第7話 オチヨとの邂逅

五日目 八月十三日


 諾人とは八時に神浦港で待ち合わせをしていた。顔を洗い、洋服に着替え、出掛ける準備をすませ居間を通ると、食卓にはリョウコが朝食の準備をすませて席についていた。

「どこに行くの?」と尋ねられ、

「オチヨ様を探しに……」

 と答えながら、昨日の母親の様子を思い出していた。リョウコは顔を曇らせながらいった。

「……朝食ぐらい食べていきなさい」

 だが、諾人との約束があるタオは、

「いらないよ、食欲ないの……」

 と答えると、

「あたしをあまり困らせないで。友達が大変で辛いのはわかるけど、正直わが子が大切なのよ。この前みたいに夏バテで倒れちゃったらどうするの?」

 と諭してきた。タオは無言で席に着くと、朝食を取り始めた。焼いたチーズトーストに砂糖の入ったコーヒー。タオの好きなトッピングだった。

 娘の食べている姿を見つめているリョウコの隣は空席だった。

(おばあちゃん、まだ寝込んでるのかな。いつもだったら隣に座って、一緒にご飯食べてるのに)

 タオは、周りに迷惑をかけていることを改めて思った。


 朝食をすませて、母親に声をかけてから神浦の港に向かった。八時ちょうどだった。

 諾人は昨日と同じ服装で、相変わらずよれよれのTシャツを身にまとっていた。

「ごめん、お待たせ、後ろに乗って」

 とタオがヘルメットを諾人に装着させてあげて、後部座席に促した。

「腕を回してしっかり捕まってね。あまりスピードは出さないようにするけど、振り落とされないように気を付けて」

 諾人の腕が腹部に回って密着すると、すえた臭いが鼻をついた。もちろん、それを口には出さなかったが、彼の母親がどんな人間なのか、すこし考えた。

「諾人くん、オチヨ様の気配わかる? 今どこにいるかな」

 すると、諾人は沈黙の後、

「さっきまで安室と神浦の真ん中あたりに感じてたんだけど、今は安室にいるみたいだ。安室のどこにいるかは行ってみないとわからないけど」

「わかった。じゃあとりあえず安室まで行ってみるわね」

 タオはスロットルをひねってバイクを走らせた。

 草木に挟まれた道をひたすら走らせた。まだ午前中なのに肌を照り付ける太陽の熱も、バイクで感じる風に拭われるようだった。

 二人とも会話をしなかった。タオは、今日を正念場と決めていた。今日、オチヨ様に会えなければ、もう祟りを解く時間は本当に限られてしまう。少なくとも、祟りを解くヒントでもなんでもいい、情報が欲しかった。

 自宅の前を通り過ぎ、鯨女神社の境内へと続く石段の下にバイクを停めた。

「どう、まだ気配を感じる?」

 諾人に尋ねると、なにやら困り顔をして、

「どうだろう……気配が消えてしまったような気がする」

 と答えた。それでも、一縷の望みを託して一歩一歩石段を上がっていった。

 いつもと変わらない境内の景色、本殿の裏や、狛犬の影、境内を沿う森林、細部に至るまで探したけれど、オチヨの姿はどこにもなかった。

「ここにはいないかもしれない……。でも、物が腐ったような臭いが残っているから、いたことは間違いないと思うんだ。今は、また違う方角にいるような気がする」

 一通り探した後に諾人がそう呟いた。次の場所に向かうべく駆け足で石段を下りてバイクに乗った。改めて、神様のニオイを感じないことがわかると物寂しさを感じた。


 次に向かったのは大賀の断崖だった。大賀の断崖は安室とは全く反対側の島の北側に位置し、バイクでも三十分はかかる場所だった。

 観光用に整備された遊歩道を進むと大賀の断崖に辿り着くが、諾人が示した先は、断崖から西側に広がる森だった。

「この先にオチヨ様がいるの?」

 諾人はこくりとうなずいて、

「うん、まだいると思う。物の腐ったようなニオイも感じる」

 とはっきりと答えた。

 諾人が鼻をくんくんと利かせながら森の中を進んでいき、タオがそのあとをついて行った。幹の細い女竹が目立つ森で、下には黄色い小さな花が所々生えていた。小学生のころ、男の子に混じって、良太たちと一緒にこの森に入ったことはあったが、こんなに奥深くまで入ったことはなかった。

「近いぞ、あの先にいる気がする」

 と諾人が誰にいうともなく呟くと、壁のように生えた女竹をかき分けて一人で進んでしまった。

「ちょっと、待って!」

 取り残されたタオも女竹をかき分けて奥に進むと、景色が急に開けた。森の先にあるとは思えない光景があった。

 妖精が手の平を開いたような、丸くて白い小さな花が一面に咲く原っぱで、その先には海が広がっていた。

「きれいな場所」

 と思わずタオが声を漏らすと、

「お前でもこの場所知らなかったのか?」

「うん、初めてきたよ。他の人も知らない人多いんじゃないかな?」

 諾人は黙って、真っすぐ前を見た。その視線を追いかけると、白髪の透明な肌を持った少女がしゃがみこんでいた。

(オチヨ様だ……)

 遠くからでもわかった。透き通った肌の裏側に、白い小さな花が揺れていた。

 覚悟を決めて、近づいて行った。オチヨはこちらには気が付かない様子で、じっと花をみつめていた。

「あの……」

 とタオが話しかけると、そこで初めて気が付いたようにオチヨは振り返り、驚きの顔を浮かべたかと思うと、今度は顔を崩して泣き出し、

「お母ちゃん」

 とタオの顔を見ていった。

「お母ちゃん、今までどこにいってたの? オラ、独りぼっちで寂しくて、ずっと母ちゃんのこと探してたんだ」

 オチヨは、その小さな体を立ち上がらせた。長い銀髪を肩まで垂らし、透明な裸のその肢体を日光にくぐらせながら、タオの元へと近づくと、はたと立ち止まり、

「……違う、お母ちゃんじゃない、お前は……」

 と失望を目に浮かべると、すぅっと姿を消してしまった。

「あっ」

 とタオは思わず声をもらした。まるで今までそこにあった雪が目の前で溶けてしまったように、もうそこにはオチヨの姿はなかった。

「消えちゃった」

 振り返ると、諾人はわが目を疑うように呆然としていた。タオは諾人のもとに駆け寄った。

「諾人くん! いたよ、オチヨ様! すごいよ、諾人くんの力本当だった!」

 諾人の両手を握りながら、喜色満面にそう言い放ったが、諾人は、

「本当にいたんだ、オチヨ……様? 昔、父親に虐待で殺されちゃった女の子だ」

 と小刻みに震えながら口にした。

「そうだよ、いたんだよ! これで会えることがわかってよかった! これでちゃんとお話しさえできれば、良太もヒカルも太一くんも、この島も助けることができる! ねぇ、諾人くん、オチヨ様は今どこにいるの? 気配を感じることはできる?」

 諾人は少し黙ってから、

「うん、わかる。神浦の港だ」

 と答えた。


 神浦港にバイクを停めると、諾人は降りて防波堤の先を指さした。

「あそこにオチヨ様がいる」

 防波堤の淵に、透明な少女が腰かけ、海を眺めていた。

 タオが向かおうとすると、

「俺はもう帰るよ」

 と諾人がいった。

「え、どうして?」

「話してみたい気持ちもあるけど、いろいろと回っているうちに時間がたったから、母さんが起きてたら恐いし」

「……そっか、そうだよね。無理して協力してくれてありがとう。じゃあここでお別れしようか」

 諾人は踵を返して、とことこと家の方面へ向かって歩き出してしまった。タオはその背中に感謝し、オチヨの元へと歩き出した。

 近づくにつれて、改めてその体の小ささを思った。肩幅はその銀髪から少しはみ出す程度で、一枚の小さな板のような背中には海が透けて広がっていた。

(これが……オチヨ様)

 ずっと会いたかったその姿に緊張を覚えながら、

「オチヨ様……ですか?」

 と話しかけた。オチヨはくるっとこちらを振り返り、前にもみせた鋭い眼光をタオに向け、

「そうだ、オラがオチヨだ。お前は……タオだったよな?」

 立ち上がりそう答えると、タオの顔をじろじろと眺めた。

 オチヨがあまりにも凝視するのでタオはたじろいでしまって言葉が出て来なかった。

「お前は本当に、オラの母ちゃんにそっくりだ」

「私が……ですか?」

「そう、顔かたちとか、背格好、声まで似てる。その変な着物だけは母ちゃんと違うけどな」

 自分の来ている服を見下ろした。その日は、裾がだぶっとしたクロップドパンツに白い半そでシャツを身に着けていた。

「変な着物? 変ですか、これ?」

「そんな着物、オラが生きていたころはなかった。見たことも聞いたこともねぇ」

 オチヨは好奇心に満ちた目でタオの全身を上から下まで眺めまわした。

「この着物は、江戸時代にはなかったですから。今ではみんなこの洋服というのを着てるんですよ」

 すると、オチヨは目をらんらんと輝かせて、

「そうなのか! じゃあ、タオが乗ってたあの馬みてぇに速い乗り物はなんて呼ぶんだ?」

「あれは、バイクです。生き物じゃないんですよ」

「え、生き物じゃないの? じゃ、どうやって動くんだ? 前にぶつかりそうになったときはおったまげたぞ。じゃあさ、島中走っていて、人が中に入ってるのも生き物じゃないのか?」

「それは、たぶん車といって生き物ではないですね」

 タオが答えると、オチヨは跳ねるように喜んで、

「そうか車か! 時間がたつと島の暮らしも変わってくるんだなぁ。なぁ、オラが死んでから何年たったんだ?」

「江戸時代末期だから、たぶん四百年以上はたってるかと」

 オチヨは矢継ぎ早に質問をした。人々の暮らしのこと、神浦の様子、そのどれもがこの島のことだった。

「タオ、座って話そうよ」

 一通り質問をした後に、オチヨは防波堤の先端に腰かけ、自分の隣をぽんぽんと叩いた。誘われるままに、タオはオチヨの隣に腰かけた。神様の隣に座って海を眺めるなんて、考えるだけで不思議な感覚だった。

 さっきまで、怒涛の質問をしていたオチヨも黙って海を眺めるので、タオも海を眺めながらどう話しを切り出そうか考えていた。

 しばらくして、オチヨはもじもじしながら、こちらに身体を近づけると、

「ねぇ、タオ……母ちゃん、って呼んでもいい?」

 と恥ずかしそうにお願いをした。突然のお願いに、タオは困惑したけれどオチヨがあまりに真剣な眼差しなので、

「母ちゃん、ですか……別に、いいですけど」

 と答えると、オチヨは急に厳しい顔つきになって、

「あと、その敬語はダメ! 母ちゃんみたいに話して! オチヨ様、じゃなくて、オチヨ、って呼んで!」

 とさらに要求を増やしたので、それに応えて、

「オチヨ」

 とその名前を呼んだ。するとオチヨは喜笑顔開にあふれて、恥ずかしそうにまた視線を海に戻した。その反応をみていると、島の子供たちと同じように思えてきて、タオは微笑ましかった。

「ねぇ、母ちゃん、この海を見てどう思う?」

 それまで嬉しそうに話していた口調とは一変して、どこか重々しさがあった。

 突拍子もない質問に、言葉を探していたが、オチヨは海を眺めながらおもむろに話し出した。

「この海は、オラが生きていたころからずっと変わらない……きれいで、大きくて、どこまでも続いていそうな。ここで、鯨取りたちは鯨たちを殺して、オラたちはその肉を食べてずっと生きてきた」

 オチヨは海を通して、生きていたころを思い出しているようだった。遠い目をしながら尋ねてきた。

「なぁ、母ちゃん、今でもこの島では鯨を捕っているのか?」

「今はもう、捕ってない、かな」

「そうなのか、オラの父ちゃんはこの島で網元の役割を担っていて、島の鯨取りたちをとりまとめてた。夜になるとこの海で天高くまで飛び上がって、背中を叩きつける鯨がいるだろう? あの鯨はなぁ、父ちゃんに殺された鯨なんだ」

 海面に激しく身体を叩きつける鯨が頭に浮かんだ。

「正確には、父ちゃんに与えられた傷がもとで死んだんだ……真っ暗な夜になると、鯨漁で殺されかけるところを思い出して、恐怖が甦ってああして暴れるのさ。鯨の話しだと、父ちゃんが背中に馬乗りになって何度も刃物で刺したみたいだ」

 タオは思わず絶句してしまった。その時の鯨の痛みを考えると、言葉が出なかった。

「鯨を取り損ねた父ちゃんは、夜に大酒を浴びるように飲んで、いつものようにオラを殴りだした。その日の父ちゃんは特に荒れていて……無理やりオラを海に連れ出すと、この浜辺で殴って、動けなくなったオラを海に投げ捨てたんだ……ホントは、まだ生きていたのに……息が出来ているかどうかもわからないほど虫の息だったけど……冬の海で……冷たさで全身に走る痛みがわかる? 裸で海に投げ出されて、全身の骨が砕けるような痛みと、冬の海の冷たさの中で、オラは死んでいったんだ……」

 オチヨは顔に暗い影を落として、海をじっと眺めていた。その日の恐怖を思い浮かべているのだとタオは思った。

「……殺されて、海に捨てられてから何日間か、海を漂ったんだ……」


――。


 オラの心臓は、まるで魚の心臓のように弱々しかったけど、その鼓動も冷たい冬の海にさらされることでついに動きを止めてしまった。それまであった呼吸も、すべての内臓の活動もすべてが終わって、オラは生きる体を失くしてしまった。

 身体は、死ぬことですべての感覚を失ったけれど、冬の冷たい海の感覚が一瞬で蘇ってきた。つま先から頭のてっぺんまで、まるで串刺しにされたような痛みが襲ってきたけど、オラは震えることさえできず、ただその痛みに浸かるしかなかった。

(死んでからもこんなに苦しまなければいけないの?……)

 今思うと、オラは生きることをまだ捨てきれていなかった。島に残した母ちゃんや弟の嘉一郎、友達、島の人たちとももっとずっと生きていたかった。だから魂は、命をつなぎとめることができなかった身体から離れることが出来なかったんだ。

 寒さによる痛みを感じながら、父ちゃんに対する憎しみがぶわっと湧いてきた。どろどろとした熱のカタマリのような感情が、体中を巡るようだった。

(どうして……どうしてオラがこんな辛い目にあわなきゃいけないんだ……オラはそんなに悪い子供だったの? そんなにいらない子供だったの? どうしてオラは殺されたの? どうしてオラは生き延びてはいけなかったの? 友達と遊んではいけないの? 母ちゃんや嘉一郎と一緒にいてはいけないの? 痛みと憎しみと悲しさで頭がおかしくなりそうだ……オラはオラとして生きていたかっただけなのに、どうしてそんな当たり前のことも許されなかったの? どうして……オラの命なのに)

 心では、父親を殺してやりたい気持ちが煮えたぎっていた。

(……あいつを殺してやりたい……できるだけ苦しめて、後悔させて、あいつが苦しんでいるところを笑ってやりたい……でも、もうオラにはそれを成し遂げるような力も残っていないんだ……オラはもう、なにもすることが出来ないんだ)

 そんな呪詛のような言葉を魂の内で呟きながら、海を漂っていると、不思議なことに気が付いた。

 聞こえるのは、波の音ばかりではなかった。あらゆる海の生き物の声が頭には届いていた。それは、言葉になっていないただのうめき声もあれば、生き物同士で話している声もあった。だがそれらは、ただ、波の音と、自分の呪詛の声に絡まるように聞こえる雑音でしかなかった……。

 身体はいつしか沈んで、薄暗い海の底で、呪詛の言葉を吐き続けていた。

 どれほどの時がたったかわからないが、海の生き物の声にひときわ大きな鳴き声が響いてきた。うら寂しい、深い悲しみを帯びた細い声だった。泣いているようにも聞こえた。

 その鳴き声は、海底に沈んでいるオラに近づいてきた。なにか大きな生き物のような気がしたけど、それに意識を向けることはなかった。つまりどうでもよかったんだ。

 その大きな生き物が話しかけてきた。

「あなた……あなた……」

 その弱々しい声で、それが今にも息絶えそうな生き物だということがわかった。その生き物の鼓動が弱まって、今にも止まりそうなのをその時のオラには感じられたんだ。

「あなた……あなたからは深い憎しみと悲しさを感じる……殺したいと思っている強い怨念……、私もそう、私も……ある人間を殺したくて仕方がないの」

 その言葉を無視して、なにも答えなかったけど、その生き物はずっと話しかけてきた。

「私にはもう、殺す力は残されてない……だから、その人間を殺すためには怨霊になって祟り殺すしかないの。でも私だけで、祟り殺すほどの力がある怨霊になれるかはわからない……だけど、怨念の塊であるあなたを呑み込めば、強力な祟りを起こせる力が得られると思うの」

 その、祟り殺す、という言葉がオラに聞く耳を持たせた。

「祟り殺すだって? 怨霊になれば、人間を殺すことができるのか?」

「出来るはず。ここから南の方に下った小さな島にいる人間よ……そいつらに子供を殺されて、私も命からがら逃げ伸びたの。私たちはそれまで、この海で平和に暮らしていたただの親子の鯨だったのに」

「鯨だって? だとしたら、そいつらはオラの島の鯨取りじゃないか」

「お願い……お願い……その鯨取りという男を殺したいのよ。全員じゃなくてもいい、わたしに傷を負わせて子供を殺した人間を殺せればいいのよ」

「だとしたら、殺したい相手は一緒だ……オラもそいつに殺されたんだ。いいぞ、オラのこと呑み込んでくれ、お前と一緒に強い怨念になって祟り殺すんだ」

「ありがとう、お嬢さん、じゃあ……」

 鯨はオラの死体をその大きな口で丸呑みにし、その体内に取り込んだ。それまで、オラを苦しめていた突き刺すような冷たさは、鯨の体温で溶かされていくようだった。

 だが、鯨はオラを呑み込むことでその死期を早めた。この小さな身体でさえ、鯨は噛み砕くことができず、ほとんど丸呑みだった。

 鯨の息は、それこそ絶え絶えだった。だけど、鯨は死ぬわけにはいかなかったんだ。父ちゃんを祟り殺すために、この上之濱大島に戻るための潮流に乗らないといけない……。それこそ必死に、終わりゆく体を動かして、その潮流まで乗っかると、ついに鯨は動けなくなって息絶えた。

 鯨の生命が終わると、オラの魂と鯨の魂は、一つの強大な怨念となって沈黙しながら海を漂流した。上之濱大島に辿り着くまでの数日間で、その塊になった怨念は、再びオラと鯨の形とにそれぞれ分かれた。父ちゃんを殺すための意志だけを持って、オラたちは上之濱大島に漂着したんだ。


――。


「母ちゃん、オラはさ、この海を見るとそのときのことを鮮明に思い出すんだ。悔しさと悲しみと怒りで頭がいっぱいで、消えたいはずなのに消えることもできずずっと漂っていた海だ……。今の平穏な時代を生きている母ちゃんには、この海を見てもそんなこと考えないだろう?」

 物寂しい表情で海を眺めるオチヨの顔を眺めながら、タオは答えた。

「……うん、海はずっと穏やかで、ただそこにあるだけみたい」

「そう。いや、昔から海はずっと穏やかだった。でも、父ちゃんを祟り殺してから津波が起きて、海は安室と神浦を呑み込んだ。オラは本当の母ちゃんが津波に呑み込まれるのを目の前で見たんだ。津波を島の人たちに知らせてた母ちゃんが、どうして地震の後にわざわざ海に来たのかはわからない。オラは地震の後、この浜辺に立って海を見つめてた。雄大で、恵みを人間に与えてくれる海がどう変わるのかを見届けようと思った。母ちゃんは、なにかをオラに伝えたかったみたいだけど、その声は津波の音にかき消されてなにも聞こえなかった。オラの元に駆け寄りながら、母ちゃんは津波に呑み込まれたんだ」

 途中から、オチヨは嗚咽を噛み殺しながら言葉を紡いでいたが、ついに我慢しきれず泣きじゃくって叫んだ。

「オラはもっといっぱい生きたかった! もっと、手習所の友達とも遊びたかった! もっと母ちゃんとずっと一緒にいたかった! オラは……オラは……あいつに殴り殺されなければ、もっとずっと生きていられたのに!」

 もはやオチヨは神様などではなく、父親に殴り殺された、小さい身体を持った一人の女の子だった。

 タオは、その身体には触れられなかったけど、肩に腕を回すようにした。

「こっちおいで」

 オチヨは、タオの微笑みを確かめると一瞬泣き止んでから、顔をくしゃくしゃにして、

「うん」

 とうなずいて、タオの肩にもたれかかるようにすると甘えるように声の出る限り泣き叫んだ。

「辛かったね、オチヨ。がんばったね。もう、苦しくないからね。誰もあなたを痛くしないし、もう恐くないから。私がここにいるから……。がんばって話してくれたよね、ありがとう、オチヨ。いっぱい泣いてね」

 そう語り掛けると、

「母ちゃん!」

 とオチヨは力いっぱい叫び、さらに身を寄せて、タオの胸元で慟哭し続けた。

 オチヨを抱き留めようと思ったけれど、腕はその身体をすり抜けてしまった。今、目の前にいる少女を抱き留められないもどかしさを覚えながら、自分のことを母親だと思いたい女の子の思うままにさせてあげようと、その感情に身を任せた。


 ひとしきり泣くと、オチヨは顔をあげてふっと疑問がわいたように尋ねてきた。

「そういえば、タオはどうしてそんなに母ちゃんに似てるんだ?」

 オチヨの気兼ねない様子に、タオも気を許した。

「私は、オチヨの弟の嘉一郎さんの子孫なの」

「え、嘉一郎の? じゃあタオは……」

「そう、オチヨの本当のお母さんの子孫でもあるわね」

 すると、オチヨはあからさまに驚いて、

「ありゃー、驚いた。血がつながってるんじゃ確かに似ててもおかしくないわ……そういえば母ちゃんの声、前にも何度か聞いたことがあると思ったが、思い出した」

「私の声?」

「そう、オラが鯨女神社で眠っているときに、何度も何度も足を運んでお願いごとをしている女の子がいたんだ。その子は、好きな男の子がいるみたいで……たしか、そうだな、良太のお嫁さんになれますように、って言っていたような気がする」

 それを聞いて、タオは耳まで真っ赤にし、

「そんなこと……まさか覚えてるなんて」

「やっぱりあれは母ちゃんか! で、その良太っていうのはどこの誰なんだ?」

 オチヨは興味津々というふうに目に明るみを持たせた。

「遠見っていう名字なんだけど……」

「遠見! こりゃたまげた! 母ちゃんも遠見の人間が好きだったとは」

「私もって?」

「オラが生きていたころ、遠見の良淳さんの息子で良治っていう同い年の男の子がいて、すごく優しくしてくれたんだ。父ちゃんの言い付けで手習所に行けなくなってからも、よく声をかけてくれたり、なにかおいしいものがあると、こっそりわけに来てくれたりした。オラもその良治のことが好きだったんだ」

 懐かしむように語った。

「……そうだったんだ」

「生きてりゃ、良治に嫁にでももらってほしかったけど、オラが死んじまったからなぁ」

 良淳という名前は聞いたことがあった。たしか、「鯨女神社いさめじんじゃ祟絵詞たたりえことば」の挿絵の下に、良淳と名前があったような気がした。

「それで、その良太とは今はどうなってんだ?」

 オチヨは恋愛話を楽しむ女の子のように尋ねた。タオはそこで、二日前、この浜辺での苦しそうな良太の姿を思い出した。

「……二日前、この浜辺で良太から、好きだって告白されたの」

「なんだって? すげぇな、母ちゃん」

「……実はね、オチヨ、その良太が今祟りにかかってて苦しんでるの」

 すると、オチヨは表情を曇らせた。

「祟りって……オラと鯨のか?」

 そのオチヨの表情をみたら、急に焦燥感が蘇ってきて、いてもたってもいられなくなり、オチヨと向き合い膝を正すと、

「ごめんなさい、オチヨ! 私たち、取り返しのつかないことをしちゃった」

 といって、今度はタオが目に涙をためながら、

「五日前に鯨女神社に肝試しに友達と四人で行ってしまったの。そのときに、あなたの大切な鯨の櫛を友達の一人が盗み出してしまったみたいで……。それから祟りが始まって、それで、私だけ祟りを解いてもらったけど、他の三人は未だに苦しんでる。こんなこと許されるはずがないとわかってるんだけど、あなたを怖がらせたことも、大切な櫛を失くしてしまったことも本当にごめんなさい!」

 すると、オチヨは失望感をあらわにして、

「失くしたのか、あの櫛……とても大切な櫛なのに」

 と言葉を失くした。

 その顔を見ると、タオは胸が締め付けられて、正座のまま頭を下げた。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい! あの櫛は必ず見つけてまた鯨女神社に奉納しますから! だから……だから友達の祟りも解いてください! みんな苦しがってて、私だけ助かるなんて耐えられないんです! 調子いいのはわかっています、許されないのもわかっています! だけど、今はもうこれしか方法がわからないんです!」

 少し前まで、はしゃぐように話していたオチヨから言葉がなくなった。タオはもはやオチヨの顔をみることもできず、ただ頭を下げ続けていると、

「タオ……頭を上げて。オラ、タオのそんな姿見たくないよ」

 とオチヨは悲しそうに呟いた。タオは、頭を上げると、そこには悲しみに暮れたオチヨの顔があった。

「そうだったのか、あのなかに遠見家の人間も……。だけど、ごめんな。あの祟りを解くことはできないんだ」

「ごめんなさい、あの肝試しは本当に悪気はなかったの。あなたたちを怖がらせようとか、バカにしようとか、そういう意味じゃなかったの。たぶん、太一君が櫛を盗ったのも出来心だと思う。櫛は必ず返しますから」

 切迫感が募った。

 だが、そんなタオに向かって、諭すようにオチヨは語り掛けた。

「タオ……確かに祟りを解くことはオラには出来る……身体に埋め込んだ怨念を取り除いてやればいい。だけど、忘れちゃいけないのは、この祟りを起こしているのはオラだけの怨念だけじゃなく、鯨の怨念も関わっているということ。だから、祟りを解くためには、本当は鯨の怒りも解かなくちゃいけないんだ」

「鯨様の怒り? それは、どうすれば……? どうして私だけオチヨは祟りを解いてくれたの?」

「タオの祟りを解いたのはオラのワガママだ。あまりに母ちゃんに似てるタオを祟り殺すなんてオラには出来なかった。だが、鯨はそれを許さなかった。怒り狂った鯨は、タオとお前の友達の一人を殺そうとした」

 タオは顔を強張らせた。二日前に、ヒカルが屋上から飛び降りたのは、タオがオチヨに助けられたために起きた惨事だったのだ。タオは、たまたま意識を失っていたのでガードレールの崖から飛び降りないですんだが、ヒカルだけが鯨の祟りの犠牲になった。

 鼓動が速まって、胸が苦しくなり、うつむいて呼吸が荒くなった。冷や汗がどっと噴き出て、防波堤のコンクリートに滴り落ちた。

「私のせいでヒカルが……」

 ヒカルの痛々しい姿が目の前に浮かぶようだった。

「ごめんね、ヒカル……本当にごめんね」

 涙がとめどなく溢れてきて、汗と涙がコンクリートに黒いシミを作っていった。

「お願いします……ヒカルと良太と太一くんを助けてください……私のせいで……私のせいで友達が死んでしまいそうなんです」

 涙声で胸を詰まらせながら懇願したが、オチヨはなにも答えなかった。

「どうしたらいいんですか? 鯨様の怒りを納めるにはどうしたら?」

 そう尋ねると、オチヨは視線を下げた。

「それはオラにもわからない……オラは、自分の父親を殺せればそれでよかった……だけど、鯨は自分の子供をこの島の人間に殺されているんだ……その悲しみと怒りは、未だに鯨を苦しめている……。昼間、鯨はこの島の動物たちを山に入って食い荒らすんだ、まるでその苦しみから逃げるみたいに……だけど、人間だけは食べねぇ。この島のもともとの神様とそう約束されてるんだ。神様は人間と共生してきたから、人間だけは食べちゃダメだって……」

 オチヨはとつとつと続きを話し出した。

「でも、夜になると鯨は暴れだすんだ。鯨取りたちに殺されそうになった恐怖と、子供を殺されたあの日を思い出すんだ……それで、錯乱しては、まるで今でも父ちゃんが背中に乗っているように、空に飛びあがっては海面に背中を叩きつけるんだ。だから……オラ、鯨の背中にしがみついて、大丈夫だよ、もうあの恐い鯨取りたちはいないから、ってずっと叫び続けるんだ。でも、鯨は鳴き声をあげながら身体を叩きつけることをやめない。まるでオラの声が聞こえてないみたいだ」

(鯨様の心の傷はまだ深く残っているんだ。オチヨも辛い思いをしてきたはずなのに、暴れる鯨様をいさめようとするなんて……)

 そう思うと、身勝手な自分のお願いを恥じ入り、泣き止むと、少し冷静になった。

「……そうだよね、鯨様もつらい思いをしているのに、わたしったら、本当に自分勝手だった……。じゃあ、海に身体を叩きつけるのは、慶応のときのように津波を引き起こして島を沈めようとしているわけじゃないのね」

 オチヨはタオの目を見据えた。

「慶応の時代に起きたあの津波は天災だ。鯨にそんな力はねぇ」

 慶応津波が鯨様の祟りというのは人々が作り上げた迷信だったのだ。

「私……絶対に鯨様の祟りを解いてみせる。島の人間のせいで不幸な目にあわせてしまったのに、いつまでもそのせいで苦しめるなんてひどいこと出来ない」

 オチヨはじっとタオのことをみつめていたが、その身体が最初よりも透き通って、いるかどうかわからないほどになっていることにタオは気が付いた。

「オチヨ……身体が薄れているみたい」

「もうそろそろ消えないといけないみたいだ……島の神様から、限られた時間だけタオに会うことを許されてたから」

「どうして許してくれたの? でも、また会えるよね? また話せるよね?」

「オラがタオと母ちゃんを重ねてたのを神様は知ってるから……。ねぇ、母ちゃん、また神様のお許しがあったら、明日また母ちゃんに会いたいな……さっきのシロツメクサの原っぱで……オラ、朝から待ってるから、きっと会おうね……きっと」

 オチヨは姿を完全に消して、最初からそこにいないみたいに、ただ光と空間だけが広がった。潮騒が響いた。

 オチヨの声が耳に残っていた。

(鯨様の怒りを鎮めるにはどうしたらいいんだろう)

 オチヨの姿が消え、防波堤を引き返しながら考えたが、鯨の情報は「鯨女神社祟絵詞」にも載っていなかったし、祖母のキミヨも知らなかった。考えあぐねたが、一人で考えても答えが出ないと思い、タオは相談相手に遠見に電話をかけた。

「タオちゃんか、どうだった? オチヨ様には会えた?」

 その声には、どこか疲労感があった。

「オチヨ様には会えました、話してたら突然消えてしまって」

「祟りは治まりそうなのかい?」

「いえ、三人の祟りを解いてもらうようにお願いしたのですが、出来ないようです。この祟りには鯨様の怨念も関わっているから、その怒りも解かないといけないみたいで……。遠見さんの言う通り、私はオチヨ様の母親に似ているから特別に解いてくれたみたいです」

「……そうなのか。でも、だとしたら鯨様の怒りを解けば、この祟りは解けることになるよね」

「そうなんですが、鯨様の情報がまったくないのでどうしたらいいかわからなくて、それで遠見さんに電話しました」

 受話口の向こう側から声がしなくなった。遠見は、考えをまとめると、

「そうだな……たしかに鯨様のことは情報が少ないよね……だとしたら、情報を知っていそうな人に聞くしかないだろうな」

「鯨様を知っていそうな人って、誰でしょうか?」

「すまないが、それは僕にもわからない。だけど、鯨女いさめ教の年配者たちのなかに、もしかしたら詳しい人間がいるかもしれないね」

 確かに、そこだったら誰かしら鯨様のことについて知っている人がいるかもしれない、と思い、

「ありがとうございます! さっそく行ってみます!」

 というと、遠見がなにか言い掛けたが電話を切ってしまった。

(鯨女教といえば、西光寺に集まってるはず……そこにいって鯨様のことについて聞いてみよう)

 さっそくバイクにまたがり、西光寺を目指した。

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