145話 内に秘めた想い

 奴隷700名と帳簿は絶対条件だと明示されてしまった今、ヤニングスは再び交渉をやり直す必要に迫られていた。

 相手はこちらの力だけでは皇帝の亡命を阻止できないことを知っているに違いない。そうでなければ、ここまでの要求をするわけがない。


 だが、相手がただ大見得を切っているだけとも考えられる。それを確かめるには、出した餌を取り下げる他あるまい。押してダメならば、引いてみるのも交渉術だ。


 ヤニングスは一息つくと、おもむろに口を開く。


「こちらが受け入れられない条件が絶対条件だというのなら、このお話はなかったことになってしまいます。それでもよいと?」

「……わかりました。600名に削減しましょう。今後の交渉においては良い結果を期待します」

「500名でいかがでしょうか」

「間を取って550名、それと売買記録で」

「わかりました。それで対応しましょう」


 結果的に、矢沢が折れる形でヤニングスは頷いた。


 矢沢はため息をついた。人をモノのように扱うこの言い方には、怒りや落胆など負の想いばかりが募っていく。とはいえ、こうでもしないと邦人たちは帰ってこれないのだ。


 最終的に矢沢は折れたが、それでも550名は帰ってくると確約された。書面で残しておけば、ちゃぶ台をひっくり返されることもあるまい。もし仮にひっくり返された場合は、何らかの軍事行動があると政府側もわかっているはずだ。


 互いに覚書を交わし合った後、矢沢はヤニングスと握手を交わし合った。

 提示していた条件から150名も減ってしまった。その150名は解放されず、苦しい思いをし続けることになる。

 その1人1人に人生があり、家族がいる。助けられないことは辛いことだが、今は少しでも多く人々を助けることが優先された。


 既にラフィーネには皇帝の動きを察知するためフランドル騎士団の密偵が放たれており、皇帝の動きはつぶさにわかる。なので今回の提案は蹴ってもよかったのだが、皇帝を拉致したことで相手の手が予測できない以上は博打でしかない。ただでさえ戦場は不確定要素が多すぎるものだが、今回はそれに輪をかけて予測のしようがない。


 それより、ヤニングスの提案に乗る方がリスクも少なく、そして利益を確実に得られる。相手が裏切れば、24式ミサイルやAH-1Zで皇帝を爆殺すればいいだけの話だ。


「ヤザワさんと言いましたか。ご協力に感謝します」

「こちらこそ。拉致被害者の件は頼みます」

「ええ」


 ここに来て、矢沢は初めてヤニングスの笑みを見た。頬を緩め、穏やかな表情をしている。ラフィーネで対峙した時は、政治家としての難しい顔と戦士としての殺気立った顔を見てはいるが、そのいずれも今の表情とは似ても似つかない。


 交渉は済んだ。測量もある程度終えた以上、これ以上はここに留まる理由もない。矢沢らは席を立ち、個室を後にした。


 ヤニングスとアリサは見送りのためにヘリの傍まで来ていた。エンジンの回転数を上げるSH-60Kの機体をまじまじと眺めながら、ヤニングスはぼそりと呟いた。


「これがヘリですか……」

「ええ、あの連中にとってのグリフォンね」


 アリサは腕を組み、目を細めながら言う。半笑いだったのは何故だろうか。

 興味を見せるヤニングスに、矢沢は軽く説明を入れる。


「主に対潜哨戒を担当する機体ですが、地上への攻撃や輸送任務にも利用可能です」

「このような鉄の塊が空を飛ぶとは……グリフォンでは歯が立たないわけです」


 ヤニングスは機体を眺めながらも、どこか遠い目をしていた。このヘリに対し、万感の思いを抱いているに違いない。


 思えば、ラフィーネでヤニングスを攻撃したのも、この機体だった。不意の攻撃だったとはいえ、完全にしてやられたのだ。その機体が目の前にあることをどう思っているのか、それは彼にしかわからない。

 矢沢らが搭乗すると、ヘリは再び空へと舞い上がった。ラフィーネの時のように攻撃的なオーラを放つことなく、ただ悠然と青い空を駆け抜けていった。


  *


「結局、そうしたのね」

「ああ、拉致はなしだ」

「わかったわ。あなたたちにとっては安牌ね」


 士官室の中、フロランスは普段の微笑を浮かべながらコーヒーを嗜んでいた。矢沢の皇帝襲撃を中止するという報告に眉一つ動かすことなく、コーヒーフレッシュと角砂糖を入れて香りを楽しんでいる。


「安牌を選べるということは重要だ。ここで皇帝に恩を売れば、君たちの領土奪還にも展望が見えてくると思っている」

「それはどうかしら。土地は全ての資源の土台となるの。水や食べ物、金属や宝石、そして家畜や人的資源。土地はお金がなる木なのよ。あなたたちの世界の文献を少し読ませてもらったけど、領土問題はやっぱり重要な問題と位置付けられるし、それ故にどこでも起こり得るわ。人は渡せば終わりだけど、土地は渡せば大きな損失。違うかしら?」

「ああ、確かにそうだが……」


 フロランスが何を言いたいか、矢沢でなくともわかる。


 拉致被害者を取り返すより、土地を取り返す方がずっと難しいのではないか。そう言いたいのだろう。

 日本でも竹島と北方領土という係争地を抱えている。どちらも戦争に際して奪われた領地だ。


 領土は奪った者が勝ち。その原理は地球だろうと異世界だろうと変わることはない。たとえサンフランシスコ条約があったにも関わらず韓国は竹島を武力で侵略して奪い取り、国連があったとしても、核保有国かつ軍事大国であるロシアがウクライナを侵略することを止められなかったのだから。


 しかし、フロランスの本心は矢沢にはわからなかった。

 一体何を考えているのか。それはやはり本人にしかわからないのだろう。

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