第14話 刃の先

 十三時になって、公民館に四家の父親とその子供が集まった。太一も、事が事だけに謹慎が解かれ、仲間に加わることになった。

 まず、タオは昨夜のことを直接、一同の前で話した。

 その場にいる全員、食い入るような目つきでタオの話しを聞いた。祟りを目の当たりにしているだけに緊迫感があった。

 それから、具体的にどうするかの話し合いが行われたが、島の人に信じてもらうには、各家を回って話すしかないだろう、となった。二十一日の当日、神浦と安室の島民を全員避難場所に集めなければならなかった。

 そこで、地域ごとに担当者が決められた。

 大きく分けて、島の北東に位置する神浦地区、南東の安室地区、そして神浦と安室の真ん中に位置する前平地区だった。

 そこまで決めても、全員の顔からは自信が感じられなかった。

「しかし、ここまでして、本当に信じてもらえるのか。俺たちは笑いものにされて終わるんじゃないだろうか?」

 と刺水主が呟いた。その言葉に、一同は押し黙ったが、勇一郎が、

「たしかに、心もとない方法ではありますが、今はこの方法しかないと思います。みんな祟りを目の当たりにしていないとは言っても、鯨様の鳴き声や、神浦から響き渡った音は聞いてるわけですから、それを説明すれば少しでもわかってもらえると思います。少なくとも、私は鯨女神社の当主として、オチヨ様の予言を広める義務があります」

 と他の者の意志を確かめるように言うと、遠見がそこに加わった。

「僕は参加しますよ。少なくともオチヨ様がいることはわかったんだ、その予言を信じないわけにはいかないでしょう。それに、本当に災害が来るのだとしたら、今何も行動しないで多くの人が死んでしまったら絶対に後悔します。災害が来なかったら来ないで、それはもちろんいいことじゃないですか。喜んで島の笑いものにでもなんでもなりますよ」

「そうだ……、島の人たちを死なせるわけにはいかない。できるだけのことは俺たちでやりましょう。だとしたら早速行動ですね」

 頭衆が最後に言うと、全員の意志は固まった。島民たちの感触や成果は、ライングループで共有することにして、各々はそれぞれの担当地域に分かれた。

 タオは安室を担当することになったけれど、やはりまだ不安は拭えなかった。

(オチヨは、私に島のことを託してくれたんだ。絶対にみんなを避難させなくちゃあ)

 と自分を奮い立たせて、最初のインターフォンを押した。

 

「鯨女神社の管理を担当している羽刺家の者で、羽刺タオと言います。実は、鯨女神社で祀っているオチヨ様から予言がありまして、明後日の正午、大きな地震が起きて島の東側を大きな津波が起きると言われました。なので、明後日の午前中までには避難場所に行っていただけないでしょうか?」

 玄関に出た三十代くらいの女性は怪訝そうな顔をした。見知らぬ人だった。

「オチヨ様ってあの鯨女神社の神様って言われてるのでしょう? 宗教の勧誘だったら願い下げですよ」

 予想もしていない言葉に面食らいながら、

「いえ、違うんです! 宗教の勧誘とかではなくて、私は本当にそのオチヨ様に会っているんです。あの、夜に神浦の方面から夜に聞こえた大きな音とか、空から響くような異様な鳴き声は、あれは全部オチヨ様の祟りだったんですよ。そのオチヨ様が言うのを私聞いたんです」

 女の人はますます眉間にシワを寄せ、深いため息をつくと、

「あなた、まだ高校生くらいでしょう? 若いのに可哀そうね。確かに夜に変な鳴き声とか、大きな音とか聞こえてはいたけど、あれはもうやんだじゃない。祟りだかなんだか知らないけど、そんなものが今どきあるわけがないでしょう? うちのおじいちゃんとかが、聞いたら真に受けてひっくり返っちゃうからやめてもらえますか?」

 と迷惑そうな顔をして、ドアをぴしゃりと閉めてしまった。

 タオは呆然と立ち尽くしてしまった。女の人の最後の顔がずっと頭に残りそうだった。ドアから離れながら、

(どうしよう、どうしよう。全然信じてもらえなかった)

 と口を手で覆ったが、昨夜のオチヨの声を思い出して、次の家へと向かっていった。


 タオが受け持った家は30件ほどだった。回った家を、地図に印をつけていった。

 そもそも玄関に出て来ない人もいれば、出ても邪険な態度で追い返されたりしたが、たまたま老人が出ると、タオの話しを深刻に聞いてくれて、

「それは大変だ! オチヨ様が言うのなら間違いない。家族の者にも伝えます」

 と言ってくれた。

 その時はタオも喜色満面にお礼を伝えたが、怪訝な対応をとる者が大半だった。

(信じてくれない人たちはどうしたらいいんだろう)

 そんなことを考えながら、最後の一軒のインターフォンを押した。港から少し離れた、石段を上がったところにある古民家だった。

「すみません、どなたかいませんか?」

 ドア越しに声をかけると、四十代くらいの女性がドアを開けてくれた。

「どなたですか?」

 と見知らぬ女の子が来たことを不思議に思っているようだった。

 タオが、避難を呼びかけると、女性の顔が明らかに曇った。

(また同じ反応だ)

 と思ったが、タオは扉が閉められるまで食い下がった。

 すると、玄関の奥の廊下から、一人の老人が現れた。

「さっきからどうした? なにごとだ?」

 七十代の男の人が怪訝そうな顔でこちらに向かってきた。タオは、その見覚えのある顔にはっとした。

「指田さん?」

 すると、その老人もタオに気が付いたようだった。

「君はたしか、この前の……羽刺さんの子だろう? いったいどうしたんだ?」

「実は、オチヨ様の予言があって、島のみんなに一刻も早く伝えなければいけないことがあるんです」

 指田は、上がり框に立ちながら、タオの顔を食い入るように見てきた。

「オチヨ様の予言だって? いったいなんだい、それは。よかったら上がりなさい。中で聞こうじゃないか」

 女性の怪しむような目つきを感じながら、タオは家の中へと入っていった。


 案内された場所は指田の書斎だった。緻密な模様が施された絨毯が敷き詰められた部屋の本棚には、的山大島の地理や歴史、産業のことについて書かれた本がびっしりと並んでいた。

「僕はこの島が本当に好きでね。自分でこの島のことについて調べて、ついに本まで書いてしまったんだよ」

 と指田は年季の入った机の前の椅子に座り、タオに語り掛けた。

「え、この本、指田さんが書いたんですか?」

 よくみると、著者名には「指田 始」と書かれている。

「そうなんだ。この島に住みながら、実は本島の大学の講師もやっていてね。この島の研究を続けてきたんだ。それも十年前には引退してしまったけどね。さぁ、そのソファに座ってください。今、お茶を持ってこさせますから」

「いえいえ、いいんです。どちらにせよ長居はできませんのでお構いなく」

 タオは指田の向かいになるようにソファに腰かけた。あまりの座り心地の良さに、そのソファの質の高さを感じた。

「それで、オチヨ様の予言というのはどういうことなんだい?」

「昨夜、私が寝ようと思って部屋を暗くしたらオチヨ様の声が聞こえてきて、三日後の正午、つまり明後日なんですが、大きな地震が起きて、この島の東側を大きな津波が襲うと言うんです」

 指田は、鬼気迫った顔でタオを問い詰めた。

「なんだって? 東側といったら、慶応津波の時と同じ規模じゃないか。それをオチヨ様が予言したのかい?」

 タオは頷いた。

「そうなんです。それで、私に島の人たちを避難させてほしいと言われて。今、私の父と父の漁師仲間と、私の友達とで手分けして一軒一軒を回りながら説明しているのですが、なかなか信じてもらえないんです」

「今の人たちは、オチヨ様信仰というものがないからな。それは私たち高齢者が真剣に伝えてこなかったのが原因だ。だが、言い伝えだと慶応の津波の時に多くの人が救われたのはやはりオチヨ様の予言だったということだ。オチヨ様の母親であるヨネがその予言を聞いたらしい」

「え? 慶応津波の時も、オチヨは予言をしていたんですか?」

 タオは指田の話しに聞き入った。指田は大きく頷いた。

「そう、これはあまり知られていないことなんだが、指田家に伝わることによるとヨネが先導して島民たちを避難させたことが、奇跡的に多くの人を助けたと言い伝えられているんだ。ヨネは信頼ある島民たちと一緒に、津波が来る前日までにやはり一軒一軒回って避難を呼びかけたそうだ。その頃は、オチヨ様信仰が出来始めたばかりだし、今のように祟りなどの目に見えないものも信じてもらいやすかったから避難させることはそこまで難しいことではなかったようだ。だが、肝心のヨネは津波の当日から姿を消してしまった。津波が来る当日になって、オチヨ様の目撃談が高台に逃げ込んでくる人々から数多く聞かれたんだ。ヨネは娘会いたさに、地震が起きた後にも関わらず、神浦の海まで行ってしまったということだった。だから、恐らく津波にさらわれてしまったんじゃないかと言われている」

「そういえば、オチヨ様が、母親が目の前で津波に巻き込まれるのを見た、と言ってたけど、そういうことだったんですね」

 指田は覗き込むようにタオの顔を見た。

「オチヨ様がそんなことを言っていたのか。神格化したとは言え、まだお小さい年齢なのに、さぞかし辛い思いをしただろうなぁ」

 タオは、その話しをしてくれた神浦でのオチヨの顔を思い出しながら、

「そのオチヨ様が、また島民を津波から助けようとしている……指田さん、どうしたらいいですか? 私、このままだとオチヨ様の期待に応えられない」

 と尋ねると指田は腕を組んで、考え込んでから答えた。

「もとはと言えば、これはオチヨ様信仰を若い人たちに引き継げなかった僕たち年寄りの責任だ。オチヨ様信仰の信者たちにも呼びかけて一緒に手伝ってもらおう」

「でも、一体どうやって。今日の感覚だと、若い人たちは呼びかけをしても全然信じてくれませんでした」

「そこなんだ。信じてもらえないのだったら、避難だと真正直に言わないで、別の方法で人を集めたらいいと思うんだ。今年は追善踊りのお祭りが中止になっただろう? それをそれぞれの避難場所で開催したらどうだろう」

 タオは目を丸くさせた。

「お祭りと称して、人たちをその場に集めるということですね! ……でも、津波が来るのは明後日ですよ? 準備もそうだけど、そんなに人を集められるでしょうか?」

 すると指田は得意げに答えた。

「そこは僕たちに任せて欲しい。みんなもう現役を退いてはいるが、人脈も経験も豊富だ。的屋だってなんだってやるさ。それにこの島は、若い人より年寄りの方が多いんだ。みんなでやればきっとうまくいくさ。会場に集まった人は外に出さないようにすればいいんだ」

 タオは、指田の妙案に舌を巻く思いだった。

「ありがとうございます、よろしくお願いします! 避難を呼びかけてる他の人たちにも伝えますね!」

 それから、指田の家を後にすると、ライングループに指田のアイディアを書き込んだ。すると、遠見が反応を見せた。

――確かに、今日やってみて感じたが、案の定というか、それ以上に信じてもらえなかった。だけど、その方法だったら多くの人を自然に集めることができるし、いいかもしれない。

――そうなんです、安室に住む指田という高齢の男性が発案してくれました。

――指田さんか……昔、この島の村長を長年やってくれた方だよ。もう退いてから長いが、人望がある人だからきっと成功するよ。僕たちも協力して、必ず避難を成功させよう。

 遠見のその書き込みを見て、西光寺で見た指田に対するオチヨ教の信者の態度を思い出した。どこか一目置いているようなそんな態度だった。

 タオは、指田のことを強力な味方だと知り、心強く思った。


 翌日、避難を呼びかけたメンバーは、早朝から西光寺に集まり、オチヨ様信仰の信者たちと顔を合わせた。堂内はたくさんの老人ですし詰め状態になり、外で話を聞く者も大勢いる程だった。指田が前に立ち、今回の経緯と、これからの計画について話した。老人たちの中には計画を聞きながら興奮して震えている者さえいた。

「準備する時間は今日しかない。チラシを作って誘致する組と、会場設営の二つに分かれよう。オチヨ様は私たち島民が助かることを望まれている。だからこそ、必ずや明日のお祭りを成功させて、人々をうまく誘致しなければならない」

 老人たちは指田の言葉に奮い立っているように見えた。一人の老人が急に立ち上がり、

「俺たちでこの島の人間を救うんだ! オチヨ様の予言を無駄にするんじゃねぇぞ!」

 と意気軒高に叫ぶと、他の老人たちも続けざまに立ち上がって雄叫びを上げた。

 発起人として、指田の横でその様子を見ていたタオは、安心感もありながら、どこかその光景が異様なものに見えて仕方がなかった。

 

 早速、祭りの開催を知らせるためのチラシが作成された。手書きの、簡単なチラシだった。


「緊急開催! 追善祭り!


 夏休みもあとわずか、子供たちに想い出を残すために中止になってしまった

追善踊りのお祭りを開催します。


日時:8月21日 十一時から開催

会場:鯨女神社境内

   猶興高校校庭

   公民館広場

※会場は三会場にて同時開催します。お近くの会場にお集まりください。


なお、いずれの会場でも追善踊りは十一時半から開始になります。

ぜひともお集まりください。

その他、フリーマーケット、魚のつかみ取り、ビンゴ大会などお楽しみイベント多数!

ぜひご家族、お友達お誘いの上、ご来場ください!」


 島に唯一ある印刷工場がそれを大量に印刷すると、それを信者たちがそれぞれの担当の地域の家に、住民に声をかけながらチラシを配布した。今年は外出ができず娯楽が少なかったので、楽しみにしている、という声が多く聞かれた。

三つの会場には地震を鑑みてテントなどの建物は設営しなかった。逆に、本当は追善踊りの舞台として建てていたステージを解体すると、代わりに大量のビニールプールを用意した。そこに、漁師たちが当日釣った魚を放流して、子供たちに魚のつかみ取りをやらせるつもりだった。子供が来るのなら、親も一緒に来るに違いないという算段だった。

追善踊りをお祭りで踊るはずだった子供たちが公民館に集められ、急遽、明日の本番に向けて練習が開始された。その指導にも鯨女教の信者たちがあたった。


お祭りの準備が急ピッチで進められる中、タオだけは祭りの準備の喧騒から離れていた。諾人のことが気がかりだった。

(明日、津波が来ることを諾人くんに知らせないと……知らないでいたら津波に巻き込まれちゃうかも。それにもし諾人くんが櫛を持っているとしたら、その櫛ももう二度と見つからなくなっちゃう)

 指田に事情を話し、タオだけは諾人の捜索を許されていた。

 諾人がどこにいるのか考えた。そういえば、タオが捜索したところは家の近くの安室方面だけだった、と思い直して、

(そういえば、シロツメグサの群生地に行った時に、私が諾人くんに島の人たちもこの場所はあまり知らないかも、と言ったような気がする。だとしたら、まずはそこから捜してみよう)

 そう考えをまとめるとバイクでシロツメグサの群生地に向かった。

 原っぱへと通じる森の中を、諾人を探しながら歩いたが、見つけ出すことができなかった。しかし、十分ほど探していると後ろから、

「タオ」

 と声が聞こえた。振り返ると、薄汚れた顔の諾人が立っていた。

「諾人くん!」

 やっと見つけられた嬉しさにタオが近づこうとすると、

「近づくな!」

 と諾人は叫び、手にしていた包丁を突き付けてきた。タオは肝を潰しながらも、

「その包丁どうしたの? それに、ひどく汚れてるし……」

 と冷静を装って諾人に話しかけたが、諾人があまりにも鬼気迫った顔を見て、足がすくんでしまっているのを自分でも感じていた。

「民家に忍び込んで、盗んだんだ。この辺りは危機感もないんだな、鍵もかかってなかった」

 よく見ると、その刃先が小刻みに震えていた。

「ずっと探してたんだよ、漁師さんたちと一緒に。ね、私の家に戻ろう。お母さんの元には戻らなくていいから」

 諾人はかぶりを振って、

「戻らない」

 と突き放すように答えた。

「どうして? ものもあまり食べてないんでしょう? 一緒にまたご飯食べようよ?」

 諾人は眼光をますます鋭くさせ、

「母さんの元にいるより食べてるよ。森に入れば果物はあるし、川に行けば水もある。それも自由に食べたり飲んだりできるんだ。誰かに馬鹿にされたり、拒否されたり、そこにいることを否定されることもないし、こっちの生活の方がよっぽどいい。それに、気に食わないんだよ! そんな救いを施すようなことを言って、どうせタオだって俺のこと馬鹿にしてるんだろ! だからそんなことを言うんだろ? 大人はいつも子供を救わなきゃとかそれっぽいこと言ってるけど、支配して、いい気になってるだけじゃないか」

「そんな……」

 諾人の激しい口調に、タオは思わず言葉を失った。

「それに、もういいんだ……俺、母さんのこと殺すことにしたんだ」

「殺す? 何を言っているの? そんなことダメに決まってるじゃない!」

 その衝撃的な予告に、タオも思わず声を荒らげた。

「どうして? 母さんは俺を殺そうとしたよ?」

 包丁の刃先の震えはさらに増したように見えた。

「どうしてって? 人が人を殺すなんてしてはいけないことなの。諾人くん、捕まることになっちゃうのよ? 犯罪なのよ?」

「いいんだ、母さんを殺して俺も死ぬんだ……タオの家に保護されている間にずっと考えてたんだ。母さんが俺を殺そうとするなら、先に俺が母さんを殺すって。それで、俺も死ぬんだ……タオにはやっぱり分かってもらえないのか。オチヨ様ならわかってくれるはずなのに、その姿を探しても俺の前には一向に姿を現してくれない。俺はこの世界にいてはいけない人間だからきっと神様にも見捨てられたんだよ」

 それらの痛々しい言葉を聞きながら、タオは胸を震わせていた。人間の形をした絶望を目の前にしているようだった。喉を詰まらせながら、タオは答えた。

「どうして、そんなことを言うの? せっかく生き延びたのに、どうして死んじゃうの? それに、オチヨだってきっと反対するよ。オチヨがね、一昨日の夜に私の前に現れて予言を残していったの。明日の正午、津波が来るって。だから、この島の人たちを避難させてあげてくれって。そんなこと言う子が、人を殺すことに賛同なんてするはずがない……ねぇ、諾人くん、私と一緒に避難しようよ……こんなところにいたら危険だよ?」

 すると、刃先の震えは止まり、諾人は目を見開きながら、包丁を持った手をだらんと下げた。

「……明日、津波が来るって? 嘘だ。さっき、明日祭りが行われるって張り出されたチラシを観たぞ」

「本当だよ! でも、津波が来るって島の人たちに伝えても信じてくれる人が少ないから、わざと避難場所で祭りを行って人を呼び出すつもりなの。今、オチヨの予言を信じてくれた人たちで準備しているとこ。鯨女神社なら諾人くんもわかるでしょう? そこに私も避難するから、諾人くんも一緒においでよ」

 諾人は呆然自失としたかと思うと、視線をタオから外し、地面を見下ろし、

「ついに明日……お願いが通じたんだ。ついに明日なにもかもが壊れるんだ」

 そう呟くと、ズボンのポケットから、鯨の骨の櫛を取り出した。

「あっ」とタオは思わず、声を漏らした。

「その櫛、やっぱり諾人くんが持ってたんだ。それは、オチヨの大切な櫛だから返してあげて! その櫛がないから、あの子、今もまだ独りぼっちでこの島にいるの! それは私たちオチヨ以外の人間が持っていていいものではないのよ!」

「ふざけるな!」と諾人は叫んだ。

「この櫛が鯨女神社にないから祟りで津波が起きるんだ! いよいよ明日それが起きるっていうのに、返すわけないだろう!」

 感情のままにタオが力づくで奪い返そうと諾人に近付くと、諾人は包丁を振りかざした。だが、間一髪のところでタオにケガはなかった。諾人はタオを睨みつけながら、息を荒くさせていた。

(この子、本当に私を殺す気だ)

 そう感じると、戸惑いが生じ再び足がすくんでしまった。そのすきに、諾人は振り返ると、そこから逃げ去ってしまった。

「待って、諾人くん!」

 タオはあらん限りの声で叫んだが、影はみるみるうちに小さくなり、ついには見失ってしまった。

 一人取り残されたタオは、薄暗い木々の中で、感情とは裏腹の青葉の臭いを感じながら、自分の無力さに震えていた。


 しかし、周りの人間は避難が目的の祭りの準備をするのに忙しいから、タオはどうすべきか一人で考えた。

(諾人くんのお母さんに今のことを伝えなきゃ。あのままだと、本当に諾人くん、お母さんのこと殺しちゃうかもしれない)

 諾人が殺しにあの部屋に行くのなら、部屋にいなければ諾人も母親も助かるのではないか、というのがタオの考えだった。

 さっそく、バイクにまたがり諾人の母親の住むアパートの一室に向かうと、そのインターフォンを押した。

 しばらくして、ドア越しに、

「誰だい?」

 と声が聞こえた。母親の声だった。

「あの、羽刺です。お話しがあって来ました」

「羽刺だって? あぁ、あの家の子かい。こっちは用がないんだ、帰っておくれ」

 と邪険にされたが、タオは食い下がった。

「あの、お母さん、さっき諾人くんに会いました。伝えていいのかどうか、あなたを殺すと言っていました。包丁も持っていましたし、本気で言っているように聞こえました。ここから逃げたほうがいいと思って、それを伝えに来たんです」

「なんだって? あの子が私を殺しに?」

 すると、ドアの先から高笑いが聞こえてきた。

「あんな痩せこけたガキに何ができるっていうんだい? 姿を消したかと思えば、そんなことを考えているなんて、本当にあいつは馬鹿だよ!」

 タオはまるで相手にされていないことに傷心を覚えながら、

「それだけじゃないんです。明日の正午、神浦と安室を呑み込むほどの大きな津波が起きるんです。だから、早くここから避難してください」

「あぁ、昨日来た男も同じようなことを言ってたね、ご苦労なこった。そんなのがわかれば苦労しないよ、馬鹿も休み休み言いな。宗教の勧誘なら願い下げだよ」

「嘘じゃないんです! 鯨女神社のご神体であるオチヨ様からの予言なんです! 間違いありません!」

 すると、部屋の中から男の粗暴な声が聞こえてきた。

「うるせぇな! 眠れやしねぇじゃねぇか、黙らせろ!」

 そして、乱暴な足音がどしどしと近づいてくるのが聞こえた。

「あんた、いい加減にしておくれよ! もう、帰ってよ! お願いだから、帰って!」

 それから、母親の阿鼻叫喚のような叫び声が聞こえたかと思うと、ドアになにか叩きつけられるような音がした。タオは青ざめながら、二、三歩退いた。

「やめておくれよ! やめておくれよ!」

 と中から母親の叫び声が聞こえた。男の怒号も聞こえてきた。

 タオは恐くなって、思わずその場から逃げ出してしまった。

(諾人くんのお母さん、男の人に乱暴を振るわれてるんだ……)

 そしてバイクの元まで近づくと、しばらく乗らないで、立ち尽くしたまま諾人の部屋をしばらく眺めていた。

(もしかしたら、あの人のこと、助けることできないかもしれない)

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