第4話 呼び声

 八月十一日 三日目


 朝目覚めてみると、昨日まで雑音だと思っていた耳の奥の音が、はっきりと小さな女の子の笑い声だとわかるようになっていた。タオはその不気味な笑い声に、胸の内がしんと冷えるのを感じた。


(古文書に書いてあった通りだ……本当に女の子の笑い声だったんだ)

 昨日の良太とのやりとりから、何度か「鯨女神社祟絵詞」の古文書と口語訳を読み返してみたが、祟りを直す方法を見つけることはできなかった。笑い声にはさらに焦燥感を駆り立てられた。


 ラインの通知が鳴った、ヒカルから、

――朝からごめん、あのさ、頭おかしいと思われるかもしれないけど、肝試しが終わってからずっと聞こえてた音、なんか小さな女の子の笑い声に聞こえない? みんなはどう?


 と投げ掛けがあったが返信することができなかった。返信してしまえば、それこそ祟られているということを認めることになるのが恐かった。既読は全員分ついたが誰も返事をしなかった、恐らくみんな同じ心境なんだろうと思った。


――ねぇ、誰か返信してよ! わたし、頭おかしくなりそう!

 すると良太が、

――ヒカルさんもなんだ? 実は俺も今朝から笑い声が聞こえるんだ。

――そうなの? やっぱり祟りなのかな、こんなの変だもんね。タオは鯨女神社を守る家なんでしょう? この祟りの終わらせ方なにか知ってるんじゃないの?

 タオは返信を躊躇した。なにもわかっていないと答えれば不安をあおることは間違いなかったが、それでも、

――私も今日から、笑い声が聞こえるようになって……やっぱり今起きていることは祟りなのかも。こんな時代にそんなことないだろうと思ってたけど。うちに古くから伝わる鯨女神社に関しての古文書には、その解き方までは書かれてなくて……。

――なにそれ? じゃあ、この祟りは終わらないってこと?

――わからない……今調べてるところなんだけどまだなんとも……。

 タオは返信してから息を整えるようにため息をついた。

――ふざけないでよ! わたし、まだ死にたくないよ! こんなのずっと続いたら頭おかしくなっちゃう!

 怒りをぶつけるような文面が届いて、胸が締め付けられる思いがした。

――ヒカルさん、落ち着いて。これはタオだけが責められる話しじゃない。もともと、肝試しを止めていたタオを無理やり連れてきたのは俺たちなんだから。

――だからって……いったいどうしたらいいの?

 ヒカルの問い掛けにタオは返信することができなかったが、数分して良太から、

――今まで通りの生活を続けよう。ヒカルさんも成績が危なくなるかもしれないけど、補習は出ないほうがいい。この状態で出たら周りの人間に違和感をもたれるかもしれない。タオと太一も、今まで通りなにごともなかったかのように過ごして、できるだけ人との接触は避けるんだ。その古文書に祟りを解く方法がないのだとしたら、島のどの大人たちも知らないはずだ。言い伝えだと、祟りの最後には安室と神浦に津波が襲ったとタオのおばあさんが言ってた。このことを島の人たちに知れたら、それこそパニックが起きてしまう。


 しばらく誰からも返信がなかったが、ヒカルが、

――わかった。でもこの先どうやって、祟りを終わらせる方法を探すの?

――それが一番の問題なんだけど、実は、タオがオチヨ様だと思われる女の子に会ったっていうんだ。それが本当にオチヨ様だとしたら、祟りが始まって目覚めたんだと思う。直接会って、謝罪して祟りを解いてもらう方法もある。危険だけど、俺も一緒に行くから、タオ、一緒にオチヨ様を探してくれないか? タオの神様の居場所がわかる能力があればできると思うんだ。オチヨ様を見つけたら、あとは俺が直談判してみる。


 ヘッドライトに映ったオチヨ様の顔が頭に浮かんだ。今はそれしか方法がなかった。

――うん。できるかどうかわからないけど、今はそれしかないもんね。でも会うんだとしたら、私だけのほうがいいと思う。鯨女神社で肝試しをしたときに、小さな女の子の声を聞いたの。その時に聞いた声は、とても怯えた声だった。オチヨ様って父親からの暴力で殺されたって聞いたから、知らない人がきて怖かったんじゃないかな。だから、私だけで行くよ。私たちの勝手で目覚めさせたのに、怯えさせるようなことしたら可哀想だから。


 すると良太から、

――……タオの優しさはわかるけど、相手は祟りを起こすような神様だからタオ一人なんかに行かせられないよ。絶対俺が会いにいくから、探すのだけ手伝ってほしい。


 タオは返信しなかった。一人で会いに行くことを心に決めていた。誰も危険な目に合わせるつもりはなかった。

 それから良太から待ち合わせの時間と場所を提案するラインが届いたが、返信はしなかった。もう食卓には朝食が並べられているかも、と思ったが、母親や祖母に会うのを避けるために朝食は食べないで外に出た。玄関をでるときに、母親から話しかけられたような気もしたが、例の笑い声でなにを言っているかはわからなかった。


 原付バイクのエンジンをいれて走り出す、オチヨ様がいそうな心当たりのある場所に手あたり次第出かけてみようと思い、不安と恐怖を抱えながらスロットルをひねった。


――。


 タオがやってきたのは、二日前に裸の少女とバイクで衝突しそうになったカーブの道だった。沿道にバイクを停め、森の中へ入り、草木をかきわけてその姿を探したが一向にみつからなかった。


(たしかにこの辺りにオチヨ様の気配を感じるんだけど)

 神様特有の気配を肌で感じながら、その姿をみつけることはできず、いったん森を抜けて、バイクまで戻った。ガードレールに両手を載せ、神浦の海を眺めながらタオは考えていた。


(オチヨ様、やっぱり私たちに怯えて姿を現してくれないのかも)

 その時、後ろから呼び掛ける声がした。


「おい、お前」

 振り返ると、森の茂みから小さな女の子がこちらに向かってきた。タオは驚きで胸が潰れそうだった。それは、二日前にここで見た白い髪の裸の女の子だった。

(オチヨ様だ)


 女の子は、わき目も降らず歩いて来た。タオは思いがけぬ出会いに、足がすくんで今にも膝から崩れそうだった。腐った磯のようなニオイがあたりに立ち込めた。

(これ……おばあちゃんが言ってた祟り神の臭いだ)


 タオは寒気がしてその場に立ちすくんだが、目の前まで来た少女をみて、

「あなたは、オチヨ様? ……ですか?」

 と尋ねた。


 少女は凍り付くような視線でタオを射貫きながら、

「そうだ、オラはオチヨ。お前、祟られてるんだろ?」

 と問い返してきた。タオはその視線にたじろいだが、ここを逃してしまっては後がないと思い、

「そうなんです、ごめんなさい。わたしたちの祟りを解いてください」

 と絞り出すような声で懇願したが、オチヨはその射貫くような視線をやめなかった。


「その声……やっぱりお前は、母ちゃんそっくりだ」

「母ちゃん?」

「お前だけは助けてやる。祟りを解いてやるから、もう二度とあの櫛には手を出すなよ」

「わたしだけ?」

 すると、オチヨは小さな手の平をタオの腹に押し当てた。

「お前、名前は?」

「私は……タオ、羽刺タオです」

 オチヨは視線をタオの腹に集中させた。手の平がずぶずぶとタオの腹の中にのめりこんできた。タオは驚愕し、身を震わるとオチヨが、

「痛みはないだろ? 助けてやるから安心しろ」

 と優しく宥めた。手首のあたりまで腹に沈めるとなにかを握る感触がタオにまで伝わってきた。オチヨはその手をゆっくりと抜き取っていった。


 腹部に、粘着性の温かい液体が動いているような感覚が襲ってきた。取り出されたオチヨの手の中には、黒いヘドロのような塊がうごめいていた。オチヨがふっと息をふきかけるとその黒い塊は透明になって姿を消した。

「タオの魂に少し触れたから、その衝撃で意識を失うけど、すぐに回復するから心配するな」

 そのオチヨの言葉を聞き終わるかどうかの瀬戸際で、タオの意識は真っ暗になりその場に倒れ込んでしまった。


――。


 ヒカルは頭を抱えていた。

 補習に出ないことを良太から言われたが、欠席をすれば間違いなく単位を落とすことになる。祟りも確かに恐ろしいし、笑い声で周りの声は聞こえないけれど、最悪留年などということになれば親や教師からも怒られるし、なによりそんな恥ずかしい状況は考えたくもなかった。


(もういいや、出席したかどうかなんて言わなきゃわからないんだから、とりあえず補習はみんなには黙って出ちゃおう)


 そう思い直し、制服に着替えて家を出た。

 教室に行くといつもの勉強ができないメンツがそろっていた。おはよう、と挨拶をされているのだろうが笑い声で聞き取れないので、適当に返しておいた。その返答で合っているのか不安になりながら、ヒカルは窓側の一番後ろの席に着いて補習授業が始まるのを待った。


(やばいやばい……ホントになに言ってるのか聞こえないや。とりあえず雰囲気で察して、適当に返事しておこう)

 しばらくすると教師が入って来て授業が始まったが、声は聞こえなかった。耳の奥の嘲るような笑い声に心臓を踏みつぶされそうだった。冷や汗がにじみ出るのを感じながら、当てられないことを祈って、無事に補習が終わることだけで頭がいっぱいだった。板書を書き写す字が震えてうまく書けず、頭が呆然としてきた。


 ふと、視線を感じて前を向くと、教室中の視線がヒカルに集まっていた。生徒たちの訝し気な視線が集中し、教師も矢を射るような目でこちらをみていた。教師がヒカルに向かってなにか話している、だがその声は耳の奥の笑い声にかき消されて届かなかった。

(なになに、どうしたの? もしかしてわたし当てられてる?)

「……はい」

 と声を出したが、もはや自分の声が出ているかどうかさえわからなかった。眉間にシワを寄せて、明らかに不審に思っている生徒もいた。


(やばい、なにか答えなきゃ……でも質問の内容もわからないのにどうやって)

 鼓動が速まって息苦しくなり、顔と肩が震えた。どうしても平常心でいられることができなかった。


 教師が、心配そうな表情をして、なにか話しかけながらヒカルの元に近づいてきた。この場から逃げ出したくなって、教師が近づいてくるたびに、少しずつイスを後ろに引いてしまう自分がいた。


「あの……ごめんなさい」

 視線を落としながらそういうと、ヒカルは急に立ち上がって、走って教室から飛び出した。不安や恐怖から逃げるように、全速力で廊下を走った。


(やばい……逃げちゃった、どうしよう。絶対変に思われた……)

 無意識に屋上へと階段を駆け上っていた。

 屋上へと続く鉄扉を開けて外に飛び出ると、膝に両手をついて肩で息をした。

(屋上まで来ちゃった……どうしよう、誰かに追いかけられてたら捕まっちゃう。それにしてもこの笑い声、どうやったら鳴りやむの?)


 笑い声に音を支配されながら、少しでも気を紛らわせようとフェンスまで近づいた。

 そこからは海まで見渡すことができた。昼休みになるとユーチュー部の四人でこの屋上でご飯を食べるのが日課だった。太一がいつもバカなことをいって、良太とヒカルで冷やかし、タオがいさめる、本当に良好な関係だったし、一緒にいて楽しいメンバーだった。


 でも今は、耳の奥の笑い声で体中が心から震えていた。ヒカルはフェンスの際にしゃがみこんで、

「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! お願いだから黙ってよ! 私が悪かったから」

 と胸の内の汚濁を吐き出すように叫んだが、無情にも鳴り止むことはなかった。

「……どうしてこうなっちゃったの? 私はただ良太くんと肝試しをしたかっただけなのに」

 しゃがみこみながら耳をふさいでいると、笑い声の間を縫うように、悲哀に満ちた鯨の鳴き声が混じった。


「これ、夜に聞こえる鳴き声だ。鯨様の鳴き声が聞こえる」

 錆びた弦楽器のような鳴き声が笑い声に絡まって、頭の中枢へと進んでいく。

「鯨様が呼んでる……鯨様の元へ行かなくちゃ」

 ヒカルは放心状態になり、支配されるままにフェンスをよじ登ると一歩を踏み出すように屋上から落下した。


――。


タオは真っ暗な意識のなかで、夜に聞く鯨の鳴き声を聞いていた。

――この声、あの鯨様の鳴き声だ……どうして……まだ昼間のはずなのに鯨様の声が聞こえるの?

 身体が動かず、耳をふさぐこともできなかった。鯨の鳴き声はやむことはなく、なす術がないままじっと聞いているとだんだんと目の前の暗闇が濃くなってきて、さらに意識を奪われていくようだった。

――鯨様が呼んでるんだ……鯨様のもとにいかなくちゃ……。

 だが、体は動かず、とうとう意識はより深い暗闇へと溶け込んでいってしまった。


 気が付くと、自分の家の居間で、布団の上に横になっていた。額には冷たいタオルがかけられていた。身体が熱を帯び、呼吸が荒くなっていた。

「やっと気が付いた……よかった……あなたずっとうなされていたのよ。この塩水飲みなさい、起きられる?」

 と側に座っている母親のリョウコが、脇に置いていた塩水の入ったコップをタオに差し出した。タオはふらつきながら上体を起こして、塩水を口に含んだ。


「どうして、私……オチヨ様に会って……」

「オチヨ様? なに言ってるの、夢でも見てたの? あなたが道に倒れているのを遠見さんの息子さんが連れてきてくれたのよ」

 ずっと側で見守っていてくれていたのか、母親が心配そうな顔をしていた。

 時計をみると、午後五時を過ぎたあたりだった。だいぶ意識を失っていたらしい。


「良太が?」

「そうよ。急いでるのかわからないけど、あなた置いてすぐ出て行っちゃったわよ。お茶くらい出そうかと思って声をかけたのに、なんの返答もしないで歩いて出て行っちゃったわ」

 ラインの返信をしなかったから心配をした良太が探しに来てくれたんだ、と思った。そういえば、さっきから耳の奥に染み付いた笑い声が聞こえなくなっていた。本当に祟りが解かれたんだ、と思った。


「きっと熱中症ね。朝ごはんも食べないで、この暑いのに外に出ちゃうからよ。行先も告げないで、いったいどこに行ってたの?」

「ごめんなさい、人に会いにいってたの……ねぇ、昼間にさ、鯨の鳴き声みたいなの聞こえなかった? 夜に聞こえるのと同じような」

 するとリョウコは不思議そうな顔をした。

「鯨の鳴き声? そんなの聞いてないわよ。暑さでどうかしちゃったんじゃないの? 大丈夫?」

(やっぱりあの声、私の頭に直接響いてきた声なんだ……他の三人も聞いているのかな)


 そう考えていると、家の電話が鳴って、母親が立ち上がった。

(でも、お母さんの声に反応しないで行ってしまったということは、良太はまだ周りの音が聞こえてないんだ……たぶん、他の二人も)

 オチヨに会うことはできたが、全員の祟りを消すことはできなかった。不甲斐なさを感じながら、天井を眺めていると、

「タオ、学校の先生から電話よ。なにか聞きたいことがあるみたい」

 と母親が呼び出してきた。


(学校の先生が? いったいなんだろ)

 心当たりがないまま、玄関口に行き受話器を取ると、担任の林からだった。

「羽刺か……伝えようかどうか迷ったんだが、落ち着いて聞いて欲しい。これはお前にしか話せないことなんだが、今日、頭衆が屋上から飛び降りたんだ」

「えっ……ヒカルが? どうして?」

 唐突な知らせに、頭が真っ白になった。林の声は暗く、静かだった。

「今日の補習の授業中、頭衆の具合が悪そうだったから声をかけたんだ。汗をかいて息も落ち着かない様子だったからな。だけど、あいつ俺の目をみるだけでなにも答えないんだよ。それで、また声をかけたら、教室から飛び出してしまって」

「それで……屋上に?」

「俺も突然のことに驚いたんだが、追いかけて屋上までいったらフェンスのあたりにいるから、どうしたんだ、と声をかけたんだ。そしたら急にフェンスをよじ登って飛び降りてしまって……。俺がもう少し早く着いてれば止められたかもしれないんだが……」

「ヒカルは? ヒカルは大丈夫なんですか?」

「それが、幸か不幸か下にある車のボンネットに落ちて、命に別状はないみたいなんだが、全身を骨折してしまってな。羽刺は頭衆と仲がいいから、なにか事情を知ってるんじゃないかと思って」

 祟りのことが頭に浮かんだけれど、それを話すと島が混乱に陥ると思い、

「……いえ、すみません。ヒカル、ずっと明るかったから」

 と良太たちとの秘密を守った。


「……そうか、そうなんだよな。明るいように見えても、年頃の子は繊細だから。なんせ目の前で見てしまったから責任を感じてしまって……。なにか知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだ。驚かせて悪かったな」

「いえ……教えてくださってありがとうございます。ヒカルが今どこにいるか教えてもらえませんか。お見舞いに行きたいんです」

「安室の診療所の先生に来てもらってそこまで運んでもらったが、なんせあの怪我だから、面会謝絶かもしれない。だけど、頭衆の親友だといえば会わせてもらえる可能性はある」


 タオは礼を伝えると電話を切った。受話器が鉛のように重かった。胸が押し潰されそうになりながら、自分を落ち着かせようと顔を手でおおった。

「まさか……ヒカルがこんなことになるなんて」

薄い意識のなかで聞いた鯨の鳴き声を思い出していた。あのとき、意識を失っていなかったら、あのガードレールの先の崖に落ちて死んでいたのではないか、と思った。


(早くこの祟りを止めなきゃ、本当にみんな死んでしまう。でもどうしたら……ひとまずヒカルのもとへ行ってみよう。なにかわかるかもしれない)

 そう自分を奮い立たせると、玄関に置いてあるヘルメットをかぶり、台所にいる母親に震える声で話した。

「お母さん……今の先生の電話なんだけど、ヒカルがね……学校の屋上から飛び降りたって」


 リョウコは野菜を切っている手をとめて、

「飛び降りた? ……あのヒカルちゃんが? どうして? ウソでしょう?」

 と驚きを顔に浮かばせながら聞いてきた。タオはかぶりをふった。

「……わからないけど、今安室の診療所にいるんだって。骨折はしてるけど命に別状はないみたい。私、行ってくる」

「……わかった。友達が近くにいれば少しは安心するかもしれないものね」

 タオはバイクで診療所へと向かった。気持ちがはやった。祟りのことについて周りの大人に話せないことがもどかしかった。外はもう日が暮れかけていた。


 安室診療所は、安室港にあるフェリーの発着所の近くにある平屋の木造建物で、この島唯一の正規の医療施設であった。

 タオは診療所の横にバイクをつけると、インターフォンを押した。中から、三十代くらいの眼鏡をかけた男性が出てきた。


「あの、私、頭衆ヒカルの友達の羽刺タオといいます。お見舞いに来たのですが、会わせてもらえないでしょうか?」

 とお願いをすると、

「あの女の子の友達か……悪いが、とても話せる状況じゃないんだ」

「ヒカルのケガはそんなにひどいんですか?」

「怪我もそうなんだが、うわ言のように、鯨様とかオチヨ様とかいい続けるんだ。意識がもうろうとしているみたいで」

 タオは医師の目をじっと見ながら、

「あの、わたし親友なんです。だから、会えば少しでも気持ちが和らげばいいと思って。会わせてもらえませんか?」

 と食い下がった。


「困ったな。だけど、あの状態じゃ会わせるわけにもいかないよ。悪いが帰ってもらえないか」

 そこへ、「タオちゃん」と後ろから声をかけられた。振り返るとヒカルの母親が、衣服などの日用品を持ってこっちへ向かってきていた。

「おばさん」

「タオちゃん、来てくれたんだね。誰から聞いたの?」

「あの、林先生から事情を聞いて、心配になって来たんです」

「そうだったの。ヒカル、ケガが酷くてね。話せるかわからないけど、一度会ってやってくれないかな。タオちゃんの顔をみたら少しは気持ちも和らぐかもしれない」


 すると医者が、

「お母さん、困りますよ。ヒカルさんは今絶対安静なんです。家族以外いれることはできない」

「先生、お願いします。タオちゃんはヒカルと親友で、小学校のころからの友達なんです。会えばなにか変わるかもしれません。お願いします」

 医者は困惑した顔になったが、

「お母さんがそこまで言うんなら……でもいいですか、五分だけですよ。ヒカルさんが苦しむようなら即刻やめてくださいね」

 という条件つきで面会を許可してくれた。


 診療所に入ると、中は待合室になっており、右に病室へと続く廊下があった。木造の内装を目にしながら廊下を進み、病室へ入るとヒカルの呻き声が聞こえた。

「痛いよぉ、痛いよぉ……許してください、私が悪かったですから。ごめんなさい、鯨様、オチヨ様……」

 その声を聞いて、タオはそれ以上進めなくなった。立ち止まっていると、

「あの子……ここに着いてからずっとあんな感じなのよ。鯨様とかオチヨ様とか、私にはなんのことだかわからなくて……痛々しいかもしれないけど、あの子の顔だけでもみてあげてくれない? タオちゃんが来たとわかったら、少しは痛みも和らぐかもしれないから」


 その言葉に背中を押されて、病室の奥まで進むと、そこには全身を包帯で包まれたヒカルの姿があった。今にも消えそうな声で痛みを訴えていた。思わず目をそらした。

「ごめんなさい、おばさん。私、あのヒカルの姿とてもみてられない……」

 タオは泣いてはいけないと思いながら、目に涙をためこんだ。こぼさないように必死だった。

 ヒカルの母親は視線を落とし、

「そう……そうだよね、ごめんなさいね、あんな姿を見せてしまって。娘のためになればと思って、私……」

「いえ、ごめんなさい、私の方こそなにも力になれなくて……すみませんが、帰ります」

「わかったわ。ねぇ、タオちゃん、あの子がどうしてこんなことになったか知らないかな? タオちゃん、ヒカルと仲がいいからなにか知ってるんじゃないかと思って」

 タオは思わず、視線を下に向けて、

「……ごめんなさい、力になれなくて……すみません」

 そうして病室を後にした。待合室には先程の医師が立っていた。


「わかっただろ? 屋上から飛び降りて、運よく下に車があったから命は助かったが、あらゆるところを骨折してるんだ。痛み止めを処方してあげたいけど、この高波で物資が届かなくてね」

「どうにかならないんですか? 痛みだけでもどうにか」

「……どうにかしてあげたいのはやまやまなんだが、薬がないことにはなんとも。あの高潮がやむまでは我慢してもらうしかなさそうだ。私もこの病院に常駐するつもりだから、出来る限りのことはやるつもりだよ」

 宥めるような言葉をかけられ、タオはその場を後にした。自分のできることが限られていることがもどかしかった。


どうしてもオチヨ様に直談判をして、全員の祟りを解いてもらわなければいけないと思った。だけど、この島のどこにも神様の存在を感じることができなかった。神浦の海に行ってみようと思った。鯨が海から姿を現すのならば、オチヨも一緒に海にいるのかもしれない。そう思い直し、タオは神浦の海へとバイクで向かった。


安室から神浦の海まではバイクで十分ほど走らせた場所にある。

ここは、江戸時代に捕鯨の本拠地とされた場所だが、今では定置網漁用の船の波止場に変わっていた。波止場は堤防で整備され、無機質な印象を与えたが、その横の砂浜は整理されないで昔の形を残していた。海浜を西に行くと神浦の森と呼ばれる森が広がっていた。


タオは、堤防の脇にバイクを停めた。時間はもう午後六時を回って、太陽が海の地平線に沈もうとしていた。

(こんなに薄暗くてみつかるかな)

 一抹の不安を覚えながら、まずは堤防の周りから探すことにした。


 堤防の下、神浦の町中、神浦の森まで探してみたが、どこにもいなかった。

(もしかしたら視界のなかに入ってるけど見つけられてないだけなのかも)

 注意深く目を凝らして探すので一つ一つの場所に時間がかかった。

 探索をして一時間ほどたつと、完全に日の入りをし、辺りはすっかり夜に包まれた。街灯が灯った。


 諦めかけて、海辺寄りの街路をとぼとぼと歩いていた時だった激しい水音とともに軍艦のような巨大な影が海面から飛び上がった。鯨だった。わずか三百メートルほど先の出来事にタオは思わず目を奪われた。

 遠くからみたことはあるが、これほどにも近い距離でみたことがなかったので、足がすくんで動けなかった。

巨大な鯨の影は、みるみるうちに半分ほどの大きさになるほどの距離まで跳び、体を反転させて真っ逆さまに急降下した。

 瞬きもせず見入っていると、鯨の背中に、小さな人影があった。

(オチヨ様だ)

 とタオは気が付いた。大きな鯨の背中に、小さな体のオチヨが必死にしがみついてなにか叫んでいたが、その内容まではわからなかった。


(どうしてオチヨ様が……)

 鯨の巨体が轟音と共に海に呑まれていった。地面から振動が伝わり、さらに恐怖は駆り立てられ、その場にしゃがみこむと、高波がタオを目掛けて押し迫ってきた。

 さらわれる。そう覚悟したとき、誰かがタオの身を抱えた。顔をみると良太が必死の形相でタオを抱えて、波に追われながら神浦の町へと走っていた。

「良太」

 砂浜から離れたコンクリートの壁沿いにタオをおろすと、良太は両手を地面について肩で息をしていた。波は足元近くまできてひいていった。

「良太! 大丈夫?」

 タオは四つん這いになっている良太の背中に手を乗せた。全身が異常な発汗で濡れそぼっていた。


「タオ、危ないじゃないか。鯨が出ることがわかってるのに海の近くにいたら」

 息を切らせながら、タオを心配した。その目は精神的な疲労でまいっているようにみえた。

「ごめん、オチヨ様を探すのに夢中で鯨が出てくること忘れてたの」

 すると良太はタオの目をじっと見据えて、少しの沈黙の後、

「もう周りの音が聞こえるのか?」

 と尋ねた。タオは、良太はまだ音が聞こえないんだ、と思い、携帯を取り出して急いで文字を打った。


――さっきオチヨ様に会って祟りを解いてもらったの。私だけ解いてやるっていわれて。

 すると、良太は口元に微笑を浮かべて、

「そうか……よかったよ。タオだけでもまずは解かれて。お前、俺のラインわざと返さなかったろ?」

――うん、ごめん。わたし一人じゃないとオチヨ様に話聞いてもらえないと思って。

「バカだな。お前だけ危険な目に合わせられないよ。タオのことだから、たぶん一人で探しに行ってると思ったんだ。倒れてるのを俺が見つけなかったら熱中症で酷いことになってたかもしれないんだぞ」

――どうしてここにいるの?


 良太は、うつろな視線を海へと向けながら、

「お前が神浦の海から鯨が現れるって言ってたから、来たらなにかわかるかもしれない、と思ってきたんだ。お前一人に任せっきりにできないから。あの高波、やっぱり鯨様のせいなのか? 俺には姿は見えないけど、音だけは聞こえる」


――うん、私が海の近く歩いてたら、鯨様が突然海から飛び出してきて、体を海面に叩きつけたの。そしたら波が起きた。オチヨ様が鯨様の背中にしがみついてる。

 良太は表情に驚きを浮かべた。

「オチヨ様がいるのか?」

――だけど……神様の臭いがしないの。昼間に会ったときは、磯の腐ったような臭いがしたんだけど。私、祟りを解かれるのと引き換えに、神様のニオイと居場所、わからなくなっちゃったかもしれない。


「いいよ、お前だけでも無事でいられれば。よかった、本当によかった」

 まだ良太は肩で息をしていた。汗もやんでいなかった。

――具合悪いの? つらそうだけど。

「あぁ、耳の奥でする笑い声が辛いんだ。だんだんと精神をむしばまれて、汗が止まらないんだよ」

 目の前の良太を見ていると、鉛の溶けた液体が胸に沈んでいくような重苦しさを感じた。目の前の友達を救えない不甲斐なさと自分だけが解かれた申し訳なさが込み上げてきた。


――良太、私、みんなの祟り絶対解いてみせるから。もう少しだけ我慢して。

 すると、また良太は微笑んで、

「いいんだよ。相手は神様なんだから無理するな。またお前が祟られるようなことがあったら、俺は死んでも死にきれないよ。この前の話しだと、六日目に鯨様に呼ばれて殺されちゃうんだろ? 自業自得だ」


 言葉が詰まったが、意を決したように携帯に文字を打ちこんだ。

――いおうか迷ったんだけど、今日ね、ヒカルが学校の屋上から飛び降りたの。命に別状はないみたいなんだけど、祟りのせいだと思う。私も今日、鯨様に呼ばれて、意識を失ってなかったら崖から落ちてた。

「ヒカルさんが屋上から飛び降りた? 鯨様に呼ばれたってなんのことだ? 俺はそんなことなかったぞ」


――良太は呼ばれなかったの? どうしてだろう。私とヒカルだけだったのかな。

「太一からは一向に連絡がないからわからないが、そうかもしれないな」

――さっきヒカルのお見舞いに行ったんだけど、全身包帯でくるまれてて、痛々しかった……ヒカルをみて思った。私が絶対この祟りを解くから、だから、死ぬなんていわないで。


 良太はタオの目を見据えた。

「わかったよ、死ぬなんていわない。ちょっと精神がまいってるだけだ、俺はお前を残して死なない……だけど、ひとつだけタオに伝えさせてくれ」

 タオは良太の真剣な眼差しに、なにを伝えたいのか考えたが、皆目見当がつかなかった。


「俺、お前のこと中学生のときからずっと好きだったんだ。優しくて、真面目で、子供の面倒見がよくて……明るいし、話してて楽しいから。本当は……こんな状況じゃなくてちゃんと告白したかった。こうなるんだったらもっと早く伝えておけばよかった」

 「え?」とタオは口にもらした。すると良太は笑って、

「驚いた顔してるな。友達だと思ってたやつに急にこんなこと言われたら無理もないよな。ごめんな」

 目から思わず涙が出てきた。嬉しいのと、自分を好きだといってくれた目の前の人が、あと数日後で死んでしまうかもしれない悲しさとが入り混じった感情だった。


「嬉しい……ありがとう。私も、良太のこと……」

 そこまで口にすると、良太が、

「なに泣いてんだよ、悪かったよ、びっくりさせて。返事言ってくれてるのか? 聞こえないからわからないけど……いいよ、祟りが終わったら返事聞かせてくれ」

 と答えて、また海に視線を戻した。

 つられて、タオも海に視線をやると、またあの大きな鯨の影が海面から高々と飛び上がり、海面に背中を落とした。


「オチヨ様……まだいる」

 轟音が鳴り響いて、高波が近くまで押し寄せ、ひいていった。風も出てきた。波の音が空気に張り詰めたように、波風以外の音が聞こえなくなった。

数分後、また鯨が姿を現して体を海面に叩きつけた。夜の海が高鳴った。

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