CASE 1-5
さてと……。
どのくらい時間を遡る?
……。
おやおや?
自分の鼻の先さえも見えない暗闇の中、囁きにも似たそのジンの声だけが谺したと思ったそのとき、遥か向こうに一点の光が見えた。
その小さな光は次第に広がりをみせ、やがて鮮烈になる。
ああ、なんて眩しいのだろう。
それはまるで細長い地下空間の先に現れる眩いばかりの光の塊に似ている。
ぐんぐんと加速して近づいてくるその光の塊に平然としているジンとは対照的に、明日菜とイツキは、それぞれ腕で顔を覆い目を細めた。
『ヒトゴロシ』
コンクリートブロック壁に大きくスプレーで書かれた黒い文字を、たわしで擦る。
きっとまた、引っ越しをしなくてはならないだろう。
あれから何度引っ越しをして、これから何度引っ越しをするのだろうかと明日菜は考えていた。
いつまでも逃げることは出来なかった。
逃げる?
どうして逃げる必要があるのだろう。
あたしは、何も悪くないのに。
……そうかな? そうだよね?
明日菜の隣りで同じようにブロック塀をたわしで擦る父親を、ぼんやりと見る。
「……随分と、消えてきたかな?」
手を休めて、やりかけの仕事を見ている父親にそう尋ねるのはあまりにも酷なような気がした。
引っ越しをしているのは、嫌な思いをする明日菜のためなのだろうか? それとも向けられる周囲の悪意の
だが間違っている、と明日菜は言えなかった。あの時、最初に逃げ出してしまったせいで、これからも逃げ続けることになってしまったのではないのだろうか。
家族で暮らしていたマンションから逃げ出して賃貸のアパートへ引っ越した最初、出来るのなら止めておくべきだったと明日菜は思う。
ひょんなことからあのことがバレて、嫌がらせをされる度に、さらにまた別のアパートへ、また違う場所へと引っ越しを繰り返すたび、住む場所も家もまるで追いやられるように徐々に荒れ果てたところへと移っていった。
隅に、すみにと弾き出されるようにして流れ着いたこの場所は、同じような平屋の借家が何軒か並ぶそのひとつである。どれもみな似たように錆びて朽ちたトタン屋根や、おそらく同じように隙間風や雨漏りの酷いだろうこれらのある一角は散らばるゴミや雑草も酷く常に暗く薄汚れており、ここから日陰を作り出して世に配っているのではないかと明日菜は穿って考えてしまう。
そしてその借家たちを周囲から切り離すようにして取り囲むこれまた薄汚れたブロック塀に書かれた落書きを、こうして父親と二人でたわしで擦るのは、この日が初めてでもなければ終わりでもないと明日菜は知っていた。
「どうだ? たいぶ見えなくなってきただろう? もう少し頑張れば消えるよ」
そう明日菜の方を振り返る父親に、あのことはどんなに頑張ってもこうやって擦っても、消えることはないのだと言ってしまいたかった。
だがそんなことを言われるまでもなく、明日菜の父親だって分かっているはずだ。
「お父さん……また、引っ越すの?」
「そうだなぁ。こうなってしまうと、大家さん次第かな」
幸か不幸か、この借家に暮らすのはこの世に辛うじて貼りつくようにして生きている世捨て人のような年寄りばかりで、普段から滅多に姿を見せることもなければ明日菜と父親にも何の関心も寄越さない。住人は皆、生きているのか死んでいるのかさえも分からないという朽ち果てた日陰のような所でも、考えようによっては住みやすい場所でもあったのだ。
「もっと騒ぎになるまで……そうして大家さんに出て行って欲しいと言われるまでしばらくは、ここに居よう。……ほら、お父さんの会社も明日菜の学校も、ここからならまだ二時間くらいだろ?」
さらに遠くへは、ちょっとな。と少し笑顔を見せた。
明日菜は頷く。
そしてどんなに遠くなったとしても、現在は人に貸してしまっているかつての我が家を頻繁に覗きに行っていることはきっと、この先もずっと黙っているのだろうと、考えていた。
家族で暮らしていた、綺麗で常に光が差しているような明るいマンションの自分の部屋に、どんな人が住んでいるのだろうと見に行ったのは、何度目かの引っ越しが終わってしばらくした頃だ。
最初の引っ越しで、ほとんどの荷物を処分して、どうしても捨てられないものだけを残した。だが残ったそれらも度重なる引っ越しでまた少しずつ手放してしまい、何もかもが
そこは、あたしの家でしょう?
だからこそ、見てみたかったのかもしれない。どんな家族が住んでいるのか、気になって仕方がなかった。
打ちのめされる覚悟を決めて行ったあの夜、実際に見ることが出来たのは遥か頭上に窓の明かりが灯るのを見るくらいで、その人達を目にすることはなかったが、それでも明日菜には充分だった。
かつての我が家の窓辺から漏れる室内の灯りを目にした時、ふらふらと明かりに吸い寄せられる虫のように、足が
あそこに暮らす人達が、幸せならいい。
羨望すら感じなかった。
強いて言うなれば、あるのは祈りに似た何か。
明日菜はその時、聞こえる筈のないそこに住む家族の笑い声を聞いたような気がした。
それからしばらく後に辛いことがある度に「いつかあの家に帰れるさ」と父親が口にするようになったが、それは単なる慰めに過ぎないと明日菜はすでに知っていた。笑顔が溢れていたあの家は、いつか帰る日の為に売らないのではなく、本当のところは多分売れたとしてもローンが残るから貸しているのだと分かっていたし、明日菜と父親の二人では広すぎると思うようになっていた。だが父親の気持ちを考えて明日菜はその度に「そうだね、きっと帰ろう」と応えるのだった。
それからも明日菜は時々、かつての我が家を眺めに行くようになった。
部屋に明かりが灯るのが遅い時は何かあったのではないかとそれが灯るまで心配し、室内の人の気配にほっと胸を撫で下ろす。
そこに自分自身が居るつもりで。幻想に見ていたのだと思う。外から見ているあたしはあたしじゃない。本当はそこに居るはずの自分を外から見ているのだ、という気持ちで。
だから明日菜は願うのだ。
どうかあの人達には……もうひとりのあたしには、何もないありふれた日常が続きますように。
そう。明日菜にもあったのだ。
つまらない日常が。今思えば泣きたくなるほどの愛しくつまらない日々が。
兄が人殺しになって無くしてしまう、あの時まで。
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