第4話 市街崩壊
ここは、俺が元いた場所とは違う。
そう明確に理解したのは、いつだっただろうか。
『約三百年前、世界は魔獣たちにより、混沌へと還された。』
それは、学校の教科書に、壮大な絵画付きで載っていた一文だった。
最初にそれを読んだ時は、なんだそれは、と奇怪な目で見たものだ。
しかし、周囲の子供たちも、大人さえも疑問に思う様子は無かった。
それまで、俺は今いる場所を、外国の紛争地帯か何かだと認識していた。
そこには、危険な武器や道具が不自然なほど多く存在していたからだ。
実際、その解釈は間違いでは無かった。
この街、いや、この世界では、日夜を問わず争いが起こっている。
それは、人同士であったり、もしくはそれ以外であったり、多岐に渡る。
だが、一つだけ、確かな事があった。
この世界は、前の世界より、ずっと死が身近にいるということだ。
◇◆◇◆◇
「ネウ!しっかりしてネウ!」
怒鳴り声にしては優しすぎる声が、俺を現実へと引きずり上げる。
「あ、アスト…。」
「ネウ、大丈夫?早く逃げなきゃ、魔獣たちがきちゃう!」
「あ、ああ。」
混乱していた頭が、その言葉に反応し、すぐさま行動に移そうとする。
が、その行動は、後ろから思い切り引っ張られたことにより、失敗する。
「うおぉ、どうした?」
少女が俺の手を全力で引っ張る。
それに、俺が抗議の視線を送ると、少女はその短い手を精一杯伸ばし、ある方向を指さした。
「あっちは、商業地区!」
その方向には、彼女の親がいるらしい商業地区がある。
だが、それと同時に、魔獣たちが現れた砦に、かなり近い場所でもあった。
「無理だ!魔獣たちがやってくるんだ、いいから早くいくぞ!」
俺は危険な為、すぐさまそれを否定し、少女を連れて逃げようとする。
だが、少女は頑なに首を振り、俺の手を引っ張る。
「おい!あ、待て!」
ついに、少女は俺の手を振りほどき、人の波をかけ分けていってしまった。
「ネウ、どうしよう!あの子行っちゃったよ!!」
アストが叫ぶ。
そのアストの顔は、すぐさま少女の後を追って行くだろうと確信できるほど、決意に満ちていた。
もし、少女をあのまま行かせてしまえば、まず間違いなく、命を落とすことだろう。
アストが追いかけたとしても、無事に追いつけて、それでいて無事にかえってこれる可能性はかなり低い。
今ここで選ぶべきなのは、自分とアストの命だ。
さっき会ったばかりの少女の命など、比べるに値しない、値しないのだ。
だと言うのに…。
「…くそっ。」
俺は小さな声で悪態をついた。
そして、そのまま建物の取っ掛りに手をかけると、家の屋根へと飛び乗った。
「アスト!お前は避難所にいけ!みんなもそこにいるだろ!」
「ぼ、僕も行く!」
「お前に何かあったら、俺がガルたちに殺されるよ!それに、俺は一人の方が動きやすいんだ!」
俺はそういって叫ぶが、アストは渋るような表情をする。
時間がない、早く行かなければ、少女の無惨な死体が見つかるのも時間の問題だろう。
「アスト!あの子の事は任せろ!だから、お前は避難所で自分のやれることをやれ、任せたぞ!」
俺は精一杯、アストの心に響くように叫んだ。
アストは、自分の為に動くより、他人の為に動く方が強いからだ。
身体的にも、精神的な意味でも。
「…分かった。でも、死なないでね!」
アストはしぶしぶといった様子だったが納得し、避難所のある場所へと走っていった。
「…死なねぇよ。そんな簡単に命捨ててたまるかよっての。」
俺は、誰に言うまでもなく、そう呟いた。
それは、自分に言い聞かせるための、戒めそのものだったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
「ああ、もう!あの子、どこいったんだよ!」
俺は、商業地区の建物の上を駆け抜けながら、悪態をついた。
それは、少女を見つけるために、上から見た方が早いと思っての行動だった。
しかし次の瞬間、背筋に張り付く濃密な殺気と、足元に指した大きな影が、それは失敗だったと物語っていた。
「だぁぁぁ!!」
俺は、巨大な鳥型魔獣の鉤爪を、体を投げ出すようにして、間一髪で避ける。
(やっぱり建物の上を行くのは危険か…!)
そう結論付けた俺は、化け物の追撃が来る前に、細い路地に向かって飛び降りた。
思った通り、魔獣な体がデカいので、追いかけてくることは不可能だった。
そして、そこで俺は思いついた。
(あの子も、同じような道を通っているんじゃないか?)
少女のような小さい体であれば、俺のように細い道を行けば、魔獣の脅威を避けながら、避難所にたどり着くのも無理ではない…はず、そこを先回りすれば、追いつけるのではないか。
確証はない、だがやるしかないのは事実だった。
俺は、脳内の地図を頭いっぱいに広げ、少女が通りそうな場所を予測する。
すると、少女が通るであろう道が、一つの巨大な広場に繋がっている事に気がついた。
(たしか、この先にあったはず…。)
間に合え、そう願いながら、俺は通路から広場を覗いた。
「…!!」
俺は、その光景に絶句した。
広場には、そこで団欒を満喫していたであろう人々の無残な亡骸が、そこかしこに散らばっていた。
それら殆どは原型を無くしており、顔が確認できるようなものがあっても、例外なく苦悶な表示をしており、死ぬ間際まで苦しみが襲ってきたであろうことが容易に想像できた。
まだ魔獣たちが襲ってきて時も経っていないというのに、話に聞く魔獣たちの残虐性をヒシヒシと感じだ。
「…あ!」
そして、広場にはあの少女の姿があった。
だが、その目の前には、体長五メートルはあるであろう獰猛な獅子型の化け物が、唾液を垂らしながら唸っていた。
(遅かった…!)
少女は、目の前の獅子に対して、恐怖か混乱か、呆然と立っている。
両者の距離は近い、あのままならば、間違いなく喰われる。
そして、助けに入れば、俺も喰われる。
(…あぁ、怖い)
足が震える、心が軋む。あの場に飛び込むのは勇気ではない、ただの自殺だとすら思えた。
(…なら、それならいっそこのまま…)
背を向けて、何事も無かったかのように去ってしまおうか。
誰も俺を責めはしない。
仕方ない、仕方ない。
そんな甘い誘惑が、頭の隅から漏れ出てくる。
「…いや、責めるか。」
誰も俺を責めなくとも、間違いなく俺は自分を責める。
なんて無能だ、生きる価値などない、そういって毎日のように自分のことを責め、今日のことを後悔するだろう。
そんな確信があった。
そんなのは嫌、ただそれだけだ。
それだけでいい。
何故ならば、これは、今からすることは、誰のためのことでもない。
「自分の、為だから…自分の命を賭ける!」
震える手足に喝を入れ、俺は決意を固めると、広場へと飛び出した。
「…!!」
俺は一気に少女ものへとダッシュ。彼女の腰に腕を掛けると、その勢いのまま路地に逃げ込もうと試みる、が。
「グルォォォ!!」
それを獅子が許すはずがなく、俺たちの進路を塞ごうと立ち塞がる。
「しっかり捕まれ!」
俺は少女に一方的に告げると、そのまま獅子に向かって加速する。
餌が自分から懐に入ってきた、そう思ったであろう獅子は、唾液を垂らしたまま口を大きく開けた。
(出来るか…いや考えるな、やるしかない!)
俺は不安に押しつぶされそうになるのに堪え、獅子へと向かっていく。
「ほら!」
その寸前、俺は懐からひとつの袋を取り出し、獅子の鼻先に投げつけた。
袋は獅子の鼻先に直撃すると、中に詰め込まれた塩胡椒を、対象の眼球と鼻腔にたっぷりと叩きつけた。
「グガァァァァァ!?」
「露店からくすねといて正解だった....!」
自然界では決して味わうことの無い苦痛に悶える獅子を横目に、俺は少女と一緒に路地へと入っていく。
「確か、避難所はこっちだったはず…。」
少女を降ろした俺は、そのまま彼女を連れて路地を走る。
だが…
「…ッ!こっちにも!」
どこに逃げても、その先にはバケモノ、バケモノ、バケモノ。
逃げ場など、とうに皆無だった。
どうにか抜けようにも、少し大きい通路には、バケモノが溢れ、壊し、殺し、喰らっていた。
逃げ道は限られている。
それでも諦めずに走るが、体力は有限、いつかは力尽きてしまう。
「こうなったら…」
俺は、路地の端に目を向けた。
そこには、人一人がようやく入れるほどの大きさのゴミ箱があった。
(ここに入れば、助かるかもしれない。)
ゴミ箱の中は生ゴミ等が入っており、その匂いが存在を隠してくれるのではないか、という発想だが、確率は五分といった感じだった。
問題は…
(俺が入るか、この子が入るか。)
俺は迷っていた。
俺は、自分の命が惜しい。
いまのこの世界での、家族との生活が好きなのだ。
ここにいるのだって、アストを危険なところに向かわせない一心での行動なのだ。
だから、何があっても死にたくはない。
だから、この少女はどこかに追い払って、俺だけ隠れる。
そうだ、それが正解なのだろう。
「……はぁ」
だというのに、少女を持ち上げ、ゴミ箱の中に隠す自らの姿に、俺は深くため息を吐いた。
「いいか、絶対に外に出るなよ。臭いと思うけど、我慢してくれ。俺は怪物をここからがんばって出来るだけ遠ざけるから、じっとしていてろよ。」
俺は早口で一方的に告げた。懇切丁寧に説明している時間も、余裕もなかったからだ。
それだけを告げ、その場を去ろうとしたその時、
俺の手を少女の手が掴んでいた。
「………?」
俺は困惑した。その手には、全くと言っていいほど力が入っておらず、引き止める気などさらさら感じなかったからだ。
「………。」
少女は黙りこんでいた。
自らの行動に呆然とし、困惑しているようだった。
そのような少女の姿に、俺はどことなく親近感を感じた。
何故ならば、自分も昔、このような現象に遭遇したことがあったからだ。
幼い頃、まだ自我が目覚めて間もない頃、俺は目の前にいた黒髪の女性の服を、自覚もなく掴んでしまった。
あとから考えてみれば、あれは孤独の恐怖から来たものだと思えた。
誰もいない暗闇の中での孤独の恐怖は、きっと、死のそれと大きくは変わらないから。
今、この少女を襲っている恐怖は、俺の感じていたそれと同じものなのだろう。
そう思うと、何者かよく分からなかった奇妙な彼女が、普通の女の子のように見えた。
実際は違うのだろう、普通ならば深いフードで顔を隠す必要などないのだから。
だが、俺には彼女は、孤独に震えるただの少女にしか見えなかった。
俺は、昔自分がされたように、優しく少女の頭を撫でた。
「大丈夫、きっとまた会える。だから、待ってて。」
俺はそう言うと、出来るだけ明るく見えるように笑った。
こんな絶望の最中に、笑うなんて出来るわけないと思ったが、そんなことはなかった。
人は、誰かの為ならば、どんな事でも出来る生き物だから。
少女の不安を取り除く為ならば、笑顔でもなんでも、ひねり出せる生き物なのだから。
どうやらそれは、こんな俺でも出来たようだ。
◆◇◆◇◆
俺は、そっと優しく、ゴミ箱の扉を閉めた。
後ろで、建物が壊れる音と、バケモノの咆哮のようなものが聞こえた。
「あまり、時間はないか…。」
俺は苦い顔をしながら、音の方へ走り出した。
(また、バカなことをしてしまった。)
俺は走りながら、自分の計画性の無さに失望した。
いくら精神が成人していても、今の自分の肉体年齢はせいぜい十歳前後、出来ることなど限られている。
ましてや、バケモノ相手に立ち回るなんて、自殺行為だ。
ならば、今からでも近くの避難所に急ぐべきだ。
そう、冷静な頭は告げているのに、俺はバケモノの元へ走る足を止めることは無かった。
(…まぁ、あの子が生き残ったら、俺に恩を返してくれるだろうから、プラスにはなるか。)
半ば強引な理由で強制的に考えを終わらせると、先程の咆哮の主が、俺の視界に現れた。
「グルルルルゥゥ!」
そいつは、ついさっき、俺が撒いた獅子のバケモノだった。
しかし、その瞳は怒りか、それとも塩胡椒が目に染みたのか、烈火に染まっており、まともに事象を認識できているとは思えなかった。
しかし、野性的な勘なのか、奴が目指している方向には、少女が隠れているゴミ箱がある場所があった。
「胡椒の袋は、あと二つ。無駄遣いは出来ない…。」
俺は深呼吸をし、覚悟を決めると、道に躍り出て、バケモノへと叫んだ。
「おい、そこのネコちゃん野郎!ここにそのクリクリ目玉を真っ赤にしてやった犯人がいるぞ?捕まえてみろー!!」
あまり語彙力があるとは言えない罵倒だったが、その嘲笑は野生のプライドを傷つけたらしい。
「グルルォォ!?グロオオォ!!」
俺が先程の餌であると気づいた獅子は、その真っ赤になった眼球を、さらに血走らせ、俺に襲いかかってきた。
俺は、獅子がたどり着く前に、少女がいる所とは別に繋がっている路地へと入った。
路地に入ってしまえば、追いかけてくるのが困難になると考えた作戦だった。
「グルルルルゥォォ!!!」
しかし、獅子はそんなちっぽけな路地など意に介さないかのように、建物を壊しながら突き進んできた。
「うおぉ、マジかよ!」
俺は追いつかれそうになるのを、残りの胡椒袋の一つを投げつけることによって回避する。
「グルルォォォ!?!!」
あまりの苦痛に、獅子の足が止まる。
その隙に、俺は安全圏まで逃げ込む。だが、完全には振り切らない。
まだ、少女が隠れているゴミ箱からそれほど離れていないからだ。
「どこか、人気のない場所まで誘導しないと…」
バケモノは獅子だけではない。
しかし、俺が見た中では、あいつが一番、体がデカかった。
(もし、あいつが怒りの矛先を俺以外に変えたら…)
ここら一帯が崩壊するかもしれない、そうすれば自然と、少女の命も掻き消えるだろう。
「…ああもう、きっついなぁ!!」
俺は何度目か分からない悪態をつくと、ある場所を目指して走りだした。
その後を、激昂したバケモノは追いかけていった。
◆◇◆◇◆
「はぁ…はぁ…つ…いた…!」
俺は、建物の影や路地を使い、獅子のバケモノを翻弄した。
あのバケモノは、それほど頭が良いわけではないらしく、俺でも時間稼ぎくらいはできた。
だが、それにも限界がある。何度も述べるが、俺はまだ十歳だ。いくら鍛えていても、限界は早い。
だが、俺は賭けに勝った。
俺の目の前には、街の郊外にある、丘上の廃墟があった。
大きさは、ちょっとした城ほどはあり、昔は栄えたらしいが、今ではしんみりとした雰囲気がどことなく不気味な印象を与えていた。
「ここなら、人も居ないだろ。」
俺は丘の上から、街を見下ろした。
そこには、建物を突き抜けてたどり着いた獅子のバケモノが、俺を探しているところだった。
やがて獅子は、丘の上にいる俺を見つけると一直線で向かってきた。
「よし、最後の戦いだ。」
俺は、バケモノに追いつかれない内に、抜け道を使い、屋敷の中へと入っていった。
俺が屋敷に忍び込んだ数分後、大きな振動が起り、続いて獣の足音が聞こえてきた。
俺は緊張で高鳴る鼓動を押さえつけ、深く呼吸をする。
(失敗すれば、無事じゃ済まないな。)
俺は何度目か、自分の馬鹿さ加減を嘲笑する。
何故、俺はこんなところで命を張っているのだろうか、そんな疑問がまた頭の端から飛び出てくる。
なぜなのか、それの答えは、そう簡単には出ない。
ここを乗り越えたら、自然と出てくるだろうか…。
(……いま!)
俺は、獅子が想定の位置についた途端、物陰から飛び出した。
「グルルォォォ!!!」
それに獅子は驚いたのか、もしくは獲物を見つけた歓喜か、大きく唸りながら、こちらに襲いかかってきた。
だが、俺は獅子が到達するより早く、屋敷にある物陰に隠れた。
獅子はすぐに物陰の中へ突撃し、屋敷の中を破壊する。
「…グルルゥォ!?」
獅子は困惑したように鳴いた。
破壊した物陰の中に、獲物の姿がなかったからだろう。
あるのは、子供が一人入れるほどの小さな穴だけだった。
「こっちだよ、デカブツ。」
獅子は困惑しただろう。自分の後方から獲物の鳴き声がしたのだ。
何故、自分が見失った方向とは、真逆のところに獲物がいるのか。
だが、獅子にはそれを解明できる頭脳も、解明しようとする意思も持ち合わせていなかった。
「グルルゥァァァ!!」
獅子は自らの飢餓感を満たすために、獲物である俺に向かって飛びかかる。
だが、俺はまた出てきた物陰に隠れると、そこに空いていた子どもがようやく入れるような大きさの穴に入り、窮地を脱した。
(この屋敷には、昔から悪ガキたちがふざけて開けた穴が大量に残っている。それを使えば、頭の悪いバケモノを撒くなんて訳ない…はず!)
建物の中には、部屋と部屋を繋ぐように穴が空いている。
そこを使えば、バケモノに捕まらずに部屋同士を移動できるのだ。
だが、ただ逃げ回るだけでは作戦は成功しない。
バケモノに付かず離れずの距離で追いかけっこを演じなければならないのだ。
その精神的摩耗は計り知れない。
だが、やるしかない。
やらなければ、殺られるだけだ。
死が隣り合わせの追いかけっこを始めてから、数分ほどの時間がたった頃、作戦成功の兆しが見えてきた。
(そろそろ頃合か?)
俺がそう思った時、自体が大きく動いた。
「グルルォォォ!!!!!」
獅子は大きく咆哮すると、痺れを切らしたのか、屋敷をところ構わず破壊し始めた。
「よし、あと少し!」
俺は最後の力を振り絞りながら、獅子の意識を俺以外に向かせないために、眼前をうろつきまわる。
獅子は、なんとしても俺を噛み砕こうと、無我夢中に俺に追いすがる。
そして気づくだろう、屋敷はもう既に崩壊寸前だということに。
(屋敷の柱を中心に追いかけっこしてたんだ、それが壊れれば、建物が崩壊するのも時間の問題!)
俺は限界ギリギリまで獅子を惹き付けると、閉まったままの窓ガラスから、外へと飛び出した。
獅子も外へと出ようとするが、崩壊する建物の瓦礫が、獅子の頭上を直撃する。
「グルルォォォ!!!!!」
獅子は一段と大きな咆哮をこだませると、瓦礫の下へと沈んだ。
「……やったの、か。」
俺は誰に言うまでもなく呟いた。
獅子を足止めするどころか倒すことが出来たのは、ひとえに幸運だった。いくつもの偶然が、味方をしてくれたのだ。
本当はもっと盛大に喜びたかったのだが、事態はまだ終わっていないし、少女も助けていない。
気軽に喜べる状況ではないのだ。
「あともうひと頑張りだ。」
俺は、ゴミ箱の中で待つ少女の元へ急ぐため、走り出そうとした。
その時だった。
一際大きな破壊音が、俺の後ろからしてきた。
俺は咄嗟に振り返ろうとするが、それよりも音の発生源が俺に攻撃を仕掛けてくる方が早かった。
「─────!!!」
特大の衝撃が、俺の幼い体を襲った。
人体から鳴ってはいけないような破壊音がし、遅れて想像を絶するほどの激痛が襲いかかってきた。
「が…あぁ……てぇ…。」
その痛みと衝撃に、俺は音にもならないような悲鳴をあげる。
そんな俺に近づく大きな影、そこには崩壊した屋敷に下敷きになったはずの獅子の化け物が、その表情を憤怒に変え、仁王立ちしていた。
(…まだ、生きていたのか…。)
獅子にとっては、屋敷の崩壊であっても、致命傷にはならなかったようだ。
ただ、無傷ではない。
何故ならば、完全に奇襲を受けたはずの俺が、未だ虫の息ではあるが生存しているからだ。
獅子の元の力ならば、それこそ赤子の手をひねるよりも簡単に殺害できたはずなのに。
だが、そんな情報も、俺にとってなんの慰めにもならなかった。
先程の奇襲が成功しなかったのは、ほんの些細な幸運だろう。
そして、その幸運が2度も続く訳がなかった。
恐らく、次の攻撃で、俺は死ぬ。
軽々しく聞こえかもしれないが、紛れもない事実だった。
(…死、か。)
脳内の時間が異様に引き伸ばされる中、そこで俺が考えていたのは、現状の打破ではなく、他愛もない事だった。
死ぬということがどういうことか。
生命活動の停止、そういう記憶での知識は当然としてある。だが、それはただむかし、テレビの画面から見ただけのハリボテの知識に過ぎない。
怖いのか、悲しいのか、苦しいのか、何も分からない。
自分そのものはどうなるのか、そして逆に【自分以外】のものはどうなるのか。
(…泣くだろうな、絶対。)
アストも、姐さんも、旦那も、ガルも、他のバカな兄貴たちも、俺の為に泣いてくれるだろう。
俺の家族はみんな厳しく、底抜けに優しく、そして俺を愛してくれた。
捨て子の俺を、まがい物の俺を、愛してくれた。
「……ね…るか…。」
俺の中から激情が溢れ出す。
死ねない、死にたくない、生きたい、そんな思いと同じくらい、ただ悲しませたくないという願いも強かった。
そんな事を願う心の為に、崩壊しかけている肉体は応えようと、再び動き出す。
だが、体中の骨が砕け、内臓を壊された、もはや肉の塊としか言いようのない物体になにが出来るだろうか。
せいぜい、試みの失敗を痛みとして知らせる程度だろう。
「…し、ね、るか…。」
だが、俺は諦めない。その声は、先程の呻きよりも、数段強いものだった。
骨が砕けたからなんだ、内臓が死んだからなんだ、そんなことは些細なことだ。
(まだ、俺の心は…魂は折れてない)
だから、足掻く。
あと数秒も残されていない寿命の中で、力の続く限り、足掻き続ける。
そんな思いの中で、ふとある光景が、俺の頭に思い浮かぶ。
燃え盛る炎に包まれた夜街にたなびく、一束の優美な黒髪。
そして、天上から差した一筋の希望の光。
そこには、ただただ綺麗な魂があった。
その瞬間の事を、俺は一生忘れないだろう。
ドクンッ…。
俺の中で、〖何か〗が起きた。
なにが起きたかなど、俺にも分からない。
ただ、〘起きた〙としか形容できなかった。
「──────!!!」
突如、俺の体の〖何か〗が、脈打ち始めた。
まるで、心臓が二つあるような、奇妙な感覚。
そこから流れ出すのは、血液ではない特別な何か。
それらは俺の身体中、血液や細胞に至る全てに巡りわたり、心と体がひとつになった様な気がした。
「…がぁ、ぁぁ。」
辛い、苦しい、それらは変わらない。
だが、多少はマシになった気がしなくもない。
ただ、生きたいという願いを叶えるくらいは、こんな壊れかけの体でもできるだろうか。
分からない、分からないことだらけだが、それでも俺は足掻こう。
みんなで笑える、そんなもうありうることの無いだろう未来を求め、
「…う、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「グオォォォォォ!!!!」
掠れた喉で、俺は迫る獅子の巨体に、心の底から吠えた。
ただ、生きたいという願いを込めて。
瞬間、獅子の頭が吹き飛んだ。
「……はぇ…?」
俺はあまりの出来事に放心した。
俺が何かをした訳では無い。
なにかできるほどの体力も、知力も、特別な何かも持ち合わせていなかったからだ。
ならば、誰がこのような現象を引き起こしたのか。
答えは直ぐにやってきた。
「君!大丈夫か!」
どこかからか声がした。多分、声色からして若い男だろう。
俺は地面にうつ伏せで倒れたまま、声がする方へ顔を向けた。
そこには、四人の男女がいた。
一人一人の顔などは掠れて見えないが、二つだけ、俺の目にハッキリ見える特徴があった。
ひとつは、全員がちょっとした大きさの銃を携帯していること。
そして、もうひとつは、特徴的な服装をしていることだった。
それは、かつて見た服装…そう、まるで軍服のようだった。
(軍服、まさ、か…!)
驚き目を見開く俺の元に、四人は駆け寄ってくる。
「遅くなった、よく頑張ったね!防衛軍が助けに来たぞ!」
若い男は、俺を抱き上げると、そう言い放った。
防衛軍、その言葉を聞いた俺は、都市が崩壊する直前に吹き飛ばされた防衛軍基地を真っ先に思い浮かべた。
なにが起きているのか、分からないことしかない。
だが、伝えなければいけないことがあることは理解していた。
「た、すけて…くだ…さい。」
俺は、俺の体に治療を施そうとする男に、掠れた声で語りかける。
「ああ、待ってろ、すぐに助けてやるからな。」
男は、俺を安心させるためか、満面の笑みでそう答えた。
しかし、俺の目にその笑顔な映らなかった。
「…おんなの子が…いるんです…。」
「……なんだって?」
男の目が驚愕に見開かれる。しかし、俺は気にとめずに続ける。
「下の、広場の…ゴミ箱の中に、一人で隠れてるんです。どうか、俺のことは、いいから…」
自分のことは、自分がよく理解出来る。
さっきの獅子の一撃で、俺の骨という骨は砕け、内臓の殆どが死んでしまったのだろう。
俺が死ぬのは時間の問題だった。
なら、せめてあの子だけは、救ってあげたい。
せめて、助けてあげたい。
約束を破ってしまったお詫びとして。
「だから…どうか…どうか…。」
俺は男の軍服を、今出せる限界の力で掴む。
そうするしか、訴える方法がなかった。
「……ど…う……か…」
だが、少しづつその力も尽きていき、そして、俺の意識はブツリと糸が切れるように消失した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます