CASE 1-4
またいつの間にか場所を移動していると気づいた時には、高い建物の上だった。
ここは……。
……そうだ。
吹き荒ぶ風の唸り声が、耳元で何かを告げるように一際大きく喚く。
煩わしい風だった。
風に
「よくもまあ、こんな所から飛び降りたもんだな。ひょっとして足でも滑ったか?」
宵闇が迫る時間。
眼下に見えるのは、家路を急ぐのだろうか忙しく行き交う小さな人の群れだった。
「……こんなとこ、出入り禁止にしないとマズいですよ。後から真似して飛び降りる人が出てきたら、ちょっとした名所になっちゃいますって!!」
腰を抜かして柵に強く取りすがるイツキは、ジンと明日菜が平然と柵の外側から下を眺めている姿すら恐ろしくて見ていられない。
「何が怖いんだ?」
「そっそれ、聞きます?! 意味なく怖いんですよ!! そんなギリギリ……お願いだから、もっと離れてください。せっ、せめて柵の内側に……」
そう言いながらも、下腹部の奥の方で何かがキュゥと縮み上がる。
「ふっ……その恐怖は快感と紙一重だなぁ?」
「なっッ……!? 何も知らないクセに分かったようなこと言わないで下さい。あ、明日菜さんは怖くないンですか?」
声が裏返るのを恥ずかしいとも思う余裕なんてあるはずもなく、お願いだからお願いしますよと懇願してみるも二人には通じない。
「イツキ。……ほら」
「うぎゃッ、うわうあぁぁぁ!!?
……!!!! ……。……??? !?」
空中へ一歩踏み出したジンが、落ちるわけないからこんなことをするんだと冷静な自分がいるのと同時に、自分に嫌がらせをするためだけに落ちるんではないか、とか、いっそそのまま消えてくれた方が自分にとっては良いのかも、でも消えたら明日菜さんの手助けをするのは自分独りって無理すぎなどと
ですよね。
「明日菜もどうだ?」
「ちょっ、ちょっと飛び降りた人誘ってどうするんですかって? ええッ? あ、明日菜さん?! ぎゃー……阿呆なの?? 何なの?」
落ちない、と分かっていても怖いということ……そこに理屈はないのである。
「わあ……。イツキさんも、どうですか?」
宙に浮いたまま、くるくると嬉しそうにその場で回ってみせる。
何その軽い誘いに乗るわけないdeathよね? あまりの恐怖に若干の壊れ具合を自覚しつつ軌道修正を図る為に、これみよがしな咳払いをしてみる。
「ん"んッん。けっ……ケツコウデス。間に合ってますから。はははは」
目の前の明日菜と、先程目にした彼女の無残な有り様の肉体との乖離の大きさに苦しむのは自分だけらしい。
明日菜のプリーツスカートが風に巻き上げられるのを両手で押さえ、笑顔で空中散歩をするのを見ていて今になってあることに気づく。明日菜は学校の制服を着ているようだ。おそらく中学校の制服であろう。
「……制服」
また何かを思い出しそうになるも、それが何なのか分からないもどかしさに頭を掻きむしる。
「イツキ。……来たぞ」
「や、ちょっと待っでください。いま何か大事なこと思い出しかけて……あ、あれ? 明日菜さんが二人?」
顔を上げたイツキが見たのは、もう一人の明日菜だった。
アイボリー色のマフラーを巻いたその中に顔を埋めるようにした明日菜が、重い足取りでイツキのすぐ脇まで来た。当たり前だが、そのままイツキに気づくこともなく柵から身を乗り出すようにして下を眺めている。
「あたし……良くこうして、ここから下を歩く人を見ていたんです」
空中散歩を止めた明日菜はイツキの側まで戻り、まだ生きている明日菜自身のすぐ隣に並んで立つとその心の内を声に出す。
「……まだ。まだ、ダメ。今日も、こうして見ていよう。ほら下に歩くあの人も、向こうから歩いて来るあの人も、きっと誰にも言えない辛い悩みがある。あたしは、あたしだけじゃない。お父さんもいる。今どちらかが脱落するわけにはいかない。この微妙な均衡を崩す訳にはいかない。だから、まだ。まだあたしは我慢出来る。それをするのはまだ、今じゃない……って自分に言い聞かせているんです」
明日菜は下を行き交う人を眺める自分を、見つめていた。
風の舞う音の、高く低くく唸るようなその慟哭にも似た声だけが聞こえる。
そうやって時間だけが過ぎてゆく。
空は濃い夜に変わり、道行く人が少なくなっても、明日菜はじっとそこに立ち続けていた。
その時。
「……あ、マフラーが」
首に幾重にも巻き付けていた筈のマフラーが、一瞬の強風に煽られて暗い夜空に白く長い線を作った。
下を向いていた明日菜の、驚きはっと顔を上げた表情がどんなものだったのかは、風に嬲られる髪で陰になり見えない。
ただ、懸命にその端を捕まえようと咄嗟に柵の向こうに手を伸ばしマフラーに触れたと思ったその時……しかしながらそれを完全に捕えることは出来なかった。そのマフラーは柔らかく指先を撫でるように掠めたものの風に攫われ、彼方へ飛んでゆく。
その瞬間だった。
夜空に真っ直ぐ伸ばした明日菜のその細い指先に……確かにあった……マフラーを追うのを諦めようと寸の間の躊躇があった……にもかかわらず、その思いを振り切るように明日菜はまるで空を飛べると信じる幼な子の如く思い切り良く闇に身を委ねたのだった。
そう。飛べる筈なんて、ないのに。
「……!? どうして!!」
そう叫んだのは、イツキだった。
「マフラー。……失くすわけには、いかなかったんです。あれ、あたしが小さな頃に死んじゃったお母さんのマフラーなの」
明日菜の、今は幽体となった明日菜の囁くような声にイツキは振り返る。
「そんな……そんなことで……?」
「……そんなことじゃない。あたしには大切で大事なマフラーなの。それに、とっくに限界だったあたしに、お母さんがもういいよって言ってるような気がしたの」
だから、だったらじゃあいっか……って。
「なるほどな。衝動的な自殺か」
ジンがいつの間にかイツキのすぐ隣に立っていた。
「これで明日菜の死んだ時の状況が、分かったわけだ」
「ほとんど事故じゃないですか!?」
「見ていた我々には、そうだな。だが果たして結果だけを受け止める者には、そうかな? 自殺する要因がある。動機があった。だからこそ、明日菜は願うんだろう? 自分の存在を最初からなかったことにしたい、と。この知らせを受けた者が、明日菜の言うところの『均衡』とやらを彼女が崩してしまったが故の最悪の結論を出さないように」
明日菜を見れば、遥か下にある地面に叩きつけられた自身の体を見下ろしている。その唇に微かな笑みを浮かべて。
もう少し時間を遡るぞと、ジンが言った。
「動機は分かった。次は原因だ」
するといきなり目が見えなくなってしまったかのような闇の中に、放り出された。
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