変事
第1話 濫觴(らんしょう)
ビデオカメラが老婆を映し出していた。畳の部屋で、木製のテーブルの上にカメラは置かれていた。
若い男の声が老婆に質問を投げかけた。
「
――今から四百年ほど前、江戸時代の終わりごろの話しだ。父親に殺されたオチヨ様と鯨の死体が浜に打ちあがってから、祟りが始まった。それから連日のように海が荒れ、人々は漁に出られない日々が続いてしまった。鯨様の鳴き声が毎夜空から響き渡り、山に生きる動物たちが食い荒らされ、とにかく様々な不思議な現象が起きた。
祟りが始まって十日目には、ここ安室と神浦の町は一瞬にして波に呑み込まれた。これもオチヨ様の祟りという風に言われている。
「四百年前に起きた上之濱大島の慶応津波もオチヨ様の祟りだと。その祟りはどうやって治まったんですか?」
――津波が起き、村々が波に呑み込まれ、村が崩壊した後、オチヨ様が姿を現したと聞く。それから島に平穏が戻った。この島の年寄りたちが鯨女(いさめ)教といって、オチヨ様の来訪を祈願するのはそこから来ているんだ。
「津波が来て、祟りはおさまったんですか?」
――それから四百年の間祟りはなかったのだが、実はあたしがまだ若いころに、一度だけ祟りが起きたことがある。
「祟りが? なんでですか? いつごろ?」
――あたしがまだ娘っ子のころだから、今から六十年以上も昔の話しだ。鯨女神社に泥棒が入ってな、中に祀られている鯨の骨でできた櫛が盗まれてしまったんだ。
「鯨の骨でできた櫛?」
――鯨女神社のご神体となっている櫛だ。慶応津波のときにオチヨ様の母親は津波に呑まれて死んでしまったが、櫛だけは他の島民に預けていて、それから鯨女神社に奉納されたという話が伝わっている。祟りが始まった夜に、なんとも悲しげな鳴き声が島中に響いた。三日ほど海が荒れ、漁師たちは漁に出られなくてみんな困惑したんだ。不思議に思って鯨女神社の本殿を確かめると、無理やり鍵を開けられた跡があった。
「それから何が起きたんですか?」
――鯨様の鳴き声を聞いてから四日目、神浦の森で、ヨダレをたらして廃人のようになった盗人をみつけたんだ。オチヨ様の祟りを受けたようだった。言葉も喋れない状態で、目線を合わせることもできなかった。泥棒から櫛がみつかった。その盗人はその櫛を本島に持って行って、質屋に売り飛ばそうとしていたそうな。そんなことをされていたらこの島はまた津波に巻き込まれていたかもしれない。それから、あたしたち村人は櫛を再び鯨女神社に奉納した。するとその日から、あの怪しげな鳴き声を聞くこともなく、荒れていた海も嘘のように静かになり、盗人も正気を取り戻した。お前ぇたちのおじいさんやおばあさんも、きっと体験しているはずだよ。だからこの島の年寄はオチヨ様への信心が強いだろう?
「そういえば、小さいときにじいちゃんに聞いたような気がします」
――そうだろう? オチヨ様は本当にいるんだ。そしてこの島を守ってくださってる。だから大切にしなければならない。また昔と同じような祟りを引き起こしてはいけないんだよ。
「では、オチヨ様と鯨の霊魂は存在するということですか?」
――いる。
「なぜ言い切れるんですか?」
――匂いだ。
「匂い?」
――神様には匂いがあってな、花のような木香のようななんとも言えない柔らかい匂いだ。お前さんは鯨女神社に行ったことがあるか?
「えぇ、じいちゃんに連れられて何度も」
――匂いがしたか?
「いいえ」
――そうだろう。神様はな、匂いをかげる人間を選ぶ。選ばれた人間しかその匂いをかぐことができない。それに、わたしたち羽刺家の血を継ぐ女は代々、神様の存在を感じることが出来る。神様に仕えてきた家系だから神様と繋がっているんだ。その特別な感覚は他の家の者には分からない。
「おばあさんは、今も分かるんですか?」
――あたしはもう分からないし、神様のニオイも嗅げなくなってしまった。だが、タオのやつは神様の存在が分かるはずだ。
――。
真夏の熱気が鯨女神社の境内を包んでいた。境内の周りに生えている草木の臭いが立ち込め、太陽からの熱波を木陰が防いでくれた。
鯨女神社に集まって、四人の高校生が、老婆のインタビュー動画をみていた。
「タオちゃんのおばあちゃん、八十歳なのに元気だよなぁ。やっぱり経験豊富なご老人に話し聞くのが一番生々しくていいわ」
と太一が得意げに話すと、
「この動画、本当にユーチューブに流すの? うちのおばあちゃんのインタビュー映像なんて誰が観るのかなぁ」
と横で覗き込んでいてタオが訝しげに呟いた。
「いやいや、タオちゃん! もう流してるから!」
といって、携帯でユーチューブのページへと飛び、編集済みの動画を流した。タイトルは「上之濱大島の呪い それを語る謎の老婆」。
「ちょ、ちょっと! 誰が謎の老婆なのよ! 人の家のおばあちゃん映しといてよくこんな失礼なタイトルにできるはね!」
「ちょっとでも過激な方がさ、閲覧数伸びるでしょ? 俺のセンスを信じなさいって」
「でも太一、その動画の閲覧数十三回しかないじゃん……」
と後ろから良太が口をはさんだ。ヒカルが弾けるような笑い声をあげて、
「ウケる! それ、タオのおばあちゃんみたら怒るだろうなぁ、ただでさえいつもしかめっ面して怖いのに」
「ちょっと、ヒカル!」とタオにたしなめられると、ヒカルは謝るような表情をみせた。
「大丈夫大丈夫、ユーチューブ観てるような島民なんてどうせこの島にはいないから! それにさ、この動画は次の動画の伏線なわけさ! 実は俺さ、ついにこの猶興高校ユーチュー部を全国に知らしめることができるような動画を思いついちゃったんだよねー」
満面の笑みで手を広げながら熱く語る太一を三人は訝し気な表情で眺めた。
「なになに? どうした、太一くん?」
とヒカルが問いかけると、
「ほらほら、当ててみ! 次の動画の企画! すごい夏っぽい企画だから!」
と太一が全員に投げかけた。ヒカルが、
「夏っぽいといえば海だし……すごい企画っていうなら、太一君が大賀の断崖から海に飛び降りるとか?」。
「いやいや、死ぬでしょ! なに真面目な顔して言ってるのヒカルちゃん、恐いなぁもう!」
良太が、
「太一の頭を使ってスイカ割り?」
「バカバカ、殺す気か。炎上どころじゃないでしょ! タオちゃんは?」
タオは、うーん、と一しきり考えて、
「夏っぽいといえば、やっぱり肝試しとか?」
すると太一が、せいかーい、とタオを指さした。
「そう、肝試し企画! その前段階で、タオのおばあちゃんに祟りの言い伝えのインタビューをやったってわけ!」
するとヒカルが目をらんらんと輝かせて、
「肝試しいいじゃん! 楽しそう! どこでやるの?」
「ここだよ、ここ」
「ここって? 鯨女神社?」
「そう。祟りの話しの動画をアップしてから、ここで肝試しをする映像を流せばどかーんと人気が出るんじゃないかと思ったわけさ!」
「えー、ここ夜になったら絶対怖いよ。電灯も何もないじゃん」
「明るい場所の肝試しなんて聞いたことないでしょ」
すると突然タオが立ち上がったので一同の目を引いた。
「絶対、ダメだよ! 鯨女神社はずっと羽刺家が守ってきた場所だよ? そんな大事な場所で肝試しなんて私は絶対に反対!」
「そうだ。タオの立場も考えろよ。タオが鯨女神社で肝試ししたなんて島の人に知れたらお年寄りたちが黙ってないぞ」
タオと良太の抗議にも太一は引けをとらず、
「ばれやしないって。さっきも言ったろ? この島でユーチューブ観てる人間なんていないんだからさ」
「絶対だめだよ! とにかく私は反対。暗くて怖い場所なんてこの島にたくさんあるでしょ? 同じ神社だったら神浦に天降神社だってあるじゃん。あそこだって夜になったら暗くて雰囲気あるよ」
「天降神社じゃだめだ。鯨女神社には言い伝えっていう物語があるからいいんだよ。この島にそんな言い伝えがある場所なんてここしかないでしょ? だからここが一番適してるわけ」
「でも私は反対! 羽刺家の人間として許すわけにはいきません!」
タオの勢いに押されて三人は黙ってしまった。するとヒカルがタオの横に回り込んで、
「タオ、ちょっとこっち来て」といって少し離れた場所まで腕を引っ張った。
「タオ、お願い! この肝試しなんとかやらせて!」
とタオに手を合わせて懇願した。
「ヒカルまでそんなこと言うなんて」とタオは顔を曇らせたが、
「違うの。良太くんと肝試しするチャンスなんてそうそうないからさ。一生のお願い! 高校二年の夏休みは一生で一度しかないんだよ? 来年になったら受験でそれどころじゃないだろうし……ね、お願い!」
「それは……そうだけど」
とタオは困惑した表情を浮かべたが、ヒカルは一方的に、
「決まりー! やろう、肝試し!」
と二人の元に飛び跳ねながら近づいて行った。
「ちょ、ちょっと! まだいいって言ったわけじゃないんだけど」
タオが慌てながら否定したが、太一が、
「まぁまぁ、タオちゃん! こんな機会これからあるわけじゃないんだからさ! せっかくだからみんなで楽しもうよ。それとも、あれ? もしかしてタオちゃんは祟りとか信じちゃってるわけ?」
とタオのことを囃し立てた。
「いや……そういうわけじゃ……ないけど」
「そうでしょ、そうでしょ? これでみんなにバレなければなんの問題もないじゃない! せっかくみんなで高校二年の夏を謳歌する想い出の一ページを作ろうとしているのに、タオちゃんがつれないんじゃなー。今どき、祟りなんて信じてるのこの島のお年寄りくらいだよ?」
「わかった、わかったわよ! 一度だけだからね! 次は絶対にないからね!」
太一とヒカルの雰囲気に呑まれて、了承してしまった。太一はわが意を得て得意満面に、
「わかってるってー! それでさ、タオちゃん、ちょっと相談があるんだけど……」
といって、今度は太一がタオを遠くへ引き連れた。
「今度はなに」
とタオは頬を膨らませて聞いた。
「あのさ、タオちゃんのおばあちゃんが言ってた本殿の鍵持ってきてくれない?」
「本殿の鍵?」
「そう、鯨の骨でできた櫛が祀られてるっていう本殿の鍵」
「そんなのどうするの?」
「内部も映したいんだよ、ここそんなに広くないから少しでも取り高が欲しくてさぁ」
タオは眉間にシワを寄せながら、
「そんなのダメに決まってるじゃん! ただでさえ肝試しに反対なのに、あの本殿はお父さんしか開けちゃいけない決まりになってるの!」
太一は、タオの肩にポンと手を置いて不敵な笑みで、
「タオちゃぁん、ヒカルちゃんから聞いたんだけど、夏休みの宿題、ほとんど終わってないんだって? どれくらい終わってないの?」
「えっ……作文系以外全部」
「それはやばくない? 夏休みももう二週間きってるし、タオちゃん追善踊りの練習にも参加してるから時間ないんでしょ? 問題集だったらさ、俺全部終わってるからみせてあげてもいいんだけど」
「えっ、ホントに? すごい助かる!」
「その代わりさ、神社の鍵持ってきてよ! そしたら宿題見せてあげるから」
タオは太一のことを蔑んだ目で見つめて固まった。
「汚い……人の弱みにつけこんで本当に汚い」
「宿題終わらなくてもいいの? 内申に響くと第一志望の大学行けなくなっちゃうでしょ?」
「もぉぉぉぉぉ! わかったよ! 絶対約束は守ってよ! あと、本殿のなかの物は絶対に触っちゃダメだからね!」
太一は、わかってるってー、と軽く返事をすると、舞うようにベンチの場所まで戻り、
「じゃあ、明日、夜の十時にこの階段の下で待ち合わせね! 親には天体観測とかってウソついてきてよ! 僕ちゃんはいまから明日の構想について考えるから帰るね!」
と一方的に言うと、颯爽と階段を駆け下りていった。
取り残された三人は呆然と太一の去った後を眺めていたが、
「ねぇねぇ、良太くん!」
とヒカルが良太の元に近づき、
「明日の肝試し楽しみだね! わたし、肝試しって初めてだからちょっと怖いかも!」
良太は冷静な口調で、
「幽霊とか祟りとかはただの迷信だから怖がることはないよ。それにオチヨ様の子孫であるタオがいるんだから、まさか呪われることはないんじゃないか?」
するとヒカルは嬉しそうに、
「やっぱり良太くんは頼もしいなぁ。太一くんはいい加減だからあてにならなくて。私も補習と夏休みの宿題やらないといけないからもう帰るね! じゃあまた明日の夜ね、明日楽しみだね!」
といって階段を駆け下りていった。
タオと良太の二人きりになった。暑気を含んだ風が吹いて、境内を囲む木々がざわめいた。タオはどこか気持ちが落ち着かず、言葉が出てこなかった。
「……本当にいいのか? 鯨女神社はタオの家にとって大切な場所なんだろ?」
良太が沈黙を破った。
「……うん。私の祖先が祀られてるし、昔から言い伝えについてはおばちゃんからよく聞かされてたからね。でも、祟りとかただの迷信だろうし、言い伝えだって本当にあったことかどうかわからないから。なにも悪さしなければ大丈夫だよ」
「そっか……タオがいいんならいいけど。そういえば、タオのおばあちゃんが言ってたけど、神様の匂いが分かるって本当なのか?」
タオは俯いて、
「今まで、変に思われそうだからみんなには黙ってたけど、本当だよ。神様の存在もなんとなく感じるの。といっても、オチヨ様はずっと本殿にいて動いたりはしないんだけどね。まさかおばあちゃん言っちゃうなんて」
良太は微笑んで、
「そうなのか。今でも匂いするか?」
と尋ねると、
「うん、するよ。神様の匂いはね、とてもいい匂い。花のような木香のような、他のどれとも例えられない、落ち着いた、いい匂いがするの。だから、小さい時から一人でもよくここに来てたんだ。ここに来ると、なにか大きなものに包まれて、温かい気持ちになる……」
そういってタオは、大きく息を吸い込みながら、階段の元まで歩を進めて安室の景色を一望に収めた。
ここ
タオ、ヒカル、良太、太一が活動しているユーチュー部は太一が作り、幼馴染である良太に最初声をかけた。良太と幼馴染のタオが入部し、友達のヒカルが入った。動画の撮影で、四人で出掛けられることがタオは楽しかった。
――。
肝試し当日、タオは誰もみていないのを見計らって、小さな脚立にのり、「おばあちゃん、ごめん」と小さく呟きながら、居間に飾っている神棚から鯨女神社の本殿の鍵を盗った。本来なら自分が開けてはいけないものなので、罪悪感でいっぱいになった。
夜の十時に鯨女神社の階段の下に集まるまで、気もそぞろだった。鍵を盗んだことを知られたら説教どころではすまないだろう。
天体観測だと家族にはウソをついて、鯨女神社の階段の下にいった。タオの家からは歩いて三分ほどの近場にもかかわらず、三人はもう集まってタオが最後だった。ヘッドライトを付けた太一が、ビデオカメラの動作確認をしていた。
ヒカルはやたらと良太に話しかけては、楽しそうな笑みを浮かべていた。タオは所在なさげに二人の姿をみていた。
「お、タオちゃーん、来たねー! これで役者は揃ったな。じゃあ始めるか」
太一が音頭をとると四人は三脚に着けられたカメラの前に並び、オープンニングを撮ることになった。
「さぁ、始まりました! 上之濱チャンネル! 今日はですね、この島のお年寄りから聞いたオチヨ様の祟りの言い伝えがある鯨女神社で肝試しを行いたいと思います! 詳しくは前回の動画をご覧ください! 今日も、猶興高校のユーチュー部の四人で進めていきたいと思います。そして、このメンバーの中に、なんとオチヨ様の祖先にあたる羽刺タオちゃんがいるんですよー! はい、タオちゃん」
太一はタオにカメラを向けた。急に話を振られ、どぎまぎする、ヘッドライトの明かりを手で遮りながら答えた。
「え、わたし? えっと、そう、よろしくお願いします!」
深々と頭を下げてお辞儀をした。
「この美少女がオチヨ様の祖先であるタオちゃんです! 前回タオちゃんのおばあちゃんが言ってたんだけど、タオちゃんは神様の匂いがかげるって本当?」
「えぇ! そ、そう、かげますよ」
今まで誰にも告げていないことを急に暴露されて、思わず素直に答えてしまった。
「神様はどんな匂いがするの?」
「……花のような、なんか、他には例えられないような甘くていい匂い……かな?」
「タオちゃんは霊感もあるの?」
「……うん、少しだけ。はっきりとみたことはないけど、気配ぐらいだったらわかるかも」
太一はそれを聞き、声を弾ませて、
「そうなんだ、そうなんだー! 今日はじゃあ、霊的なものを感じたら、バシーっと教えちゃってください! そっちのほうが視聴者の方も盛り上がるからねー、うんうん」
「おい、太一。あまりタオに振るなよ。困ってるだろ」と良太が口をはさんだ。
「そうだよ、それに本当に幽霊とかいたらめっちゃ怖いじゃん」とヒカルが的外れなことを口にすると、
「いいじゃん、いいじゃん! 霊感ある人がいたほうが肝試し盛り上がるでしょう? じゃあレッツラゴー!」
と太一は受け流し、早速カメラは境内へと続く階段へと向けられた。明かりが一切ない真っ暗な階段に思わず、太一は「こっわ」と声をもらしてしまった。
あらかじめ太一が決めた二組のペアに分かれて、三人には一本ずつ懐中電灯が配られた。太一とタオが先に、良太とヒカルがその後ろからついていった。
丸い光線で足元だけを照らしながら、一歩一歩を確かめながら登った。生暖かい風が吹いて、木々がざわめいた。
「めちゃくちゃ暗いです。ホントにライトの明かりだけなので……暗闇になにかいそうな気がして不気味ですねぇ。タオちゃん、なにか幽霊とか見えたりしない?」
と太一が実況がてらタオに問いかけた。
「今は……別に何も」
と答えたが、明かりの外側に人外のものを想像してしまうような不気味な雰囲気に包まれていた。
階段を上り切って石造の鳥居をくぐった先の境内は暗闇のために異様な雰囲気に包まれていた。
鳥居の手前には、「鯨女神社」と彫られた先の尖った細長い石があった。
階段を上がった向かいに、先日座って話し合いをしたベンチがあり、境内の周りは木々で覆われていたが、暗闇で明かりの外は何も見えなかった。
「着きましたー、ここが境内です。ホントに明かりひとっつもないな」
と太一はなぜが笑い声を含ませていった。
「やばい、本当に恐いんだけど、良太くん」
とヒカルが良太に話しかけた。
「大丈夫だよ、ただ暗いだけで、本当になにかいるわけではないから」
と冷静な口調で良太は答えた。夏の暑さのせいばかりではない脂汗をタオは感じていたが、良太の言葉に少し落ち着きを取り戻した。
光を当てながら太一がぐるっと境内を映した。
「めちゃくちゃ暗くて、全部は写せないのでここからは良太と僕の携帯で分かれて撮影をしたいと思います。ライブ配信は僕の携帯で、良太の映像は後で編集したものを配信しますので、そちらも合わせてご覧ください。良太、僕は本殿のところ写すから、その反対側撮ってよ。タオちゃんは俺と一緒に本殿側の撮影ね」
階段を上がって、向かいの奥まった場所に公民館、そして右側に本殿がある。良太とヒカルは、境内を適当に撮影することになる。
懐中電灯の明かりを頼りに本殿へと歩を進めていった。江戸時代から続くその建物は、褐色の木造の
「これが鯨女神社のご神体である鯨の櫛が祀られている本殿です! そして、ここからが本番なんですが、実は今日、この神社を管理している羽刺家のタオちゃんがこの本殿の鍵を持って来てくれてるんですよぉ。この島の住民も見ることが出来ない鯨女神社の本殿の内部を本邦初公開したいと思います。じゃあ、タオちゃん、開けてもらってもいいかな?」
タオは意を決し、扉の前に立つと深いため息を一つついた。たとえ宿題を終わらせるためとはいえ、変な約束をしてしまったことを後悔した。だが、これが終わってすぐに鍵を返せばバレることはないのだ、何事もなく無事に終わらせてさっさと帰ろう、と言い聞かせ、ロングスカートから赤錆びた鍵を取り出すと、扉の鍵穴に挿して回した。
両手で取っ手を持ち、観音開きの扉を開けた。ぎぃっという、軋んだ音が長く響いた。
タオも本殿の内部を見るのは初めてだった。
六畳ほどの空間の真ん中に、恐らく建てられたころから使われているであろう木製の机に、漆塗りの金箔の模様が施された箱が置かれていた。
(化粧箱だ)
とタオは思った。歴史の教科書の資料で写真を見たことがあった。
その後方に壁掛けがしつらえてあって、お手玉やおはじき、かるた、独楽、日本人形といった江戸時代には馴染みであったろう玩具が棚一面に並べられていた。光線が壁に反射して、ぼんやりとだが全体を見渡すことが出来た。
タオは机の化粧箱には行かず、その後ろの玩具に引き寄せられた。こんなにも多くのオモチャを一体誰が用意したのだろう、と思いながら近くで見入っていた。
すると、後ろから「お、これかー」という声が聞こえ、振り返ると太一が化粧箱を開けて櫛を取りだして見つめていた。
「ダメだよ、太一くん、触らない約束でしょ!」
とタオはたしなめながら慌てて太一の側に駆け寄った。
「ちょっとだけだって、触るだけ」
といって太一はヘッドライトで櫛を照らしながら、カメラを櫛に近づけて撮影していた。
「これがおばあちゃんがいっていた櫛ですね、視聴者さん、見えますか。ご神体になっている江戸時代に作られた鯨の骨でできた櫛ですよ」
「ちょと、太一くん、約束が……」
と言いかけたところで、それまで鯨女神社では嗅いだことがないような、不快な臭いをタオは感じ取った。
(なにこの臭い……魚が腐ったような……気持ち悪い臭い……)
体中に鳥肌がたち、寒気がした。
突然、太一の持っている櫛から、視界を埋め尽くしてしまうような大きな黒い影が、瞬間的に部屋に膨張したかと思うと、天井をすり抜けていった。
「太一くん! ダメ! 今すぐその櫛から手を放して!」
タオの叫び声に、太一は目を丸くした。その声を聞きつけて、良太とヒカルが駆けつけてきた。
「どうした? なにかあったのか?」
良太は太一の手元に目をやると、「お前、それ、ご神体の櫛じゃないか?」と太一を問い詰めた。「いや、これは、その……」と太一が口ごもっていると、タオが、
「待って」
と全員に呼びかけた。
――怖い……怖いよ、誰なの?
小さな女の子の声が聞こえた。慌てて周りを見渡してみてもそこには四人しかいなかった。
「小さな女の子の声が聞こえない?」
タオは汗が止まらなかった。声は震え、鼓動が速まり、鳥肌が止まらなかった。突然、腹部に不快感を感じた。
――父ちゃん、父ちゃんなの? もうオラを殴らないで……ぶたないで……怖いよ、殺さないで。
女の子の声が恐怖で震えていた。
「え、ちょっとやめてよ、タオ! 脅かさないでよ、声なんて聞こえないよ!」
と恐怖で顔をしかめたヒカルが声を震わせていた。
「うそ、わたしだけ?」
「えっ、マジで? 怪奇現象勃発じゃん!」
と太一だけが場違いに嬉しそうに笑った。
「太一くん、早く櫛をもとに戻して! オチヨ様の祟りが始まっちゃう!」
「わかった、わかった、すぐに返すよ! ちょっと近くで撮りたかっただけなんだって」
といって太一は手元にあった櫛を化粧箱のなかに戻すと、ふたをしめた。
「太一! お前勝手に取り出したのか、触らないってタオと約束したんじゃねぇのかよ!」
と良太に叱責されると、
「うるさいなぁ、もう返しただろう?」
と太一はふてくされるように答えた。
――怖い、怖いよ! もう許してください! 殴らないで! もう殺さないで!
(また声が聞こえる? ……どうして、櫛は元に戻したはずなのに……)
その時、野太い海鳴りのような声が空から響き渡った。
「なんだ、この声!」
と太一は本殿から飛び出し、カメラを空に向けながら、
「すげぇ! こんなことが起こるなんて! これで俺たちも人気ユーチューバーの仲間入りだぞ!」
と興奮を抑えられない様子だった。不気味な声は、神浦の方まで遠ざかって行った。他の三人も本殿から出て、良太とヒカルは空を見上げたがなにも見つけることはできなかった。タオは強烈な腐敗臭で気分が悪くなり、思わずその場にしゃがみこんでしまった。
太一はその姿を見つけて、タオの方にカメラを向けた。
「おい! もう映すのやめろ! お前今日どうかしてるぞ!」
良太が激昂して、太一のカメラを横殴りにぶった。カメラが鈍い音を出して地面に落ちた。
「うおいおいおい! なにすんだよ! やっと買ってもらったカメラなのに、壊れたらどうすんだよ!」
「中止だ、中止! タオが具合悪くなってるのがわかんねぇのかよ!」
良太は太一の傍若無人さに怒りを隠せなかった。
ヒカルはタオの側にしゃがみこんで、
「タオ、どうしたの? 大丈夫? 体調悪いの?」
とその背中をさすってあげると、タオは、
「……ごめん、大丈夫……なんか急に具合悪くなっちゃって……ねぇ、なにか腐ったような臭いがしない?」
ヒカルは首をかしげた。
「別に、臭さなんか感じないけど……どうして?」
「……うぅん、感じないならいいの。すぐにこの場を離れたいんだけど、うまく歩けなさそう」
ヒカルはうなずいて、良太に肩を貸してもらうようにお願いをした。
太一はカメラを拾い上げると、自分にレンズを向けて締めの挨拶を始めた。
「太一くん、タオがこんなだっていうのに、ホント呑気な……」
とヒカルが呆れると、良太が、
「あのバカはほっといて早くタオを家まで送ろう」
と言って二人はタオを家まで送り届けた。
部屋に戻って、タオは服が汗で濡れていることに気が付き、タオルで体を拭いた。母親が心配をして、入浴をすすめてきたが、とても入浴できる体調ではなく、ふらふらになりながらもパジャマに着替えて布団に入ったが、さきほど聞いた小さな女の子の声が頭から離れず疲れているのになかなか寝付くことができなかった。
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