第1話 目覚め
まずそれが最初に感じたのは、身体中の異変に対するぼんやりとした不安だった。
(なんだろう...これ)
世界そのものを覆ってしまったかのように光が視覚を覆い尽くし、聴覚は何かに反響しているかのようにぼんやりとして聞こえずらい。
嗅覚も何故か上手く機能せず、辺りで何が起こっているのかすらも、まったく分からない。
それはどこか動かせるところがないかを、身体中を動かして確かめる。
すると、ぎこちない動きで手足が動き始めた。
だが、それはなにか薄い布のようなもので覆われているようで、それほど大きく動くことができない。
...というより、まるで体が自分の体ではないような、奇妙な感覚があった。
自分のイメージしている動きと、体の動きがあっていないような。
(........?)
どうすればいいのか、寝ていればいいのか、そうやって迷っているうちに、段々と眼が光に慣れだして周囲の光景を認識することが出来るようになった。
(………?)
そして、それはあまりにも異様な光景に言葉を失う。
辺り一面には、大きく分けて二種類の〘赤〙が広がっていた。
一つは、赤というより橙に近い色をした赤。
そしてもう一つは、どす黒い色に近いような赤。
それらが視界の至る所に映った。
それらが、燃え盛る灼熱の炎と、飛び散った血液であることを頭で理解するのに、数秒の時間を費やした。
(………)
それは今起きている事の異常さに絶句した。
ただことでは無い異常事態であるこの状況、それを理解することは寝起きの自分の脳では到底不可能な事だった。
(…………)
それの知る常識とはかけ離れた状況に立たされたそれ。
それは未知の状況への不安か、人の根源に根ざす好奇心か、少しでも周りの情報を得るため五感に意識を集中させた。
耳では、パチパチと何かが燃えるような音と、爆発のような体の奥にズシリと響く音を感じた。
鼻では、鼻腔の奥にくる煙のようなものと、何かがジクジクと焦げ腐るような不快匂いを感じた。
触覚では、何か大きな布に包まれた自分が、自分の体躯の何倍ものあろう存在に抱えられ運ばれている振動を感じた。
そして、未だぼんやりとしか見えない視覚では、それを抱えて走る一人の女性の姿があった。
『ハァ、ハァ...』
その女性は、目元が隠れるほど深く帽子を被っていた。
その女性を認識したそれは、女性のその異常な〘大きさ〙に疑問を持った。
が、その違和感の答えにたどり着く前に、事態は動く。
『──────』
(...............?)
女が何かを呟いた。だが、それは彼女が放った言葉の意味を理解することが出来なかった。
その言葉はそれの持つ情報の中にはない、全く聞き覚えのない言語だったからだ。
しかし、それでもその女の言葉の中には、それを優しく包むような温もりがあった。
『.........!!』
女の息が詰まる。
その視線の先はそれには見えないが、女の顔を伺えば、それが良いことでないことは一目瞭然だった。
女は足を止め、辺りを見渡すと、何かを思いついたような顔をしてまた走り始めた。
そこは荷車のような場所だった。
そこに、女は手に抱えたそれをそっと寝かせた。
そうし終えると、女は意を決したかのような表情を見せ、それに背を向けようとした。
『............?』
それは、無意識のうちに女の袖を掴んでいた。
力が全く出ない、目を相変わらず霞んだままだ。今、この手を離せば、再び女に触れることは至難の業だろう。
だから、それは今出せる精一杯の力で、女を引っ張る。
目の前にいるこの人物を行かせてはいけない、そんな気がしたからだった。
その時、それはようやく気づいた。
視界に移る己の手は、それの持つ記憶とはあまりにも齟齬のある見た目をしていた。
未だ神経すら上手く発達していないような細く小さな柔らかい手。
それの持つ情報には、それは赤ん坊の手にもっとも近しいものだった。
『.........ふっ、』
女は少しだけ頬をほころばせると、それの精一杯の力を込めた手を、容易く解いた。
当然だ、神経もろくに発達していない赤ん坊の力などあってないようなもの、むしろ女がそれに気づいたことの方が奇跡に近かった。
女は赤ん坊の手解いた手で、それの頬を優しく大事な宝物に触れるかのように撫でた。
そして、まるで天の上から人を見守る女神のように朗らかな笑顔で一言呟いた。
『ネウ──────』
それには、その言葉になんの意味が込められているのか、理解できなかった。
だが、その言葉は確かにそれの心に、魂にそっと染み込み、奥の深いところに刻み込まれた、そんな感覚が不思議とした。
ゴトン、と大きな振動がした後、赤ん坊の視界が動き始める。
女は今度こそ後ろを向き、その頭を覆っていた帽子を勢いよく脱ぎさった。
そこからは、闇に溶け込むかのような漆黒の長髪が溢れ出していた。
赤い、紅い街並みに溶け込んでいく少しの闇が、それには酷く幻想的で輝かしく見えた。
女は長い髪をたなびかせて赤ん坊の視界の外へと消えていった。
あとには、混乱に満ちた赤ん坊、それだけが残った。
◆◇◆◇◆
「おいおい、これは何の冗談だ…。」
しがない商人のデイルは、目の前の光景に対し目を疑った。
先程、燃え盛る王都から出来るだけの物資を車に乗せ、命からがら逃げだしたばかりだった。
業火の原因は、魔獣たちの対応をめぐって国が二分したことがきっかけだと聞く。
情報が不確かなため詳しいことは不明だが、国の意向を気に食わない一部の権力者がテロを起こしたとデイルは考察している。
そんな命懸けの夜逃げを乗り越えた数時間後、目の前には異様な光景が広がっていた。
まず目に入るのは、額の傷や尖った瞳、大きな体躯やごつい四肢をもつ三人の男だ。
顔を見れば泣き叫ぶ子供さえも黙られされるような強面の男たちは、その凶悪な顔をオロオロと不安げな表情にしてこちらを伺っている。
そして次に目に入るのは、男たちが抱えている小さな命である。
それは赤ん坊だった。
生後まもない、未だ乳飲み子であろうその子供はデイルの家に新しく生まれた長男とは違い、薄く黒い髪が生えていた。
まず最初に疑ったのは、目の前の護衛たちである。
デイルの護衛兼従業員である彼らだが、かれこれ十数年以上連れ添ってきた、ある意味家族のような存在だ。
だがらこそ理解であるが、彼らはドがつくほどの不器用だ。
女性を口説くどころか、世間話すら苦労する始末。
そんな彼らが赤ん坊を抱えている姿には、どことなく違和感を感じてしまっている。
「...一応聞いておくが、隠し子とかではないんだよな?」
「なんてこと聞くんですか」
「違いますぜ!」
「……ち、ちがいます!」
念の為聞いてみたが、やはり誰かの隠し子ではないか。
「なら、いったい誰の...そして、どうすればいいのか。」
私は、突然現れた赤ん坊をどうするのかに頭を悩ませていた。
そんな時だった。
「...う、う、うぇぇえええん!!!」
急に赤ん坊が泣き出してしまったのだ。
「うおお!何だ急に!」
「だ、ダンナ、どうすれば、」
「わ、私に聞くな!」
そもそも、私たちは子育て等はほとんどやったことがない。そんな男たちだけでは役に立たないことは当然だろう。
「何事ですか!?」
「マリア!」
そうしていると、私の妻であるマリアが事に気づいて近寄ってきた。
「そ、その赤ちゃんは!?」
「それが、急に泣き出して困っているんだ。」
「ふふ、任せてください。」
そういうと、マリアは彼らから赤ん坊をひったくり、テキパキと作業し始めた。
ついこの間子供を産んだばかりとは思えないような手際の良さだった。
マリアが作業を終えると、赤ん坊は自分の下半身の不快感が消えたのか、何事もなかったかのように眠り始めた。
「ふう、おしめが汚れていたようですね。で、いったいなにがあったんですか?」
「むぅ、それが実は...」
私と護衛たちは、一緒に事の顛末を語り始めた。
と、いっても、そこまで長い話ではなかった。
王都を出たあと、止まって休憩していると車の二台の方から赤ん坊の泣き声が聞こえたので、いってみるとおくるみに包まれたこの赤子がいたようだ。
「もしかすると、先刻の街での出来事の最中に置いていかれたのか、もしくは捨てられたのですかね。嘆かわしいことです」
「...そうだな」
マリアの言葉に、私は短く答えた。
デイルは頭の隅で予想していた。
あれほど大規模なテロだ、もはや戦争ともいっていい。
そんな混乱に乗じて子供を捨てたとしたら、きっと誰にも気づかれることはないだろう。
なんて非情な奴だ、とはデイルはあまり思わなかった。
なぜならば、商人である己の車にあえて隠してあったということは、私に拾われて子供が生き長らえる可能性が少なからずあったという事だろう。
それは、実の親の最後の願い、愛とも呼べるのではないだろうか。
(しかし、ウチもあまり余裕がある訳ではない。ここは、心苦しいが...)
デイルが非情な決断をしようとした、その時だった。
「じゃあ、この子、うちの子にしちゃいましょうか。」
(...え?)
マリアがそんなことを言い出した。
「ちょうどアストと同じくらいの年齢でしょうし、いいお友達になれそうですね。」
「え、いや、マリア。ウチもそんなに余裕がある訳では...。」
トントン拍子で話を進める妻に対して、私は現実的な問題を上げた。
すると、
「お金がないならあなたのへそくりから出せばいいじゃないですか?」
「な!なぜその事を...」
「ふふ、妻は夫のことならなんでもお見通しなんですよ。」
なんと、デイルがへそくりを隠し持っていることを言い当てられてしまった。
それを言われては、デイルが意見することは出来そうにない。
「姉御、俺も抱いてみてぇです!」
護衛のなかでも若い少年が、赤ん坊を抱いてみたいとせがむ。
(…まぁ、こんなのも悪くはない、かな?)
デイルはそんな光景を見ながら頭のどこかで諦めたふうにそう思うと、これから増えるであろう食い扶持を稼ぐことに頭を働かせるのであった。
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