CASE 1-end
「お母さん……」
弱くなる光を感じて目を開けた時、そこにあった光景は明日菜にとって信じられないものだった。
明日菜が幼稚園に通っていた頃まで住んでいた懐かしい部屋。その頃の明日菜の記憶はあまりなかったが、それなのに懐かしいと感じるのは、写真や動画に収められたその部屋の思い出の数々を何度となく見返していたからだ。
ああ、この部屋。
あたし、あまり覚えていないけど知ってる。
そこで幼い兄と遊ぶ母親の姿があった。
「明日菜が産まれる前、というよりもこの世に命を授かって少しの頃だな」
静かにジンが言った。
そこには熱心な様子で、色とりどりのブロックを積み重ねてゆくだけの、ただそれだけを飽くことなく続ける楽しそうな幼い兄と、それを見守る母親の愛しい者を見る優しげな眼差し。
そうあの眼差し。
どんな時でも、ふと気づくとあのような目で明日菜を見ていたことを、思い出した。
それを下から覗き込むようにして手を伸ばせば、笑って柔らかに抱きとめて貰えた懐かしい日々。それらの記憶が次からつぎへと溢れ出し、明日菜を苦しくさせる。
お母さん!
叫んでも聞こえないと言うことを忘れて、思わず口を押さえてしまった。
まるでそれに応えるかのように、それまで床に座っていた母親がすっと立ちあがる。
明日菜のすぐ前を通り過ぎた。
その体温が感じられるほど近く。
それなのに……。
見えては、いない。
気づく素振りさえ、ない。
あの眼差しは、明日菜に向けることはないのだ。
……これからも。
台所へ向かうその足取りを一見しただけでは分からないが、どうやら母親は明日菜を
その時、夢中で遊んでいた明日菜の兄が、何かを感じたようにふと顔を上げて……もしかしたら単に母親の姿を探しただけなのかもしれないが……ついっと首を回したそこに、突然現れたこの部屋にいるはずのないイツキ達を見つけて不思議そうな視線を送った。
「……あっあのジンさん? あの子、こっち見てません? あれっ。あはは? ど、どどどどうしましょう」
見えないはずでショ? 何で?
声は聞こえていないみたいだけど、これってマズくないですか?
押し殺した声でジンに助けを求めながら焦るイツキが、手を上げたり下げたりを繰り返している様子を驚いた顔で見ていた明日菜の兄は、何を思ったのか手にしていたブロックをイツキに向かって投げた。
「うわぁっ」
反射的にブロックを受け止めようと手を伸ばしたものの、そのブロックはイツキの身体をすり抜けて壁に当たり硬い音を立てる。
「……見えてます、よ……ね?」
恐る恐るイツキがジンを見て言った。
何を言うのかと思えば、と呆れた顔でジンはイツキを見返す。
「見えてなけりゃ、こんなことしないだろう?」
「だ、だ、だって見えないんでショ?」
「幼いうちは、見える子もいるんだよ」
その間にも、明日菜の兄は身体をすり抜けてゆくブロックを見て不思議そうな顔で投げ続けている。
繰り返し壁に当たる硬い音に気づいた母親が慌てて止めに入った。
「コラっ。投げてはダメよ。壊れちゃうわ」
「ママ? あのね? キャッチってってくれないの」
高い声で舌ったらずな幼い子の話し方をする兄を目の前に、明日菜は懐かしい動画を見ているようだと思う。
お兄ちゃんにも、こんな頃があったんだよね。そう……もちろん、あたしにもあった。
「壁さんは、ブロックをキャッチ出来ないわよ」
散らばるブロックを集めながら、母親はとても可笑しそうに笑った。
「これからお出掛けしなくちゃならないの。病院に、行くのよ」
だから一緒にお片付けしましょうと促されて、明日菜の幼い兄は大人しくブロックを拾い始めたが、またすぐに「あのね? パパお仕事の服ね? 黒いの。人なの。いち、に、いっぱい。おねーちゃんもよ?」と言うのを、母親は困った顔で笑いながら兄の小さな手を引いて体を引き寄せた。
「そうね。パパは、お仕事行ったわね。スーツ着て。あの色は黒じゃなくて紺色って言うのよ」
「
いかにも分かっていますという顔をした母親は、優しく子供の髪を撫でつけながら「うーん。そっか、そうなんだ」なるほどと頷く。それで安心した明日菜の幼い兄は、にっこり笑ってブロックの片付けを再開したのだった。
「……分かってないですよね? いや、自分でも多分、分かんないですけど」
「ふふふ。お母さんって、結構テキトーなんだ」
明日菜は目を細めた。
幼い頃の自分。
こんな昼なかの時分。
お母さんとあたし。
お兄ちゃんとお母さんと、あたし。
「この後だ。明日菜、良いんだな?」
その低い声に、はっとした顔でジンを振り返る。
覚悟を決めて、こくりと頷いた。
すると、軽い眩暈の後。
場面が変わる……。
病院だ。
すぐに分かった。
その診察室の壁側に明日菜たちは並んで立ち、医師と向き合う母親の小さな背中を見ている。
「あの……? どうして? これまで特に問題もなく順調でしたよね?」
泣きそうな声で、母親が医師に問う。
首を小さく横に振る医師は、顔を歪めながら言った。
「聞こえていた赤ちゃんの心音が、止まってしまいました……大変残念ですが」
「私が……私が何かしてしまったんでしょうか? 何がいけなかったのかしら……私」
母親の言葉を遮るように、医師は優しくまた首を横に振る。
「お母さんは、何も悪くありません。自分を責めないでください。不思議かもしれませんが、こういうはよくあるんですよ。悲しいことですが……。
でもね。ひょっとすると産まれてくるということの準備がまだ、出来ていなかった赤ちゃんの意思なのかもしれない、と僕はそう考えたりもするんです。
だから決して、お母さんの所為ではありません。今回は残念でしたが、機会があればいつかまた、お母さんに会いに来てくれる赤ちゃんが現れるかもしれない。
どうか、身体を労って、自分を責めたりしないでください」
医師がそう言い終えると、看護師が現れ「処置しますのでこちらに」と有無を言わさずカーテンの向こうに足元さえ覚束ない母親を連れて行ってしまった。
「あれが、明日菜だ」
医師の机のモニターには、母親の腹部エコーが映し出されている。
黒い画面の中、まもなく八週目に入るところだった、ちいさなまだ胎芽と呼ばれるもの。それが明日菜だった。
「あれが……あたし」
明日菜はじっと自分を見つめる。
これしかなかった。
これで良かった。
……本当に?
だけど。
だけど……。
……さようなら、あたし。
気づくと明日菜たち三人は、イツキが目覚めたあの窓もドアもない眩しいほど真っ白な空間にいた。
「なんで忘れちゃうんですかね」
イツキが言う。
「あ、自分のことじゃないです。って言うか自分だけじゃなくて……幼い頃のこと。
幼くてあどけない頃にあるのは喜び、楽しみ、幸せが殆どで、それらで大きく占められているのに。どうしていつまでも、そのままでいられないんでしょう。
怒りや悲しみを覚えて、悔しさを知って、憎むとは何かで悩むなんで…」
「さあな。必要なんだろう」
取り付く島も無いほどの、ジンの素っ気ない一言は、イツキを考えさせる。
「必要……ですか。それならそれは、どうして必要なんでしょう? そういった苦しみを知ることで初めて何かを『
ねえ、明日菜さんはどう思う?
イツキが振り返ったそこに、明日菜の姿はもう無かった。
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