223話 スピカ

「落ち着いたか?」

「うん……」


 ラナーは涙を拭うと、小さくこくりと頷いた。


 矢沢はスラムの路地裏に座り込み、ラナーが泣き止むまで待っていた。小一時間ほど待機することにはなったが、それでも彼女のやりたいようにさせたいと思ってのことだった。


 まだ十分に調査も行わず、相手を牽制するための既成事実づくりも手を付けてはいなかったが、ここで感情をさらけ出して協力を申し出てくれたのは思いがけない僥倖だった。

 機関員がスパイ活動を行う際は、協力者と強い絆を結ぶことが重要となる。互いが互いを信頼し、家族より深く繋がることが円滑な情報収集を実現させるのだ。


 その点においても、同じ目的を持つということは、裏切りの可能性を減らしつつ、揺るぎない信頼関係を築くことへの近道となる。

 今はラナーに寄り添い、さらに深い信用を得るべき時だ。それ以前に、彼女の気持ちは痛いほどによくわかる。


 ラナーは泣き止んだ後でも少し時間を置き、深呼吸をして息を整えた。泣きはらした顔で矢沢に笑いかける。


「ごめん、みっともないところ見せちゃった」

「構わない。だが、そこまで奴隷に肩入れしているとは思わなかったな」

「だって、かわいそうってだけじゃないから。あたしたち、こういう人たちの犠牲の上に社会を作ってるんだって考えると、急にあたしの人生って何なの? って考えちゃうの。あんなくだらないことで人を殺して、それで社会を成り立たせてるなんて、そんなのおかしいもの」

「ああ、そうだな……」


 矢沢はただ首肯するばかりだったが、本心からラナーの考えには大手を振って頷くことができなかった。


 地球でも、先進国はどこかの誰かから搾取をしている。例えその先進国自体は関係なくとも、生活必需品や食料品、嗜好品の生産過程では誰かが犠牲になっていることも多い。


 先進国がチョコレートを食べるために、カカオの生産地であるコートジボワールやガーナでは100万人以上の子供がカカオ農園で働かされ、新疆ウイグル自治区ではウイグル人ジェノサイドの一環である強制労働で綿花が安価に作られている。ユニクロや無印良品といった販売店はこれら新疆綿が使われた製品を販売し続けている。


 誰かが豊かな暮らしをするには、誰かが苦しい思いを続け、命を散らしながらどこかの社会を支えなければならない。

 地球の先進国は経済を中心に回っているが、この国はそうではない。宗教が社会の中核をなし、この国を回している。その一方、アモイの上層部では経済に重心が移りつつあり、その犠牲となっている人々が存在している。


 結局、文明社会は誰かの犠牲なしには生きられない。できるのであれば、それを根本から是正したいとは思っていても、それを実現するためには『敵』があまりにも大きすぎる。


 確かにラナーの言うことは正しい。その理想がなければ、社会は変わらないのだから。


 ラナーは安心しきったように矢沢に肩を寄せ、そっと微笑みかける。


「んあぁー、全部吐き出したらスッキリしちゃった。ネモさん、聞いてくれてありがと」

「ああ、君の気持は伝わった。それと、私は日本国海上自衛隊1等海佐、護衛艦あおば艦長、矢沢圭一だ」

「ヤ、ヤザ……うーん、難しいわね」

「好きに呼んでくれて構わない。ただ、2人だけの時以外はネモと呼んでくれ」

「ええ、わかったわ。ネモさん」


 ラナーはそういうなり、晴れやかな笑顔を浮かべて立ち上がる。


「こういう国でしょ? みんな奴隷を使うことには疑問も持たなくて……ううん、あたしみたいに隠してる人もいるかもしれない。でも、こんなこと誰にも相談できなかったわ。たとえ酔っていたとしても、絶対に言っちゃダメだって自分にスリ込んじゃってるの。だから、他の人に聞いてもらえるって、すごく新鮮だし気持ちいいの」

「その気持ちは痛いほどわかる。私も2度ほど艦艇の艦長を任されてはいるが、その苦労は隊員たちに吐き出せない。君のそれは遥かに想像を絶するものなのだろうな」

「そうねぇ……だって、目の前で人が弱って死んでいくのを見てるしかないんだもの。でも、そんなこと誰にも言えないし……」


 しょうがないよね、とラナーは苦笑交じりに言うが、それは正しい状態ではない。だからこそ、ラナーはこうやって矢沢に協力すると決めたのだろう。


 そんなラナーを、矢沢は応援したいと思っている。ここまで他人のために憂うことができ、行動を起こそうとしている人は、とても眩しく見えるからだ。


 くすんだ世界に輝く星。ラナーはその光で、この国を明るく照らすことができる。一部の者だけでなく、できる限り多くの者が明るく暮らせるように、社会を変革できるかもしれないのだ。


 確かに矢沢の仕事は邦人の救助だが、ラナーの目的はさらに遠大なものになるだろう。邦人救助の妨げにならない限り、それは応援すべきだ。そう矢沢は素直に思った。願望というより、直感に近いものだ。


「ならば、そんな社会を変えていこう。ラナー、君の協力者としてのコードネームは『スピカ』とする。今後、文書などで間接的なやり取りを行う際はそう名乗ってくれ」

「スピカ? 何よそれ」

「私の国から見える星の名前だ。おとめ座α星、固有名スピカ。君のルルという二つ名は、地球にある言葉では『真珠』を意味する。苗字は『彗星』だ。真珠と天体の両方に関係し、そして『おとめ』座で一番明るく輝く星、真珠星もといスピカを君のコードネームに充てた」

「おとめ、ね……ふふ、わかってるじゃないの」

「気に入ってもらえて結構だ」


 矢沢は照れながらも喜ぶラナーに笑いかける。本当はアモイの神殿が古代エジプトの遺跡に似ていたことからオリオン座のアルニタクを充てるつもりだったが、文明や神殿をモチーフ加えるのはどうかと考え、スピカに変更したのだった。


 何にせよ、コードネームは与えた。これでラナーは晴れて護衛艦あおばの協力者となったわけだ。

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