CASE 2-9


 考えてした行動ではない。

 考える前に、動いていた。

 侑斗は体格差を物ともせず乱暴にランドセル放り出し少年に掴みかかる。

 縺れ合う二人はポールフェンスに接触し、小さくて軽い侑斗の身体は易々とフェンスを乗り越えた。着地に失敗した侑斗は傾斜のついた草の上で足を踏ん張ることが出来ずに調整池にすべるように落ちる。

 そんなに深いわけじゃない。

 岸はすぐそこ。

 手を伸ばせば届くはずだった。

 ぬるりとしたものに足を取られ滑る。

 あっと焦ったその瞬間、手が空に大きく歪な弧を描く。

 汚れた水を飲んだ。

 咽せる焦る咽せる焦る焦る焦る。

 起きあがろうとしても足が水を掻くだけ。

 また焦った途端に上も下も、もう何も分からなくなってしまった。

 ああ苦しい。どうしよう。

 どうしたら良いの? 

 侑斗はもう何も目に入らない。

 頭にあるのはひとつ。

 助けて助けてママ、ママ、ママ。


 学生服の背中越しに水の跳ねる音が聞こえ、水飛沫が見える。

 それでも微動だにしない学生服の少年の背中は、目の前の侑斗を見て何を思うのか。

 

 京子が金切声を上げる。

 

「侑斗!! 侑斗!!!

 誰かッ誰か……。 助けて!! ねぇ! 見てないで何とかしてよ!? ねぇ!! 早く! 何とかしなさいよ!!」

 ……お願いだから。ああ、お願い。


 誰にも届かない叫びは虚しく、空に吸い込まれる。

 永遠にも思えたその時間。

 水を打つ音が止まった。

 侑斗は京子の見ている目の前で、うつ伏せに力尽きている。



 ……。



「なんで? なんであんなの捨てられたからって……なんで戦おうとしたの? 勝てるわけないじゃない。そんなことさえしなきゃ」


 よく似た場面を見たことがある。

 それもつい最近。

 だからイツキは分かるような気がした。

 侑斗が怒りを爆破させたその理由が。

 京子だって、もしかしたらと気づいているのに気づきたくないに違いないその本当のところを、それを言葉にしたら京子はどうなってしまうだろう、と考えると口にするのが憚れた。


は、お前だからだよ」


 感情のない声が降ってくる。

 ああ、このジンは……。


「はぁ?! ……なん……で、すって? なんで携帯あれがわたしなのよ!」


 京子の歪む顔が、その意味を物語る。

 分かっている、と。


「お前が買い与えたから。お前が大事にしろと言ったから。お前の声が聞こえるから。お前に失望されたくないから。お前が好きだから。お前と引き離された気持ちがしたから」


 それを全部 引括ひっくるめて、だから侑斗にとってあれは、お前なんだよ。


「そしてはそのお前を捨てた。いとも簡単に。引き離しただけじゃなく、さらには見殺しにした」


 憎悪が目で見えるものならばきっと、イツキは目を開けていられないだろうと思う。

 そのとき京子から湧き上がる憎悪は、あらゆるものに向けられていた。


 真実を述べるジンに。

 何もしないイツキに。

 侑斗を見殺しにした少年に。

 侑斗を助けられなかった京子自身に。


 否。もっと広く遠く、このに。


 京子は笑う。

 狂ったように笑い出す。


「ねえ、知ってる? アイツはね。故意の殺人だったと言ったの。最初から殺すつもりで後をつけていたって。本当のところは分からない。実際わたしが見たのは、アイツについて行く侑斗だった。それに、本当の何かを知ったところで侑斗が生き返るわけでもない。

 ……だけど……だけど、アイツがそう言ったせいで、今この瞬間、わたしには手が届かない所にいる。

 すぐにでも、わたしがこの手で殺してやりたいのにアイツは……」


 わたしを助けてよ。

 今すぐに、アイツを殺したい。


 空間が歪む。イツキ達はまた、京子の部屋に戻ってきていた。

 

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