番外編 忘れ得ぬ記憶たち・東日本マグニチュード9.0・その2
「地図で測ってみたが、その、地震が起こった場所とカオリが住んでいたところは2000㎞近く離れているのだが、そこまで速く地震の情報は伝わるのか? 軍ではなく民間だぞ?」
「その通り。軍の資産は民間の資産にもなるから」
「恐ろしや、情報化社会……」
ロッタは壁に掛けられた日本地図を計測し、息を呑んでいた。ダリアの端から端までの距離を一瞬で情報が伝わることに、改めて戦慄しているようだった。
しかし、地球の先進国はほとんど情報化されている。たいていの情報はすぐに入手可能で、大きな事件ともなれば直ちに情報は全世界へと駆け巡る。その恩恵を一身に受けている矢沢ら日本人は実感しにくいだろうが、ロッタにとっては常識外れの凄まじいことなのだ。
何とか腹パンからのダメージを回復した矢沢は、波照間から説明を引き継いで話を始める。
「もちろん、日本唯一の実力組織である自衛隊も情報は受け取っていた。地震から数分後には災害派遣を開始し、私が乗っていた艦も出動している」
*
『じゃあ、まだお家には帰れそうにないのかな?』
「ああ。訓練が続いてな」
矢沢は現在の乗艦である護衛艦『ちょうかい』の艦橋を眺め、ため息交じりに言う。
電話の相手は矢沢の妻である美知子で、今は息子の晴斗や矢沢の母である矢沢穂香と共に、彼女の生まれ故郷である気仙沼に帰省しているらしい。
矢沢の母と美知子の母はやたら仲がいい。穂香がマンゴー農家で、無類のマンゴー好きである美知子の母に毎年お裾分けをしているからだというが、実態は矢沢にもよくは知らなかった。
とはいえ、賑やかなことはいいことだ。父親である矢沢がずっと家を空けている間、世話は美知子だけでなく母も付き合ってくれている。今回は美知子の両親もいるのだから、心配はないだろう。
本来ならば、父親である自分が晴斗と一緒にいるべきだが、それでも自衛官という仕事を投げ出すわけにはいかなかった。これは誰かがやらなければならない仕事なのだから。
「ここ2ヶ月は帰れそうもない。迷惑をかけるな」
『いいんだよ、別に。みんなを守る立派な仕事だから。おれも晴斗も誇りに思ってる』
「ありがとう。また後でな」
『うん。それじゃ──あう!?』
美知子が優しく声をかけてくれたと思ったら、途中で彼女が小さな悲鳴を上げた。その直後、矢沢の携帯から緊急地震速報が流れてくる。
「大丈夫か美知子、美知子!」
『こっちは大丈夫! あっ、わああぁぁぁ!』
「美知子! どうしたんだ! くっ……!?」
矢沢は何度も美知子に呼び掛けるが、帰って来るのは地響きのような物音と彼女の悲鳴だけだった。そして、しばらく経たないうちに矢沢がいる横須賀も地震に襲われ、尻もちをついてしまう。見上げると、ちょうかいの船体もふらふらと大きく揺れていた。
「冗談だろう……」
矢沢はただ地面と共に揺られ、戦慄するしかなかった。
あの時と同じ。いや、それ以上だった。
16年前の自衛隊入隊からすぐに経験した阪神淡路大震災より大きく、そして恐ろしい。あの時はホテルにいたが、今回は港のそば、周辺が良く見える場所だったせいもあるだろう。視界の何もかもが揺れている気がした。
1分以上経っても、揺れは全く収まらない。携帯を手に持ちながら起き上がり、美知子に声をかけながらタラップを登った。
「美知子、頼むから返事をするんだ!」
『うん、ちょっと揺れが収まって……きゃあ!?』
「おい、大丈夫なのか!」
船に上がっても揺れは収まらず、美知子の叫びも聞こえ続けていた。矢沢はなんとか空いている左手でラッタルを掴みつつ、緊急出航に備えて艦橋へと上がっていく。
すると、艦内で待機していた乗組員たちも一斉に動き始めた。地震の際は災害派遣があると隊員たちはわかっているので、この艦もそれに備えて出港するはずだと知っているからだ。
そして、地震がまだ収まらない時に、副長からの放送が艦内に駆け巡る。
『副長より達する。宮城県を中心に東北や関東の広い範囲で巨大な地震が発生している。当艦は用意ができ次第緊急出港する。総員、持ち場につけ』
副長の言葉は普段通り冷静沈着だったが、どこか震えているようにも聞こえた。
横須賀でさえかなり揺れたというのに、地震は宮城県を中心に発生していたとなれば、どれほどの巨大地震が起こったのか想像もできなかった。
この分では、少なくとも愛知辺りまでは揺れている。ともなれば、宮城は確実に震度7を記録しているだろう。阪神淡路大震災とは、あまりにも規模が違いすぎる。
美知子は大丈夫だろうか。揺れが収まりつつある艦内で、矢沢は美知子へ再び声をかける。
「美知子、そっちは大丈夫か? 晴斗やお義母さんは無事か?」
『はぁ、はぁっ……わからない、おれだけ買い物に来てるから……』
「わかった。早くみんなと合流して避難するんだ、私も艦でそっちへ行く」
『うん、待ってる』
「じゃ、無事でな」
矢沢はそれだけ言うと、携帯の電源を切って艦橋へ駆け込んだ。既に副長は艦長席の脇につき、緊急出港に向けて乗組員たちに指示を出している。
「副長、遅くなりました」
「航海長か。よし、航路の策定を頼む」
「了解。君たち、仕事にかかろう」
矢沢は副長からの短い指示だけを受け取ると、他の航海科員と共に艦長席後方の海図に予定航路を慣れた手つきで書き込んでいく。艦長が艦に戻ったのは、その十数分後だった。
それから数分としないうちに、自衛艦隊から出港命令を受け取った。対象艦艇は『可動全艦』、つまり動ける艦は全て災害派遣に向かえ、ということだ。
当然ながら、ちょうかいもその命令を受領し、東北へと進路をとった。そこに待つ人々に、救いの手を差し伸べるために。
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