284話 賢者の船

 ダーリャ基地襲撃から3日後、あおばと艦隊はノストリア港から西北西に200㎞の地点で合流を果たした。

 現在、この近辺では超大型のサイクロンが発生していて、波が高く天候も悪い。アモイからの追手を撒くのに好都合な天候だったために、5日後の合流予定が繰り上がった形になる。


 矢沢はベル・ドワールからあおばに降り立つ。およそ2ヶ月ぶりに踏んだ高張力鋼製の飛行甲板は、否応なしにかつて生きていた世界の姿を思い起こさせた。


 今はもうどこにもない日本の香り。海の匂いは全然違うが、この艦が発する『匂い』は、確かに日本の地を想起させた。


 匂いとは、鼻腔から脳に伝えられる物理的なそれとは違う。もう目の前には存在しないもの、そして未だに記憶の中にある地への憧憬だ。


 矢沢はその『匂い』を全身で受け止められながら、甲板上で敬礼しながら待機していた隊員たちに答礼する。


「お帰りなさい、艦長」

「ああ。迷惑をかけたな」


 交わした言葉はただそれだけだったが、それで充分だったとも言える。矢沢は真面目に敬礼する隊員たちの口元が緩んでいることを見ると、答礼の手を下げた。


 続いて2隻の間に架けられた木材に足をかけ、今の矢沢とは全く違う感情を抱いているであろう人物に手を伸ばした。こちらに来い、と言う代わりに。

 ラナーはあおばの姿を一目見て声も上げず目を瞠るばかりだったが、伸ばされた手を見るなり、それを掴んで彼がいる艦へと降り立った。


「これが、灰色の船……ううん、アオバなのね」

「ああ。我々が誇る最高の艦だ。ようこそ、護衛艦あおばへ」


 矢沢が声をかけると、他の隊員たちもラナーに笑顔を向けた。決して彼女に下心を覚えている隊員ばかりではないはずだと矢沢は思いつつ、後続の人員たちと共に医務室へと足を向けた。


  *


「うう……」

「すまないな。これも艦の衛生状態を維持するためだ」


 ラナーは右腕を押さえながら、目じりから涙を流していた。初めて経験する注射を何度か打たれただけでなく、採血までされた痛みに耐えられなかったようだ。


「だからって、金属の針を何度も刺してくるなんて……」

「我々はこうやって病気を予防する。自分が病気にかからないように、そして、病気を誰かに移さないようにな」

「私なんて、どれだけ辛い目を見たか……」


 矢沢はラナーを優しく慰めるが、傍ではラナー以上に注射針を打たれたアメリアが膨れ顔をさらしていた。


 ただでさえアメリアの体は様々な生物の影響を受けている。医官の村沢をして「結核菌が可愛いくらいにひどい」と言わしめるほどだ。


「アメリアは不運だったとしか言いようがない。あと少しの我慢だ」

「はぁ……憂鬱です」


 病気の発症は防いだとはいえ、まだ結核菌の検出数は規定値を下回っていない。アメリアはまだ治療を続けなければならないのだ。


「まぁ、確かに病気が怖いのはわかるけど、ここまで痛いなんて聞いてないし!」

「注射は痛いだろうが、ほんの一瞬だけだ。病気は痛いだけでは済まない」

「言われてみればそうだけど……それにしても、こんな船だけで病気のことをどうこうできるなんて、やっぱり異世界は違うというか」

「我々人類も数々の病気を経験してきた。コレラやペスト、マラリア、インフルエンザ、コロナウイルスの肺炎など、世界規模で病気が拡散した例も少なくない。それは少なからず人類の活動に悪影響を及ぼす。それを抑止するための社会システムは絶対に必要不可欠だ」

「交易や戦争は病気を運ぶものだから?」

「その通りだ」


 ラナーは矢沢の弁に詰まることなく答える。


 矢沢だけでなく、ラナーも病気の恐ろしさは理解できている。交易や戦争が病気を運ぶことなど、古代からの常識だ。今回のラナーは、ただ地球流の防疫に戸惑っていただけだろう。


 風呂好きのくせに不衛生極まりないアメリアでも、今では病気の恐ろしさを知っている。軍人であるラナーがそのことを理解できないわけがないのだ。


 それはそうと、とラナーは続ける。


「なんだか、これが灰色の船って言われる理由がわかった気がする」

「というと?」

「金属の船っていうこともあるけど、それ以上に『知識の宝庫』っていう感じ。アモイだと灰色って賢者を象徴する色なの」

「ふむ、知識か」


 矢沢は何となく面白い例えだと思っていた。


 イージス艦は米国の技術の粋を集めた艦艇であり、高度な情報を多数扱う艦でもある。そして、その運用には多数の知識が必要となる。


 アセシオンではどう思われているか知らないが、少なくともアモイでは『賢者の船』とでも思われているのだろうか。


 矢沢は天井を走るパイプを眺めるラナーを横目に、彼女が踏み込んだ『何も知らない異世界』の姿を垣間見たような気がした。

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