293話 落ち着くべき時に
この場での交渉は一時保留。矢沢としてはまずまずな感触だった、と考えていた。
相手の忍耐がどれほど持つのかを検分した結果、対話の継続は可能だと結論が出た。あれでエスカレートして安易に決裂と言い出さない辺り、まだ交渉の意思はあるとわかる。
そもそも、交換条件として日本人の救出に関係ない武力行使や人の不必要な苦痛を伴うものは出せない、というのも事実。それをやってしまえば、国が持つ実力組織ではなく傭兵に成り下がり、自衛隊を名乗る資格は一切なくなる。
だが、それでも出せるものを出し、交渉を進めなければならないのも事実なのだ。双方にとって最も穏便に済む落としどころを探り、そして邦人を全て返してもらう。それに失敗すれば、邦人が大勢死ぬか戦争になるだけだ。
矢沢は席を立ち、個室から見える海を眺めてため息をついた。交渉というのは、武力の行使よりずっと労力を使う。戦闘ならば仲間内で全て決められるが、交渉となるとそうはいかない。こちらの主張と相反する相手と調整を重ね、落としどころを探る。しかも、ここにいるのは外交に関しては門外漢ばかりなのだ。
「ネモさん、ちょっと落ち着いたら?」
「ん? ああ、何だね」
ラナーが隣から声をかけてくるが、矢沢は声そのものしか聞こえず、何を話していたか全く耳に入っていなかった。
聞き返してくる矢沢に呆れているのか、ラナーは苦笑いしながら繰り返す。
「落ち着いたらいいんじゃないのって言ったのよ。ほら、何かわからないけど、飲み物もあるから」
「そうか。すまないな」
矢沢はラナーの気遣いに感謝しつつ、あおばから持ってきたであろうコーンポタージュの缶を貰う。持ち出してから時間が経っていたので仕方のないことだが、すっかり冷めてしまっていたのが残念だ。
それでも、ほんの僅かに口にするだけでも気分が和らいだ。冷たいながらも、濃厚なトウモロコシの味が舌に広がり、遠い異国の地でも故郷の味を思い出させてくれる缶詰のありがたさに感謝した。
「ラナー、君はどう思う? あのメローという男、説得できると思うか?」
「あたしもよくわかんない。ほとんど話したことないし」
「そうなのか?」
「そうそう。最近征服したペディマっていう国の出身らしくて、確か継承順位は230位だったかな」
「君よりずっと格下じゃないか」
「そりゃそうよ。王族に加わって20年くらいだし、パパの妾の伯父さんってだけで、そこまで重要視されているわけでもないし」
「この国の王族はどうなっているんだ……」
矢沢はアモイの王位継承の仕組みに関して困惑するしかなかった。
血筋に関係がなくとも王位に就けるとなれば、反乱が起き放題ではないのか。
「あたしもよくわかんないわよ。成り立ちとかは昔の王様に聞いてって感じ」
「そうさせてもらおう」
昔の王様に聞くなどできるわけがないのだが、矢沢はひとまずの皮肉を込めて言う。
それより、優先すべきは今後の情報収集だろう。現在はまだ交渉の初期段階であり、交流会のようなイベントも予定されていない。
まずは手探り、それから本格的に交渉だ。
「でも、これだけは言えるわよ」
「うん?」
ラナーは自分の水筒を取り出し、蓋を開けながら朗らかに笑う。
「ネモさんは絶対勝てる。そうでしょ?」
「ああ。勝てなければ死ぬだけだ」
「ほんと、冗談がへたくそね」
「そういう星の下には生まれていない」
ふふ、と2人で小さく笑いつつ、それぞれ容器に残っている飲み物を全て飲み干した。
すると、個室のドアが軽くノックされる。ラナーが入室を促すと、女中らしい幼い少女が姿を見せた。
まだ初々しいうりざね顔を見せる少女は、ラナーを見てたじろぎながらも、必死に練習してきたのだろう台詞を声に出した。
「お嬢様、メローおじ……メロー様が呼んでますです」
「今行くわ」
ラナーは水筒を傍のテーブルに置くと、少女の下へと進み出る。その際、矢沢に振り向いてウインクを投げかけた。
次はラナーの番だ。時間通りに遣わされた少女とラナーを見送った矢沢は、あおばの威容が佇む港の方に目を向けた。
ラナーはどのような決断を下すのか。相手の言葉に惑わされず、自分が決めたことを貫き通せるのか。
ラナーはそれができる子だということはわかっていたが、それでも前のことがあったので、気がかりではあった。
頑張れ、ラナー。
矢沢はそう祈るしかなかった。
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