第3話 鯨女神社祟絵詞《いさめじんじゃたたりえことば》

八月十日 二日目


 夜の十時ごろになって例の爆発音はようやく治まった。昨夜はなかなか寝付けず、頭が重かった。 

 耳の奥でする音は、昨日よりも大きくなったような気がしたが、その原因がなんなのかまだわからなかった。

 大島支所からのお知らせメールが届いていた。そのメールはここ上之濱大島の防災、防犯、もしくはイベントの情報を配信する市からの正式なメール通知だった。


「昨夜、爆発音が神浦地区の海上から聞こえました。原因は不明ですが、今朝から起きている高潮の影響で、本島からのフェリーが運航中止になっております。高潮がやみしだいの調査になりますので、神浦地区の住民の方々は、できるだけ外出を控えてください」


 その文面を読み、昨夜の黒い影を思い出していると、今度はユーチュー部のグループに太一からメッセージが届いた。


――おっはよーさーん! 昨日の爆発音すごかったなぁ! 何度も何度も続いて! これは撮影しなければと思って、神浦方面の海撮影したらすげぇもんが映ったぞぉ!

 すると良太が、「大丈夫か、お前? 不安じゃないのか?」と返信していた。

――な☆に☆が☆?☆

――俺たちが肝試ししてから変なことが起きてるじゃないか? もしかして祟りとか思わないのか?

――んなー!ww 祟りなんて今どきあるわけないでしょうが! 良太くん、怖い番組のみすぎなんじゃないの?

――マジメな話しだよ。

 そこにヒカルが入った。

――そうだよ、それにあの肝試しが終わってから、なんか耳の奥で変な音しない? 耳鳴りっていうか、人の声に聞こえなくもないんだけど。タオもするって言ってた。

 そこに良太が、

――ヒカルさんもか。俺も昨日からする。昨日より今日の方が大きくなってる気がする。

 タオはメンバーのやり取りをみながら、やっぱりこの四人に同じ現象が起きてる、と思った。

――ありゃ? みんなもそうなんだ。俺もするんだけど、そのうち治るだろ。それより昨日すごいもんが撮れたんだってー!

 太一が、笑顔の顔文字をつけてまるで茶化すようなメッセージを送ってきたが、ヒカルがそれを無視するかのように、

――これ本当に祟りじゃないよね? わたし怖くなってきちゃった。なんか変なこといっぱい起きてるもんね。

良太が、

――……タオのおばあちゃんは、櫛を返したら祟りが終わるっていってたけど、どうしたら終わるんだろう。タオはなんかわかるか?

 とタオに問いかけた。昨日、神浦から飛び上がった黒い影の話しをしようかとも思ったが、不安を煽ることになりそうなので、

――ごめん、わたしもわかんない……おばあちゃんにそれとなく聞いてみる。

 と答えて胸が重くなった。


 それからヒカルが、「補習いく時間だ! みんな、またあとでねー」と返して、ラインはそれっきり止まった。


 食卓に行ってみると、いつもならまだ仕事に出ているはずの父親が座ってテレビを観ていた。

「あれ、お父さん、どうして?」

 勇一郎は顔を曇らせながら、

「港まで行ったんだが波が荒くてなぁ。無理して沖合に出たはいいんだが、網にもまったく魚がかかっていなくて。まるで海から魚が消えちまったみたいだ」

 と答えた。

「……昨日のあの音となにか関係があるのかな?」

「さぁ、どうだろうな。原因は不明だ。魚の選別作業もないし、だから今日は早く帰ってきた」


 ふと、隣の和室でキミヨがしゃがみこんでノートを広げているのが目に入った。

「なに、読んでるの、おばあちゃん?」

 とタオが近づいて尋ねると、キミヨが顔を上げて、

「これはな、鯨女神社について書かれた古文書をじいさんが口語訳してくれたものだ。昨夜の音が気になってな」

「え! そんなのがあるの?」

 古文書があることは知っていたが、口語訳をしたノートがあることは初耳だった。祖母の隣に座り込んでノートを覗き込んだ。几帳面な字が並んでいた。

「じいさん、高校の古文の先生でね、古い書物が好きだったんだ。後の人がこの古文書のことを読めなくなったら大変だといって、じいさんが残してくれたんだ」

 キミヨは誇らしげだった。

「おじいちゃん、私が生まれたときにはもういなかったけど、頭のいい人だったんだね」

 キミヨは、高らかに笑って、

「そうだろ、そうだろ。ここにはな、江戸時代に起きた祟りの内容とそれがどう治まったかが書かれてるんだ」

「そんなことまで? おばあちゃん、それ読んでみたい」

「おー、そうかそうか。最近、タオが鯨女神社に興味を持ってくれて嬉しいよ。これはタオに預けるから、思う存分調べてみな」

「ありがとう、おばあちゃん」

 するとキミヨは喜色満面に、

「うんうん、これも持っていきな」

 と古文書の原書も渡してくれた。「鯨女神社祟絵詞」と筆文字で書かれた、いかにも年代物の黄ばみがかった書物だった。表紙には「良淳」という著者であろう名前も記されていた。

「こんな大事なものいいの?」

「いいよ。文字は読めないかもしれないが、それは鯨女神社祟絵詞といって、ところどころ絵も描かれている。その絵とこのノートの文章を読めば、より理解が深まると思うよ」


 タオは満面の笑みでお礼をいって、さっそく自分の部屋に持ち帰った。勉強机にノートと「鯨女神社祟絵詞」を広げた。

 一番初めのページに「この書物は、オチヨの母親ヨネの証言を中心に書かれている」と記載されていた。

 以降は「鯨女神社祟絵詞」を口語訳した祖父の文章である。


――。


 まず、この書物を書く理由は、ここ上之濱大島に起きた祟りを後世の人間にも起こして欲しくないためである。オチヨと鯨が起こした祟りの被害は甚大で、島民の生活は数日ではあるが食べ物にも事欠く有様で、最終的には神浦と安室の村を巨大な津波が襲うことになった。


 私たちは祟りを鎮めるために、まず、オチヨの使っていた櫛をもとに供養し、鯨女神社を建立し、これを納めた。なお、この櫛の提供はオチヨの母親であるヨネによる。櫛は毎晩オチヨの髪をとかしていた物で、物には使っていた所有者の魂の分が込められると言われている。それにより、この櫛を御神体とした。今はまだ定かではないが、この櫛に害を及ぼす者がいれば、その者は祟られる恐れがあるので、十分大事に図っていただきたい。


 次に、祟りの恐ろしさを後世に伝えるために、どのような事象が起きたのかを綴っていく。


 この祟りは、神浦の浜辺に打ちあがった鯨の腹の中からオチヨの遺体が見つかった翌日を祟りの一日目とする。


 その日から一層の苛立ちを嘉左ヱ門は見せるようになった。これは私たち鯨取りのなかでももっぱらの関心ごとで、作業に対してより神経を尖らせることになったが、こと妻のヨネには八つ当たりのような行動が増えた。


 ヨネはオチヨが夫に殺されたことを知っていた。夫に戦々恐々とし、涙にくれる日々を過ごしていたが、泣いているヨネに嘉左ヱ門は苛立ち、オチヨを殺害する以前より自分の世話をすることを強要するようになった。


オチヨの遺体が鯨の腹から見つかった翌日、嘉左ヱ門からはよく耳の穴を指でほじくる仕草がみてとれた。それから、注意散漫になった。風もなく、嵐が来ているわけでもないのに不思議と海が荒れていた。私たち鯨取りは、その様子を遠見場から眺めていた。これでは、たとえ鯨が現れたとしても出航するわけにはいかなかった。


 その夜、大砲を打ち上げたような轟音が神浦の海から聞こえた。これは島民全員が耳にしている。嘉左ヱ門とヨネは外に出て、海をみた。しばらくみていると、また同じような音が轟いた。このとき、ヨネは神浦の海からなにか巨大な影が空に打ちあがり、海に落ちていくのを見たという。その姿が見えたのは島民のなかでもヨネだけのようだった。


二日目も海が荒れていた。鯨取りは遠見場から海を眺めるより仕様がなかった。水主たちは網の補修を行っていた。


 その日の夜、相変わらず苛立ちながら酒をあおっていた嘉左ヱ門が、「この耳の奥にこびりついている声はいったいなんなんだ、昨日よりも大きくなっていやがる」とが鳴り声をたてた。嘉左ヱ門は冬だというのに脂汗をかいていた。嘉左ヱ門の声に長男の嘉一郎が泣き出した。それに憤慨した嘉左ヱ門は、一喝しながらぐい飲みを嘉一郎のもとに投げた。ヨネがかばうと額に当たり血が流れ出た、という一件があったとヨネは教えてくれた。それまで嘉左ヱ門が嘉一郎に手を出したことがなかったが、よほど神経が弱っている事の表れだろう。


 三日目、冷え込む時期だというのに嘉左ヱ門は朝から脂汗をかいていた。

 この日、遠見場での嘉左ヱ門の様子は異様だった。遠見場に上らず岩場に座り、オチヨの祟りだ、オチヨが俺を殺そうとしている、と独り言をずっと呟いていた。これには鯨取りたちも気味悪がって誰も近寄ろうとはしなかったが、一番親父の嘉左ヱ門がこの状態だといざというときに漁にならないので、三、四人の羽刺が囲って話しかけた。嘉左ヱ門はうつろな視線でじっと見ていたが、「何を言っているんだ、笑い声がうるさくて聞こえねぇんだよ」と意味不明な言葉を吐いたかと思えば、「お前ら、俺の悪口をいっているんだろう」と怒鳴りだしては、突然憤怒し、暴れに暴れだした。狂瀾怒濤の様子に鯨取りたちは右往左往した。他の鯨取りよりもひときわ大きな体をしている嘉左ヱ門が暴れると治めようがなく、暴れ続けた。

疲弊をみせた隙に、羽刺たちが嘉左ヱ門を抑え込むと、近くにあった縄で体をふんじばった。


 埒が明かないので数人で、嘉左ヱ門を自宅まで運ぶことにしたが、暴れるので容易ではなかった。ようやく家に着いてヨネに事情を話した。嘉左ヱ門はヨネを見るや「ヨネか。朝からずっとオチヨの笑い声が耳の奥から離れないんだ。一昨日から耳障りのように聞こえていたのが、ついに周りの音も聞こえなくなってしまった」というとまた錯乱をして「オチヨ、オチヨ、もうやめてくれ。俺のことを殺そうとしないでくれ、俺が悪かった、気が狂いそうなんだ」と叫び、もがいた。


 狼狽した羽刺たちが嘉左ヱ門に声をかけたが、「なんだお前たち、何を言っているんだ。お前らも俺を殺そうとしているんだろう、俺が憎くて仕方ないか、どうせ俺は鯨を捕ることもできないろくでなしの一番親父だ」と叫びだした。粗暴だが、頼りがいのある嘉左ヱ門の豹変に鯨取りたちは不安の念を覚えた。


 その日から、ヨネと息子の嘉一郎は私の家の元に一時的にだが暮らすことになる。さすがにあの状態の嘉左ヱ門と一つ屋根の下で暮らすことは不可能だと思えた。

 相変わらず、夜になると神浦の海から轟音が鳴り渡った。


 四日目。刻を告げる鐘がなるときだけ、ヨネは自宅に戻り嘉左ヱ門の面倒をみた。食事や水を与え、排泄物の処理をした。嘉左ヱ門は一人ではなにもできない状態に陥っていた。嘉左ヱ門は横になりながら壁をじっと見つめているかと思えば、殺さないでくれ、と急な錯乱を繰り返した。「壁に黒い大きな影があって、そいつが俺を殺そうとしてる」と繰り返した。だがその影をヨネは見ることができなかった。また、「夢を見るんだ。夢の中に俺が現れて、俺が俺を殴り殺そうとしてくる。まるで昔、父ちゃんに殴られてるみたいに、夢のはずなのに殺されそうになる。ヨネ、お願いだからこの縄ほどいてくれ。逃げ出さないと本当にオチヨに殺されちまう」とも叫んだ。


 ヨネは私に、「本当にオチヨの祟りかもしれない。オチヨがあの人を祟り殺そうとしている」と大真面目に言ったことがある。この時はまだ是非の仕様もなかったが、夜の轟音と言い嘉左ヱ門の様子と言い、異変が起きていることは確かだった。


 五日目。漁に出られないために、お膳には野菜だけが並ぶようになった。野菜が並べばまだいいほうで、農家はともかく、荒波のために街に魚を売りに行けない漁師たちは野菜を買うことも出来ず貧困に喘いだ。


 嘉左ヱ門は時々、言葉を話したかと思えば、「父ちゃん、ごめんよ、もう俺を殴らないでくれ。きっと立派な鯨取りになるから」と呟き、また「オチヨ、俺を殺さないでくれ。まだ死にたくねぇ」とオチヨに対しての言葉も吐いた。


 ヨネが食事や水を与えようとしても口からこぼすばかりで、視線が合うこともなく、ろくに眠れないために目の下のクマが濃くなり、排泄物や垢のためにひどい悪臭がした。


 この日、数名の島民が私の家にやってきた。「死んだオチヨのために神社を建てたい」という案件を母親のヨネに伝えるためだった。島の異変はオチヨの祟りで、それを鎮めるためには神社の建立しかなく、そのためのご神体としてオチヨの遺物を島に託してほしい、と。だが、その案件にヨネは最初ひどく抗った。オチヨの遺物を取り上げないで欲しい、というのが言い分だった。これには島民たちも閉口したが、外で聞いていた女たちがひどい剣幕で上がり込んできて、「冗談じゃない。鯨組の一番親父だか知らないが、お前たちの家の者がやらかしたことが祟りになって、あたしたちは食い扶持にも困っているんだ。これがいつまでも続けば顎が干上がってしまう」と怒鳴りこんできた。神社の建立を提案してきた島民はその様子に激昂し、「この人は子供を一人殺されたんだ。その悲しみがわからないのか」と怒鳴りつけたが、熱がやむことはなく激しい言い合いになった。


 ヨネはたかが外れたように、「そっとしておいてください。どうして娘の喪に服すことも許されないんですか。お願いだから、そっとしておいてください」と泣き喚いた。いつも感情を表に出さないヨネにしては珍しいことで、これにはその場の騒動も静まり返り、島民たちは一旦その場を後にした。

 その日の夜も鯨の鳴き声が聞こえ、いつ終わるともしれない祟りに、島民はまさに暗雲低迷とした夜を過ごした。


 六日目。

 午の刻(正午)になり、ヨネが嘉左ヱ門に食事を与えるために自宅に向かうと、家 の中から何人かの島民たちが籠いっぱいに食料を積み込んで出てくるところだった。泥棒だと思い追いかけたが、逃げ足が速くすぐに姿が見えなくなってしまった。自宅へ入ると、嘉左ヱ門の顔や体中に傷ができていた。嘉左ヱ門は安室の人間を冷遇していたから、恐らく彼らの仕業だと思った。嘉左ヱ門は廃人のようになり、うめき声ばかりで意思疎通をとることがもはやできなくなっていた。衰弱しきった嘉左ヱ門の様子を見ていたらヨネが今まで抑え込んできた積年の怒りが込みあげてきて、台所にあった棒っきれで、何度も何度も嘉左ヱ門の頭を殴ると、その頭から血が出た。だが反応はなく、うめき声をあげるだけの様子に、ヨネは惨めさすら感じた。


 ヨネは縄がほどけかかっているのに気が付いたが、こうなってしまった以上、不要だろうと思い、縄を解いてやった。だが、嘉左ヱ門はそれに気が付く様子もなく、ただ横になってうめき声を上げ続け、オチヨに向けて謝罪の言葉を吐き続けた。


 

 夜には、土砂降りになった。相変わらず鯨の鳴き声があたりに響き渡っていたが、その日の鳴き声はいつもの悲し気な様子ではなく、興奮しているようにも聞こえた。


 ヨネが私の家から自分の家に戻ると、横になっているばかりだった嘉左ヱ門がなんと土間に立っていた。ヨネは心臓が止まりそうなくらい驚いたが、ぶつぶつと呟く声を耳にした。「鯨が呼んでいる……鯨とオチヨが呼んでいる……行かなければ」といって戸外に裸足のまま出て行ってしまった。冬の冷たい雨に打たれ続ければ死んでしまうと思い、ヨネは引き留めようとしたが、嘉左ヱ門はヨネを力づくで引きはがし神浦の海へと歩いて行ってしまった。


 ヨネは私の家へと急いで駆け戻った。事情を聞き、私とヨネはミノを着込むと神浦の海へと急いで向かった。


 砂浜に着くと、冷たい雨に打たれながら、海へと向かっていく嘉左ヱ門をみつけた。私とヨネは大声で名前を呼んだが、歩みは止まらなかった。駆け寄ろうとしたその時、ひと際大きい鯨の鳴き声があたりに響き渡った。ヨネはなにかに気づいたようで、私を手でさえぎり、「海べりから大きな鯨が顔を出して大きく口を広げている」、と言った。わたしにはなにも見えなかった。鯨の頭の上に小さい黒い影がある、とヨネは目を凝らしていたが、それがなにか気づくと、「オチヨ、オチヨがいる」、と何度も叫んだ。わたしにはヨネが錯乱して幻をみているようにしか思えなかったが、ヨネがオチヨの名前を叫びながら海へ向かおうとするので羽交い絞めにした。「放してください。オチヨがいるんです、オチヨが笑い声をあげて鯨の頭の上に立ってる。あの人を殺そうとしている」と何度も叫んだ。わたしにはただ黒い海が漠然と広がっているようにしか見えなかった。その時、大きな波が起きて嘉左ヱ門は呑み込まれてしまった。「鯨が夫を呑み込んだ」とヨネはいったが、私にはわからなかった。冬の海に呑み込まれてしまったら、いくら鯨取りの親父でももうダメだ、とヨネに告げたが、ヨネは何度も何度もオチヨの名前を叫んだ。嘉左ヱ門の姿は完全に消えてしまった。


 それから二日後、嘉左ヱ門の遺体が浜辺に打ち上げられているのを一人の島民がみつけた。遺体はなにか大きな生き物に全身を噛み砕かれたような跡があったが、鮫にでも食われたのだろう、と深く考える者はいなかった。海はいつもの穏やかさを取り戻して、島には日常が戻った。


 ヨネは嘉左ヱ門の死によって考えを改めたのか、オチヨが使っていた櫛を私に預け、神社の建立を認めてくれた。建立の計画が動き出したが、実際に建て終わるのは津波が終わってから数年後のことになる。


――。


 そこで文章は終わっていた。古文書には、祟られている間の嘉左ヱ門の様子、海上に空高く跳ね上がる鯨の絵、嘉左ヱ門を呑み込む鯨の絵が描き込まれていた。そして、古文書の最後のページに小さな女の子の絵が描かれ、右下には「オチヨ」と書かれていた。肩まで伸びた黒髪に、二重の切れ長の目をした瓜実顔だった。


(この女の子……昨日、バイクでひきそうになった裸の女の子そっくりだ……)


 バイクのヘッドライトを遮るように顔を手で隠していたからあまりみることはできなかったが、目が印象的だし、黒くはなく銀髪ではあったが、肩まで伸びていた。


(だとしたら、あの女の子はオチヨ様だったっていうこと? でもたしかに、見たことのない顔だったし、なにより白髪で裸で歩いているなんてそんな子いるわけない)    


 オチヨと会ったことをユーチュー部のグループラインに書き込もうかと思ったが、ヒカルを怖がらせることになると思いとどまり、良太だけに送ることにした。

 

 良太から返信が来た。

――それは、今この島と俺たちに起きていることとそっくりだな。それにタオがみた女の子が本当にオチヨ様だとしたら、祟りだと疑いようがないよな。

――そうだよね、本当にオチヨ様の祟りが起きているのかも。でも、お父さんが昨日の夜、鯨女神社に櫛を確かめに行ったらあったって……それでも祟りが終わらないのはなんでなんだろう……。

――……わからないな。古文書には祟りの終わらせ方とかは書かれていないのか?

――それが、特に書かれてないの。オチヨ様のお父さんが鯨に食べられてから祟りは止んだ、としかなくて。

――だとしたら、俺たちが鯨様に食われるまで祟りは終わらないことになるよな? だけど、タオのおばあちゃんから、盗まれた櫛を神社に戻したら祟りは終わったって聞いたぞ。

――そうなの。だから、前と違うことが起きてるみたい。他に助かる方法がないかもう少し調べてみる。


 そこまでやり取りをしているところに、大島支所からの防犯メールが届いた。

「前平地区にある牧場で、牛の変死体が見つかりました。大きな歯で食べられたような跡がありますが、原因は不明です。外出の際は、念のため動物や変質者に注意してください」

 

 タオは昨夜、追善踊りの練習の後に、恵比寿屋の牛が食べられた話しを思い出した。

(昨日、あのおじさんが教えてくれたことだ。あの話し、本当だったんだ……)


――。


 勉強机にノートパソコンを置いて、太一はユーチューブにあげた動画を確認していた。肝試しの回は、今までの最高再生回数を軽々と突破し、太一は有頂天になっていた。再生回数はまだ上昇し続けていた。櫛からぶわっと膨れ上がった黒い影や、不気味な鳴き声が人気の理由だった。


「この進行役(?)の男の子、テンション高すぎて雰囲気ぶち壊しなんだけどww」

「厨房が作った合成動画にしてはいい出来じゃないか」

「本殿の中が雰囲気があってなかなか怖かった」

「言い伝えのある神社は、本当に危険だからやめといたほうがいいぞ」

「この鳴き声って前回の動画でおばあさんが語ってたやつじゃね? 無駄に精巧ww」


 その動画が偽物であるかのようなコメントが多かったが、それでも太一は構わなかった。再生回数が増えれば自分たちは人気者になれる、そうすれば良太もタオもヒカルも喜んでくれるはずだ。


 肝試しの動画の次に挙げたものが急速に再生回数を伸ばしていた。神浦の海から、鳴き声と轟音が聞こえ、さっそく出掛けてカメラを回すと、そこには海から高々と飛び出す巨大な鯨の姿が映っていた。鯨が月を隠すほど飛び上がると、身体を海に叩きつけ、大きな波が生み出されるところまでが映し出されていた。


――見てください! オチヨ様の祟りです! 本当にこんな動画を撮れる日が来るなんて、ユーチューバーやっててよかった!


 動画で太一は興奮気味に視聴者に語り掛けた。動画を見返すたびに、この時の興奮がよみがえってくるようだった。


「ホント、こいつのお陰だ」

 パソコンの横に置かれた鯨の骨でできた櫛を手に取り、うっとりと眺めた。肝試しの時に、偽物と入れ替えてこっそり持ってきたのだった。

 そのとき、携帯にメールのお知らせがきて、開いてみると市からの防犯メールだった。


 その文面に太一は目を離せなくなった。

「お、マジかよ、すげぇ」

 そこには前平地区で飼われている牧牛が大きな生き物に食べられたような跡があるという内容が書かれていた。

「これももしかして……オチヨ様の祟り系なんじゃない?」

 太一は一人悦に入って、さっそくカメラを手に出掛ける準備をした。またいい画が撮れるように、お守りとして鯨の骨の櫛もズボンのポケットにしまった。


 部屋の外に出ると、まだ七歳の弟が廊下に立っていて、

「兄ちゃん、カメラ持ってどこに行くんだ? 俺も連れてけ!」

 といった。太一は面倒なやつに捕まったと思い、

「兄ちゃんはな、今大切な時期にいるんだ。トップユーチューバーの仲間入りになれるかの瀬戸際なんだぞ。それに、今からいく場所は危険かもしれないからお前のことを連れていくことはできない」

「なんだそれ! いやだいやだ! 連れてけ連れてけ!」

 と駄々をこねるので、

「ワガママいうな、兄ちゃんがトップユーチューバーになったらピカキンに会わせてやるからな。部屋のパソコン使っていいから動画をみて大人しくしてるんだぞ」

 すると弟は目を輝かせて、

「ホントに? がんばれ、兄ちゃん! 早くピカキンに会わせろ!」

 と丸め込められた。太一は弟の頭をなでて外に出た。


 太一は自転車のハンドルに携帯を固定して、自撮りしながら前平地区の牧場へと向かった。

「上之濱大島チャンネルをご覧のみなさん! さきほどですね、市から防犯メールが届きまして、この大島の牧場で飼われている牛が、なにか大きな動物に食べられたような事件が起きたようです。今、そちらに向かっています。これももしかして、オチヨ様の祟りなんでしょうか?」


 前平地区の牧場まで、急な勾配を何度も上り下りしなければならない、それだけで体力をかなり消費した。太一は息を切らしながら、

「着きました、前平地区の牧場です。本当にオチヨ様の祟りだとしたら、もしかしたらとんでもない化け物がいるかもしれません。では、行ってきます!」


 いつもは三十頭ほどいる牛が一頭もいなかった。太一はリュックサックからハンディカメラを取り出すと携帯から撮影を切り替え、柵を乗り越えて牧場へと侵入した。

 三千平米ほどの広さに、一面緑色の芝生がきれいに刈り揃えられており、牧場の奥は視界が開けて、神浦の空が見渡せる風光明媚な場所だった。


「ありゃー、一頭もいませんねぇ。防犯メールであった通り、みんな食べられてしまったんでしょうか?」

 カメラを片手に撮影をしていると、赤褐色に染まった芝生を見つけ近づいてみた。それは円形に広がっており、カメラを上げてみると、牧場の西側の森へと転々と続いていた。太一は臆することもなくその赤い点を辿ってみた。鬱蒼とした森の近くまで来ると、血生臭さが鼻をついた。


「ひどい臭いだ……なんだこれ」

 不審に思いながらも、森の奥へと進むと臭いがさらにきつくなった。

「臭いがひどくなってきました……まるでなにかが腐ったような臭いが立ち込めています」


 ふと、森の奥になにか大きな塊が転がっているのが見えた。さすがに身の毛がよだち、近づく勇気も起きないので、カメラをズームにし確認しようとした。最初、楕円形のなにかだったそれは、拡大するにつれて正体がわかってきた。腹と頭をかじられ、内臓が飛び出た牛の死骸だった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 と思わず叫んでしまう、映像がぶれてしまった。

「牛の死体だ……しかも一頭だけじゃなくて何頭も、いや何十頭だ……」

 最初に見つけた牛の死骸から、あたりを撮影してみると、同じような死骸が何頭も転がっていた。さすがの太一も身の危険を感じ、その場を離れようとしたとき、左側からばきばきっと枝が折れる音がし、心臓が止まりそうになるのを感じながら、音のする方を振り返ったがなにもみえなかった。


 だがカメラを向けてみると、液晶モニターに映ったのは頭の大きな、片目の潰れた鯨が、開いたもう片方の目をぐるぐると回転させながら尾ひれで地面を叩きながらこちらに向かってきている様子だった。

 無数の草木をなぎ倒すので、まるで雷鳴のような轟音をたてながら近づいてくる鯨の姿に、血の気がひき、太一はとっさに踵を返すと、一目散に自分の自転車へと突っ走った。


「うわぁぁぁ、やべぇぇぇ! こえぇぇぇぇ!」

 撮影などもう頭になかった。あれに捕まれば殺されるという一心でただひたすら走った。追ってくる音からひたすら逃げ、柵を超えて自転車にまたがると力いっぱいこいで牧場から逃げ出した。


「なんだなんだ、すげぇこえぇぞ! 鯨の化け物だ!」

 このとき、持っていたカメラとお守りのように持っていた鯨の骨でできた櫛を落としたことに太一は気が付いていなかった。


――。


「お前はどうして私の言うことが聞けないんだい!」


 頬を平手打ちされ、布団の上に倒れ込んだ少年は、肘で体を支えながらも母親のことを睨みつけた。母親は怒りで肩を震わせながら少年と対峙した。


「なんだいお前、母親の私を睨むなんてどういう神経してんだい! あんたなんか産まなきゃよかったよ!」


 と叫びながら、母親は少年の痩せっぽちの腹を蹴り上げた。少年はうめき声をあげながら、母親の代わりに布団のシミを睨みつけじっと痛みに耐えた。血の混じった唾液の味がした。


 母親は仕事だといって、部屋を出て行ってしまった。一人残された少年は、布団のシミを見つめながら微動だにしなかった。


 生活用品のゴミであふれた部屋が二人の住まいだった。弁当の容器、買い物袋、洋服が散乱し、残飯が放置された皿、吸い殻で山盛りになったガラス製の灰皿がテーブルに並び、何日も換気されていない濁った空気でその部屋は満たされていた。


 母親が息子である諾人に命じたのは、もう三日前から残っているパンの残飯を食べることだった。母親が買い物を億劫がりそれを命じたのだが、諾人にはカビの生えかかったパンを食べることはできなかった。以前、それで激しい腹痛を起こしたことがあり、腹痛を起こしたことさえも母親の暴力の原因になったからだ。


 空腹で締め付けられるような痛みを腹部に感じた諾人は、ゴミの中からまだ残っている菓子の袋を見つけ、湿気たそれで少しでも腹を満たそうとした。母親は島で唯一のスナックで働いていて、そこに出かける服だけは清潔に保つように心掛けていたが、息子の着る服は一か月ほど着続けないと洗うことを許可しなかった。


 母親のいない夜になると、床のゴミをかきわけ、壁に背中をつけて死んだ魚のように膝を抱えて座った。

 あまりのひもじさに、諾人は食料を探しに家の外に出る、そのことが母親に勘づかれたらまた殴られるのだが、仕事から帰ってくるまでに家に戻れば問題がなかった。


 また神浦の海から爆発音が鳴り響いてきた。諾人は海の方面にただならぬ気配を感じていたが、それよりも今は食べられる食料をみつけることが最優先だった。

 海とは反対の山の方面へと坂道を登っていった。


 空腹で頭がぼうっとし、一歩一歩を踏みしめながら歩いた。体力のない小さな体にはこの坂道は酷だったが、道の両脇には郁郁青青とした草木が生い茂り、月明かりだけの夜道には、緑の臭いに、ときどき果実の香りが混じった。諾人は生まれつき嗅覚に恵まれ、少しの臭いの差異にも敏感だった。だから母親が香水を変えることに男の影を感じたりもするのだが、こうした山道から食べ物を探すのには苦労しなかった。


 ビワの香りが森の奥からした。草木をかきわけて、奥へと入ると、ビワの木を見つけた。実をもぎとりむしゃぶるように食らいつくと、一個では足らず、二個、三個と手を伸ばした。果汁が服に着くと母親に外出したことがわかってしまうので注意しながら食べなければならなかった。


 空腹を満たすと、もう三個実をもいでから、五分ほど歩いた先にある前平の牧場へと向かった。そこにはいつも牧牛がいて、実を持ちながら柵に近づくと夜でも牛が近づいてくる。その牛をなでるのが諾人の唯一の楽しみだった。


 だが、牧場に着くといつも寄ってくるはずの牛が一頭も見つからなかった。諾人がいくら目を凝らして探しても、月明かりで一部の芝生が照っているだけで他にはなにも見えなかった代わりに、血生臭さと、腐敗した臭いが鼻を突いた。

(なんだ……いったいどうしたんだろう)


 不気味な雰囲気を牧場に感じながらも、ふと、柵沿いに目をやってみると、地面になにか落ちているのに気が付いた。近づいてみると、一台のハンディカメラとその少し先に小さな櫛が落ちていた。櫛だけを拾って月明かりに照らしてみると、褐色の光沢のある表面がきれいで、撫でるとさらさらとして心地よかった。諾人はそれをズボンのポケットにしまった。


 ふと、違和感があって牧場の先に開けた神浦の海を見てみると、海面から大きな黒い影が大きく天上に飛び上がって、月を隠したかと思えば、真っ逆さまに海へと落下していくのを目にした。そのとき、例の轟音が空から降り注いだ。


 諾人はその光景に目を奪われた。鼓動が早くなって、興奮していた。なぜかその光景に胸を躍らせている自分がいることに気が付いた。こんな感情は母親に抑圧された生活のなかでは本当に久しぶりのことだった。


 ここ数日、神浦の海に感じた違和感は、きっとあの影が正体なのだとわかり、また母親が外に出た際は、今度は海の方面へ足を向けてみようと思った。

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