89話 バックドア

「とにかく、ここを出るんだ。せめて着替えを用意してもらえ」

「いえ、私は旦那様と一緒にいます。ずっと一緒にいると約束しましたので」

「それは洗脳の結果だろう! わかっているのなら、私と一緒に来るんだ」

「さっきも言いましたけど、洗脳されているとはいえ主体は自分にあります。実態はマインドコントロールでさえない、自分の選択を助けるだけの、だからこそ強力な魔法。それがこの魔法なんです」


 アメリアは慈愛に満ちた目を旦那様と呼んだ豚に向けながら、優しく頭を撫でている。

 矢沢も元特殊部隊員であり、人心掌握の術は心得ているが、このような状態は全くもって異常としか思えなかった。


 アメリアが一体何をしたというのか。怒りももちろんだが、何もしてやれない無力感も同時にこみ上げてくる。


「瀬里奈、行こう。洗脳を解除する方法を見つける」

「……わかった。うちは諦めへんからな」

「無論だ」


 今はアメリアを救うことができない。だが、きっと救ってみせる。

 矢沢は名残惜しくアメリアを一瞥するが、すぐに踵を返して養豚場を後にした。


            *     *     *


「できません。あの措置は皇帝陛下の命令に基づく措置であり、陛下の命令がなければ、我々は彼女の洗脳を解くことは許されないのです」

「それは会談で解決すべき、ということですかな」


 矢沢は怒りを抑えつつ、ヤニングスに詰め寄った。あれほどの非人道的な扱いを人質に施すなど、非常識にも程がある。

 だが、ヤニングスは予想外の言葉を発した。


「対話で解決できるのであれば手前としても本望です。ただ、アメリア嬢への洗脳は手前としても不本意ということは覚えておいてもらいたいものです」

「不本意……だと」


 矢沢はヤニングスの仏頂面を見上げながら息を呑んだ。

 バカにしているのか、それとも本当に不本意だと思っているのか、判断がつかない。


 もちろん、ヤニングス自身もアメリアへの措置は異常だと理解している。

 相手は近衛騎士団どころか領主軍の一部も加えた大艦隊を相手に、流星を使われても無傷で勝利した正体不明の軍隊。ライザが技術情報を調査するより前に会談の機会が作り出されたことで、未だ彼らが使う『魔法』の正体がわからずにいる。

 そんな状態で相手を怒らせることの危うさを、皇帝は理解しなかったのだ。


 最終的に会談の結果を決めるのは皇帝と目の前の彼だが、会談が破綻して情報を掴み損ねるリスクを負うことは避けたかった。

 アセシオン側が望むのは、奴隷を解放することなくジエイタイを排除する最適解を探り出すこと。だからこそライザは人質を取ってきた。まさにファインプレーだ。


 だが、彼らは奴隷の解放を成し遂げたいと考えている。国内にいる彼らの仲間は1000人程度、それだけの人数を無償で解放されると国内が混乱する。大規模な反乱さえ起こりかねない。


 そこで重要なのは『利害が対立している』ということだ。

 片方の最大の利益は、もう片方の致命的な損害に直結する。ジエイタイは既に致命的な損害を被っている状態であり、これ以上の損害が見えてしまえば、最初から対話の選択肢を捨てて武力に訴える可能性がある。


 ジエイタイにとってみれば『対話しても何も変わらないのであれば、武力を使ってアセシオンの皇帝を消し、少しでも多く奴隷を取り戻す方が有益』という理屈だ。

 アリサやライザ曰く、彼らは敵であろうと無益な殺生は行わない。その『慈愛の枷』を課された状態でさえ、彼らは帝国の切り札である流星を無力化し、ファルザーやグリフォン隊を破壊せしめた。流星を発動できない艦たちは見逃されたのだ。


 計画的な破壊衝動のためだけに彼らの全力が発揮された場合、どれほどの被害が出るのか。敵の全容が不明な以上、それこそ無条件で彼らの仲間を全て解放した方が遥かにマシな結果にもなりかねない。

 どれだけ皇帝が自分の利益だけを追求したとしても、ジエイタイが対話を放棄することだけは避けなければならない。そのためにも、対話のためのバックドアは作っておく必要があるのだ。


 それを強調するためにも、アメリアの洗脳を解くことにヤニングスは賛成する、という姿勢を暗に示す必要がある。ヤニングスは言葉を続ける。


「我々近衛騎士団はアセシオン帝国のルールに縛られます。ですが、あなた方はそうではない。だからこそ対話が必要なのです。違いますか?」

「確かに……そうか、わかった」

「ご理解頂けて幸いです」


 矢沢は硬直していた表情を軟化させ、ヤニングスの前から姿を消した。


 どうやら気付いてもらえたらしい。これで彼はヤニングスを『話がわかる者』として認識したことになる。それはバックドアの作成に成功したことと同義だ。

 勝手を許したことで皇帝からの処分は免れないだろうが、この首1つで国が滅びずに済むのであれば安いものだ。ヤニングスはそう思いながら、心中で皇帝に詫びを入れた。

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