へ通してしまったのだ。
「ひ、いやぁぁ!」
(くそ、間に合わない!)
母親がアストを抱きながら悲痛な叫びを放つ。
その場の誰もが死を認めざるを得ない時、アストはふと思った。
(…死んでしまったらもう、元の幸せで楽しい生活には戻れないのかな…。)
未だ幼いアストにとって、1番大切な宝物は、家族だった。
そして、その内の母親が自分を抱きながら生きることを諦めている。
そんな状況に、そしてそれを生み出す醜い存在に、アストは強い怒りを持った
(そんな事は、させない!!)
アストは自分のためではなく他人の為に、その覚悟を決めた。
瞬間、アストの中の〘何か〙が起きた。
アストは、その〘何か〙が起きたことを頭で理解することが出来なかった。
だが、アストの魂は、時間も空間も超えてその〘何か〙を従えた。
◆◇◆◇◆
「そして、その直後に魔術が発動した、と言うことでよろしいでしょうか?」
鋭い目つきに高価そうな軍服を纏った男が、そう問いかける。
それに対し、デイルは無言で頷く。
場所は防衛軍基地の一室、アストはガルやデイルと共に、事情聴取を受けていた。
鋭い目付きをした男の名前はサジラル、この街の軍人たちの重鎮だった。
「その後、その場にいた魔獣たちは全滅、その数分後に魔獣たちが撤退していった。」
(さて、どうするか…。)
サジラルは思案する。
それは主に、今回の騒動において、どう行動することが正解か、という事だった。
(今回の騒動は間違いなく歴史に残る大事件、これを上手く収めれば、俺もまだまだ出世できる…。)
だが、サジラルはそれを幸運だとは思わなかった。
なぜならば、それを幸運と呼ぶには、あまりにも多くの命と財産が失われたからだ。
(…可哀想に。)
サジラルは、ふと少年のことを思い、哀れんだ。
今の人の世には、魔術と呼ばれる特異な技術があった。
魔術は、生まれ持った才能に左右され、その種類や規模も人によって大きく違う。
そして、それを発現させたものは、良くも悪くも世間から注目を浴びる。
さらにこの国では、魔術を発現させた者の全ては、国の管理下に置かれるのだ。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、衣食住や身分も保証されるので、高待遇なくらいだ。
問題は、この少年のあまりの幼さにあった。
(まだ10歳なのに、親元を離れないと行けないとは…。)
サジラルは胸が締め付けられるような思いだった。
自分の娘も、この少年ほどの年齢だったからだ。
だからせめて、この少年のことに関しては、自分のできる最善を尽くそうと、静かに心に決めた。
「それでは、このことを上に報告したいと思います。恐らくですが、1週間もせずに返答があると思いますので、それまでお待ちください。」
「はい。」
サジラルの言葉に、デイルは了承し、その場を後にした。
「ねぇ、父さん。」
「なんだい?」
「僕、一体どうなるのかな…」
避難所に戻る途中、ガルにおんぶされたアストは、デイルに対しそう問いかけた。
デイルは一瞬迷ったような表情を作るが、すぐに持ち直し、口を開いた。
「大丈夫さ、父さんたちがなんとかする。だから、アストはしっかり休みなさい。疲れただろう?」
「…うん。」
デイルは誤魔化した。
幼いアストには、本当のことを伝えたとしても、理解できないだろうと考えたからだった。
アストは渋々といった様子で頷く。
しばらくすると、ガルのおんぶされたままスヤスヤと寝息を立てた。
「…旦那…いやデイル、やはり坊ちゃんは、俺たちと離れ離れに…」
「…恐らく、首都に行くことになるだろうな。」
ガルは、落ち込んだようすで俯いた。
本当ならば、アストには、まだまだ家族といっしょにいて欲しい。
それが、子供のあるべき姿だからだ。
だが、それは不可能な願いだった。
政府の命令に逆らうことなど、出来るわけないのだ。
魔術をもつ人間は魔獣に対抗するための貴重な戦力、それの受け渡しを拒否するということは反逆罪にとられてしまってもしかたがないのだ。
「…ネウを説得するのは、骨が折れそうだな。」
「…そうだな。長丁場の覚悟を決めておかなければ。」
2人はそういいながら、帰路を急いだ。
ガルの背中にいる少年が、目を薄く開けていることに気づかずに。
◆◇◆◇◆
「はあ、はあ…どこいったんだよ、あの子!」
ジルたちから話を聞いた俺は、街の避難所を駆け回っていた。
ジルの話はとても本当とは思えないような内容だった。
避難所にバケモノが入ってきて、それをアストが不思議な力で倒した、なんて信じられるわけが無い。
アストは、虫一匹殺せないような、心の優しい子なのだから。
そこまで考えた俺はいや違う、と思い直す。
なぜならばアストは自分のためではなく、人のため、家族のために行動する時に、尋常ではない力を発揮することがあるからだ。
「…いや、今はアストのことは後だ。なんとかあの子を見つけないと。」
俺は頭を軽く振り、少女を見つけるというひとつの目的に集中する。
かれこれ三十分近く探しているのだが、少女の姿を見つけることは出来なかった。
避難所も、商業地区だけではなく、他の場所も探しているのだが、一向に見つけることが出来ずにいた。
ここまでして見つからないとなると、もしかしたら…
「…まさか、な。」
俺は、脳裏の最悪の妄想を振り切ると、次の策へと思考を切り替える。
だが、ここまで市街にあるほとんどの避難所は回ってきた。
あるとすれば、俺が見落としたか、もしくは…
『─大丈夫、また会える。だから、待っててくれ─』
ふと、数時間前自らが発した言葉がやまびこの様に頭に響いた。
「もう、あそこしかない…。」
そう呟くやいなや、俺は目的地に向かって走り始めた。
走り抜ける最中、俺の目には様々な光景が目に入ってくる。
賑やかな商店街は、凄惨な血の跡があり、所々には未だ犠牲者の遺骸が放置されている。
鼻の奥には、血と臓物が混ざりあったような香りがこびりつき、そう簡単には取れないだろうということが予想できた。
「…………。」
日常が壊れていく音が聞こえる。
自分が何もせずに突っ立っていても、ピシピシと足元がひび割れていく。
俺たちの日常だと思っていたものは、所詮薄い氷の上に出来ている。
ちょっとしたことで容易く崩壊してしまうような脆く儚い幻想だった。
「……っ」
俺は熱くなる瞼を強引に擦ると、少女がいるであろう場所に急ぐ。
あと少し、もうそこの角を曲がれば目的地だ。
俺は言葉に出来ない焦燥を抱えながら、息を荒くして角を曲がる。
「……ぁ?」
俺は呆気ない声を出してしまう。
それも無理はなかった。
そこにあったものは─否、なかったものは…
「…ゴミ箱、ねぇじゃん。」
俺は呟いた。
なぜならば、少女が未だ隠れていると思っていたゴミ箱が、まるで最初からなかったかのように消失していたのだ。
「み、道を間違えたか!?」
俺は道を戻って再び記憶を呼び覚ますが、何度も繰り返してもその場所にはゴミ箱などなかった。
「じゃあ、一体どこに行ったんだ…」
頭を抱える俺は、ふと視線を下に向けた。
そこには、信じられないような、しかし確かな彼女の痕跡があった。
「………ぁ」
ゴミ箱があった場所、そこをよく見ると…
まだ乾き切っていない、どす黒い血溜まりが静かに佇んでいた。
◆◇◆◇◆
その日の夜、避難所の中は物静かだった。
逃げてきた人のほとんどが、走り疲れたり、ショックを受けていたりして、疲労が溜まっていたからだろう。
そんな場所で、俺たちは並んで寝転がっていた。
「…ねぇネウ、起きてる?」
「…ん。」
草木も寝静まる真夜中、突然アストが小声で声をかけてきた。
それに、俺は少々ぶっきらぼうに答える。
「今日はさ、たくさんの人が死んじゃったね。」
「…そうだな。」
街を見てきた限り、商業地区と工業地区の建物は、軒並み破壊されており、犠牲者も数え切れないほどだった。
「……実は、あのね…」
アストは意を決した様に、自らの置かれた状況を話し始めた。
それらは、ジルに聞かされた内容とほとんど同一だったが、俺は口を出すことなく、最後まで黙って聞いた。
それはたぶん、アストな自分自身に言い聞かせる意味もあるのだと思ったから。
「だから、僕あと少ししたら、みんなと離れ離れになっちゃうんだって…」
俺はアストが言いたいことに見当がついていた。
アストの寂しがり屋な性格を考えると、考えるのは容易だった。
「ねぇ、ネウ。もし、もし良かったら、僕と一緒に…」
「アスト、俺はもう自分の将来は決めてるんだ。」
「………………。」
しかし、俺はアストの言葉を遮って、自分の言葉を発した。
暗くてアストの顔を見ることは出来なかったが、悲痛に苦しんでいることは、容易に想像できた。
だから、俺はベッドから立ち上がると、アストには「ついてこい」と囁き、避難所を出た。
深夜を覗く月明かりが、アストの悲観と疑念を表情として写し出す。
それを見て俺は、胸にチクリとトゲが刺さった様な痛みを覚えたが、無視した。
やがて場所は、街の中心にある開けた空き地へと移る。
そこまで来ると俺は、クルリと身を翻すとアストと向き合うように立った。
「さあアスト、鬼ごっこをしよう。」
そして、そういって挑戦的に笑った。
その言葉にアストは困惑したように眉をひそめ、訝しむ様に声あげる。
「え?鬼ごっこ?」
「ああ、そうだ。ルールは簡単、俺が逃げ側でお前は鬼側、時間は20分くらいにしよう。」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ…」
俺が淡々と説明をしてくなか、アストは自体に追いつけないのかオロオロとし出す。
俺はアストのやる気を煽るために、ある一言を発する。
「勝った方は、負けた方の願い事を何でもきく、ってのはどうだ?」
「!…それって、なんでも?」
「ああ、なんでもだ。」
俺の一言に、アストは瞳を輝かせ、ヤル気を漲らせる。
先程言いかけた言葉を、現実にできるのではと考えているのだろう。
「…じゃあ、やる。」
「よし、10秒たったらスタートだ。」
俺は懐に入れておいた時計の針が、頂点に達するのを見届けると、闇夜に向かって走り始めた。
10秒後、俺の後ろからは、必死に追いすがる彼の足音が聞こえてきていた。
だが、それがそれ以上距離を詰めることは出来なかった。
●○●○●
「はぁ、はぁ、はぁ…」
僕は、少ない体力を切り崩しながら、ネウの背中を追いかける。
その背中が、ひどく遠いように感じて、必死にくらいつく。
だが、どれだけ僕が小細工を弄しても彼の背中には届かなかった。
いつも近くにあると思っていたその背中は、本当はひどく遠い場所にあったのだと、やっとそう理解した。
突然、彼が僕に勝負をふっかけて来た時、僕は愚かにも歓喜した。
これで勝てば、僕は一人ぼっちにならずに済む。
そう思って飛びついたが、結果は惨敗。
捕まえるどころか、その背中に手をかけることすらできない始末、これまで勝てたことはたまたまだったということが思い知らされた。
思えば彼は、いつだってどこか余裕があるような表情をしていた。
追いかけっこの時も、かくれんぼの時も、勉強の時だって、ずっと彼は僕のことを達観して、どこか手加減しているように見えた。
(…そんなに僕のことが嫌いなのかな…)
そう思うと、目尻から自然としょっぱい雫が静かに垂れてきた。
僕はそれを必死に拭うと、諦め切れない思いのままに、彼の背中を追いかけた。
「時間切れだな。」
僕が力尽きて倒れた時、彼は懐から時計を取り出して言った。
「…………………うぅぅ…。」
その言葉に僕は、今度こそ泣いた。
悲しかった、苦しかった、辛かった。
自分が一番大切なものを手放さなければならないことが、こんなにつらいなんて、思いもしなかった。
ネウは、そんな僕を横目に、どこか遠くを見ていた。
「なあ、俺の将来の夢、知りたいか?」
アストは突然、突拍子もなくそう言い出した。
「…………………うん。」
僕は泣きながらも、静かに頷いた。
離れ離れになるとしても、彼は大切な友人であり、兄弟だ。知りたくないと言えば嘘になる。
ネウは、少しだけ間を置いて、答えた。
「俺、防衛軍に入る。」
…………え?
驚いた僕は顔を上げると、そこにはイタズラが成功した時のような表情をしたネウが、静かに笑っていた。
●○●○●
俺はそう答えた時、したり顔でアストの方を向いた。
すると予想通り、アストは驚いたような表情で俺を見た。
その表情に笑いが込み上げてくるが、爆笑する訳にもいかないので、我慢する。
「え?でも、さっき、断って…」
「おいおい、俺はさっき『俺の将来は決まってる』って言ったんだぜ?誰も断ってないよ」
そこまで言うとアストは、ハッという表情をして目を見開いた。
防衛軍は政府の管轄下にある。実際にはもっとややこしい上下関係らしいが、そこの所は今はいい。
重要なのは、魔術持ちの中で戦闘向きの能力を持った人材のほとんどが、防衛軍で軍人として所属しているということだ。
つまり、俺が防衛軍に入れさえすれば、アストと一緒にいることも可能なのだ。
俺はアストのぽかんとした表情に耐えきれず、ついに吹き出してしまう。
「プッ…!」
「あ!!笑ったね!君いま笑ったね!!」
「大声を出すな、場所が場所だ。」
俺はプンプンと怒り出すアストを宥めると、周りを見渡してみるように合図した。
アストはそれに気づき、辺りを見渡すと、それが見覚えのないものだということに気づいた。
「ここ、砦の上?」
「…ちょっとした抜け道だよ。」
アストの言葉通り、そこは街を守る壁砦の上だった。
普段は立ち入り禁止で見つかると怒られるのだが、今日は魔獣たちの襲撃があったこともあり、砦の上の見張りなどには手が回っていないのだろう。
アストはいつの間にかこんな所まで、と思っているだろうが、俺は最初からここにくるつもりだった。
本気のアストを誘導するのは少々骨が折れたが、それをする価値はあっただろう。
なぜならば、ここが俺の知る中でもっとも美しい場所だからだ。
「うわぁぁぁ…」
アストから惚けたような声が零れる。
そこは、俺たちが今まで暮らしていた場所とは、まるで別世界であるかのようだった。
暗い夜空に煌めく満点の星空や、果てがないかのように錯覚してしまうほどの荒野、おおよそ人が住むことを許されない極地がそこには広がっていた。
「僕、外の世界初めて見たかも…。」
「俺も最近知ったよ。他の悪ガキたちに教えられてな。」
「そっか…。ねぇネウ、なんで今夜これを見せてくれたの?」
アストの言葉に、俺は少しだけ息を呑んだ。アストにあの子のことを話すことを少しだけ躊躇したからだ。
だが、黙っておくことは出来なかった。
俺は少女のことについて話した。
彼女を連れ出して、ゴミ箱に隠したこと、獅子のバケモノとなぜか結構いい勝負をしたこと…そしてそのゴミ箱が消失していたこと。
途中までは楽しそうに聞いていたアストは、少女の行方が分からないことに危惧を感じたのか静かになった。
「助けられなかったよ、約束、したのにな。」
あの時、俺は訳の分からない涙が溢れだしてきて、その場で一人泣いた。
苦しかった、もう会えない名前も知らない彼女のことを思うと、気が触れそうなほどの後悔が襲いかかってきた。
「俺が防衛軍を目指すのは、お前のためだけじゃない。俺がもう、あんな気持ちをしたくないし、させたくないって思ったからだ。」
頭の中に、走り去る少女の姿がフラッシュバックする。
顔も名前も知らなかった少女。だが、俺は彼女のことを一生忘れることはないと言いきれた。
「そっか…、ボクにはあんまりわかんないけど、ネウは色々考えてたんだね。うん、じゃあ僕も頑張る。」
アストは何かを決意したような顔をすると、顔を上げて夜空を見上げた。
「僕も防衛軍を目指す。そして、魔獣のことで困ってる人たちを助けてあげたい!」
アストの意思の表明に、俺は「そうか」と短く答える。
本音を言えば、一人は少し心細かったのだ。
それに、もしこのままアストが政府に連れていかれれば、もう二度と会うことができないような気もしていた。
だが、これで俺たちの道は、またいつか交わることが確定した。
それが、なんとなく嬉しかったのだ。
「じゃあ、どっちがどれだけ強くなれるか競走だな。」
「うん!今度こそは僕が勝つからね!」
「おう、そうだな。」
そうして、夜は静かに深けていく。
その1ヶ月後、アストは首都へと旅立っていった。
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