222話 地獄の中心で叫ぶもの

 ラナーが向かった先は、先ほどの路地裏からやや離れた場所の、街の南部にある最大のスラムだった。

 ラナー本人は先導するため前を歩いており、表情は見えなかった。歩き方からしていつもの通りに見えなくもないが、それは矢沢から見ての話だ。


 空き家が建ち並ぶ住宅地を抜けた先にスラムは存在する。流れている空気も平民が住む市街地とは違って、どこか淀んでいた。


 建物は整備されておらず、その間を縫うように廃材で作ったバラックが並ぶ。出歩いている人々も服装はみすぼらしく、泥や煤が付いたままの穴あきシャツは継ぎはぎさえ見当たらない。


 老若男女問わず顔や体は痩せこけ、子供は栄養不足のためか腹だけが膨らんでいた。それに加え、横たわっている死体もよく目立っている。


 先ほどまで古代アフリカの裕福な都市にいた気がしていたのが、今は現代アフリカの貧しい農村に足を踏み入れてしまったかのような感覚に陥る。


「こんなところに連れてきて、何をする気だ?」

「……ここ、スラムなの。でも、ただの貧民が暮らすエリアじゃないわ」


 ラナーは静かに、そしてしっかりと言葉を紡ぐ。その表情には、おふざけや浮ついたものが一切見えず、ただ真剣そのものだった。

 スパイだという正体を聞いてここに来たということは、ここで何かをするということだ。それが何なのかは一切見当がつかない。


「ねえ、ネイト教の『喜捨』っていう教義は知ってる?」

「ああ、話程度にはな。確か、社会への寄進という文脈だった気がするが……」

「そう。その正体がここなの」

「……どういうことだ」


 喜捨という教義の正体。その言葉がどういう意味を持つのか、前提知識の薄い矢沢には想像のしようもなかった。


「ここはね、喜捨された奴隷たちが行きつくスラム。さっきネモさんがいたスラムは単純に貧乏な人たちが暮らす貧民街だけど、ここは違うの。満足に働ける人はほぼいなくて、みんな年寄りや子供、障碍者の人たちなの。言ってしまえば、奴隷の捨て場所。あっちのスラムとは違って働ける人もいないから、みんな飢え死にするしかないの」

「バカな、そんなことがあり得ていいわけがない」

「そうなんだろうけど、神殿はそう思ってないの。奴隷商売の元締めは神殿だから、理由をつけて役に立たない奴隷でも利益に上げようとしてるのよ。それが『喜捨』の実態。みんな定期的に喜捨するべきだって言ってるから、買われて捨てられる人も多いの」

「……っ」


 矢沢は胸が締まるような思いを感じていた。公的機関が、そのような姥捨て政策を行っていいものなのかと。


 喜捨用奴隷は、いわばサプライチェーンの中で付加価値を中抜きされるためだけの存在だ。詐欺師が被害者に買わせる高額なツボのようなものだが、定期的に買わせる辺りが更に卑劣極まりない。


 奴隷たちは、ただ教会が儲けるためだけに買われ、そして捨てられて惨めに死んでいく。


 購入者たちは、ただ教会が儲けるためだけに奴隷を買い、そして教会が言う通りに奴隷を『喜捨』する。購入者に生まれる利益は、喜捨行為によって許しを得たという心の安寧、もしくは習慣の履行のみだ。


 世の中には様々な利権構造があるが、その中でもこれはひどすぎる。人のいのちで詐欺を働き、そして捨ててしまう。それが許されていいはずがない。


「あたしは、こんなことをする神殿も宗教も嫌いなの。でも、この国は好き。だって、あたしもみんなも住んでるんだから。ねえ、あたしはどうすればいいの……?」


 ラナーの顔から真剣な表情が崩れていき、やがて涙へと変わっていった。とめどなく溢れる雫は、ラナーの頬を流れて地面にポタリと落ちた。


 しかし、矢沢は答えなど持ち合わせてはいなかった。


 国を愛する心、不正を悪だと断罪する心。それは全て自分のものだからだ。


「君の思う通りにするべきだ。君が私を悪と定義して、当局に連絡してもいい。それは自由だ」

「でも、そうしたら……」

「この国にスパイが存在することが明るみに出る。そうなれば、仲間を助け出すことは困難だろう。我々は助けを出せず、彼らは死亡する」

「…………」


 矢沢の一言に、ラナーは黙り込んでしまう。


 彼女がこの惨状を憂いているのはわかったが、それは国に牙を剥くということだ。スパイを庇うということは、国を売るのと同じことなのだ。


 だが、その決断はとても辛いことだ。愛している国を裏切るなど、普通の人間ならばできることじゃない。


 だからこそ、矢沢は一押しを決める。


「我々がこうやって活動しているのは、アモイと接点を持つためだ。国家ではない我々はゼロからパイプ作りを始めないといけないからだ。窓口がなければ、話し合うことさえできない。パイプ作りを終えた後は、我々の仲間を解放するための交渉を行う。戦争は起こさせない。我々は仲間を取り返したいだけだ」

「わかってるから、そんなこと!」


 ラナーは矢沢の言葉を遮るように叫ぶと、歯を食いしばって矢沢に詰め寄る。その形相は鬼というよりも、威嚇する子犬のようにも見えた。


「あたしだって奴隷をどうにかしたいと思ってる! 少なくとも、喜捨なんてやめてほしい! けど、それがアモイを裏切ることなら……」

「裏切るわけではない。君はアモイに戦争を起こさせず、かつ奴隷を救うために行動できる。私は君に、協力者になってくれと頼むだけだ。最終的に決めるのは君の判断だ。どう取り繕ったところで、我々はスパイでしかないのだから」

「そう……よね。だって、あなたたちはスパイだもの。アモイの敵……」


 ラナーは至極残念そうに言う。友人になった者がスパイだったとなれば、それも当然の反応だろう。


 だが、ラナーは続けた。


「でも、それで助かる人はいるんでしょ? ネモさんたちは戦争しないって、約束できる!?」

「約束する。圧倒的に不利な我々がアモイと戦うということは、我々の死を意味する。戦いなど絶対に起こさせはしない」


 矢沢がハッキリと決意を口にすると、ラナーは大粒の涙を浮かべながら矢沢に掴みかかった。そして、懇願するように叫ぶ。


「……それが本当なら、あたしも協力する。お願い、ここの人たちを助けて!」

「無論だ」


 矢沢は頷くと、ラナーを抱き寄せて頭を撫でる。相手は自分より少しだけ背は高いが、それでも一人の少女であることに変わりはない。


「ありがとう、ありがとう……!」


 ラナーは矢沢をぎゅっと抱き返す。彼女の体温は、容赦のないこの街の暑さとは全く違う温もりを感じさせた。

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