第8話 子鯨とオチヨの土饅頭

 アパートの玄関のドアを静かに開けると、諾人は固まって動けなくなった。いつもならまだ寝ているはずの母親が、キャミソール姿でテーブルの前に座り、鬼気迫る表情でこちらを睨みつけていた。

「おい、なんで勝手に出ていった?」

 その表情をみた途端、諾人の息が上がった。慄然とし、鼓動が速まった。母親が怒ってる、というのは感覚ではわかるが言葉が出てこない。感情と思考がとまった。

 母親は下着姿で立ち上がると、玄関で動けなくなってしまった諾人のもとへ近づき、髪の毛をわしづかみにすると、部屋の中央へとひっぱり布団へその体を投げた。倒れ込んだ瞬間、母親の右足が脇腹に入り、その衝撃は呼吸が一瞬止まるほどだった。

 母親は、テーブルに置いてあった箱からタバコを一本取りだし、口にくわえ火をつけ、一服すると、諾人のもとにしゃがみこんで、また煙を吐いた。紫煙の刺激が鼻腔を痛めた。次に、母親は諾人の右手をつかむと、その手首に火を押し付けた。

 諾人は叫び声をあげた。熱と痛みが手首から肘へ、それから心臓へと駆け抜けた。

「うるさい!」と一喝すると、立ち上がり諾人をもう一度腹から蹴り上げた。また一瞬、息が止まった。母親は蹴るのをやめなかった。何度も何度も腹や顔を蹴り上げられ、うずくまって動けなくなると、母親はまたしゃがみこんで諾人に詰問した。

「なんで出て行ったんだ? ここにいるのが嫌になったのかい? あんたは、どうしてあたしのいうことが聞けないんだ」

 諾人は口をつぐんだ。島の神様を探していたなどと答えれば、また殴られるに決まっている。黙っていると、今度は手の平で頬を打たれた。

「黙ってないでなんかいいなよ!」

 母親の怒声が聞こえてきた。痛みと空腹で、ものをうまく考えることができなくて、

「し、島の神様を探してた」

 と思わず口に出た。

「島の神様だって?」

「オチヨ様っていう、この島の神様なんだ……江戸時代に父親の暴力で殺されちゃった女の子で、この島に祟りを起こして、それ以来島の神社に祀られてるんだよ。その女の子と話しがしてみたくて……」

 すると、母親ははじけたように笑い出した。

「なんだい、そりゃ! 面白いこというじゃないか。前から頭の悪い奴だと思ってたけど、ついに頭がおかしくなるところまでいっちゃったのかい」

 母親はおもむろに歩き出し、台所からコップ一杯の水とロープを手に掴んで戻ってきた。

「勝手に動けないようにまた縛り付けてやる。今日から三日間飯抜きだ」

 コップをテーブルに置くと、今度は諾人の両手を縛りつけた。空腹と体の痛みで抵抗もできず、拘束されたまま、台所へ続くドアのノブにロープを縛り付けられ、両手をあげた状態で動けなくされてしまった。

 諾人は、抵抗しなかった。部屋に縛り付けられるのは一度ではなかった。固くドアノブに縛り付けられているので、どんなにもがいても外れることはなく、何度も繰り替えされたがために無力感で思考がいつしか停止してしまうようになった。腕を縛っている部分が、気が付けば赤く染まっていた。

「ちょうどいいや。あたしはしばらく家を空けるよ。店のお客であたしに惚れてる人がいてね。一緒に遊ぼうって言ってくれてるんだ。これから店の外で会うことになっているんだよ。今日から三日間、その人と一緒にいるからあんたはここにずっといな。そうだ、電気代ももったいないからエアコンは切っていくよ。水はここに置いといてやる、大事に飲みな」

 諾人の足元に水の入ったコップを置くと、リモコンでエアコンの電源を切った。途端に、冷たい風が吐き出されなくなったので、真夏の気温がこの部屋を満たすのも時間の問題だった。

 母親はしゃがみこんで、無抵抗な小さい動物を見るように、

「あんたなんか産むんじゃなかったよ。ここで死ぬのなら死にな。私もあんたも生まれるべきじゃなかったんだ、私も早く死にたいよ」

 と語り掛けた。諾人は恐怖と屈辱感と無力感で胸がいっぱいになり、息を荒らげた。

「そんなに激しく息をすると、水分が抜けて早く死ぬよ。運がよかったら生き残ってるだろ」

 というと母親は立ち上がり、シャワーを浴びに浴室へと入った。

(……今度こそ、本当に殺されるかもしれない)

 と諾人は思ったが、浴室からの水の流れる音を聞き流しながら、それさえも考えることをやめた。


 鯨様のことを教えてもらうために、タオは鯨女いさめ教の信者が集まる西光寺へとやってきた。

 江戸時代の末期、鯨漁が衰退し島民が貧困に喘ぐようになると、オチヨへの信仰心がさらに増し、人々はオチヨの信仰をさらに広げるための施設を島の中心に作った。慶応の津波が去り島からなにもかもをさらわれたあと、オチヨが島の人々の前に姿を現したことで、それから祟りが起こらなくなり島は平穏を取り戻したと言い伝えられているためだった。島民の一部が、オチヨが姿を現すことで島が豊かになることを祈願するようになったのが鯨女教のはじまりと言われている。

 現在でも、オチヨが姿を現すことを現形げきょうと呼び、週末になるとお年寄りたちが集まり念仏を唱えていたのが、祟りが起きたことを知ってからは毎日のように集まり、終日にかけて祈りの声が堂内から外へ漏れ出るほどだった。

 西光寺に入るのがタオは初めてだった。もともと鯨女神社から分かれてできた鯨女教を祖母のキミヨがあまりよく思っていなかったからだ。

 二十畳ほどの、比較的小さい木造建てで、屋根面が四方にそそぐ寄棟造りの屋根をもっていた。寺というよりはお堂であった。

 緊張した面持ちで、引き戸を開けると、六十代から九十代にいたるまでの老人がこちらに背中を向けて、薄暗い部屋の奥に張られた「御千代おちよ大権現だいごんげん」と書かれた掛け軸に向かって、身体を揺らしながら念仏を唱えるものもいれば、

「オチヨ様ぁ、オチヨ様、どうかそのお姿を我々にお見せください!」

 とひれ伏しながら、願いをそのまま口にするものと様々だったが、無我夢中なので戸を開いたタオのことに誰も気が付かないようだった。その一心不乱な様に、タオも気後れをしたがここまで来てひけないと思い、

「あの、すみません! みなさんにお聞きしたいことが!」

 と堂内に響き渡る声で叫んだ。

 すると、それまで取りつかれたように拝んでいた部屋いっぱいの老体の動きと声がぴたりとやみ、いっせいに後ろをぎょろりと振り返られたので、タオは複数の老人と目があった。

「お前は!」

 と一人の老人が激昂して声を荒らげた。

「羽刺の孫か! ここになんのようだ、この疫病神めが!」

 すると続けざまに、

「お前がオチヨ様の祟りを起こしたから、この島に災いが起こってるじゃないか!」

「帰れ、帰れ! オチヨ様を怒らせたお前がここに来たら、オチヨ様が姿を現さなくなってしまうわ!」

 と口々にタオへ糾弾の声があげられた。

 さすがのタオもことの状況に一瞬ひるんだが、意を決して、

「今回のことは本当に申し訳ありませんでした! だけど、教えて欲しいことがあるんです! このなかで、オチヨ様と一緒に祀られている鯨様のことについて知っている方はいませんか?」

 と老人たちの塊の声に負けないほど力強く叫ぶと、気圧されたように老人たちは口をつぐみ、堂内はたちまち沈黙に包まれたが、また一人の老人が再び声を荒らげた。

「鯨様だと? なんでそんなことを知りたいんだ?」

「鯨様の怒りが収まれば、もしかしたら祟りが治まるかもしれないんです!」

「嘘をつけ! この島を窮地に陥れているお前の言葉なんか誰が信じるか! 出てけ、この罰当たりが!」

 と言葉をはねつけると、それに続くように他の老人たちもタオに罵詈雑言を浴びせた。タオは込み上げる感情にもどかしさを覚えながら、どうすることもできずにいたが、そこから去ることをせず、汚濁のような言葉に耐えていた。収集がつかなくなったころ、

「やめないか!」

 と一喝する声が堂内に響き渡った。

 紺色のブレザーを身に着けた、白髪の、紳士的に見える老人がタオの横に立っていた。いかめしい表情で、堂内をぐるりと睨みつけると、

「お前たち、どうかしてるぞ! こんな若い娘っ子に暴言なんか吐いて恥ずかしくないのか?」

 すると、堂内にいた老人の一人が、

「指田のじいさん! その子はオチヨ様の怒りに触れた人間だ! こんなところにそんなやつが来たら、祟りが治まるどころかもっと島に災いが起きてしまうぞ! そいつは疫病神なんだ!」

「自分たちがなにを言っているのかわかっているのか! 若い子たちがオチヨ様信仰をなくしてしまったのは、僕たち年寄りの教育が行き届いてなかったからだ。その証拠にどうだ、集まっているのは老人たちばかりじゃないか。祟りを起こしてしまったのは僕たち年配者の責任でもあるんだぞ! それをなんだ、寄ってたかって若い女の子に暴言をあびせて。この女の子は排他する対象じゃないんだ、守るべき対象なんだ!」

 と指田と呼ばれた老人が言葉を放つと、鶴の一声のようにみんな黙ってしまった。

「羽刺さん、悪かったね。ちょっと外に出ようか」

 指田の老人はタオに声をかけると、お堂から外に出た。タオはその背中に付いていった。

 どこかに向かうようにすたすたと歩いて行くので、タオはそばに駆け寄って、

「ありがとうございました。助けていただいて。あの、どうして私の名前を知っているんですか」

 すると、指田はにっこり笑っていった。

「いいんだよ、こちらこそ悪かったね。みんな祟りのことで気が立ってるんだ。実は僕はね、タオちゃんとは親戚なんだよ」

「え、親戚?」

 その顔に覚えがなかったので、首をかしげた。

「知らないのも無理はない。僕は、オチヨ様の母親であるヨネの生家の子孫なんだ。ヨネが羽刺家に嫁いでから疎遠になってしまってね」

「え、ヨネさんの?」

 指田はこくりとうなずくと、神浦方面へと歩きながら、ヨネのことについてタオに語りだした。

「指田家はもともと安室方面で農家をしていたんだ。だから、ヨネももともとは農家の出だったんだが、それが鯨漁の一番親父をしていた嘉左ヱ門に見初められて、求婚されたんだ。貧しい農家だったから、当時、この島を牛耳っていた嘉左ヱ門の家に嫁ぐことは生活の保障にもなる。ヨネは自分が嫁に行けば、実家の暮らしも安泰すると思ったんだろう。だが、家に伝わる話しだと、ヨネは嫁ぐことを本心では嫌がっていたみたいだ。嘉左ヱ門は暴力的だったから島の人たちには嫌われていたからね。神浦に天隆神社があるだろう? 実は、指田家はずっと昔から天隆神社の管理をずっと任されていた家なんだよ。嘉左ヱ門に嫁ぐことは不安だったけれど、神様の近くにいれば、きっと守ってくださると思ってヨネは嫁いだんだ」

「どうしてヨネさんの話しを私に?」

「さっき、鯨様のことに知りたいといっていただろう? 僕も鯨様のことについて詳しいわけではないけど、実は、ヨネが鯨様の子供のお墓を作っている場所があるのさ。そこを案内しながら、鯨のことについて話そうと思ってね」

「子鯨にお墓があるんですか?」

 そのことは羽刺家でも伝えられていないことだった。恐らく、祖母のキミヨも知らないだろう。

「神様が守ってくださるだろうと思い嫁いだはいいが、知っての通り愛娘のオチヨ様は嘉左ヱかざえもんによって殺されてしまった。だがオチヨ様の遺体は見つからず、嘆き悲しんでいるところで子鯨の死体をみつけるんだ。可哀そうに思ったヨネは子鯨をある場所に埋葬したんだが、その場所は秘密の場所で、今でもそのお墓の管理は指田家である私だけで行っているんだよ。そこに向かっているんだ」

「……そんな大切な場所、私に教えてしまっていいんですか?」

「遠見さんから連絡をもらってね。鯨のことについて聞きに行く女の子がいるから、守って欲しいと言われたんだ。みんな君が原因で祟りが起きてると思ってるからね。それに、顔をみたら親戚である羽刺家の子じゃないか。君がオチヨ様と会って、鯨様の怒りを解けば祟りが解けることも遠見さんから聞いたんだ。君のさっきの様子を見ていたが、この子だったら秘密を守ってくれると思った」

 それから、指田は子鯨のお墓がどのようにしてできたのか、を静かに語りだした。

「これは指田家に伝わる話しなんだけどね……」


――。


 嘉左ヱ門がオチヨを海へと連れ出したあの日、意識を取り戻すとオチヨの姿はなく、嘉左ヱ門が囲炉裏の前に座り込んで黙って酒を飲んでいた。

「オチヨ」

 その名を呼びながら家中を探したけれど、その姿はどこにもなかった。

 ヨネは不吉な予感に胸が押し潰されそうになりながら嘉左ヱ門を見ると、その着物には返り血のしぶきがところどころに飛んでいた。それをみつけた途端、ヨネは絶叫をして、嘉左ヱ門の元へと駆け寄った。

「あんた! オチヨはどうしたの? オチヨはどうしたの?」

 しゃがみこみ、その着物の襟をつかんで問い詰めようとしたが、嘉左ヱ門は答えないばかりか、ヨネの横っ面を激しく張り飛ばした。土間へと飛ばされると、再び意識を失いそうになりながら、嘉左ヱ門の声を聞いた。

「あんな娘は俺は知らねぇ! 海に一緒に出掛けたが、一人でふらふらとどっか行っちまいやがって探したがどこにもいなかった! 俺はもう寝るぞ!」

 嘉左ヱ門は一人寝室へ入った。ヨネはその足音を聞きながら、暗闇の絶望の淵に陥れられた気がした。自分の大切な部分が欠けてしまったような喪失感を抱くと、ガタガタと身体が震えた。涙が出なかった。最悪の結果しか頭に浮かばなかった。

(まさか、まさか、オチヨが!)

 まだ幼い嘉一郎が泣き叫んだが、かまいもせず、ヨネは戸を開けると神浦の海へと力任せに駆け出した。

「オチヨ! オチヨ! オチヨ! オチヨ! オチヨ!」

 神浦の浜辺へと辿り着き、オチヨの名前を叫びながら探し回った。暗闇の海の向こうから聞こえる波の音がすべての音をかき消していた。あるかないかわからない漆黒の波が押し寄せてヨネの太ももまでを侵した。冬の波が、刺すような痛みを身体に与えた。

「オチヨぉ、どこにいるんだい! 返事をおしよ!」

 だが、どんなに泣き叫びながらその名を呼んでも波音だけがあたりに響くだけで、娘の声は聞こえてはこなかった。まるでオチヨという名前が空っぽになって、この世から意味を失くしてしまったようだった。ついさっきまでそこにいた存在のはずなのに、まるでもう本当にこの世から消えてしまったようで恐ろしくなった。

(あたしは……あたしは本当にあの子を守ることができなかったの?……)

 本当は、この暗闇で見えないだけで、この寒い夜の海辺を、怖くて泣き腫らしながらさ迷っているだけのような気がして、だけどその声すら聞くこともできなくて、ヨネは冷たい海の波風にさらされながら、ガタガタと身を震わせていたが、まだここにオチヨがいるかもしれないと思うと帰ることもせず、いつしか厳しい寒さのために動けなくなり、そのまま気を失ってしまった。


 気が付くと、布団をかけられて横になっていた。

「気が付きましたか?」

 と声がする方をみると、良淳がそばに座っていた。

「ここは……」

 ヨネがそう呟くと、良淳は優しく微笑んで、

「ここは私の家の客間です。夜に、あなたの声が聞こえてきたので海辺に探しにいったんです。どうしてあんなところにいたのですか? 冬の時期だというのに厚手も着ないで」

 と尋ねると、ヨネは思い出したようにさめざめと泣きだし、昨夜の出来事をすべて良淳に語りだした。すると、良淳は信じられないという顔をして、

「そんな……たしかに親父は乱暴な人ではあるが、まさか自分の娘を手にかけてしまうなんて」

 と訝ったが、目の前にいるヨネの反応を見ているとそれを疑いきることもできずにいた。

 襖が空いて、良淳の妻が顔を覗かせると、

「ヨネさん、風呂がわいたよ。身体が冷え込んでるから温まるといいよ」

 と催めてくれたがヨネはかぶりをふった。

「いりません、オチヨがまだ寒い海で凍えているかもしれなんです……私だけ温まるなんて……」

 すると良淳が、

「……いけません。あなたまで身体を壊してしまったらどうするのですか? さ、遠慮はいりませんからどうぞ入ってきてください」

 そう諭されると、ヨネは身体を起こし、妻に風呂まで案内された。

 それから、良淳は遠見場へと出掛けてしまい、家にはヨネと良淳の他の家族のみが残された。事情を知っているのかいないのか、良淳の妻はヨネをかいがいしく世話してやり、なにかを語り掛けようとするがヨネの悄悄しょうしょうたる様子を見て取ると、黙って奥へと引っ込んでしまった。

 一人になりながら、昨日の出来事は本当だったのか考えた。もしかしたら、意識を失っている間に見た夢というだけで、家に帰れば、またいつものようにあの可愛いオチヨがいるのかもしれないと思い、ヨネは良淳の妻にお礼をいって、家へと戻った。

 嘉左ヱ門も遠見場に出掛けていてもう姿はなかった。一人残された乳飲み子の嘉一郎が、ひもじさを訴えて泣き声をあげていた。その声を聞いて、ヨネはもう一人の我が子を守らなければと、はっと使命感がわいて、乳をあらわにして息子の口に含ませた。嘉一郎は、乳が口に含まれたのがわかると夢中になって吸い続けた。ヨネは息子の顔をみながら、オチヨのことに気を取られて、もう一人の子供が頭から離れていたのを申し訳なく思った。

 授乳を終え、嘉一郎が眠りに入ると、ヨネは嘉一郎を着物の背中にすっぽりと入れ、落ちないように紐で自分の腹と背中を結わえた。

「嘉一郎、一緒にオチヨを探しに行こうね」

 といって神浦の海へと歩いて行った。


 その姿を人々は奇々としてみた。変わり果てたように一晩だけですっかりとやつれ、ふらふらとしながら赤子を背中に抱いている様が、どこか異様に思えたのだった。神浦の村を歩くヨネの姿をみながら、島民はこそこそと話しをした。恐れられている嘉左ヱ門の妻が、異様な雰囲気で歩いているのはただ事ではないと、誰もが思いながら、だが誰もヨネに話し掛ける者はいなかった。

 昨日の夜とは一変して、神浦の浜辺には明瞭とした海が広がっていた。

「オチヨぉ! オチヨ、どこにいるんだい?」

 ヨネが出切る限りの声を張り上げながら砂浜を歩いていると、鯨漁の水主たちがヨネに話し掛けてきた。

「どうしたんですかい、ヨネさん。オチヨちゃんがどうしたって?」

「……オチヨがね、昨日の夜にお父ちゃんに海へ連れて行かれてから姿が見えないのよ」

 すると水主たちは、大変だ、といって漁の号令を待つのもやめて、オチヨの捜索に乗り出してくれた。ある者は海辺を探し、ある者は神浦の村を、またある者は船を乗り出して海へと捜索に出てくれた。

 ヨネは、オチヨの名前を叫びながらその姿を探している途中に、脳裏ではちらほらと昨夜の嘉左ヱ門の着物についた返り血が浮かんでいた。

(あれが本当にオチヨの血だとしたら、オチヨは……)

 あの血がオチヨ以外の者の血だとは思えなかった。だがそれを認めない自分もいて、だからそのことを人に話すこともできなかった。もうオチヨがいないだろう浜辺を、さ迷うように捜し歩くだけだった。

 オチヨを探してさ迷っていると、ヨネは神浦の森に子鯨の遺体を見つけた。木々が生い茂る森の草花の上に、無造作に置かれたいたが、鯨の子供だけあって巨体で、十三尺(四メートル)ほどの大きさがあった。

 昨日、嘉左ヱ門が打ち損ねた鯨の子供だと思った。子鯨の遺体には、蟻が群がり、その無数の黒い粒がうごめく合間合間に赤い肉をみせた。眼球はすでに食い破られぽっかりと穴が空き、腐敗臭が鼻をついた。

 その姿を見て、ヨネは心臓がきゅっとしぼむような感覚があり息を呑んだが、感情はたんに子鯨の遺体を忌み嫌うものではなく、哀れさと、母鯨と引き離された子鯨が感じたであろう苦痛だった。銛で射られて出来た穴だらけのその遺体と対面したとき、本当にオチヨが死んだんじゃないかという思いがよぎって、言葉もなくただ涙がぽろぽろとこぼれでた。気が付くとヨネは、遺体の前にひざまずき手を合わせ、子鯨へでもなくオチヨへでもなく、手を合わせていた。

「ヨネさん、どうしたんですかい? 鯨に手を合わせちゃって……」

 いつの間にか後ろに立っていた一人の水主が話し掛けてきた。ヨネはとめどなく流れる涙を隠すこともなく、振り返ると、水主は動揺したようだった。

「この子が可哀そうで……母親から無理やり引き離されて、ひとりぼっちで知りもしない島の森にほったらかしにされて、寂しいだろう悲しいだろうと思うと、涙がとまらないんだよ」

 その姿を見て、水主は言葉を失った。

「この子を埋葬してあげたいんだ。お願いだから手伝ってくれないか?」

 とヨネは水主にお願いをした。ヨネの異様な雰囲気に呑まれて、水主は何度も頷いた。ヨネは、解体用の包丁を持ってきてほしいとお願いをした。それから桶を借りて、子鯨に海水をかけ、黒い蟻を払うと、子鯨を解体しはじめた。切り目をいれ、肉を引っ張る作業は女手ではできなかった、そこを水主に手伝ってもらった。子鯨の背中を割いて、筋を切り、肉の層を取り出すと中心部にある心臓を切り取った。ヨネは水主にお礼をいうと、岩のような心臓と何本かの骨を両手に抱えて自分の家へと帰った。

 巨大な心臓を抱きかかえるヨネを村の人々は奇異な目でみて、嘉左ヱ門の嫁がついに気が触れた、と小さく話す声も聞こえたが、かまうことなく歩き続けた。

 家に戻り、土間にそっと心臓を置くと、箪笥を開けて自分の着物を取り出し、それで心臓と骨を包んであげた。

「さらしものになるのは嫌だろう……」

 そう語り掛けると、クワを手にしてヨネはまた家を後にした。

 神浦の村の裏側にある山道を通りながら、この心臓をどこに埋めてやろうかと考えたが、真っ先に頭に浮かんだのは、オチヨとよく花摘みをしたあのシロツメクサが一面に咲いた原っぱだった。まだオチヨが死んだと決まったわけでもないが、その風景を思い出すと頭から離れず、子鯨をあの海も見渡せる丘に埋めてやろう、と思った。

 シロツメクサの群生地に着いたが、まだ季節は冬だったので白い花が咲いていない、緑が一面に生えているだけだったが、ヨネは原っぱの奥に進み、海が見える位置まで来ると心臓をくるんだ着物を置いて、クワで掘り続けた。

 一太刀ひとたちごとにオチヨの顔が頭に浮かんだ。一緒に花を摘んで笑っているオチヨ、祭りのお囃子に合わせてはしゃぐオチヨ、上手に眠れなくてぐずるオチヨ、父親の暴力に怯えるオチヨ、そして、最後に海に連れて行かれた怯えた顔のオチヨ。

もう誰にも、他の動物にも掘り返されないほど深く掘ると、そこに着物ごといれ、また土を戻した。ヨネは手を合わせ、

「ここだったら、お前の母ちゃんが生きている海がよく見えるよ。ここを知っている人は少ないから、ここだったら安らかに眠れるだろう? それにね、ここは春になって温かくなるとシロツメクサの白くて小さな花がいっぱいに咲くのさ。そしたらまたお参りに来るからね。小さくて白い花、いっぱい摘んでここに供えるから。毎年ここに供えるから。だから一人じゃないからね……」

 花も咲いていない丘に、一迅の風が吹いて、潮の香りがあたりを包み込んだ。

(春になれば、この風に、花の香りが混じるんだ……)

 ヨネは、冥福を祈りながらそう思った。



――。


「ヨネは指田家の人間だけに墓の場所を教えた。ヨネがお墓参りをすることで、神浦の人間にお墓の場所を知られるのを恐れた。子鯨は鯨取りたちに殺されたから、知られると子鯨が安心して眠ることができないだろう、と考えたんだ。嘉左ヱ門に嫁いで、いい暮らしをしていると聞いていたヨネの兄妹たちはヨネにいい感情を持っていなかったが、オチヨが嘉左ヱ門に殺されて、代わりに子鯨の墓を作ったと聞いて、同情を寄せざるを得なかった。それで、今でも指田家の人間が子鯨の墓守をしているというわけさ」

「そんな話し初めて聞きました……」

「無理もないことだ。ヨネからは口外を禁じられ、津波以降、羽刺家と指田家はさらに疎遠になってしまったから。さぁ、この森の奥だ」

 そういって辿り着いたのは、大賀断崖の近くにある森だった。

(シロツメクサの原っぱってやっぱりここだったんだ……)

 そう思いながら、タオは指田と共に森を進んでいった。

森を抜けると、シロツメグサの群生地に辿り着いた。以前、諾人と一緒に来て、オチヨとも会った場所でもある。

 指田は、真っ白な草原を迷いもなく進んでいった。タオもその背中に付いていった。

「これがそうだよ」

 シロツメグサの広がりが終わりをみせたあたりで、立ち止まった。そこから先は崖になっていて、遠くに青い海が広がっていた。

「これが?」

 そこにはなんの文字も書かれていない棒が刺されているだけで、それ以外に墓標らしいものは見当たらなかった。

「そう、傍目にはわからないだろう? 何も書かれていないから、まさかこの下に子鯨が眠っているだなんて誰も思わないんだ」

 タオはそのあまりにも簡易的な墓を目の前にして、途方に暮れてしまった。

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