第11話 親子鯨
リョウコからの話しを聞くと、諾人の痩せっぽちの身体が頭に浮かんで、胸騒ぎが止まらなくなった。
(急いで諾人くんの家へ向かおう)
ちょうど神浦方面を探していたところだったので、諾人のアパートまでは歩いて十分ほどの場所にいた。
諾人の部屋の前に着いた。中からは物音がせず、人の気配を感じられなかった。
(留守なのかな。諾人くんもいない?)
だがリョウコの、部屋に取り残されているかもしれない、という言葉が頭に残っていて、悪いとは思いながらも、しゃがんで、ドアのポストの受け口を開けて部屋を除いた。ゴミが散乱して、その狭い隙間からも悪臭が漏れていた。
(あれ、もしかして……)
散乱するゴミに紛れ込むようにぐたっとした人間がいた。あまりに動かないので、はじめ大きな人形かと思ったが、よくみるとそれは諾人だった。
「諾人くん!」
タオは目を疑った。諾人は縄で縛られて動けないようだった。慌てて立ち上がって、ドアをガチャガチャとひねっても開く気配はなかった。パニックに陥ったタオは、隣の部屋のドアを思いきり何度も叩いた。
「すみません、すみません! 助けてください!」
ドアが開いた。突然の出来事に女性が驚いた顔をしている。
「助けてください! 隣の子供がぐったりして動かないんです、大家さんはどこですか? 鍵を開けたいんです!」
すると女性はタオのひっ迫ぶりに気圧されて、大家の部屋へ案内してくれた。タオが大家に状況を話すと、合鍵で諾人の部屋が開けられた。真夏だというのにクーラーも動いていないから、部屋には熱気がこもっていた。タオは一目散に諾人のもとへ駆け寄ると、縛られている縄をほどきにかかった。
「諾人くん!」
諾人はひどい汗をかいて、気を失っているようだった。よくみると失禁している。
「ひどい……なんでこんな……」
「今、安室診療所のお医者様呼んでやる」
と大家が電話を掛けに部屋まで戻っていった。
諾人の足元には、少し水の残ったコップが倒れていた。
「……タオ」
気が付いたのか、諾人がうつろな瞳でこちらを見ていた。
「しゃべらないで、今お医者さん呼んでいるから……」
すると、諾人は弱々しい声でこう言った。
「医者は呼ばないで。警察にバレたら、母さんが捕まっちゃう……」
タオは言葉を失った。ここまでされて、なぜ母親をかばおうとするのだろう、と思った。
隣人の女の人が、コップに水道水を入れて諾人の口元まで運んだ。
「これ飲める?」
口に含むと、一気に飲み干す力もないのか舌で掬いとるように飲んだ。まるで犬のような姿だったが、必死に生きようとしているようにも見えて胸が苦しくなった。
大家がまたばたばたと戻ってきた。
「ダメだ、診療所にかけても電話がつながらない」
おそらく、鯨の声を聞いたヒカルが暴れて、電話対応ができないのだとタオは思った。
「すみません、そしたら私の家までこの子と一緒に送ってもらえませんか? 私のお母さん、もともと児童相談所で働いていたんです。応急処置のやり方ならわかるかも」
「わかった! じゃあ、その子を下まで下ろしてくれるかい? あたしの車で送ってってやる」
そういうと大家はどたどたと階段を下りて行った。タオと隣人が諾人の肩をかついで、下まで運んでいると、また鯨が鳴き出した。タオは諾人のことに集中するのに必死だった。
諾人はキミヨの部屋で、布団に横になっていた。さっき、塩と砂糖を溶かした水をリョウコに飲ませてもらってから大分落ち着いたが、薄ら目を開けながら、
「痛い……痛いよ……体中が痛い」
とまだ身体を震わしていた。体中からひどいすえた臭いを放っていた。
「完全な脱水症状だわ、かわいそうに。ひどい母親ね……この子を置いて、男とどこかに行ってしまったんだわ、それにしてもこの真夏に縛り付けて、部屋に放置しておくだなんてどういうつもりなのかしら」
タオと並んで座り、諾人を眺めているリョウコが怒りをあらわにしていた。
弱り切った諾人を前にしながら、櫛を探している三人の父親たちのことについて考えていた。自分の子供を心配して必死になっている親もいれば、反対に自分の手で子供を殺してしまう親もいることが不思議だった。
キミヨが梅干しの浮かんだ白湯を入れたポットを諾人の真横に置いた。
「夏バテには梅干しが効くから、これを飲ませたらいいよ。こんなに小さい身体なのに、なんてかわいそうなことをするんだろうねぇ……」
そういって、タオルで諾人の額を拭いてあげた。
「まだ食欲はないだろうね。美味しいごはん食べさせてやるから、早く元気になるんだよ? ……リョウコさん、警察に電話したほうがいいんじゃないのかい?」
キミヨがリョウコに尋ねたが、
「警察には電話しないで……母さんが、捕まっちゃう……」
と諾人がかすれた声で呟いた。一同は耳を疑った。タオは、さっきの言葉はやっぱり聞き間違いじゃないんだ、と思うと、諾人のことが痛々しくて仕方がなかった。
「警察に電話しないで欲しいの? どうして、こんなことされたのに?」
だが、諾人は何も答えず呼吸を乱しながら、目をつぶっていた。
三人は顔を見合わせたが、しばらくこのまま家に預かることにした。今は諾人に刺激を与えないようにするのが最優先だという話しになった。
鯨が鳴いた。三人は聞き入るように言葉を失くして、神浦の方面を見た。茜色の空が広がっていた。六日目の夜はすぐ近くだった。リョウコは立ち上がって、夕飯の支度を始めた。キミヨも立ち上がって縁台の傍に立つと、手を合わせてお経のようなものを唱え始めた。外はすっかり暗くなっていた。タオは視線を落としながらただ鯨の鳴き声を聞いていた。遠い神浦の海から、聞こえてくる鯨の鳴き声を辿っていくと、苦しんでいる三人の姿が浮かんでくるようだった。
タオは意を決して立ち上がった。そして、リョウコとキミヨに気づかれないようにそっと家を出た。鯨の鳴き声の元へと行かなければいけなかった。
タオは気づかれないようにこそこそと家を出た。神浦の海に向かうことが分かれば止められるに決まっているからだ。
リョウコとキミヨにエンジン音が届かない辺りまでバイクを押すと、またがって鍵を回した。リアボックスに、子鯨の骨が包まれた生地が入っている。
もう、あたりは暗くなっていたが、分厚い雲が空を覆っていることを走りながら思った。その空から、不気味な鯨の鳴き声が響いてきた。
(ついにこの夜が来ちゃった……良太、まだ見つかってないよね。良太が海に行く前に祟りを終わらせないと、鯨様に殺されちゃうかもしれない)
向かっている途中で夜が来た。あたりはすっかり暗くなった。
今夜の波は、特に荒かった。暗闇の奥で、波が雲と共にうねっていた。
(不気味だな……神浦の海じゃないみたい)
風も出てきた。湿気をはらんだ生暖かい風だった。
また鯨の鳴き声が聞こえてきた。いつもより鳴き出す感覚が短かった。それに、いつもの悲しそうな声ではなく、興奮しているような甲高い声に聞こえた。
(……まるで、これから獲物を食べる獣みたいな声……)
しかし、声は聞こえるが肝心の姿は見えなかった。タオは、鯨の姿を探しながら浜辺を歩いて行った。
(古文書によると、浜辺に近い海に姿を現したっていうけど)
波と風の音が一緒くたになって、鼻腔を潮の香りが刺激した。タオが浜辺をさ迷っていると、
――タオ。
とオチヨの声が聞こえた。直接頭に響いてくる声だった。
――どうしてここにいるんだ? 祟りは解いたはずだから、鯨に呼ばれるはずがないのに……。
オチヨの声は明らかに当惑していた。
(オチヨ、わたし、どうしても鯨様に渡さなければいけないものがあって、ここに来たの)
――鯨に渡さなきゃいけないものだって? なにを言っているんだ、鯨に会えばたとえ祟られてなくたって殺されるぞ!
オチヨのひっ迫した物言いにも、タオは怯まなかった。
(でもそれは鯨様にとって、とても大切なものだし、私たち人間が預かっているようなものでもないの。鯨様に返さなければいけないもの)
――バカな……タオ、帰れ! 生きて帰れないぞ!
(……でも、三人を助けなきゃ。それにこれを渡せば、鯨様も怒りを解いてくれると思う)
オチヨと会話をしていると、すぐそばの海の様子がおかしくなった。突然、轟音が鳴り響いたかと思うと、黒い巨大な塊が海の底から姿を現した。まるで巨大な戦艦のような頭の大きな抹香鯨だった。片目が潰れ、体中が傷だらけだった。
(……これが、鯨様? 大きい……呑み込まれたら確かに生きては戻れない)
鯨は高らかにその喉を鳴らした。
「きゅぅぅぅぅぅぅぅ……きゅぅぅぅぅぅぅぅ……きゅぅぅぅぅぅぅぅ」
神浦の海から安室まで届く声だけあって、間近で聞くと鼓膜が破れそうだった。タオは、意識が遠のいていくのを感じた。
(苦しそうな声)
子鯨を包んだ生地を抱えながら、鯨の方へと向かっていった。
――ダメだ、タオ、来たらダメだ! オラ、まだタオに死んで欲しくないんだよ! もっといっぱいお話ししたいし……花冠だってもっといっぱい作ってくれよ!
(ごめんね、オチヨ。でもこうしないと、祟りを終わらせることができない気がするの)
――ダメだ! 来ちゃダメだってばぁぁぁ!
タオが、鯨様、と口にすると、鯨は口をあんぐりと開けて、洞穴のような口中をさらした。まるで中へと誘っているかのようだった。
すると、鯨の頭上からオチヨの声がした。
「タオ!」
みると、鯨の頭にちょこんとオチヨが座り込んで、タオに向かって声を張り上げた。
「もう、祟られてないんだから死ぬことはないんだ! 死んじゃだめだ! オラ、もうこれ以上、大切な人を目の前で死なせたくないんだよ!」
「ごめんね! わたし、友達が苦しむところをもう見たくないの! たとえ私が死んじゃっても、みんなを救いたいの!」
「バカぁ! ダメだよ、ダメだよ! 死なないでくれよ、簡単に死ぬなんて言わないでくれよ! もうオラに寂しい思いをさせないでくれよ! もうオラを独りぼっちにしないでくれよ! オラだって、オラだって生きたかったのに、そんな殺されたオラの前で簡単に死ぬだなんて言わないでくれよ!」
タオは立ち止まった。オチヨの叫び声が震えていた。オチヨの前で死ぬだなんて簡単に言ったことを後悔した。
タオは抱きしめていた生地を鯨に差し出した。
「鯨様、これ……」
その言葉を遮るように、後ろから雄たけびが聞こえてきた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
振り返ると、半狂乱のようになった良太がこちらに歩いてきていた。
「良太!」
鯨の口へと迷いもなく進んでいこうとする良太をタオは抱き留めた。
「良太、ダメだよ! 鯨の口の中に入ったら本当に食べられちゃうんだよ? 死んじゃうんだよ?」
タオの必死に呼び掛けにも良太のやつれて落ち窪んだ目は、タオを捉えなかった。良太は暴れた。
「邪魔だ! 邪魔だ! どけ! 鯨様が呼んでるんだ!」
そうして、タオを突き飛ばすと、鯨の口の中に飛び込んでしまった。
「良太!」
鯨の口が少しずつ閉じられようとしていた。急いで起き上がると、タオも鯨の口の中へと飛び込んだ。
オチヨは愕然とした表情でその成り行きを眺めていた。
「あぁ、タオが鯨の口の中に入っちまった。オラも急いで鯨の口の中に入らなきゃあ」
オチヨも、鯨の頭を滑るように降りると、そのまま口の中へと潜り込んだ。
(暗い……今まで見たどんな暗闇より黒い暗闇……どろっとしてて、沈んでるみたい……息が……出来なくなってきた)
引きずり込まれるように暗闇に身体が沈んでいった。そうして、本当に息が出来なくなると同時に強い塩味を感じた。
(なにこの味? 海水?)
一変して、周りは光に包まれた。ごぼごぼっと口から漏れた泡と視線を持ち上げると、上からいっぱいの光が注ぎ込んできていた。
(海だ……)
そう理解した途端、自分が溺れているのだと認識した。パニックに陥って、上と下がわからなくなりもがいたが、子鯨が包まれた生地だけは抱きかかえて離さなかった。
(苦しい……誰か、助けて……)
すると、誰かに身体を抱えられたのを感じた。良太がタオを抱えたまま上へと泳いでいた。
光が濃くなり、ついに海面へ顔を出せた。肺が痛むほど思いきり呼吸をした。
「良太……ありがとう……元に戻ったの?」
息を切らしながら良太に話しかけた。良太の視線がきちんとタオを捉えていた。良太も息を荒くしながら、
「タオ、大丈夫か? 突然意識がはっきりして、笑い声ももう聞こえなくなった。ここはどこだ? どうして俺たちは海にいるんだ?」
とタオに尋ねた。タオは、そこでやっと落ち着きを取り戻すと、周りを見渡してみた。大海原に漂って、視界の先には水平線しか見えなかった。
「今日は祟りが始まって六日目よ。私たち、鯨様の口の中に入ったの。ここは、鯨様の世界なんだと思う」
「そうなのか……全然記憶がないんだ。恐い夢をずっと見ていた気もするんだけど、それもぼんやりとしか覚えてない……タオはどうしてここに? 祟りを解かれたんじゃなかったのか?」
「私は……」
と言いかけると、良太の背後のずっと遠くの海面に、幾十艘もの舟の影がこちらに近付いてくるのが見えた。
「良太、あれ見て」
良太は振り返った。男たちの雄叫びがあたりに響き渡っていた。距離はみるみるうちに詰まっている。男たちは船べりを叩いているようで、がんがんがん、という鈍い音が聞こえてきた。
「とにかく逃げよう。助けに来ているとは思えない」
そうしてタオを抱きかかえながら泳ぐが、その距離は離れるどころか縮まるばかりだった。生地を抱えているのであまり早く泳げなかった。船べりを叩く音が近づくにつれて、焦燥感と恐怖がせり上がってきた。
後方からなにかが飛んできて、二人の傍の海面にしぶきが上がった。縄で船と繋がれた大きな銛が浮かんでいた。
男たちが綱を引いて、銛を回収している、雄叫びが飛び交う声が聞こえた。
「タオ! もう一度、潜るぞ! 息を思いっきり吸い込め!」
二人は息を思い切り吸い込むと、水中に潜りこんだ。光の溢れた青い海中に、何本も銛が打ち込まれ、二人の脇に落ちるとまた手繰り寄せられていった。
(これって、鯨様が鯨取りたちに襲われときの世界なんだ……)
海中に沈んでは引き返していく銛を見ながらタオはそう気が付いた。
息が続かなくなり、海上へ顔を上げると、タオが叫んだ。
「鯨様! 銛を投げないでください! あなたの大事な子供を私、抱えてるの!」
すると、それまで騒がしかった男たちの雄叫びと船べりを叩く喧騒が止み、まるで時が止まったかのように男たちの動きがぴたりと止まった。
――私の子供?
清らかな女性の声が空から響くように聞こえた。
「そうよ! 銛がこの子供に刺さったら危ないでしょ? だからやめて!」
――私の子供、どこにいるの? 会いたい! 会いたい!
「今、私が抱えてるこの着物の生地のなかにくるまれてるわ!」
タオが叫ぶと、二人の目前の海中に、突然大きな黒い影が現れた。そして、轟音と共に巨大な抹香鯨が頭半分を海上に現した。
――会わせて! 私の子供、私に返して!
「今、あなたに返すわ!」
タオが生地を開くと、小さな骨が三本包まれていた。
「これはあなたの子供の骨よ! オチヨのお母さんがこの子のお墓を作ってくれてたの! これは本来、あなたに返すべきものだわ!」
すると、鯨の上に座っていたオチヨが顔を出した。
「なんだって? オラの母ちゃんが子鯨のお墓を作っていたのか」
鯨は反応を見せなかった。何も言わないし、動かなかった。それが本当に自分の子供の骨かわかりかねているようだった。
(天隆神社の神様、お願いします。鯨様と子鯨をどうか会わせてあげてください)
タオが胸の内で祈っていると、
(この声は……お母さん?)
子鯨の骨から、幼い男の子の声が聞こえてきた。
――この声は……お前なのかい? あぁ! 私の子供の声が聞こえる!
(お母さん! お母さんの声だ!)
子鯨の骨から、薄い霧のような子鯨の霊体が現れた。タオは、今目の前で起きている現象が信じられなかった。だが、願いが叶えられて、涙が出るほど嬉しかった。
鯨から激しい嗚咽が聞こえてきた。
――お前、本当に私の子供かい? あぁ、夢のようだよ! お前に会いたくて、会いたくて、長い間ずっと苦しかったんだ!
子鯨の霊体は、生きている頃にそうしていたかのように、波を立てずに母鯨の元へと泳ぐと、傷だらけの鯨の身体に、頬ずりのような仕草をした。
(僕もだよ、僕もだよ! この島の神様が、お母さんに会えるようにしてくれたんだ! お母さんの声がずっと聞きたかった! お母さんに会いたくて仕方がなかった!)
――私も寂しかった、ずっと寂しかった! ずっとお前に会いたかったんだよ! でもいないから寂しくて!
子鯨は、母鯨の周囲を一周して泳ぐと、甘えるようにまた頬ずりをした。母鯨も心地よさそうにわが子を眺めた。
(もう、あの恐い人間たちはいないんだね?)
――あぁ、もういないよ。お前を苦しめた人間たちはもういない。これからはずっと、私と一緒にいるんだよ。
二頭が再会を喜んでいると、鯨の身体がだんだんと薄らいでいった。
「鯨が……鯨が消えちゃう!」
鯨の頭の上に座っていたオチヨが悲痛な声を上げた。
「鯨、消えないで! オラを一人にしないで!」
しかし、その声も虚しく、鯨と子鯨が完全に姿を消すと、一つの光の筋になって空へと昇って行った。後に残されたオチヨは、海面へと真っ逆さまに落ち、波しぶきが上がった。
「オチヨ!」
タオがオチヨの名を呼び、海面へと潜った。
沈んでいくオチヨの元まで泳ぐと、その体を抱きかかえて、海面へと上がっていった。
オチヨは放心状態で、ただ空を見つめるばかりだった。
「オチヨ、大丈夫?」
だが、それには答えず、オチヨは目に涙を溜めながら、
「鯨がいなくなっちゃった……」
と呟いた。その声があまりに寂しそうで、タオは胸が詰まりそうになった。
「ずっと一緒にいた鯨がいなくなっちゃった! オラが唯一触われる存在だったのに! 時間を気にせず話せる存在だったのに! これからオラ、本当にひとりぼっちだ!」
といって、顔をくしゃくしゃにして、幼子のように泣き出した。その様子を見ていると、タオは胸が押し潰されそうになって、思わず、オチヨを抱きしめた。
「ごめんね、オチヨ! みんなを助けるにはこうするしかなかったんだ。鯨様がいなくなってオチヨがこんなに悲しむなんて考えもしなかった! ごめんね、オチヨ、本当にごめんね!」
「もういいよ、タオ、もういいよ! どうせオラは死んだ人間なんだ! この鯨の世界が終わったら、もうタオに触れられることもできないんだ! オラはもういいんだ、オラは独りぼっちなんだ!」
オチヨはタオの背中に手を回して、激しい嗚咽を上げて泣き続けた。
「オラも本物のお母ちゃんに会いたいよぉ! オラだって、オラだって、母ちゃんに抱きしめて欲しいのに!」
その泣き声とともに、激情の波が、タオに流れ込んできた。
(感情に押し潰されそう……これって、オチヨの感情なのかな)
寂しさ、悲しさ、憎しみ、あきらめ、怒り、なにより愛情を切望する心の波だった。
(ダメだ……感情に押し流されそう)
感情の激流に呑み込まれるように、タオの意識は遠のいていった。
――。
マブタを開けると、木造の古い天井が目の前にあった。見たこともない天井に、戸惑いを覚えながら身体を起こし、周りを見渡すと、どうやら古い造りの家で仰向けに横たわっていた。
(ここはどこ? なにか、古民家のように見えるけど)
壁は褐色の板張りで、天井にも、やはり褐色の太い梁が張られていた。くすんだ畳に、古い桐箪笥、それからタオには名前の分からない昔の調度品がいくつも置かれていた。
ふと、いい香りがした。それは煮物の香りで、
そこは茶の間と土間だった。茶の間には囲炉裏が置かれ、囲炉裏の横に若い母親と乳飲み子がいた。母親は着物を着て、髪をひっつめにしていたが、その顔を見てタオははっとした。
(あの人、私そっくりだ……もしかして、あの人がヨネさん?)
だが、その母親はタオの存在に気が付いていないようだった。
(私のこと見えてないのかも)
若い母親はおくるみで包まれた乳飲み子をずっとあやしていた。
乳飲み子の頬を指でつつきながら、
「オチヨは可愛いねぇ、本当に可愛い子だよ」
と喜色満面に言った。
(オチヨ? じゃあ、あれは赤ちゃんの時のオチヨなんだ……この世界ってもしかして、オチヨの記憶の中なの?)
タオがそう思っていると、ヨネはオチヨの口元に鼻先を持っていき思いきり吸い込むと、
「オチヨちゃん甘い香りがする。お乳をたくさん飲んだ甘くていい匂いだ」
と満足げに話しかけると、乳飲み子は大きく欠伸をした。
「もうねんねするの? いっぱい眠って、早く大きくなってね、オチヨ」
とその母乳で膨れたお腹を優しくさすっていると、乳飲み子はまどろんで今にも寝てしまいそうだった。
その時、玄関の木戸が乱暴に開けられた。その音に驚いて、乳飲み子はびっくりして泣き出してしまった。
大柄の男が何も言わず、茶の間に上がり込むと、囲炉裏の側にどかっと座り、
「なにをしているんだ、ヨネ。早く飯の支度をしねぇか」
と怒鳴り立てた。ヨネの表情からは明らかに緊張が走っているのが見てとれた。
「はい、でもオチヨが眠そうなので、寝かしつけてからでいいですか?」
すると、その言葉に男は激昂して、
「ふざけるな! そんな飯の種にもならねぇガキの世話より、仕事から帰ってきたご主人様の世話をしねぇか!」
と怒声を浴びせると、乳飲み子はますます火がついたように泣き叫んだ。
「うるせぇ! 家に帰ってきたときぐらい静かにしねぇか! 跡取りにもならねぇ女なんか産みやがって」
ヨネは夫の荒々しい態度に戸惑いを覚えながらも、一旦、別の部屋に子供を置くと、再び茶の間に戻り夕飯の支度にとりかかった。
その間、夫婦の会話はなかった。夫はしかめっ面をして、じっと囲炉裏の火を見つめていた。
(あの男の人が、オチヨの父親なんだ……あんな体の大きい人に殴られて殺されてしまったなんて、どれだけ恐かっただろう)
オチヨのこれからの恐怖を考えると、母親と幸せに過ごしていた先ほどの時間が急に虚しいものに思えた。
……それから、タオはオチヨの記憶を辿る長い夢をみることになる。
――。
「タオ、おいタオ、目を覚ませ」
良太の声が聞こえて、マブタを開けると、晴れた青空が視界に広がっていた。
「ここは……」
直前まで、オチヨの記憶の世界にいた。彼女が経験した出来事を、その場所と人物と共に耳目に触れていたが、あくまでも霊体のような存在で、オチヨを救うこともできなかった。
「神浦の港だ、俺たち生き残ったんだよ」
と歓喜に満ちた良太の声とは裏腹に、タオには激しい無力感と疲労がどっと襲ってきていた。
「私……長い夢を見てた……オチヨが赤ちゃんの時から、父親に殺されるまで、どれほど母親に愛されて、でもどんなひどい扱いを受けていたのかさえ全部。鯨様の世界でオチヨを抱き留めた時、感情に流されて、私もオチヨの記憶の中に入っちゃったんだ……」
暗い冬の海に連れて行かれて、父親に嗜虐的に殺されたオチヨの姿が生々しく脳裏に残っていた。
(同じ浜辺だ……この浜辺でオチヨは殺されたんだ)
今、目の前に広がっているのは、朝の光に包まれた青海と青空だった。昨夜のオチヨの激しい泣き声と震える身体が、頭から離れなかった。
「……もう、大丈夫だよ。戻ってきたんだ、タオ。俺ももう笑い声も聞こえないし、怖い幻覚も見えない。祟りは終わったんだ」
と良太が優しく語り掛けた。
「ほんとに? もうなんともないの?」
タオは身体を起こして、良太を見た。もう視点も合うし、会話もできる。
「そうだ。多分、太一も頭衆さんも祟りから解放されているはずだ」
タオは、一旦、安堵の息をついた。自分のやり方が間違っていなかったと思う一方で、オチヨのことが気にかかった。
そのとき、後ろから声が聞こえた。
「タオちゃん、良太」
振り返ると、遠見と勇一郎が神浦の街並みからこちらに駆け寄ってきていた。
「お父さん」
とタオは声に出した。近くで見ると、勇一郎の顔が怒りで険しくなっていた。
「お母さんとおばあちゃんがお前の姿が見えないって、すごく心配しているぞ! 昨日が六日目だと知っているのに、どうしてこんなところにいるんだ!」
勇一郎にしては珍しく怒鳴り声をあげた。その気迫にたじたじになりながら、
「ごめんなさい、鯨様の怒りを鎮める方法を思いついたんだけど、それを周りの人に話したら心配して止められるだろうから黙ってたの」
とタオが答えると、
「だからって、単独で乗り込むやつがあるか! お前が死んじまったら、残された俺たちがどう思うか考えてみろ!」
タオは視線を合わせることもできず、言葉を失った。
遠見がしゃがみこんで、息子の良太の頬をなでた。
「良太、お前もう大丈夫なのか? あんなにうなされていたのに、ちゃんと視点も合うじゃないか」
「お父さん、心配かけてごめん。もう祟りから解放されたみたいだ。なんともないよ」
「そうか、お前が家からいなくなったときは、本当にどうなるかと思った。無事でよかった、無事で……」
と言って、息子を抱きしめた。
その時、タオの携帯が鳴りだした。
(ヒカルのお母さんからだ……)
「もしもし、タオちゃん? ヒカル、元に戻ったの。よかった、本当によかった……」
受話口の向こう側の声が泣いていた。
「ヒカル、元に戻ったんですか?」
「そうなの……昼間に鯨様の鳴き声が聞こえてからずっと暴れるようにしてたんだけど、さすがに骨折してるから動けないみたいで。でも悪化するといけないからって、先生と一緒に縛って動けないようにしてたの。ずっと呻いてばっかりで苦しそうだったのが、深夜の一時くらいに急に治まって、気づいたら眠ってたんだけど、今朝会ったらもう視点も合うし、普通に会話もできるようになってた……タオちゃんが終わらせてくれたの?」
「終わらせたというか、鯨様に渡すものがあって、それがよかったみたいです。よかった……ヒカル、よくなったんだ」
タオもつい涙ぐんでしまった。
「そうなの! 良かった、本当に良かった……まだ痛みが激しいみたいだけど、今朝、ご飯もちゃんと食べたから、きっと元気になると思う。そしたら、また会いに来てあげて」
「……わかりました、また会いに行くからね、って伝えてもらえますか?」
それから、幾つかのやりとりがあって電話が終わった。タオが胸を撫でおろしていると、遠見が、
「今、刺水主さんから連絡があった。太一君も元に戻ったそうだ。よかった、本当に祟りが終わったんだ……勇一郎さんには申し訳ないが、タオちゃん、危険を顧みずに立ち向かってくれて本当にありがとう。みんな、無事でよかった」
と頭を垂れてタオにお礼を言った。
だが、タオはしばらく無言のまま、砕ける白波を眺めながら呟いた。
「まだ、終わってないです……」
一同の視線がタオに集まった。
「まだオチヨに櫛を返せてない……あの櫛は、オチヨとオチヨのお母さんの大切なものだから、絶対に返さないといけないんです。あの櫛で髪を撫でられながら、母親に色々な感情を話す時間がオチヨには大切だったんだって、私、オチヨの記憶の中で強く思い知りました。だから、お願いします……櫛を一緒に探してくれませんか?」
今度はタオが頭を下げた。三人は顔を見合わせると、遠見が言った。
「そうだね、本当にその通りだ。祟りが終わったからと言って浮かれていては、オチヨ様に本当に申し訳がたたない。タオちゃん、必ず櫛を見つけ出してオチヨ様に返そう。僕も一緒に探すよ」
すると勇一郎と良太もそれに同意した。タオは震えるオチヨの身体を思い出しながら、改めて決意を強くしたのだった。
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