少女アンと転校生

「……で、正弦が7の……ここは余弦で……」



ねちねちと不快な声が、途切れながらも耳に入ってくる。

この声は……


担任の影山かげやまだろうか。


少女はこの教師(といえない気だるさ)があまり好きじゃない。



「はい、天海あまみ。このあと答えろ」



「……待って影山、今ちょうど……窓から転落した……」



「担任を呼び捨てするんじゃない」



ぎゃははは、と波のようにどっと笑いがわきおこる。

とっさに少女は目を覚ました。



「あれ、あのへんな男は……? ひざの模様も」



夢だったのだろうか。

あの模様も、いつの間にか消えている。



影山は冷たい視線を少女に送り続ける。




―――おい、今日もさっきからずっとねてるぞ、あいつ。やっぱ変わってるよなあ……



まどろみの中でさえ、そんな陰口が耳をついた。



少女の名は天海あまみアン。

少しばかりクラスで浮いている存在の彼女は、授業中は寝ているほかなかった。


趣味や特技、経歴などは特にない。

そこそこ偏差値が高く期待されている中高一貫の花が丘学園に通う少女は、中学部で問題を起こしたとして高等部では悪い噂が飛び交っていた。


クラスで飼っている金魚を殺害したらしい、いや、友人を自殺に追い込んだと聞いた、など。

またある生徒は、あんな華奢な体なのにも関わらず、容赦なく教師に暴力を振るったらしい、とも言った。


実際、どこからそんなうわさが流れたのか、なぜそんな悪質なものなのかは本人も知る由もない。


少女に対する数えきれないほどの噂は減ることなく、むしろ日に日に増えていく一方だった。


しかし少女は弁解しようとはしなかった。


うわさの内容は事実なのか、それともただの法螺話ほらばなしなのか。

少女が黙っているように、真実を問いただすものは誰もいなかった。



「天海、今日編入の生徒がとなりにいるんだし、しっかりやってくれよ」



影山だってきっと、問題児アンとできるだけ関わりたくないとでも思っているはずだ。


しっかりなんてやれるものか。

少女はそっぽを向いた。




「結構ですよ、先生」



すると、隣から高らかに響く声が耳を突いた。



「僕がこの人に世話してもらう義理なんてないので」



「な……」



(……なんなの、こいつ!?)



すぐに口から飛び出てしまいそうな言葉を、少女は必死に飲み込んだ。



見上げると、少し背が低めの男子だった。

真夏を知らないような白い肌。

黒い前髪はまつげのあたりまで伸びきってぼさぼさ。

かわいたような瞳。ただどこか一点を見つめている。



これが転校初日の対応だろうか。



「あ、あんたねえ、影山に守られてるからって調子乗るんじゃ」



そのとき少女は息をのんだ。

これ以上しゃべってはいけない、と身体のどこかで制御された。

まるで金縛りにでもあったかのように。


彼は無機物でも見るような目で、少女を眺める。



(なんなのよ、こいつ……!)



居心地が悪くなって時計に視線をずらしたが、授業終了まではまだ30分以上あった。


明らかに教室の空気が重い。

少女が急に黙り込んでしまったからだろう。


残りの30分、窓から見えるグラウンドを、少女はただ眺めていた。




*     *     *



「はあ……」



放課後、16時10分。

大きなため息をつきながら、少女はクラスメイト頼まれた裏庭の掃除を始めようとしていた。



「ねえねえ聞いた?原因不明の死者のやつ」


「おう、なんかやべぇって聞いた。この学校内でも行方不明者出たらしいし……」



サッカー部のマネージャーとエースの声。


(付き合ってるって聞いたけど、本当だったんだな。関係ないけど)



「公表はしてないけど、最近マジで増えてるってよ。誘拐犯が同じやつだったりして……」



最近、学生たちの間では「原因不明の死・行方不明」が話題になっている。

某SNSアプリのトレンドコーナーにもよく取り上げられるほどだ。


息子が登校してから3日帰ってこないだの、ガーデニングをしていた妻が庭で倒れて突然死だっただの。

いたって普通の事故・事件に見えるが、それが最近異様に増えているという。


死体に傷跡はなく、何の予兆もなく事故や事件がおきる。

ただ、多くの死体の首筋には、細かく花の模様が描かれているとかで、同じ組織のメンバーではないか、と意見を述べる人もいる。



少女はこの手の話題も好まなかった。

多くはテレビニュースや新聞で報道されないため、不謹慎だと感じていた。


それに、数年前の自分と、その友達を……無意識のうちに思い出してしまうから。





「わあ、こんなところに」



小さなバラが、1輪。


くすんだ黒赤色だ。それも、鮮やかな色ではない。

血と墨が混ざったような不気味な色。



(バラなんて先週までなかったような……?)



裏庭を飾るように、1輪だけ咲かせていた。



その不思議なバラに吸い込まれるかのように、少女の手はおのずとにそのバラへと伸ばされていく。




「―――やめろ」



ふいに耳を突いたその声に、思わず少女は手を引っ込める。

そして勢いよく振り向いた。


突然雷に打たれたかのようにその一声が一面に響き渡ったような気がした。



「びっくりした……って、あんたは」



隣の席の転校生だった。

名前は覚えていない。



「なんで止めるの、ちゃんと当番さぼらないでやってるのに」


「不気味だから」



転校生はそう、吐き捨てるようにつぶやく。



「そしたらなおさら取り除いたほうが……」



「だから、やめろ」



声高らかに、今度はきっぱりと言い張った。



「そこまで言うなら……」


「今度同じバラを見つけたら、絶対に触るな。これは忠告だ」



……どれだけ失礼な人間なんだろう。


少女はあきれて、仕方なく怒りを抑える。



「……わかったよ。わかったから。それで、名前は?」


「名前?」



転校生は、その単語を初めて聞いたかのように聞き返す。

……やっぱり変だ、こいつは。名前を聞いといてなんだけど関わらないようにしよう。



「……氷室キョウ。あんずってかいて、きょうって読む」



「お、同じ漢字!あたしの名前もあんずって意味なの!」



思わず少女は身を乗り出す。



「……そんなん知らねえよ」



少女はやっと自分がにやけていたことに気づいた。


転校生は何か気に食わないような顔で少女をにらんだ。



「……ごめん」


少女は頬をつねりながら言う。

転校生はもう踵を返していた。


自分の名前が似ていたり、嫌々ではあるが忠告してくれたり。

クラスメイトと会話をしたのは、何年振りなのだろう。



「……あの」



「何」



「……」



一瞬、本当に一瞬だけ、言葉が少女ののどに詰まった。

だがさきほどの夢の男に比べたら、どうてことない。

恐怖の感情を圧倒させる、何か。



「……これからも、よろしく」



少女の顔がほころんだ。



「勝手にすれば」



単純に嬉しかったのだ。

自分を気にかけてくれる友人。そんな人が一人でもいれば、どれだけ今を楽しく過ごせるか。



「ありがとう」



そうつぶやいた時には、きょうはすでに裏庭から消えていた。




嬉しさでさらに頬が緩んだ。

高校に入学して初めてできた、友達。




高校1年生、16歳の初夏。


この1日が彼女の人生を大きく変えることになるなんてことは、少女はこの時まだ知らない。

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緋色のサンドリヨン~魔城の公爵に誘拐されました~ @yagumo__roi

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