番外編 忘れ得ぬ記憶たち・東日本マグニチュード9.0・その1
ベル・ドワールとリウカのアモイ出撃が決まってから、あおばやアクアマリン・プリンセス含む4隻の船と邦人村は慌ただしくなっていた。
物資の搬入や設備の入れ替え、そしてリース船の改造。これらは煩雑かつ大規模な作業になっていた。
当然ながら、自衛隊員たちは長期に渡る任務で疲れ切っている。彼らへの休息は2日間に渡る両舷上陸や救助した邦人たちによる接待という形で解消されてはいたが、それでも十分とはいえない。
かく言う矢沢も、自身が所管するアクアマリン・プリンセス以外の3隻について責任を負っている。食料の搬入から乗組員のチェック、艦の状態確認まで矢沢が最終的な確認をしなくてはならない。両舷上陸の間も2隻のリース船の業務やアモイの情報収集に追われ、ほとんど睡眠時間がなかった。
当然ながら疲労はピークを迎え、矢沢はあおばの甲板上でこと切れたように倒れてしまい、医務室に緊急搬送された。
しかし、矢沢はそのことを覚えていない。目を覚ますなり、何故か医務室の天井が目に入ったことを訝しんだ。
「む、なぜ医務室に……」
「なぜって、倒れたからに決まってますよ」
そう怒気をはらんだ声をぶつけてくるのは、医務室の主である村沢1尉だった。既に30代のはずだが、童顔に浮かぶ怒りの表情は、まだ少女を思わせるほどにエネルギッシュだ。
彼女の言う通りなら、矢沢は周りに迷惑をかけてしまったことになる。艦の責任者として、そのようなことはあってはならないというのに。矢沢は上体を起こすと、村沢に軽く頭を下げた。
「すまない、迷惑をかけたな」
「全くです。ちゃんと疲れは取ってもらわないと、艦の全員が心配します」
「いや、私には仕事が……」
「自衛官は体が資本だって基本も忘れちゃいましたか!?」
村沢は今にも爆発しかねない勢いで矢沢を怒鳴りつけた。ここまでの剣幕で怒られると思っていなかった矢沢は完全に面食らってしまい、言葉を続けることができなかった。
「とにかく、今はここで安静に……あら」
完全に呆れかえりながらも診察室へ足を向ける村沢だったが、何かに気づいたのかその場で立ち止まった。
すると、アメリアやロッタ、瀬里奈らが顔を見せた。おまけに波照間や佳代子と、見事なまでに女性陣ばかりだった。
アメリアらは暇を持て余していたことが明白だったが、波照間は事前情報収集が、佳代子はあおばの保守整備があるはずだ。
「こんなところで油を売っている場合でもあるまい。何をしに来たんだ」
「何って、ヤザワさんのお見舞いです。突然倒れたと聞いたもので……」
「暇だったから冷やかしに来た」
「アメリアがどうしても来いって言うねん……」
「あたしと副長は休憩中だったので、様子を見に行こうかと」
「かんちょーが倒れたとなれば、お見舞いに来ない手はありませんからっ!」
「はは、感謝はしよう」
矢沢はアメリアや部下たちの優しさには感謝して微笑みを返すが、内心ではロッタと瀬里奈には帰れと言いたかった。どう考えても邪魔をしたいだけではないか。
とはいえ、追い返すのも病人らしくなく、真面目に来てくれた3人に申し訳ない気もした。文句を言いたい気持ちをこらえ、頭を冷やしながら枕に背を預けた。
だが、冷やかし目的のロッタは許してくれそうにない。不機嫌そうに矢沢を睨みつける。
「暇だ。何か面白い話を聞かせてくれ」
「はぁ……勘弁してほしいんだが」
「いいじゃないですか! 今だと日本は3月くらいですから、せっかくなので東日本の話でもしたいなーって思ってたんですよう」
「東日本か……そういえば、もう15年か」
佳代子の言葉で、矢沢はふとそのことを思い出していた。
矢沢と松戸佳代子が出会ったきっかけとなった、あの災害のことを。
「ヒガシニホン?」
「それって東日本のことやんな?」
だが、確実に事情を知らないアメリアやロッタは『東日本』と言われても首をひねるばかりだった。当然といえば当然なのだが。
しかし、その一方で瀬里奈も同じ反応をしたことは、矢沢のしんみりした気分を更に落ち込ませることになった。
小学校の高学年は聞いたことが無い話。それが当時の『東日本』なのだと思うと、当時の辛い記憶を思い出し、それが忘れ去られていくのを感じて、心が締め付けられるような思いを感じていた。
それは佳代子も同じなのか、いつもは元気な彼女が珍しく目を伏せてしまっていた。
「わかった。アメリアとロッタはともかく、瀬里奈は聞いておく必要がングオっ!?」
「ロッタと呼ぶな」
「あう……かんちょー……」
容赦のないロッタのみぞおちへのパンチは、矢沢を黙らせるには十分すぎる威力を持っていた。矢沢はその場で腹を抱えて悶えるしかなく、佳代子もただ慌てるしかなかった。
「え、えーっと……」
「はは……それじゃ、知らない人のために前置きでもしておこうかな」
波照間は苦笑いしつつも矢沢を見ていたが、嫌な流れになりつつあった空気を何とか変えようとロッタの気を引く。何とかアメリアとロッタ、そして瀬里奈の目が波照間に向いたところで、置いてきたものを手繰り寄せるかのように語り始めた。
「今からちょうど15年前に日本でとても大きな地震があったんだけど、その地震で日本の半分が揺れて、それが起こした津波は2万人近い人を街ごと押し流したのよ。そう、根こそぎね……」
*
「はーっ、疲れたぁー」
「あいや、早かったねー」
波照間が玄関を開けると、母が台所から声をかけてくれた。昼ご飯の支度をしているのか、そばだしの香りが鼻腔をくすぐり、腹をきゅっと締め付けてくる。
今日の昼食はまた
「早い? うーん、けっこう話し込んでた方だと思ったけど」
「そう? うちの時はもっといろいろやってたのに」
「今日は夜に打ち上げやるし、その時でもいいかなーって。それよりお腹空いたんだけど」
玄関で靴を脱ぎ棄て、母のいる台所に駆け込んでつまみ食いをしようと画策する。だが、キッチンに並んでいる食材は基本的な三枚肉そばの材料ばかりで、つまめるような物は何一つなかった。
ただ、それはそれで僥倖だった。今日は中学校の卒業式で、夜にはクラス全員で焼肉屋に集まって卒業祝いの打ち上げをするのだ。そう考えると、しょぼい三枚肉そばで昼を凌ぐくらい何ということもなかった。
「焼肉なんてお金かかるのにさ……」
「人生最後の中学校生活なのに、それくらいいいじゃん! 夜は泡瀬まで行くからさ」
「お風呂は?」
「サウナ」
「そんなでーじ遠くまで行くの?」
波照間は母の半ば呆れた物言いにうんざりして、最後の方は完全に投げやりな話し方をしていた。泡瀬は家から南へ道なりに進んだ地区で、サウナはさらに南、総合運動公園の近くにあるサウナ付きの銭湯のことだ。
母は心配しているが、電動自転車を持つ波照間にとっては庭のような地域でもある。与勝までの帰りは坂道があるせいで辛いものの、それから先は沖縄にしては珍しく完全な平地なので楽なことこの上ない。車もイカれた
食事を待つ間はテレビでも見ようかと思い立ち、居間に行ってリモコンを取ってソファに座り込んだ。どれだけ立ちっぱなしだったのか覚えていないが、座るだけで足に溜まった疲労がすーっと抜けていくような気分になる。
だが、テレビは波照間の安らぎを忘れさせるような映像を流していた。
『えー先ほど6mの津波を観測した宮古湾で、えー今現在津波が到達しています。ご覧いただいているように、海岸からどんどんどんどんと波が押し寄せている様子が見て取れます。沿岸へお住まいの方は、直ちに避難を始めてください』
『呼びかけ呼びかけ!』
朝日テレビのチャンネルに合わせたと思えば、岩手のテレビ局が放送を行っていた。映像では、海岸に海水が溢れる様子と、津波警報の発出を示す日本地図が表示されている。
「うっそ……ママ、岩手に津波来てるって!」
「うそ! 和子ねぇねぇが遊びに行ってるところじゃないの!」
台所で暇そうにそばを茹でていた母が居間へと駆け込み、テレビに顔を近づけた。映像はヘリのものに移り、今度は宮城の空撮映像を表示した。
家や田畑が、瓦礫と黒い海水の塊に成すすべもなく飲み込まれていた。津波というより、瓦礫の塊が街へと押し寄せているようにしか見えなかった。
「津波……これマジなの……?」
波照間は映像にしばらく釘付けになっていたが、ふと我に返ってスマホを取り出し、真っ先にブラウザのニュースページを開いた。
そこは、東北地方での地震と津波のニュースで全て埋め尽くされていた。
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