第2話



 御飯を食べて店を出ると、藍色の空にはまあるく白い月が輝いている。

「レポートもあるし、帰るか」

 行き来する人々は皆、急がしそうに早足で歩いている。

(こんなにいっぱい人がいるって、やっぱり不思議だな)

 そんなことを思いながら歩いていると、ふと緑をした一角が目についた。

「何だろう、あそこは」

 どうやらお店のようだ。明るいネオンライトで掲げられた看板には『Edenz♣』と洒落た文字が踊っている。

(――お花屋さんだ)

 誘われるように店内に足を踏み入れると、閉店間際なのだろう、人気が無い。並んでいる植物を一つ一つゆっくり見ていると、紫色の小さな花が房のように集まって咲いている、大きな枝ものの植物に目が止まった。くくりつけられた札には『ライラック』と書かれている。

「可愛いなぁ……」

 思わず独り言を言ってしまった自分が可笑しくてつい笑ってしまった。

「何かお探しですか?」

 突然声をかけられて振り向くと、男の人が立っていた。店員さんなのだろう、エプロンを付け、優しそうな笑顔を浮かべている。

(やだ、この人いつからいたの。独り言、聞かれてしまった?)

 恥ずかしさに一気に顔が火照るのを感じ、慌てて下を向いた。ところが彼は気にすることなく近づいてくる。

「ライラックですか。甘くていい香りですよね。僕は毎年この花を  見ると、いよいよ春が来たなーって思うんですよ」

 低くて聞き心地が良いが、どこか子供っぽい話し方だ。

「ただ、持って帰るとすると結構大変かな。こんなに大きいから」

「そう、ですね……。でも、部屋に置けたらいいなぁ。なんだか緑が懐かしくって――」

 首を傾げた彼に、自分が大学進学のため田舎から出て来たばかりだと話した。

「あぁ、そういうことか」

 男の人は合点がいった様子で笑った。

「僕も上京組ですよ。こっちにきてもう二、三年になるのでさすがに慣れましたけれど。気持ち、分かります」

 彼はライラックに手を伸ばして、花が鈴なりになっている小枝を剪定ばさみで切ると差し出した。

「上京祝いってことでサービスです。緑が恋しくなったらいつでも来て下さいね」

 そう言って片目を瞑った。


 店を出たとき、自分が何とも言えない穏やかな気持ちになっていることに気がついた。この春の夜の、暖かい空気のせいなのかしら……。ぼんやりと手の中のライラックを眺めていると、夜気に漂う香りのせいで現実と夢の狭間にいるような気持ちになってくる。店の横に小さな張り紙があることに気付いた。そこには大きな太い赤文字で『アルバイト急募!明るくて真面目な方募集します』と書かれていた。

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