第2話 漂流②

 仲間を失った悲しみに耐えて航海を続けると、今度はアイアイエーの島に到着しました。何と言うか……センスを疑うネーミングですね。いやまぁ現地語なんでしょうけど。



 それはいいとして、オデュッセウス達は二日二晩の間は疲労と悲しみでぐったりとしていましたが、三日目にオデュッセウス自身が探索に乗り出します。


 そして岩山の上にこんもりと茂った森と、一筋の煙が立ち上るのを発見したのです。



 次の朝、仲間を二組に分けて探検隊を組織すると、くじ引きで当たった一隊が泣く泣く出発しました。これまでの経験からすればそうなるでしょうね。隊長はエウリュロコス。オデュッセウスは留守番隊の隊長です。



 エウリュロコスと二十二人の隊員は森の中の空き地に建てられた館を見つけました。館の周りには獰猛な狼や獅子がうろついています。これは館の主、妖女キルケーの魔法で姿を変えられた者達だったのです。なのでエウリュロコス達を見ても襲い掛かる事はなく、むしろ尻尾を振ってじゃれつく程でした。



 この時キルケーは見事な美声で歌いながら機を織っていました。庭先での騒ぎを聞きつけると、扉を開いて彼らを招き入れるのです。



 ああ、なんという事でしょう。こんなの怪しさ満点です。うかうかと誘いに乗る方がどうかしてます。今までの悲惨な旅から何も学んでいないのでしょうか。学んでいないんでしょうね。



 そんな中でただ一人、隊長エウリュロコスだけはこの妖女を怪しんで後に残り、様子を伺っていました。まともな人がいて良かったですね。



 一方で中に入った愚かな連中はキルケーが出すご馳走に愚かにも食らいつき、愚かにもその隙にキルケーの杖でポンと打たれると豚の姿に変わってしまったのです。まったく愚かな連中ですね。



 しかも心は人間のままらしく泣き叫んでいるのです。愚かな連中には相応しい末路とも言えますが、豚小屋にぶち込まれた上に、どんぐりだの山グミだのを餌として与えられているとくれば哀れと思うのが人情です。



 まともなエウリュロコスは愚かな部下達を救うべくオデュッセウスに知らせ指示を仰ぎました。


 オデュッセウスは自ら救出に向かう事にしました。エウリュロコスがいても役に立ちそうもありませんしね。武器は自慢の銀をちりばめた青銅の剣と弓矢。人間相手ならこれで十分ですが、実は相手は太陽神ヘリオスの血を引くニンフ。こんな武装では心細い事この上ありません。



 そこに黄金の杖を持ったヘルメスが現れ力を貸してくれました。キルケーの魔術と仲間たちの有様、そしてキルケーの魔術を打ち破る魔除けの薬草モーリュを与えてくれたのです。



 これで準備万端整いました。もはや負ける方が難しいくらいですね。ヘルメスがキルケーを片付けてくれたら万々歳ですが、それでは英雄譚たり得ませんし、神様が見せ場を奪ってしまっては野暮が過ぎるというものです。



 こうしてオデュッセウスがキルケーの館に着くと館に招き入れられ、黄金の杯で怪しい飲み物を勧めてくるではありませんか。ワンパターンな妖女ですね。オデュッセウスもヘルメスがくれた薬草の効果を疑いもせず、あっさりと杯を干して見せます。


 すかさずキルケーは魔法の杖でオデュッセウスを打ち命じるのです。



「さぁ、豚小屋に行って仲間と一緒に転がっとるがええで!」



 しかし薬草の効果でオデュッセウスはへっちゃらです。間髪入れず剣を抜いて妖女に襲い掛かり組み伏せました。ヘルメスの指図通りです。


 肉弾戦はさっぱりのキルケーはあっさりと負けを認めました。



「この術が効かんとは……。まさかアンタはヘルメスが予言したオデュッセウス? どうか、どうか許してくれへんやろか!」



 女神の命乞いは強力なカードです。色々と望みを叶えてくれそうな気がしますしね。しかしヘルメスはそれもお見通しで、「簡単に気ぃ許したらあかんで」と戒めておいたのです。他の神々と違って気が利きますね。流石はお使い神です。



 オデュッセウスは戒めを守り、キルケーが決して自分達を欺かないと厳しく誓いを立てさせた上で、彼女と共に美しい寝台に上がりました。



 はて、寝台に上がる必要があるのでしょうか? あるんですね、これが。



 オデュッセウスはキルケーに頼み、仲間を元に戻させ、浜辺の仲間たちを呼びに行かせ、沐浴をしてから「女神の優しいもてなし」に疲れた体を休めました。


 はい、これです。この「大人の展開」の為に寝台に上がる必要があったわけですね。



 こうして一年に渡ってキルケーの世話になったオデュッセウス一行は、ようやく故郷に帰る気になりました。仲間たちから「ええ加減に帰ろうや……」とせっつかれたのです。きっとオデュッセウスだけが「いい思い」をしていたのでしょうね。



 その夜、皆が寝静まった頃を見計らって女神の膝にすがって帰郷させてくれるよう頼みます。


 するとキルケーは帰る前にハーデスとペルセポネーの宮殿を訪ねてテーバイの盲目の予言者テイレシアースにこれからの運命を聞いて来るよう勧めました。



 ハーデスの宮殿は当然ながら冥界にあります。どうやって行けというのか? その方法が具体的に書かれていますが、真似をする人が出てはいけませんので書かないでおきます。



 キルケーに教えられた通りに儀式を行い、首尾よく冥界を訪れたオデュッセウス達はめでたくテイレシアースと会う事が出来ました。そして生贄の血を啜らせて予言を貰うのです。



「オデュッセウスはん、ポセイドンはまだあんたを恨んでる。まだまだ苦労するやろな」


「マジか……」


「せや。特にトリーキナエー島は気ぃつけや。あそこで太陽神の牛や羊を傷付けたら悲惨な事になるさかい、絶対にせんとけや。これ破ったら……あんたは屋敷を取り戻すラストバトルを一人でやる事になるで」


「なんかヤバそうやな……」


「なんもかもが終わったら……陸地の奥深くでポセイドンはじめ、諸々の神々に生贄を捧げるんや。そしたら余生は安泰や」



 まるで老後の生活を指南するような予言を聞いたオデュッセウスは、群がって来る亡霊達の中に亡き母や、盟友アキレウスを見つけ彼らに生贄の血を啜らせ、現況を語り、彼らの愚痴を聞くのでした。



 明くる朝、オデュッセウス達が戻るとキルケーは彼らをもてなしながら旅の難所と対策を教えてくれました。



 まずは人面鳥身のセイレーネス。英語読みのセイレーンで有名なアイツです。その歌を聞くと何もかも忘れてしまい、この怪物に近付き命を奪われるというアレです。それゆえ蜜蝋で仲間の耳を塞ぎ、自分の体を帆に縛り付けて通り抜けるよう教えました。



 ああ、コレてっきりオデュッセウスが考えたものと思っていましたがキルケーの智恵だったんですね。ガッカリです。



 次は通りかかる船を打ち壊す動ぎ(ゆるぎ)岩。ゼウスの使いである鳩でさえそこを通るのは難しいとされています。



 そこを過ぎると……って通る為の助言はないんですか? そう、無いんです。「自分で何とかせえや!」という事みたいです。智将なんだから自分で何とかしてもらいましょう。



 で、そこを通過すると今度は高く切り立った絶壁が海峡を作っていて、その片方には六つの首を持ったスキュレー(スキュラ)が潜み、他方には黒い潮を日に二度ずつ呑んでは吐き出す怪物カリュブディスが居ます。こいつが呑み吐きする潮で作られる渦は途轍もなく、ポセイドンでさえ危ないと言われているくらいです。


 なのでスキュレー側を通る事、そうすれば六人の仲間を失うが他の皆は助かると言うのです。非道な策ですが神様のお告げですから仕方ありません。



 これらの難所を過ぎたらトリーキナエー島です。ここには見事な牛や羊がいますがそれらは太陽神のものですから決して屠ってはいけないのです。テイレシアースの予言とダブりますが、大事な事だから二度言ったんでしょうね。



 翌朝、準備が整った一行は出帆し、順調に進むうち遂に最初の難関セイレーネスの島に近付きました。キルケーの送る風はぴたりと止み、海面は滑らかな凪になります。



 事態を悟ったオデュッセウスは仲間の耳を蜜蝋で塞ぎ、自分を帆柱に括りつけさせました。


 すると世にも美しい歌声が聞こえて来るではありませんか。この世の物とは思えないその歌声。芸術を解する智将ならば猶更の事、心を奪われてしまいます。



「うおぉおぉぉぉ! 放せ、放さんかい! ワシは、ワシは絶対にあの歌を聞くんじゃぁぁぁぁぁあぁ!」



 何とかあの歌を聞こう、心ゆくまで堪能しようと悶えるその様はもはや狂気の域。ですが事前に命じていたように仲間たちは戒めをきつくするばかり。こうして無事に通り過ぎたのでした……が、これを遠くから眺めていたセイレーネス達はひどくプライドを傷つけられ、海に身を投げてしまうのです。



 彼女達は元々ペルセポネーに仕える女神たちだったのですが、ペルセポネがハーデスに攫われる際に何もしなかった(出来なかった?)罪で怪鳥にされてしまったのです。そんな彼女達がただの人間に負けたのですから……ショックだったのは分かりますがそこまで……。今でいう豆腐メンタルだったんでしょうね。



 息つく暇もなく、今度は動ぎ(ゆるぎ)岩が迫ってきました。忙しいですね。しかしこの難所は既に述べたように対策を貰っていません。さぁどうする、智将オデュッセウス!



 彼は一同に知らせ、舵取りにしっかりと舵を守ってこの岩に近付かない近付かないように指示し、この難所をやり過ごすのでした……ってオイ! 近付かないだけでいいんですか? それって対策すら必要ないんじゃ……。確かに、いかにも怪しいんですから普通は近付きもしないですよね……。



 ともかく難所を二連続で突破した一行ですが、次のスキュレーについてはオデュッセウスが内緒にしていました。彼は「仲間がビビッてパニクるのを防いだんや」と言ってますが、要するに六人が生贄になるのを黙っていただけです。卑劣というか何というか……確かに算盤を弾けばそうなるんですが、物は言いようですね。



 こうして何も知らされないままの仲間を乗せて船は進み、問題の岩に差し掛かると大きな水飛沫と共に姿を現した怪物・スキュレー!


 スキュレーの姿には諸説ありますが、ここでは神話に基づき上半身は美女、下半身は魚、腰には六頭の犬と十二本の犬の脚という豪華な(?)姿でいこうと思います。



 さて接近してきた船は転回する暇もなく怪物に襲われ、長い六本の頸で六人の仲間を咥えて高々と持ち上げるや貪り食われてしまうのです。ああ、なんと無残な……。


 オデュッセウスは救いを求める声に応える事ができないまま逃げるしかなかったのでした……というか生贄に差し出して逃げたと言っていいでしょう。



 カリュブディスとスキュレーの両方を避ける事が出来ない以上、何方かを選べと言われたら少しでも犠牲が少ない方を選ぶしかありません。さすがにこれはオデュッセウスを責める事は出来ないですね。なんにしても後味の悪い話です。



 こうして仲間を失いながらトリーキナエー島に近付きました。オデュッセウスは上陸はせず通過しようと提案するのですが、エウリュロコスはじめ度に疲れた乗員たちが「せめて一夜だけでも」と懇願するので、島の動物たちを決して獲らないと誓わせて上陸するのです。




 ああ、これが過ちだったとは神ならぬ身では知る由もありません。神に憎まれた人間はとことんまで酷い目に遭うのです。




 その夜から天候は大荒れとなり、船を岸に引き上げて海が静まるのを待つのですが、なんと一カ月にもわたって嵐が吹き荒れるのでした。当然ながら食料も葡萄酒も備蓄には限りがあり、どんどん心許なくなってきます。



 そんなある日、オデュッセウスは一人岩陰で神々にこの嵐を鎮めてくれるよう祈っているうちに眠りこけてしまいます。


 その隙を狙ってエウリュロコスは一同を扇動するのです。



「このまま飢え死にするよりは一思いに海に飲まれる方がええんとちゃうか? もう牛を獲って食おうやないけ!」



 こうして一同は見事な牛を仕留め、飢えを満たすのです。オデュッセウスが目を覚ました時にはもう後の祭り。太陽神ヘリオスは怒り、ゼウスに厳しい処罰を求めたのです。



 その後、六日間嵐は止む事なく吹き荒れ続け、その間も一同は太陽神の牛を食らい続けたのです。罪の上塗りですね。ちなみにこの間オデュッセウスが何を食べていたのかは不明です。自棄になって牛を食べたのか、あくまでも船に積んであった食料を食べたのか……どちらなんでしょうね。



 七日目になり、やっと嵐が止んだので出航するのですが、すぐに黒雲が沸き起こり帆も折れんばかりの強風が吹き荒れ、ゼウスが投げおろした雷霆によって船は木っ端微塵に打ち砕かれてしまいます。



 仲間は海に投げ出され、エウリュロコスが言ったように一息に海に飲みこまれてしまうのでした。本望……というにはあまりにも悲惨ですが、「やるな」と言われた事をわざわざやってしまった報いなんですから仕方ありません。脇役が神様に喧嘩を売ったようなものなんですから諦めてもらうしかありませんね。



 オデュッセウスは砕かれた船の竜骨にしがみつき――センターキールですね。船の真ん中を前から後ろまでウニャ~っと伸びているアレです――海を漂い、強風でカリュブディスの岩まで吹き流しました。



 めっちゃ戻ってますね。いい加減嫌になりそうです。そしてカリュブディスが起こす渦に巻き込まれそうになるも、岩の上から伸びていた無花果の枝にぶら下がってやり過ごします。凄いタフさですね、無花果!



 今度は吐き出された流れに乗った竜骨に再びつかまり難所を脱出します。



 そして平和に(?)漂流し、ニンフのカリュブソーが住むオーギュギュエーの島に辿り着くのでした。

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