番外編 忘れ得ぬ記憶たち・東日本マグニチュード9.0・その3

「震源地はここ、東北地方の沖合130kmの地点だ。ここから九州地方まで揺れている。この世界で言えば、邦人村で発生した地震がラフィーネの向こう側まで到達しているようなものだろう」

「それって……とんでもない規模じゃないですか……」


 アメリアは手で口を覆い、目を見開いていた。それも無理はない、ダリア全域に影響を及ぼすだけでなく、アセシオンの5分の2以上の地域に影響を及ぼせる地震など、この世界の人々にとっては未経験のはずだ。


 だが、ロッタは顔色を変えることなく、首を横に振った。


「いや、ジンの話ではダリア沖合で周辺国を巻き込む巨大な地震が発生していたようだ。それも100年前だ。もはや覚えている者といえば、目撃者のジンかエルフくらいのものだろうがな」

「そうだったんですか……全然知りませんでした」

「瀬里奈やアメリアの反応は正しいだろう。ちょうどすぐ近くを震源とする巨大地震が120年前と80年前の日本でも起こっているんだが、それを知っている者は少なかったようだ。最初10年から20年は強いインパクトを与えるが、それ以降は世代交代も相まって風化していく。被災地とは関係がない瀬里奈が知らないのも無理はない」

「ふむ……そういうものか」


 ロッタは腕を組んで矢沢の言葉に頷いていた。ロッタ自身も何か心当たりがあるのだろうか。


「艦は緊急出港し、被災地の沖合に向かった。通常ならば港の付近に投錨して救助や支援に当たるのだが、当時はそうできなかった。沿岸部の地震被害をほとんど押し流してしまうほどの大津波が東北や北海道、関東を襲ったからだ。我々は沖合で津波被害者の救助に駆り出された。陸地の様子を見に行くこともできないままに」


  *


 護衛艦ちょうかいが横須賀を出たのは、地震発生から約1時間半後のことだった。あらん限りの食料品や日用品などを詰め込み、大津波警報が発出される中での緊急出港となった。

 ちょうかいは岸から離れ、一路三陸沖へと向かった。途中に遭遇した数メートルの津波を乗り越えながら。


 朝方の三陸沖の海面は、海とは思えないほどに大量の瓦礫が浮いていた。まるで船が沈んだかのような様相だと隊員の何名かは話していたが、それをはるかに超えるほど被害はひどい。見渡す限りの海面は瓦礫だらけ、中には車や漁船、家がまるごと漂流していることもあった。


 当然というべきか、一面瓦礫だらけの海面に、艦橋要員たちは絶句するばかりだった。その中で、艦長は渋い顔をしていた。


「こりゃひどいな……」

「瓦礫との衝突を考えると、急いでも数ノットが限度です」


 航海長の矢沢はかぶりを振りながら報告。艦橋にはどこか重苦しい空気が流れ始めていた。


「わかった。両舷前進微速、赤5、針路そのまま」

「両舷前進微速、赤5、針路そのまま。ようそろ」


 艦は瓦礫の海をかき分け、そろそろと亀が這うようなスピードで航行していく。スクリューに瓦礫を巻き込んで航行不能になる恐れもあり、中には沖に流された要救助者もいるかもしれない。だが、宮城や岩手、福島には救援を待つ人々がいる。様々なジレンマが一気にちょうかいという艦に圧し掛かっていた。


 微速航行すること数時間、左舷上甲板にいた見張り員が何かを発見したようで、艦橋に大声を吹き込んでくる。


「艦長、ご遺体を発見しました。回収しますか!?」


 遺体発見。その言葉に、艦橋の空気は一段と淀んでしまったように矢沢は感じていた。


 わかっていたこととはいえ、実際に犠牲者の遺体が流れていたことは、少なからず隊員たちの心に衝撃を与えていた。


 見張り員は遺体の発見を報じている。ともなれば、艦長はその遺体を回収するかどうかの判断を問われることになる。遺体回収も災害派遣の業務の内だからだ。


 艦長はほんの数秒だけ艦長席で窓の外を見つめ、そして一言、ただ事務的に命令を下した。


「我々の前には助けるべき人々がいる。今は先を急ごう」

「……速度、針路そのまま」

「ようそろ」


 艦長の言葉を聞いた矢沢は、舵輪を握る航海士にそう命じた。航海士は何も言うことなく、ただ何かを押し殺すような顔を前へと向けていた。


 艦長の判断は正しい。組織として優先されるべきは、生存している要救助者の救助にある。それが命ある国民を助ける命令なのだから、その決定は誰にも責められるはずもない。


 しかし、副長は違った。渋い顔をしている矢沢を押しのけると、艦長の脇に立ち、声を控えめに、しかし内に激情を秘めたような詰めた声を絞り出した。


「艦長、あなたが今そこで漂流されているご遺体の家族でしたら、艦長はどうされますか。私なら助けに行きます」


 副長はそれだけ言うなり、艦橋後部のラッタルを大急ぎで降りていった。それから少しの時間を置いて、何かが海に落ちる音がわずかに艦橋から聞こえた。副長が甲板から飛び降りる音だったのだ。


「両舷停止。内火艇降ろし方用意。副長の救助と遺体の回収を行え」

「両舷停止!」


 艦長はウイングからそう伝えると、航海士はその場で艦を停止させた。続いて、通信機を取って掌帆長に内火艇の発進指示を出す。


 矢沢がウイングに出てみると、副長はちょうど遺体を抱えて艦に戻ろうとしていたところだった。遺体は髪が長いことから女性のようで、うつ伏せのまま水に沈んでいる。


 20分ほどで遺体は収容され、甲板に上げられた。この艦が被災地に駆けつけて初めて収容した遺体だった。


 矢沢はその遺体をウイングから確認してみると、あることに気づいた。身に着けていたピンクのカーディガンが、美知子の愛用品とそっくりだったのだ。


「まさか……いや、そんなはずは……」


 そして、髪の長さも美知子に一致する。宮城からわずかに北であることから信じられなかったが、まさかと思い矢沢もラッタルを降りて遺体の確認に向かう。


 甲板へ降りてみると、遺体は頭まで毛布をかけられ、担架に乗せられてどこかへ運び込まれようとしていた。矢沢は隊員たちに止まるよう依頼し、毛布をめくる。


 すると、見知った顔が現れる。海水でふやけて白っぽくなっていたが、どう見てもそれは矢沢の妻である美知子本人だった。


 さっきまで何を考えていたのか、それさえわからないほどに頭が真っ白になっていた。これは現実なのか、それとも悪い夢なのか。まだ起床時間は過ぎておらず、自分は床に臥せて夢を見ているだけじゃないのか。


 信じられないというより、何が起こっているかさえも最初はわからなかったが、変わり果てた美知子の姿は矢沢に否応なしの現実を突きつけた。


「美知子、そんな……」

「おい、航海長の知り合いか?」


 付き添っていた濡れネズミの副長が、恐る恐るといった感じで矢沢に声をかける。


 しかし、矢沢は返事をしなかった。いや、できなかった。声さえも出ず、ただ突如眼前に突きつけられた現実に戸惑い、ただ首肯して黙り込むしかなかったのだ。


「…………」


 副長や周囲にいた隊員たちは、何も言わずに帽子を取り、目を閉じて黙祷を捧げた。その場には凪いだ海のような沈黙が流れるだけだった。


 すると、そこに艦長も現れ、収容された遺体に目をやった。艦長は何やら口を開こうとしていたが、副長が先に艦長へ頭を下げる。


「申し訳ありません。私の独断により、艦の円滑な運航を妨げてしまいました。この責任は必ず」

「いや、俺が命じたことだよ。ありがとう。すぐに着替えてこい」


 艦長は副長を叱ることもなく、ただ微笑みを浮かべて副長を労った。


 副長の去り際、彼は艦長に報告を1つ入れた。


「それと、遺体の身元は航海長が知っていると」

「本当か?」

「私の妻です」


 艦長から尋ねられた矢沢は、包み隠すことなく声に出した。その瞬間、これは本当に起こっている現実なのだと自分自身でも自覚することになった。


 美知子は死んだ。津波に呑まれて。


 何があったのかはわからない。それでも、妻が死んだのは間違いないのだ。


 艦長はしばらく沈黙を守っていたが、おもむろに矢沢へ命令を出す。


「航海長、今日は配置を外れて休養を取れ。それと、奥方の世話も忘れずにな」

「……ありがとうございます」


 矢沢はそれだけ言うと、亡き妻と共に艦内へ戻っていった。


  *


「妻との会話は、あの電話が最期だった。美知子は待っていると言っていたが、向こうからやって来た。いや、津波に呑まれてなお、私の元へ帰って来ようとしたんだ。黒潮に乗って、私がいるちょうかいの傍まで辿り着いたんだ」

「うっ、うっ……」

「そないな……津波ひどいわ……」

「かんちょー……」


 アメリアと瀬里奈、そして佳代子はほろほろと涙を流し、時折鼻水をすすっていた。見ず知らずの他人のために泣いてくれる3人にありがたいと思いつつ、話を続ける。


「結局、ちょうかいが宮城入りできたのは、その数日後になってからだった。途中でスクリューに漁網が引っかかることもあってなかなか近づけず、救援物資を届けるために内火艇が活躍した」

「それより、息子さんはどうされたんですか? 確か、気仙沼にいると……」


 矢沢の取って付けたような説明の途中に、波照間が心配そうに口を挟んでくる。普段は自信で溢れる波照間のしおらしい姿に、矢沢は話を切り替えるしかなかった。


「ああ、晴斗や親の方は全員無事だった。美知子はどうやら老人を助ける最中に津波に巻き込まれたようでな、その映像が残っていた。その場には自衛官もいたが、あの暴力的な黒い水の奔流を前にしては為すすべもなかっただろう」

「そう、ですか……」

「自慢の妻だ。今でもな」


 矢沢は誰かを助けるために命を投げうち、命を落としてなお自分のところに戻ってきた妻のことを、今も思い出しては頬に涙を輝かせていた。

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