144話 難航する交渉

 天幕には数十名の騎士が詰めており、それぞれ草の上に椅子や机を並べて書類作成や何かの会話を行っている。ここが何らかの司令部になっていることは明白で、彼らは司令部付きの幕僚だろう。


 矢沢らは天幕の中央付近、立て板で仕切られた場所に連れられた。個室のようになっているそこには、大きなテーブルを囲むように12脚の簡易な椅子が置かれていた。


「このような場所で申し訳ありません。現在はこの近辺で活動中のフランドル騎士団を討伐するために司令部を設置しています。ベルリオーズ伯の屋敷でもよかったのですが、屋外の方が何かと都合がよいので」

「お構いなく。我々もすぐに済ませる予定ですから」


 矢沢は気を遣うヤニングスをそっと制する。どれだけ取り繕うとも、相手が何の交渉をしに来たかはわかりきっている。


 ヤニングスに促され、矢沢らは互いに相対する形で着席した。その場には水差しも用意されている。

 佐藤がお冷をあおる横で、矢沢はベルリオーズに話を振る。


「見ての通り、シュルツは連れてきました。リストの内容を確認させてください」

「ええ、構いません」


 ベルリオーズが頷くと、アリサが分厚い帳簿を取り出した。現代基準では質の悪い紙だが、この世界では貴族が使うようほど上等なものなのだろう。


 合計200ページ以上もある記録を、事前に持ち込んだアクアマリン・プリンセスの乗船記録や乗員名簿と照らし合わせ、ヤニングスやシュルツに翻訳してもらいながら、時間をかけて丹念に調べていく。


 とはいえ、そう簡単に調べがつくようなものでもない。欠けている情報や名前のない邦人も多く、そもそもベルリオーズの流通ルートに乗っていない邦人は記録されているわけがない。結果的に2000名ほどの行方はまだわからないままだ。


 覚悟していたことだが、報酬無しよりはまだマシだ。矢沢はため息をつきながらも、ベルリオーズに声をかける。


「ありがとうございます。確かに受け取りました。約束通り、シュルツは引き渡しましょう」

「感謝します」


 矢沢が大宮へ目を向けると、彼は不満げな表情を浮かべながらもシュルツにかけた手錠を外した。シュルツはほっと一息つきながら、アリサの隣へ席を変える。


「ありがとうございます、ベルリオーズ様。この御恩は一生忘れません」

「構わん。これからもよく働くようにな」

「……はい」


 シュルツはベルリオーズから目を逸らしながらも、小さく頷いた。

 これでは前と同じか。とはいえ、シュルツに罪悪感があるのであれば、奴隷商売はともかく少女への性的暴行は止まるだろう。それを期待するしかない。


「シュルツはまた奴隷貿易へ復帰を?」

「あなた方には関係ないことです」


 ベルリオーズへ確認を取ったところ、やはり突っぱねてきた。当然といえば当然だが。


「そうですか。しかし、これ以上邦人がどこかへ売り飛ばされるようなことがあれば、我々はそれを許しません。交渉を続ける気があるのであれば、邦人だけでも売却は凍結するよう求めます」

「ええ、承知しました」


 ベルリオーズは淡々と答えるが、本当に承知したかどうかは疑問の余地がある。


 次はヤニングスが矢沢へ話を振った。


「今度は手前が話をする番です。ベルリオーズ伯から持ち出されたという皇帝陛下の亡命の件ですが、こちらはあなた方の協力を受け入れる用意があります」

「承知しました。ですが、こうも拉致被害者の行方がわからないままだと、調査のしようがありません」

「その帳簿に記載されている者だけでは不十分と?」

「海外に売られてしまった邦人を合わせると、300名にも満たないことが判明しています。それではあまりに少なすぎる。アセシオンでの邦人の取引記録を全て開示すると共に、最低でも700名は返還してもらいたいものです」

「700……厳しいですね」


 ヤニングスは露骨に否定的な表情を浮かべる。やはり吹っ掛けすぎたか。


「元はと言えば我々が遭遇した不運な事故によるものですが、みだりに漂流者を奴隷として売り捌いたあなた方の責任は大きい。こちらとしても作戦行動を行ったことに関しては謝罪すべきところですが、まずは事態解決のために誠意を見せてもらいたいのです」

「こちらとしてもそうしたいのは山々ですが、すぐに返還できるわけではありません。買い戻しの交渉も必要な上、調査にも時間がかかります」

「それでも構いません。拉致被害者が一刻も早く無事に戻ることだけが重要事項です」


 矢沢はとにかく食い下がる。今後の交渉の行方も分からない中で、ここで値切られてしまえば邦人の帰還も遅くなる。

 その矢沢の気も知ってか、ヤニングスは強気で発言する。


「そちらの帳簿にある分で精一杯です。サザーランドと乗員の返還も含めていただければ、700名をお返しできるのですが」

「同時交渉は受け付けられません。こちらとしては帳簿と700名が引き下がれない一線です」

「なぜ700名ですか? その根拠は?」

「明示しかねます」


 矢沢は引き下がることはなかった。700名はアセシオンにいると推定される邦人の半分であり、残りの半分はサザーランドと捕虜の交換条件として提示する予定だからだ。


 いずれにせよ、ここでできるだけ多くの邦人と名簿は確保しなければならない。交渉はまだまだ長くなりそうだった。

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